第2話 宿敵

秀子の仕事は、企画部という部署にありながら地味なものだ。新製品開発において重要なのは、革新的で斬新なアイデアを出すことがもちろんだが、製造コストとそれに見合う利益が得られるかどうかが重要になってくる。天文学的な投資で在庫の山を築くこともあれば、ちょっとした宣伝方法の工夫、マイナーチェンジで莫大な利益をあげることもある。係長という職にあって、コストとマージンの指揮監督をするのは最重要なことなのだ。秀子の所属する企画二課は、そういう製造管理を取り扱う部署であって、一課の担当する製品企画に積極的に携わることはまず無い。

「桜井君、どうかしたのかね」

企画部統括の大川が怪訝そうな顔で部下の顔を覗き込んだ。

「何かいいことでもあったのかね? ずいぶんと嬉しそうだが」

「いえ、別に」

桜井秀子は、にやついていた顔をいつもの無愛想気味の顔に無理やり戻すと、再びパソコンのモニタに向かい始めた。実際、彼女は嬉しいのだ。彼女は、彼女の枷となっていたサイクルから外れた。その事がたまらなく嬉しいのだ。もう自分は、周りとは違う。確実に頭一つ抜けたところにいる。その優越感がたまらない。モニタに移る彼女の顔は、やはり少しニヤけている。大川もまたこちらを怪訝そうに見ている。秀子は人とは違う。そんな小さな事実が、秀子の顔を落ち着かないものにさせていたのだ。

「係長、製造コストの見積もりが上がってきたんですが」

部下の報告に気づくのも数秒遅れる。秀子の脳内はまさしくお花畑状態であった。結局この日は普段ならしないようなミスを重ねる始末で、大川からの小言も右から左へ抜けていった。ふらふらとまだ夢見心地のようで、普段なら入るのに躊躇するような牛丼屋へ吸い込まれて行った。

「おや? 奇遇ですね」

見慣れた巨体に汗ばんだ顔の男がいると思ったら、案の定酒木原だった。普段の秀子であれば、彼を疎ましく思ったことだろう。夜八時過ぎに、いい年した女が牛丼屋でひとりでいるところなど、知り合いには見られたくないものだ。

「酒木原さん。こんばんは」

 自分でも少し声が上ずっている、と思った。おそらくこれから起こることに、自分自身期待しているのだろう。

「わかりますよ、お気持ちは。牛丼は老若男女、どうしても食べたくなる時があるものです」

酒木原が冷水がなみなみと入ったピッチャーから、次々と水をコップに入れ飲み干していく。彼がいかに今日も汗をたくさんかいたのかがよくわかる。

「ええ。普段は一人じゃ入れません。……正直、今夜が楽しみです」

「それは頼もしい限りです。今夜は初陣ですから、気負わずやってください」

店員が怒号に近い声で、酒木原の目の前に牛鮭定食を運んできた。酒木原は、味噌汁のわかめを食べおわると同時に、凄まじい勢いで牛丼をかきこみ始めた。

「先日送ったメールはご覧になりましたよね。遭遇ポイントでの魔物出現予定時刻は二時間後。レベルは三ですから、桜井さんにとってはむしろ格下、楽勝の部類に入るでしょう。我々サポートスタッフも現場にて待機してますので、ご安心を」

と、言うような事を酒木原は言ったようだった。半分は口の中の牛丼に阻まれ、聞こえなかったのだから、これが正確であるなら秀子の聴覚は鋭いほうだろう。

「報酬はどうなるんですか? そういえば聞いてないんですが」

「契約書、読まれなかったんですか? 我々日本魔法少女協会では、年棒制を採用しています。我々の査定ですと、秀子さんの年棒は五千万となってます」

「五千万ですか!?」

 思わず秀子から漏れた大きな声に反応した隣のサラリーマンが、疲れた目でこちらを見るが、すぐに興味を失ったのか視線を牛丼へと戻した。

秀子が魔法少女などというふざけた仕事を引き受けたのには三つ訳がある。

ひとつ。秀子は、酒木原の『老後の不安』という言葉に恐怖を覚えた事。

ふたつ。秀子は、このままの退屈で単調な人生に飽いていた事。

みっつ。経済的にも豊かになると酒木原に言われた事。ある程度は予想をしていたが、その予想を大きく超えた数字だ。

秀子は単なるサラリーマンである。経済的には一人暮らしで問題ない。だが、都内のマンションで寂しく過ごす今の生活に、何の魅力があるのだろう。何もない。今から結婚しても、たかが知れている。せめて老後くらい、豪勢に暮らしたいと思ったのだ。豪勢といっても、少し贅沢が出来ればいいと思っていた矢先にコレである。十分どころか、下手すれば遊んで暮らせるだろう。

「ま、なんにしろ十分な報酬かと思います。……なんども言いますが、くれぐれも気負わずやってくださいね」

いつの間にか、牛鮭定食は空になっていた。本当に酒木原は食べるのが早い。彼の特技ともいえるのでは無いだろうか。

「それでは、遭遇ポイントで会いましょう」

酒木原は千円札を席に置き、去っていった。


 薄暗い廃工場がそこに広がっていた。埃が月明かりに照らされて、足元に舞っているのが分かる。今回の遭遇ポイントは間違いなくここのはずだが、酒木原のいうサポートスタッフの姿は見当たらない。秀子はきょろきょろと辺りを見回すと、頭を掻いた。契約の後送られてきたメールには、変身方法について書かれていた。非常に簡単なもので、『変身』と呟くだけでいいのだという。大声はもちろん、へんてこなステップもコンパクトも呪文もいらない。特に誰に対して恥ずかしく思うこともないが、いかんせん酒木原に見せてもらったあのコスチュームになるかと思うと気恥ずかしかった。

「……へ、『変身』」

秀子がぽつりと呟くとほぼ同時に、秀子は完全に『変身』を完了していた。燃えるようなオレンジ色のフリル付きドレス。片手には持ってきた黒い銃『魔銃トカレフ』が握り締められている。くるくるとその場で回転してみたり、フリルを触ってみたりするが、どうやら夢でも無いらしかった。

「……どこにいるのかしら」

つぶやいた声が拡声器を通したように響いた。同時に、雷鳴が轟くような音がした。今日は雨は降らないと朝の天気予報で言っていた。それに、さっきまで月が見えるほどきれいな夜だった。突然雷が鳴るわけがない。何事かと考え込んでいると、今度は非常に癪に障るような甲高い笑い声が工場中に響き渡った。

「ここで会ったが百年目! 情報通りにやってきやがったわね!」

甲高い。キンキン響く声は秀子の耳を塞ぎたいという欲求を満たすのに十分なものであった。女の声は反響に反響を重ねており、どこにいるのか分からない。

「私の私による私のための騎士! あの女をやーっておしまい!」

再び響く甲高い声を合図にしたのか、地面が揺れ始めた。何かが来る。女のカンと言うべき物が、秀子がその場から突き動かした。案の定、地面が風呂桶の栓を抜いたように渦を巻き始め、その真ん中から何かが姿を現した。泥で出来た人型の何かが、先ほどの雷鳴と聞き間違うような咆哮をあげた。

「なんなのよ、もう!」

トカレフを構え、トリガーを引く。光線が泥人形を穿つ。地面が揺れたと錯覚するような咆哮を発する。だが、泥人形は動きを止めなかった。泥が、まるで間欠泉が噴出すようにせり上がり、泥人形がそれに腕を突っ込む。すると、泥で出来ているのかよく分からないが、棒状の物体が泥人形の腕に握られていた。

「あたしの『ロードナイト』はそんなもんじゃ無駄よ! カリバーンを持ってしまったロードナイトを止められる魔物はいない!」

大体、人間が動かす魔物がいるなんて事があるのか。いや、酒木原は何度も『言っておかなくてはいけないもの』を忘れる事が多い男だ。『魔法少女が動かす魔物』が居てもおかしくないではないか。

そんなことを考えているうちにも、カリバーンの一閃が迫る。泥のもつイメージから、鈍重かと思っていたが、とんでもない。鋭い一撃を確実に叩き込んでくる。もちろん、トカレフを何度も打ち込んではいる。だが、この魔銃トカレフの特徴として、連射すると威力が落ちるようなのだ。只でさえさっきの太い光線が効かないのに、泥人形にしてみれば蚊に刺される程度だろう。そもそも、この泥人形に痛覚が存在するのかさえ怪しい。

「どぉーしたのかしらぁ? 言っとくけど、降伏なんて許さないんだから!」

オレンジのフリフリドレスのおかげで、身体能力も多少は向上している。だが、中身はこの前までごくごく普通の女だったのだ。百戦錬磨の戦士のようにはいかない。しかも、正確無比で叩き込まれるカリバーンのおかげで床は凹んでおり、くぼみのひとつに足をひっかけ、すっ転んでしまった。

「ぐっ……」

「魔物のくせに魔法少女の真似をするなんて、なかなか生意気ね。おっ死になさい!」

カリバーンが無情にも振り下ろされる。情け容赦ない死が迫っていた。思えば、短い人生だった。だが、秀子は思う。自分は何を成したのだろうと。人は一生をかけて、何かを成す。だが、自分は何を成したというのだ。富も、名声も、地位も、友情も、恋も、何一つ成していない。それで生きてきたと言えるのか?

じゃあ、このまま死ぬべきだろうか。カリバーンは、地面にめり込んだ。




お世辞にも美しいとはいえない、多少茶色になりつつある金髪をなびかせつつ、工場の奥から一人の女が姿を現した。ビビットピンクでレースのついたひらひらのドレスを着込み、手にはこれまたピンク色の杖のような物が握られている。

「さすがね、私のロードナイト。貴方は最高よ。ビューチフルよ。それでこそこのミッチー様の奴隷にふさわしいわ!」

ミッチー、と名乗る女は、甲高い笑い声を上げた。

「動くな!」

「動くな、といわれて動く人間なんていないわ」

ミッチーが後ろを振り向くと、恰幅のいい男と、黒い服を着込み銃を持った数人の男が立っていた。

「いつものことながら、訳のわからない発言で煙に巻くのがお上手ですね」

「あらぁ、久しぶりね、酒木原さん。聞いたわ。貴方出世したんですって?」

「そんな事は今関係ないですよ。堀田三津子さん」

「私をその名前で呼ばないで!」

ミッチーこと三津子は、酒木原の言葉に態度を豹変させた。

「まさか、もう七人集が動いたのですか」

三津子は答えない。

「一体何をするつもりなんです、七人集は。これは明らかに契約違反ですよ。魔法少女同士が争うなど、絶対にしてはならないんです!」

「黙りなさいよ! 私が戦っているのは『魔法少女のフリをする魔物』よ。別に契約違反などではないわ」

「七人集たる貴女が、そのようなわがままでは困ります」

「黙りなさい! 何が七人集よ! 私は私よ。七人集じゃない!」

泥人形が咆哮を上げる。カリバーンを再び振り上げ始めた。

「総員退避!」

酒木原達は万が一のため、常に最低限の武装をしている。だが、今回の魔物は低レベルとの報告を受けていた。魔法少女に対抗できる装備など、携行しているはずも無い。それほど、魔物と魔法少女には埋めがたい差が存在するのである。

「私は堀田じゃない! 三津子でもない! これからは『魔法少女ミッチー』としてひとりで生きるの!」

カリバーンが酒木原たちに襲い掛かる。地面が穿たれる。酒木原たちはごくごく普通の一般人であるため、カリバーンの一撃などを食らえばひとたまりも無い。ひき肉になるのがオチだろう。

「この魔法少女ミッチー様が、宇宙で一番自由なの。誰の命令だって聞きはしないわ」

三津子のテンションはそれこそ最高潮に達している。酒木原は内心焦っていた。泥人形自体は、一般に『魔物』のカテゴリに入る。そもそも魔物とは、社会構造上発生する、感情の『カス』の塊だ。パソコンが定期的にデータのクリーニングをしなければならないように、社会というひとつのシステム構造体は、『魔物』というカスを生む。現在の複雑な社会は、それだけ様々なタイプの魔物を出現させているのだ。今回、酒木原が『至極普通の』魔物だと判断したのが間違いだった。魔法少女の中には、自分が直接手を下すタイプのほかにも、いわゆる『召喚師』タイプが存在している。彼女たちは、いわば負の感情を人工的に爆発させ、それを構成物質として自分の僕を生み出すのである。堀田は、『召喚師』タイプの魔法少女としてかつて一線級の活躍をしていた女だ。ある事情により衰えてしまった今でも、魔法少女協会最大戦力の七人を示す、『七人集』の一人に数え上げられている。それがこのように身勝手なことをされたのでは、サポート側としてはたまったものではない。

「チーフ、どうしますか? 堀田の魔力は桁違いです。しかも今の我々の装備ではロードナイトを突破して堀田を確保する事は難しいでしょう」

「そうですね。しかし我々がまずすべき事は、桜井さんの救出です。こちらにひきつけて、桜井さんの救出をすることだけを考えましょう」

酒木原は冷静だった。ベテランの彼にとっては、予想範囲外の出来事などめったに起こりはしない。だが、今回は状況がまずい。まずすぎる。

(まさか桜井さんが押し負けるとは)

秀子が負けるという可能性を、正直酒木原はほとんど考えていなかった。いや、考えていないというのは流石に言い過ぎだったが、本当にこういう状況に陥るとは考えもしていなかったのだ。いくら魔力が高くても、経験が無ければ意味が無い。酒木原はそう考えた。買いかぶりすぎていたせいで、自分たちの慢心のせいで、秀子は恐らく命の危機に瀕している。それだけは確かな事なのだ。

「チーフ! 桜井さんはあっちです! こちらで堀田を引き付けます!」

「三分あれば大丈夫です! お願いします!」

数人のスタッフが、携行している手榴弾のようなものを泥人形に向かって投げる。一般的な爆発を引き起こすものではなく、一種のブラックホールを発生させるものである。ブラックホールが引き寄せるものは『魔物が纏う魔力』。魔物が『負の感情が変質したもの』であることはもはや周知の事実であろう。魔物は、その姿を維持するために、魔力をいわば皮膚のように纏い、自身の形が崩れないようにしているのである。魔物とほぼ同じ構造を持つ堀田の僕にも十分効果があるのだ。そうしてブラックホールは、泥人形の纏う魔力を引き寄せ、消滅させ始めた。絶大な効果とまではいかないだろうが、泥人形を引き付けるくらいは可能なはずだ。

「桜井さん! 起きてください!」

返事は無い。秀子が着ているものは、魔法少女協会の誇る最新型のスーツである。たとえダンプに轢かれようと、露出している頭に衝撃が無ければ、骨折すら防ぐ事ができる。とは言え、自分より五倍以上の大きさのある泥人形の一撃を食らったのだから、脳震盪くらいはおこしていても不思議ではない。魔法少女同士の戦いは、お互いの死を招くほど激しいのである。

「起きてください!」

「起きる前に殺ってやるわよ」

堀田の甲高い声が響く。時間切れだ。目の前には、泥人形がカリバーンを構えた状態で聳え立っていた。まさに絶体絶命である。

「完全なるトドメというヤツを刺させてもらうわ」

カリバーンが振り下ろされる。

流石の酒木原も、秀子を抱えて逃げる事は不可能に近い。秀子はともかく、自分が死を逃れる事は出来ない。死は経験できない。それは誰であっても例外ではない。酒木原は自らの死を覚悟することは出来なかったが、迫ってきている死を感じることは出来た。



 何時間がたったのだろうか。永遠にも近い時間が過ぎたような気がしたが、酒木原はすぐにそれが間違いであったと確認する事が出来た。生きている。

「何もやっていない」

桜井秀子が立っていた。先ほど彼女の事を『買い被りすぎた』などと言った酒木原だったが、その発言をすぐに撤回しなければならない状況である。何故なら、彼女は魔銃トカレフを掲げ、それでカリバーンを受け止めているのである。いくらブラックホールで魔力を減らし、多少なりとも弱っている泥人形の一撃であったとしても、その重量まではどうにもならなかったはず。何よりも、彼女は先ほど死の一歩手前まで行ったはずなのだ。そんな彼女が、スーツによって『死ぬ事はない』事が分かっていたとしても、こうまでして堂々と攻撃を受け止め、立っていられるというのだろうか。

「私はまだ何もしていないんです」

「は、はぁ……」

「死ぬことは簡単です。諦めれば、多分死ぬんでしょう。でも私はまだ諦めたくない。だって私は、まだ何も成していないから」

堀田は愕然としていた。泥人形は間違いなく質量を持っている。トラックくらいは余裕で押しつぶせる。いくら素晴らしい耐久度や能力を持っていても、質量には勝てない。質量こそ力の全てなのだ。

「あんたはどうして潰れないの? どうして?」

「話す必要はありません。私にも分かりませんし」

「何だかよく分からないけど、貴女はこのミッチー様に喧嘩を売ってるようね……」

「それなら一生そう思ってればいいじゃないですか。知ってます? 嫉妬をする女は結婚出来ないそうですよ?」

「魔法少女にそんな事言ってもしょうがないと思うわよ?」

「少女って年でも無いでしょう?」

水を打ったような静寂がその場を支配した。酒木原は長年の感覚で、この勝負が一瞬の元で決着がつくと直感した。秀子の雰囲気が違う。堀田も今までのふざけた態度を取ってはいない。両者とも、実力のある魔法少女であり、そんな二人が不器用ながら本気を出している。それがどれほどの物かは、酒木原には理解し得ない。ベテランのサポートスタッフとはいえ、魔法少女同士が本気を出して戦うとどのような事が起きるのかなど、理解の外にある。事例がほとんど無かったのだ。

「やっちゃいなさい! ロードナイトォ!」

咆哮。雷鳴の轟くような咆哮。カリバーンが再び秀子を襲った。トカレフから太い閃光が放たれ、カリバーンを穿ち、砕く。泥人形には、それだけで反撃の手段は無い。カリバーンを復元するにも時間がかかる。 秀子の勝ちがほぼ確定した瞬間であった。

「ば、馬鹿な! このミッチー様のロードナイトが!」

「大したことはないんですね、ロードナイトなんて大層な名前の割には」

宝玉を靴底に仕込み、魔力を足にありったけ込める。秀子はその反動によって宙に飛び出した。ほとんど無効化された泥人形などもう怖くは無い。堀田を守るものは、もう無い。城壁は崩れたのだ。

「桜井さん! 堀田を、本体を叩いて下さい!」

「分かりました!」

秀子は腕を引いた。宝玉の推進力と、スーツによる身体能力の向上で、パンチを放とうとしているのだ。堀田も魔法少女の端くれとはいえ、一般的な女性である事は間違いない。一撃入れることが出来れば、それで勝負は決する。

「あんたなんかに、このミッチー様は負けられないのよォ!」

堀田もまだ諦めてはいない。時間を稼げば、再びカリバーンを復元する時間も稼げる。まだ勝負は互角なのだ。秀子の拳が、堀田のステッキを叩く。

「やるわね」

「貴女こそ」

にやりと笑みが浮かぶ。考える事は二人とも一緒だった。堀田は秀子の拳をステッキで受け流し、秀子はトカレフで拳にあわせ、直撃を避けた。もちろん、二人は今日始めて出会うし、秀子にいたっては人生で初の殴り合いである。というか、人生でここまで本気で、しかも女性同士で殴りあう事などあるのだろうか? だが、一つだけ確かなことがある。秀子は、高揚感を感じていた。拳を交える事によって、高揚感を感じるなんて、秀子には初めての経験であった。秀子は、堀田と殴り合いながら、自分の性癖はもしかしてサドなのかもしれない、などと冷静に考えていた。

「だけどねぇ、勝つのはこのミッチー様なのよ!」

堀田は持っていたステッキを秀子に向けて振り下ろした。トカレフで殴打を受け止めた秀子だったが、それが間違いだった。ステッキは折れ、トカレフは衝撃でトリガーが砕けてしまったのである。

「折れちゃいましたね」

「あんたのもね」

堀田は躊躇無く、拳を突き出した。綺麗な右ストレートが、秀子の鼻に決まる。今度はメガネのフレームが折れた。

「折れたわね」

「ええ。貴女の悪趣味なステッキより大切なメガネのフレームがね」

秀子は痛みを我慢しつつ、堀田の腹に拳をぶち込んだ。立っていられない。いつ食べたものかは知らないが、胃の中の物が吐しゃ物として、血と混じりながら堀田の口から流れ出した。いくらスーツが優秀でも、衝撃を完全に無くす事は不可能なのだ。ここまでくれば、秀子も容赦はしない。今度は腹に蹴りを入れる。身体能力が上がっているためか、堀田の体が多少浮いた。

「降参、しますか?」

「黙りなさいよ」

堀田はもう立っていられない。が、彼女の魔法少女としてのプライドが地に伏せる事を許さなかった。強引に大地を踏みしめ立ち上がる。

「やせ我慢にしか見えませんが」

「貴女、耳は大丈夫なの? ミッチー様が黙ってろって言ったのよ?」

吐しゃ物と血で塗れたビビッドピンクのドレスのポケットに手を突っ込み、何か丸いものを取り出した。宝玉である。秀子の物と色も大きさもほぼ同じ。それを、手に握りこみ、拳を作る。

「私の顔にこれ以上傷なりなんなり作るわけにはいかないのよ」

「奇遇ですね、私も同じなんです。明日は朝一で会議があるんですよ」

秀子も同じように、宝玉を握り込む。今度こそ決着をつける。二人の女が考えている事は一緒であった。目の前にいるいちいちムカつくこの女をハッ倒す。秀子に至っては、当初の『アルバイト目的』から既に大きく脱線してしまっている。今は、目の前にいる堀田を殴り倒す事のみを考えている。人に頭を下げて生きるサラリーマンである普段の秀子なら考えられない事だ。

 そもそも世の中には、暴力で解決できる事というのは少ない。あるにはあるが、それは一般人にはどうしようも出来ない、『法』や『権力』などの社会機構に捕らわれているから起こる、逃れ得ない事象なのである。だが、目の前のこれは捕らわれない。権力や法や金や上下関係、これらに一切関係ない。獣が子孫を残すための闘争のようなもの。人間もとどのつまりは獣である。獣が前に進むため、生きるため、闘争して何の問題があるのだろうか? 闘争は社会に捕らわれたりしないのだ。

「正直言って、貴女なかなかやるわね。このミッチー様をここまで追い詰めるなんて」

「お褒めの言葉どうもありがとうございます。貴女みたいな勘違いに言われても嬉しくないですけど」

お互い拳を固め、引き、対峙する。

「引く気は無いのね?」

「その言葉、そっくりそのままお返しします」

弓から矢が発射されるように、拳が放たれた。二人の拳は綺麗に直線を描き、お互いの拳を捕らえる。廃工場には、風を切る音と硬い物がぶつかる音が響いていた。次第に二人の拳は血で染まり、腫れ上がってきつつあった。何度も言うようだが、彼女らはスーツを脱げば只の人間、生身で殴り合えば、拳のほうが悲鳴をあげる。そもそも、魔法少女は長く戦う事を想定されていないのである。ましてや、銃撃特化タイプの秀子や、召喚師タイプの堀田なら尚更である。二人は確実に消耗しつつあった。

「さっさと死になさい、このクソメガネが!」

「貴女のような厚化粧に引くわけにはいきません!」

秀子の赤い拳が堀田の顔を捕らえ、彼女を吹き飛ばす。柱が砕け、粉塵があがる。コンクリートに突き刺さった堀田の体は、それから動く事は無かった。

「私は、何かを成してみせる。負けるわけにはいかないんです」

突き上げた拳は、廃工場の屋根の隙間から照らされる月の光を浴びて、鮮やかに赤く光っていた。秀子は勝ったのだ。それは、変貌を遂げた彼女の最初の勝利であった。

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