第12話 白き悪魔
酒木原がその森に到着したのは、すでに夜明けが迫る午前四時だった。彼は協会ビルに突入した部下達から、何度か情報提供を受けていた。遠野やその部下数人が、突然思い立ったかのように行動を起こしたこと。スタッフ部門の人間が何人か殺害されたこと。そして、やはり遠野は操られていたということ。疑惑が確信に変わるのを痛感しつつ、酒木原は巨大なフェンスの一部が融解しているのを見つけた。
「……この融解ぶりは……江藤さんの能力でしょうか」
元々酒木原は、江藤が遅かれ早かれこのような行動を起こすであろうと考えていた。彼女は赤羽にぞっこんだし、赤羽のためであれば手段を選ばない。よって、この『戦争』騒動は江藤によってめちゃくちゃにされるものとして甘い見通しを持っていたのである。
「とにかく、彼女らの下に向かう必要がありますね」
酒木原の重い体では森を歩くのはかなりつらいことだったが、最悪の事態を避けるため、なんとしても行動しなくてはならなかった。『神罰計画』の真の意味を知ってしまった以上、彼女たちを全力を持って止めなくてはならない。それは彼の持つ大きな責任を果たすという単純な意味と共に、純粋に彼女たちの身を案じているということの裏付けでもあった。
秀子と花井が構えてから、既に三十分が経過していた。江藤も体力が戻り立ち上がるも、その場から動けない。緋色も同じだった。彼女たちの頭にあるのは、この戦いが最初の一挙一動で決まると言うことだ。花井は言わずもがなであるが、秀子も短期間で一流の魔法少女に成長している。緋色や江藤も、既に死した金剛地ほどでは無いにしろ、百戦錬磨の一流だ。魔物相手に、数々の死闘を繰り広げてきたのである。そんな彼女たちですら、花井の放つ並々ならぬ気迫になかなか動きを見せられない。自分の踏む一歩が、地獄への第一歩にならない保証などどこにもないのである。
(なんという気迫だ……。オーラ、いや殺気……違うな。まるで暗闇で猛獣か何かが牙を剥いているのに出会ったような……。ともかくひとつ言えるのは魔物とはお話にならないくらいの差があるということだ)
緋色は剣道・居合道をひと通り修めている、いわゆる武芸者である。武芸は、精神を鍛えるためのトレーニングにも置き換えられている程、精神鍛錬を重要視している。勇気と冷静さを学ぶことこそ、戦いの極意であるからだ。それには、相手の強さを見抜くという技能も要求される。緋色は魔法少女達の中では一番それに長けている。そんな彼女が動けなくなるくらいの気迫。それがわずか九歳の少女から放たれているという事実に、緋色は驚愕するほかなかった。
「どうしたんですの? 一歩も動けないと言うのなら……全員死んでもらいますの!」
魔砲エクセリオンを回転させながら、花井は突進を始める。秀子はそれに呼応するようにトカレフの銃底でエクセリオンを受け、グロッグのトリガーを弾く。花井は弾かれたエクセリオンをそのまま回転させ光弾をいなすとそのまま後ろへ受け流した。この間一秒もかかっていない。花井の常軌を逸している身体能力にも驚くばかりであるが、それについていく秀子も只者ではない。
「緋色!」
今までのやる気のない態度が嘘のように、江藤が叫ぶ。緋色が刀を振るえば、突風がその場を吹き抜け、花井の行動を制限した。すかさず江藤が手をかざし、風を灼熱の熱風に変える。木が一瞬で消し炭になるほどの熱風が四方八方から吹き荒れ収束し、花井の身体を通り抜けていった。通常であれば同じように消し炭になってもおかしくないはずなのに、花井が動じる様子は微塵もない。
「小賢しいッ! お前たちのような木っ端魔法少女が、私に敵うわけがないんですの!」
エクセリオンを構え、花井の全身に青白い電流が流れたかと思うと同時に、砲塔から閃光が放たれる。緋色は為す術もなく吹き飛ばされ、地面を転がり、その場に突っ伏した。
敵わない。
一瞬の交差でしかないこの攻防で緋色の脳裏に浮かんだのはそれだけだった。逃げることは恥ではない。それは、戦う上で誰しも学ぶことだ。だが、それは実力が均衡していることを前提としている。相手がもし自然現象ならどうか? 立ち向かうこと、防ぐこと、全てが無駄なのではないか? そう考えると、緋色の心はただただ沈んでいくばかりだった。恐怖とプライドが何度も何度もミルフィーユのように重ね塗りされるような、言い知れぬ感情。
「逃げろ、桜井秀子!」
彼女が選んだのは叫ぶことだった。なおも一歩も引かず、花井の前に構えたままの女に、危険を伝えること。決着はおそらく今ではないのだ。生きてさえいれば、恐らく花井とも再戦の機会がある。
「断ります」
そんな緋色の気遣いを、秀子は即突っぱねた。なぜだか秀子は、突っ張らないといけないような気がした。誰かが秀子の背中を押してくれたような気がした。ならば、自分の信じる限り進まなくてはならない。己に課したルールに背いてはならない。それは逃げると言うことだ。誰かのために戦って、誰かのために消えていく。なら、自分が逃げてしまったら、一体どうなってしまうというのだろう。秀子は自分の意地を押し通さなくてはいけない。逃げてはならない。その強い意志が、今の秀子の足を支えていた。
「くだらん意地ですの。お前達は今こそ神罰を受けなくてはならない。罪をその命で償い、神の誕生の礎となれ!」
「神? 一体誰が神だっていうんです?」
「……愚問です。それは、私ですの。私は魔法少女という概念を飛び越え、救いそのものとなる。この手で直接救いを与えられる唯一の存在。それを神と言わずしてなんとするんですの? ええっ? 桜井秀子ォ!」
エクセリオンが上下左右から振り下ろされるたびに、衝撃で秀子の全身の骨が軋んだような感覚に陥る。受けるのが精一杯。トリガーを引くも、見透かされているかのように光弾は後へそれていく。エクセリオンを防ぐトカレフはともかくとして、グロッグは限界に近づいていることを秀子は確信していた。元々グロッグは秀子がこの戦いに赴くにあたっておもちゃ屋で買ったモデルガンに過ぎない。魔法少女がいくら媒介さえあれば武器として扱えると言っても、魔力を込めた時の強度は、それ専用に作られた魔銃とは大きな隔たりがあるのだ。
「くたばりなさい、桜井秀子!」
グロッグはとうとう限界を迎え、エクセリオンによって粉々に砕かれてしまった。エクセリオンの勢いはそのまま、秀子の左腕にめり込む。今度は骨が砕けそうな痛み。歯を砕きそうな勢いで食いしばっても、脳に到達する痛みは遮断できない。為す術もなく殴打されるうちに、エクセリオンは青白い電流を帯び始めた。砲塔を通して打ち出されたエネルギーが、秀子の体を吹き飛ばし、大木にたたきつけられたのを最後に、秀子の意識は暗転した。
秀子は体をびくんと震わせ、突っ伏していたテーブルから体を起こした。どうやら寝ていたようだった。きょろきょろと回りを見回す。いつもの喫茶店だ。食べかけのフレンチトーストと、湯気が収まりつつあるコーヒーカップが置いてある。テレビでは誰だか知らない俳優が亡くなったと報じている。手つきの危ういマスターが、コップを磨いている。マスター以外に誰もいない。
「……夢?」
秀子は狐につままれたような気分になった。魔法少女とはなんだったのだ? 戦争は? 七人集は? 酒木原は? ……自分は疲れているのだろうか。
「おはようございます」
マスターがコップを磨きながら言った。秀子はマスターの声を初めて聞いたような気がした。その声は、まるで粘土に鉄棒を刺したように真っ直ぐでしっかりした、かつ不気味なものだった。声自体はどうということはない。枯れ木のようなその外見から、若々しい男性そのもののような声がでることが不気味なものだと感じたのだった。秀子はその声に返事をせずに、千円札を置いて逃げるように喫茶店を飛び出した。
喫茶店を飛び出すと、なぜかそこは企画課のフロアだった。誰もが机に座りながら、整然とただキーボードを叩いている。電話は鳴っていない。誰も声を挙げない。
「お帰り、桜井君」
課長の大川は無表情な顔でそう言うと、キーボードに視線を落としたまま何も言わなくなった。秀子のパソコンはシャットダウンされていたので立ち上げ、メールソフトを確認する。フォルダには何も入っていない。処理すべき事案もない。
「仕事はないんだ」
大川はニヤニヤ言った。大川の顔がぐにゃりと歪んだ。特におかしいとも感じなかった。秀子の机にコーヒーカップが運ばれてくる。中身は牛乳と大差ないくらいの白さのカフェオレだった。運んできた大卒の新人はやはりニヤニヤしていた。彼女の顔も渦を巻くように歪んでいった。特におかしいとは感じなかった。コーヒーは、砂糖を直接舐めたような甘さだった。
気分が悪くなったので、トイレに入り、鏡を見る。鏡の中の秀子は笑っていた。笑っていたかと思うと、急に不機嫌そうになったり、悲しそうな顔をした。秀子の顔が今度はぐにゃりと歪み、よく似た別人になったかと思うと、急激に歳を取り始めた。見間違えるわけもない、秀子の母だった。
「どうしてあなたは言うことを聞かないの」「私の言うとおりにしていれば幸せになれるわ」「勉強していい大学に入りなさい」「結婚なんてどうだっていいわ。好きなようにしなさい」「どうして結婚しないの? お友達はみんな結婚してるじゃない」「孫の顔が見てみたいわ」
秀子は拳を握り、鏡に叩きつける。秀子の細腕でも、鏡にヒビを入れることくらいはわけはなかった。拳から血がにじむのも構わずに、秀子は拳を叩きつけ続けた。何度も何度も打ち据えた。
「……みんなみんな、私の事をバカにして!」
秀子の眼からは涙があふれていた。不満がそのまま涙になったかのような、なんだかねばついた感じのする涙だった。
「かけるだけ期待をかけて! 結果が出ないからってまたバカにして!」
「どうしてほっておいてくれないの⁉ どうして⁉」
「私は……私は……」
私は何になりたかったのだろう? 何がしたかったのだろう? どうやって生きたかったのだろう? 秀子はメガネを外し、あふれる涙をスーツの袖でごしごし拭った。拭うだけ無駄というものだった。涙で滲んだ周囲がはっきりしてくると、今度はバーになっていた。あの小洒落たマスターも、ジャズも流れてはいないが、秀子は『あの』バーだと確信できた。長いトレンチコートの女性が、カウンターに腰掛けながら、マティーニをあおっていたからだった。
「よお、ルーキー」
久々に会った金剛地の顔は、歪んでいなかった。
「ごんごうぢざん……」
「ひでー顔だなあ、ルーキー。化粧薄くて正解だよ、アンタ。まあ、飲みなよ」
金剛地がどこからともなくカシスオレンジの入ったグラスを置き、カウンター席に座るよう促した。秀子は鼻をすすりながらそこに座った。その行為自体がなんだか惨めなような気がして、とてもカシスオレンジなど飲む気にはなれなかった。
「久しぶりだな、ルーキー。苦戦してるみたいじゃないか」
「なんでそれを知ってるんでずが……貴女は死んだはずです……」
「お迎えがまだ来ないみたいでね。来るまでここで飲んでるのさ」
マティーニの中のオリーブがころんと転がる。金剛地はそれを置くと、秀子に改めて向き直った。金剛地の瞳は、秀子が守ろうとしたそれと同じく、まっすぐな美しい瞳だった。
「すまない。ここまで大事になっちまうとは思わなかった。本当なら、アンタに全て背負わせるなんて、酷なことだったのかもしれねえ」
「なんで、謝るんですか」
「アンタにヒーローさせてるから、さ。アンタが望んだわけでもねえ。誰かが頼んだわけでもねえ。ただただ、私が背負わせた。だから、謝ってる」
「……でも、私は何かできるのなら、何かしたかったんです」
「違うね。アンタは無理してる。今の私は魔力の残り滓、残留思念みたいなもんだ。だが、アンタと一体になる過程で分かった。いいんだよ。別に『何かになろう』としなくたっていいんだ。アンタはアンタだ。それはどうあっても変わらないんだ。『アンタ自身』にだって、できることはあるんだ。ヒーローなんか演じなくたっていい」
収まりかけた涙が再び溢れてきて、止まらなくなった。情けないとも思いながら、秀子は十歳も年下の金剛地に抱きつき、泣いた。思うようにいかなかった人生。それでも、眼を背けながら前に進んできた。そんな自分に事実をこうも的確につきつけるものなのか。秀子は、感謝しこそすれ、それを恨むようなことは思わなかった。
「私はっ……変わりたかった! 未来が欲しかった! 夢のある貴女が羨ましかった! 誰かに認めてもらいたかった! ただ、ただ……それだけだった……」
抱きついた金剛地には、何の匂いもしなかった。暖かさもなかった。彼女が存在することは確かだったが、それを確かめることは難しかった。それでも秀子は金剛地によって救われたような気がした。自分は無茶をしている。そんなふうに考えてしまったら、結局のところ秀子という人間が変わることなどできないという結論に達してしまう。そんな現実からひたすら目を背けることから、金剛地は開放してくれたのだから。
「いいんだ。それでいいんだよ、ルーキー。私たちは弱いんだ。どれだけ戦う術を身につけたとしても、心に鋼を纏うことなんてできない。時々弱くなることくらい、あるに決まってる」
「……でも、私は、勝ちたい。この心が壊れたとしても、あの花井に勝ちたいんです。……でも、私の力では恐らく……勝てません」
「そーお? 私はそう思わないけどね」
バーの隅から、甲高く人を小馬鹿にしたような声がした。振り向いてみると、そこには堀田が座りながらビールをジョッキで飲んでいた。思わぬ再会に秀子の顔は綻ぶ。
「堀田さん!」
「ミッチーよ。……なんでこんなとこに来てるのか、あんた達なら分かるでしょう? もうこんなやり取りもできないのね」
秀子はその言葉で、堀田の身に何が起こったのかを瞬時に理解した。再び涙が追加されて、秀子の涙でカウンターはひたひたになってしまった。
「バカね……でも、嬉しいわ。私もアンタと欲しいものは同じだった。なんにもつかめやしなかったし、何も変わらなかったけど、私は自分を貫けた」
柄にも無く、彼女はぼそぼそ何か呟いた。秀子の耳にはそれは届かなかった。
「私達の未来はもう失われてしまったけど、私は過去に後悔はしてないわ」
「……強いていうなら、私は探偵になりたかったがな」
「何よ、そんな事言うなら私だってお母さんになりたかったわ。……でも、そんな夢より、ただどう生きるかということを貫いた。多分、アンタと出会ったからこんな気分になれたんでしょうね」
秀子の涙はもう止まっていた。彼女たちが言いたいことはもう分かっている。何もつかめない。何も変わらない。何者にもなれない。そんなことはもう分かりきっている。愚かしいことかもしれないが、分かっていても秀子は立ち上がり、自分を貫かなくてはならない。自分が守りたいもののために、秀子は前へと進む。バーの出口の前で、秀子はふと立ち止まり、振り返った。
「もう、会えないんですか?」
「ええ。それだけは分かるわ。でも、私たちはいつでも側にいる」
「そういうこった。秀子、アンタはもうひとりでも大丈夫だよ。さっきみたいに、銀河を描いてやれ。花井だってなんだって、アンタには勝てないさ」
後押しの声援を受けて、秀子の胸中にはいろいろな感情が注入されたが、その中で一番大きくなった感情を両手両足に込めると、秀子はバーの扉を開き、夜より暗い漆黒の空間に飛び出していった。
プレッシャーを跳ね除けるように、緋色は立ち上がり刀を構えた。秀子が倒れた以上、花井との決着はこの場にいる魔法少女でつけなくてはならない。
「まだ立ち上がるんですの? なんと愚かな。やるだけ無駄というものですの」
「無駄だと? 貴様には分かるまい。貴様のように人の体も心も踏みにじるような輩には!」
恐らく今の自分ほど滑稽な戦士はいないだろう、と緋色はどこか冷静な考えを脳裏に浮かべた。今更、自分に何ができるというのか。だが、秀子が自分の役割を果たそうとしたように、自分がやらなければ誰がやるというのだろうか。どうせ、放っておいても全員死ぬのなら、緋色は最後まで己のエゴを貫いてから死ぬつもりだった。
「意気込み大変ご立派ですの。……ですが、世の中意気込みだけで解決すると思ったら大間違いですの」
緋色は刀を上段に構え直し、じりじりと距離を縮める。そんな緋色を花井は警戒しているようで、エクセリオンを構えつつ臨戦態勢に入った。そもそも、緋色の有効攻撃範囲は十メートルほどしかない。さらに、風である以上、距離が離れれば威力も落ちる。花井でない、そこらにゴロゴロしているレベルの魔物であれば問題なく真っ二つにできた。緋色が持つ刀、『魔刀・鎌鼬』の発する風と抜刀術で一瞬で切り裂くことが可能だったろう。魔力で風を操る以上、同様に魔力を操る魔法少女同士の戦いにおいてはあまりにも無力なのだ。それもそのはず、相手も魔力を操ることであらゆるエネルギーを操るのだから、優秀な魔法少女同士では、特定の魔法少女の固有技能は封じられる。純粋な力比べに堕ちてしまうのである。
「さて、何秒持つか見ものですの」
せせら笑う花井と、脂汗すら浮かべ始めている緋色の後ろ姿を、江藤は決意を秘めた瞳で見つめていた。江藤が出来ることはもはや殆ど無かった。自分の身を賭して、全てを炎上させることは簡単なことだ。江藤の魔力の容量は全魔法少女の中でも大きなほうだし、その魔力を使って分子を振動させることで、莫大な熱量を発生させることができる。言い換えれば、ただそれだけの能力だ。人を救うことなどできない。今苦しんでいる愛しき赤羽にすら、何もしてやれない。ただ一つの方法を除いては。
「春ちゃん、一つだけ質問をさせて……?」
「何、スか……?」
息も絶え絶えな彼女を見るたび、江藤の胸には針を突き立てたような痛みを覚える。手を握ると冷たい。三日間戦い続け、今なお強敵の前にいる赤羽の精神はボロボロだった。そして、精神へのダメージは魔法少女の力の源である魔力の減退に直結する。それは命の危機と置き換えてもいいくらいの非常事態なのである。
「春ちゃんは、今戦いたいと思う?」
江藤の声は濡れていた。彼女なりの決意を秘めた重い質問だった。可能ならば、彼女の手を握ったまま、時が止まってしまえばどんなに喜ばしいことだろうか、と江藤は考える。だが決断の時はすぐそこに迫っていたのだった。
「……出来ることなら、自分も戦いたいッス。でも、もう指一本だって動かせない……。自分は、自分は……何もできないんス……」
赤羽の頬を伝う涙は、江藤に最後の決心を付けさせるに十分なものだった。
「聞いて、春ちゃん……。私は、あなたのために全てを捧げる覚悟がある。でもね、春ちゃん、あなたに全てを受け入れる覚悟はある?」
「なんの話を……」
「真剣な質問なの……答えて。花井に気づかれる前に」
江藤祥子には、友人と呼べる人間がいなかった。そもそも、人を信用するなどという行為が信じられず、人を避け続けているうちに、いつの間にか常に一人で行動するようになっていった。
魔法少女となって、いつの間にか『ブラック・イフリート』などと呼ばれるようになってからもそれは変わらなかった。一人で現れ、一人で魔物を倒し、一人で帰る。それが人生の全てだと思っていた。それに、肩肘を張らなくて良い。相手に迷惑をかけることもない。江藤の人生は、一人でゆっくりと終わっていくのだろう。そう感じていた。
とある冬の寒い日、江藤は珍しく魔物に不覚を取った。個体としては弱いものだったが、厄介なことに倒すと分裂して、集団で襲いかかってくる。片っ端から燃やしていっても、際限なく増え続ける魔物は、江藤の精神力を削っていった。魔法少女にとって、精神力の減退は生命の危機に直結する。魔物の吐き出す黒い光線を避けながら、一匹ずつ燃やし尽くす。一瞬でも気を抜く余裕などない。それなのにもかかわらず、江藤はふと考えてしまった。自分がこんなに戦い続けた所で、一体何になると言うのだろう? 両親は自分に無関心だし、友人らしきものもできたことがない。インターネットのサイトでは、好きなゴスロリの衣装を発信し続けているが、それは単なる外見に群がられているだけで、誰も中身までは見てくれてはいないだろう。
「……私は、何のために生きているの?」
人は言う。ご飯のため、お金のため、恋人のため、名誉のため、両親のため、友人のため、そして、自分のため。どれも江藤には必要がなく、そして必要とされていないものだった。そんな自分が、一体何のために戦えばいいというのか? 何のために戦っているというのか? 江藤は何もかもわからなくなって、何もかも投げ出してしまいそうになる。体が止まる。魔物がそんな江藤の意を汲むわけもなく、四方八方から黒い光線を浴びせてくる。ああ、自分は死んでしまうのか。意外にあっけなかったな。思ったのはそれだけだった。
「あぶねーッス!」
闇の中でキラリと光る何かが、流星のように江藤を通り抜けたかと思うと、魔物のすぐそばで炸裂。爆砕。魔力でできた炎が魔物たちを一気に焼き尽くす。一瞬何が起こったのか、江藤は理解できなかった。後ろからよく通る声がする。
「全く、アンタ迂闊すぎッスよ。囲まれてるのに一瞬隙なんか見せたら、あんな下っ端魔物でも殺されちまうッス」
カリカリと頭を掻きながら、その少女は現れた。黒いニーソックスを履いていて、どうやらどこかの学校の制服を着ているらしかった。寒いためなのか、フライトジャケットを羽織っていて、吐く息は白く美しかった。
「……誰?」
「こういうことはあんまり言いたくないッスが、『助けてくれてありがとう』くらいは言って欲しいッス」
「……たっ」
「た?」
「たすけてくれて、ありがとう」
その一言を言うだけなのに、江藤の心臓は必要以上にビートを刻んでいた。血液が全力で血管を駆け巡るのが分かった。今まで生きてきて、こんな気分になったことなど一度もない。彼女はどんな魔法を使ったのだろう? 江藤は若干的外れの思惑を思い浮かべながら、うつむいた。なんだか恥ずかしい。恥ずかしく思うことなど何も無いはずなのに。普段の自分なら、こんなふうに不覚を取ることだって無い。助けられることだってなかった。
「よく出来ましたッス。自分は、赤羽春子ッス。アンタは?」
「……私は、江藤祥子……。ねぇ、一つだけ教えてくれない……?」
もじもじと江藤はうつむいたままだったが、どうしても疑問をはらさずには居られなかった。
「……私は、あなたと初めて出会ったわ。名前も知らない。それなのにどうして、私を助けたの?」
赤羽は困ったように眉を上下させ、くりくりと目を動かすと、若干照れくさそうに口を開いた。
「そんなの、決まってるッス。自分は魔法少女ッス。困った人は見逃せないッスから」
笑顔。太陽を直接見つめているようで、不快でないその感覚は、江藤の価値観を変えるに十分なものだった。天啓のように浮かんだ自分の生きる使命。私は、彼女のために生きよう。彼女が困った人を見逃せないのだというなら、私は彼女を守ろう。いつか、彼女のために命を落としそうになったとしても、喜んで彼女のために命を使おう。江藤祥子の人生は、本当の意味でそこから始まったのだった。
出来ることなら、聞きたくなどなかった。彼女の決意など、聞かなくても分かっている。だが、聞いてしまったら真実となってしまう。受け入れるしかなくなってしまう。
「……自分は、魔法少女ッス。誰かを守るために、魔法少女になったッス。ただ見ているだけなんて……自分には……できないッス!」
ただ時を止められたら。江藤はそれだけを願いながらも、赤羽の手を握る。冷たかったはずの赤羽の手はみるみる体温を取り戻し、怪我すら急速に回復していく。異常とも言える回復速度に、赤羽は目を丸くしながら江藤を見る。月明かりすら薄れかけている暗い森で黒い服を着ている江藤は見づらかったが、赤羽はあることに気づいた。江藤の手にヒビが入っている。肌荒れ、とは到底思えなかった。
「一体、何をしたッスか!?」
「私は魔力を微振動させることで、あらゆるものを燃やすことが出来る。それは物体だけでなく、生命エネルギー……つまり、『命の炎』すら燃やせるの……。隠していてごめんね……?」
ひび割れが顔にまで達している江藤と対照的に、赤羽の怪我はほぼ完治しようとしていた。
恐らく概念を燃やすことで、自分の体内に存在する魔力を全て使いきってしまったのだ。その反動がこのヒビ割れなのだろう。
「なんて、なんて馬鹿な事を……」
「……この方法しか、無かったの。魔力の譲渡なんていつだって出来るけど、怪我は治せない。春ちゃん、私はあなたのために全てを投げ出すわ……。力をどう使おうと自由よ……。だから」
江藤の細い小指が崩れ、顔からもパラパラと欠片が落ち始める。唇もまともに動かせるかも怪しかった。
「ごめん……ね。わたし、さきに、いく、から」
「お姉様!」
赤羽は叫ぶ。かつて自分をそう呼べと言った彼女に、涙を流しながら。石像のように無表情だった江藤は、最期に笑った。心の底から満足そうな、笑顔。自分に全てを投げ出してくれた彼女はその瞬間に崩れ去った。江藤の残した衣装の内、彼女が髪留めにつけていたリボンを引っ掴むと、マフラーのように首に巻き、立ち上がる。彼女が言ったように、全てを投げ出してくれたのだから、自分は全てを受け入れなければならないのだ。
「役者は揃ったというわけですの?」
花井は強大になった赤羽の魔力ですら鼻で笑った。もちろん、その間も一部の隙もない。花井に対してさほどの変化も与えられなかったが、緋色にとってそれは違った。一人で戦うことと、二人で戦うことがこうも違うものなのか。後ろに頼もしい仲間が控えていること、そしてそれが仲間と引換だったこと。複雑な感情は意外にも簡単に『安心』という単純明快な感情に集約された。
「……私達でアンタに勝てるかどうか、正直分からないッス。でも、私たちは、もう負けられない。アンタに勝つ!」
「それに、役者はもう一人残っている」
緋色はふっと戦闘態勢を解くと、コスチュームのポケットの中から黒い塊を取り出す。花井が現れる前、赤羽に託された『魔銃ベレッタ』。それを投げ捨てると、再び戦闘態勢を戻す。投げた先には、秀子が大木によりかかり気絶しているはず。花井は見向きもしない。自分は神になるのだ。たかが魔法少女が何人増えようと、救いそのものである自分に敵うわけがないのだ。
「勝つ? この私に? お前たちが? 冗談は休み休みいうべきですの」
「どちらが冗談を言っているのか、今から分かりますよ」
投げられたベレッタが宙に浮いている。正確には、伸ばした手の先に収まっている、と言うべきだろうか。その手は、紛れも無く桜井秀子のものだ。金剛地の魔銃ベレッタは、初めて使うとは思えないほど秀子の手に馴染んでいた。まるで昔からそれを使い続けたかのような感触。秀子にはその理由が分かっていた。心を繋いだ金剛地の魂は、秀子の中にあるのだ。これほど心強いことがあるだろうか。魔銃トカレフと魔銃ベレッタを交差させると、今度は『X』ではなく、左腕を前に出し、右腕を縮ませた。これぞ臨戦態勢『P』の型である。もう迷わない。迷ったり避けたりするには、自分が抱えるものは大きくなりすぎてしまったのだ。
「もう、終わりにしましょう」
森の中は白み始め、闇は開けようとしていた。
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