第6話 帰還


 それから数週間は、再び平和な日が続いた。それは秀子にとって退屈な日々であることの裏返しであったし、同時に人生に対する漠然とした焦りの日々でもあった。別に、億万長者になりたいだとか、今更女優を目指したいだとか、夢見がちな少女のような妄想を実現できないことに焦っているのではない。ただ、何をするわけでもなく過ごすこの日々に対して、不安と焦燥を感じているのだ。それは、金剛地が死んだという知らせを受けてからというもの、日増しに強くなっていった。

「桜井君、なんて予約してあるのかね」

 大川が大声で秀子に尋ねる。夜の街を歩くスーツの集団。そのいちばん後ろで、秀子は意識を現実に引き戻した。考え事をしていたせいか、反応が遅れてしまった。今日は会社の飲み会で、秀子は酒がほとんど飲めないため幹事の役を引き受けることになっていたのだ。

「六道商事の桜井で予約してありますので、その旨を伝えれば大丈夫です」

 堅物でこそないものの、真面目な大川がウキウキと歩を進めるのを見て、秀子は自分を不安に思う。自分は、結局何もできないのではないのか。こうやってどこか他人と疎外感を感じながら、ただ何もせずに老いていき、一人ぼっちで死んでしまうのではないか。だが、一人ぼっちで死ぬのも、今すぐ金剛地のように死んでしまうのも、躊躇われた。結局、わがままなのだ。そんなわがままな自分のままでは、何も出来ないことくらいは分かっている。

 その時だった。秀子は突然、見えない手で肌をなでられたような気がした。魔力の反応である。それも、かなり強い。恐らく、大型の魔物が近くにいるのだろう。

「どうしたのかね?」

「課長、実は会社に忘れ物をしました。すぐに戻りますので、先に始めてください」

 大川の静止も聞こえないふりをすると、秀子は夜の街をかけ出した。通常、魔物の発する魔力は微々たるものである。魔物は魔力を、自分が存在するためのエネルギーとして常に消費している。もちろん、負の感情の供給がそれ以上であれば、魔物が強大になる速度も早い。だが、大半の魔物は強大になる前に魔法少女協会によって討伐される。つまり通常なら、付近に漂うほどの魔力を発することのできるほど強い魔物は存在し得ないはずなのだ。なぜなら、強大になる以前、つまり魔法少女達に感知される前に協会に発見されるのだから、強大になりようがない。

「……なんてこと」

 繁華街の中にある、普段はライブ会場にも使われる大きな広場。そこに、巨大な犬型の魔物が存在していた。魔物はどうやら食事中のようだった。巨大な牙の間から人の下半身がぶら下がり、やがてちぎれて落ちていった。こいつは人を食っている。魔法少女の姿はどこにもない。ここまで大事になっているにも関わらず、である。秀子はビジネスバッグを開けると、お守りの魔銃トカレフを取り出し、握った。手が震える。金剛地が死んだ知らせを受けてからというものの、一度もトリガーを引いていない。だが、引かなくてはならない。ここまできたら、秀子も食われかねない。

「変身」

 呟く。二秒で変身を終えるはずのコスチューム……だが、変化はない。なんども呟く。何も変わらない。そんなバカな。そのうち、食事を終えた魔物がこちらを向く。確実に、次は秀子を食うつもりだろう。足がすくむ。変身もできず、トリガーガードに指をいれることすら叶わない。全身を蟻が駆けまわるように、恐怖が全身を走った。

「カリバァァァアン!」

 その時だった。魔物の首に、巨大な泥の剣が突き刺さった。聞き覚えのある甲高く、そして不愉快な声。魔物はひるまず、ぶるるっと身を震わし、剣を跳ね返した。思った以上に強靭な皮膚のようだ。

「全く、他のやつらは何してんのよ! それにしても、この私が一撃でやれないなんて、おかしいわ!」

「貴女は……堀田さん!」

 巨大な泥人形を操りながら、愚痴を吐く女が一人。かつて初めて秀子と戦い、そして敗れた魔法少女、堀田三津子その人だった。

「私は魔法少女ミッチー様よ! 蹴り殺すわよ! っていうかアンタ、ルーキーじゃない。こんなとこで何してんのよ、尻餅なんかついちゃって」

「貴女こそこんなところで何を……」

 いつの間にか尻餅をついていた秀子を見下すように、堀田はふふんと鼻で笑った。

「見てわかるでしょ? アンタにぶちのめされて入院して、今日退院してきたのよ。ま、正確にはもっとかかるところを無理やり出てきたの。あんなところ、自由じゃないわ」

 くすんだ色の金髪が夜風になびく。今の状況で、これほど頼りになる者もいないだろう。秀子はいまや変身もできないのだ。一般人と同じなのである。

「まぁいいわ。アンタも変身しなさいルーキー。このミッチー様と一緒にあの犬っころをぶちのめすわよ」

「……それが、なぜか変身ができないんです」

 ふーん、と堀田は呟く。特に焦りも心配もない。彼女にとって、自分以外の人間などおまけにしか過ぎないのだろう、と秀子は思った。元から一人で戦うつもりだったに違いない。

「ま、死なないように隠れてなさい。このミッチー様が、戦いのイロハを教えてやるわ! やーっておしまい、ロードナイト!」

 泥の騎士が再びカリバーンをふるう。犬は想像以上に力が強い。巨大なナイフのような牙で噛み付く。だが、このロードナイトは泥で出来ているのだ。全くの無駄である。倒そうとすれば、ロードナイトでなく堀田を倒すか、ロードナイトを欠片残さず吹き飛ばすしか無い。それは秀子が一番良く知っていることだった。

「ジャーキーの代わりよ。カリバーンでもしゃぶってなさい、犬っころ!」

 カリバーンが犬の喉を貫く。犬は断末魔の叫びをあげると、足元からぼそぼそと崩れ始め、やがて霧のように消えていった。同時に、ロードナイトも泥から砂へ戻っていき、消えた。そこには、魔法少女が二人残った。どうやら、彼女に話を聞く必要がありそうだった。

「一体どういう事なんです。いままでの協会なら、こんなに魔物を強大にすることはありませんでした。それに、スタッフの方とも連絡は取れないし、私は変身もできない。異常事態ですよ」

「さあね。仮に知っていたとしても、あんたみたいな腑抜けに教えるつもりはこれっぽっちもないもの」

 堀田は秀子に軽蔑のまなざしを向けると、そのままそっぽを向いた。

「……どういうことです」

「そのままの意味よ、ルーキー。あんたは何かを成したい。だから死ねない。そんな事をほざいてたじゃない。そんな事を言ってたあんたが、あの体たらくとはね。ここ何週間で何があったのか知らないけど、心の底からガッカリよ」

 心臓を抉られたのではないかと思うほど、どきりとした。それほど堀田の言葉は核心を突いていた。私は確かにそう決意したはずなのに。

「結局のところ、安っぽい決意だったってわけね。ほんとにガッカリよ。そうやって今まで何もかもから逃げてきて、それでまだ逃げようって事なのね。あんたみたいなのにやられて恥ずかしいったらないわ」

「貴女に何が分かるんです」

 秀子がポツリと呟いた。

「何よ」

「私は、どう生きていいか分からなかった。小さい頃から真面目でおとなしくて、友達からもそう見られてて。でも、要領は悪くて勉強も嫌いで、人付き合いも苦手だった。それなのに、自分なりに一生懸命に生きてきて、それで今までの人生に何も残ってないことに気づいたとき、自分がどれだけ惨めだったかわかる? 私には、もう時間すら残ってない。若い人達が『これから』なんていう根拠のない慰めすら私には許されない。じゃあ、すべて諦めて何も無いように生きて行くのがいいじゃない。だって、死んでしまうよりましでしょう?」

 涙がこぼれているのが、自分でもわかった。恐らく、ひどい顔をしているのだろう。メガネの奥で自分のすべてが溢れて滲んで、堀田の顔すら見えない。彼女は、私を笑っているだろうか?

「あんたのことなんか私は知らないわ。だって私はあんたじゃないもの。それに、過去は過去でしょ。そんなこと気にして、これからの未来から逃げてどうすんのよ」

 堀田は秀子の肩を抱えると、ベンチに座らせてくれた。彼女にも、人として最低限の良心は残っているようだった。それが今の秀子にはありがたかった。

「それに、死んでしまうってあんたね。何もしないことは死んでるのとおんなじじゃない。あんた、自由でしょ? そりゃスーツ着てるから働いてるんでしょうけど。私みたいにニートになれなんて言うつもりは無いわ。それでも一人な分、身軽で自由じゃない。なんでも出来るわ」

「……もしかして、自由でいたいから一人なんですか?」

「そーよ。実は私バツイチなのよ。結婚ってどんなもんなのかってしてみたんだけど、あんまりにも面倒だから離婚してやったの。だって、何かにつけて夫婦一緒にいなきゃいけないなんて、全然自由じゃないわ」

 それから数分、何を話すわけでもなく、うら若いとは言えない年のいった女が二人、公園のベンチに腰掛けて過ごしていた。その間も秀子の涙は止まらなかった。わだかまりという名の巨大な氷が溶けて、それがひたすら流れているようだった。それがようやく止まった時、秀子は堀田に話しかけた。

「堀田さん」

「ミッチーよ。一体なんなの」

「貴女、七人集の一人ですよね。金剛地さんってご存知ですか」

「そりゃあ、よく顔は合わせるからね。スカしたやつであんまり好きじゃないけど、結構イイやつよ」

「……彼女が死んだのはご存知ですか」

 堀田が少し体を震わせたのが、秀子にはわかった。それが、彼女の動揺を表しているということも分かった。おそらく堀田は、入院してから情報をもらっていないのだ。

「……嘘でしょ?」

「私は彼女に一度しか会ったことがありませんが、それでも嘘だと思いました。ですが、事実です。七人集の赤羽さんという方が伝えてくれたんです」

 再び、沈黙が二人の間に流れた。夏の夜だというのもあるのか、妙に空気が重く感じた。流れた汗はどういう汗だったか分からなかった。

「……バカみたい。死んだら、意味ないじゃない。ほんと、バカよ、あいつ」

 堀田の目からは、涙が流れていた。秀子と同じ涙であろうことは間違いなかった。やがて、おもむろに堀田は立ち上がった。

「あんた、真実を知りたくない?」

「真実? 真実って一体何なんです?」

「金剛地が死んだのも、スタッフと連絡が取れないのも、魔物が放って置かれているのも。恐らく、すべてひとつの理由で説明がつくわ」



 すでに夜十時を回り、秀子は大川に詫びの電話を入れ、このまま帰社することを伝えた。堀田は、いつの間にか缶コーヒーを買ってきて飲んでいた。秀子の分は無いようだった。彼女らしいといえばそうだろう。

「あんた、赤羽から何か聞いてないの?」

「特には。……ですが、戦争が始まるとかなんとか言っていましたね」

 赤羽は秀子に確かにそう警告した。同時に、魔法少女の世界から離れろ、とも言っていた。

「なるほど。……結論から言えば、それはマジよ。本当。魔法少女同士で殺し合い……つまり戦争をするつもりなの。だから、いくら強くても普通の魔物なんかみんな見向きもしない。自分がすべてってこと」

 驚きはしなかった。秀子にとって、いまいち自分のことのようには思えなかったからだった。それに、これまで様々なことに巻き込まれてきた秀子にとって、今まで以上に現実味がないのも原因だった。

「……一体、何のために戦争なんかしてるんです?」

「あんた、年棒いくらなの」

「……確か、五千万ですね」

「なかなかやるわね。私は結婚前は一億二千万ってところよ。……で、年棒はスタッフ部門とスカウト部門の査定によって決まるの。でも、スタッフ部門はともかく、スカウト部門は現場に出てくることはまず無いわ。それじゃあ、スタッフ部門だけに査定の権限があるようなものよね。スカウト部門には何のメリットもない。それじゃあ、組織ってのは回らない。あんたにはよくわかるでしょ」

 確かにそうだ。同じように仕事をしているのに、権限に差があるようではとても組織は回らない。そんなのは秀子自身もごめんだ。

「……堀田さん、意外と常識あるんですね」

「ミッチーよ! いい加減ひねり殺すわよ? それにど失礼じゃないの。まるで私が非常識な女みたいじゃない」

 実際そうだと思うが、と喉まででかかった言葉を、強引に体の奥に押し込んだ。

「それで、その年棒の査定が何だって言うんです? 戦争と何か関係があるんですか?」

「大ありよ。……協会は、魔法少女の変身システムにある仕掛けを施したの。それは協会側からコントロールすることで、自由に発動できる。ただ、それは魔力による変身システムへの負担が大きくて、ずっと連続して使えるようなものじゃないっていう欠陥はあるけどね」

 だんだんとイライラしてきた。この女、どうも話が回りくどい。なんども言うようだが、秀子は回りくどい言い方はあまり好きではないのである。

「だから、それはなんなんです?」

「特定の魔法少女を魔物に見せる装置。簡単に言えば幻覚装置ね。スカウト部門はそれを使って、意図的に協会規則違反魔法少女を生み出している。あんたを、私が襲ったようにね。もし私がやられたら、あんたは他の魔法少女に喧嘩を売ったことになる。私があんたを倒しても同じ。気に入らない魔法少女を消すにはちょうどいい。それでも生き残った魔法少女を」

「査定アップのためのターゲットにして狙わせるわけですか」

「そう。それが戦争ってわけ。この装置の実験体が私だったのよ。もともと協会からは嫌われてたからね。面識もないあんたを狙ったのはこのせいよ。恐らく、金剛地はこのからくりに気づいたから殺されたんでしょうね。あいつ、探偵の真似事好きだったから」

 なんということだ。金剛地は秘密を知りすぎたために消された。協会内部の人間がすべてを仕組んでいるというのなら、酒木原は一体どうなったというのだろう。秀子を魔法少女の世界に引き込んだ彼を、敵視するようなことは秀子はしたくなかった。

「……ちょっと待ってください。堀田さんはなんでそれを知ってるんです? それに、今戦争が行われているというのなら、一体狙われているのは誰なんです」

「訂正するのも面倒だからスルーするけど。私がそれを知ったのは今日。酒木原さんが入院中に手紙を置いていってたの。どうも、自分に何かあった時の保険とかなんとか書いてた。それと……狙われている魔法少女のことだけど、私には至極簡単に思いつくわ」

 堀田が空になった空き缶を投げる。美しい放物線を描きながら、空き缶はゴミ箱に入り、からからと最後の叫びをあげた。

「金剛地に一番可愛がられてた、赤羽春子。スカウト部門本部長遠野が、恐らく今一番煙たがってる女よ」

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