魔法係長桜井秀子

高柳 総一郎

第1話 誕生


 どうか一日が始まりませんように。そんな事を毎日思いながら、扉を開ける。

「係長、おはようございます」

自分より少々年上の部下が軽くお辞儀するのを見て、桜井 秀子の一日は実に不本意ながら始まると言ってよかった。『六道商事企画二課係長・桜井秀子』のネームプレートを立て、パソコンのスイッチを入れる。社内メールリストの受信箱は珍しく空だった。係長は他の平社員をまとめるという重要な役職だ、と個人的に秀子は思っている。当然、リーダーである自分にメールが来ていないという事は、それだけトラブルが起こらなかったという事の印だ。それは秀子にとって喜ばしい事であったし、同時につまらない事でもあった。まあ、どちらに転んでも、いいことなどありはしないのだ。

基本、商品企画という仕事は、それをひねり出すのが大変なだけだ。できた商品を売るのは販促部や営業部の仕事で、苦労して創り上げた商品でも、彼らが頑張ってくれなければおしまいである。幸いなことに、六道商事は文房具の一流メーカーとして日本に君臨する会社である。様々な文房具を扱っている中で、油性マジックの国内シェアは四十パーセントを誇っている。名作が存在するメーカーではどこもそうなのかもしれないが、なかなか斬新な企画というものは通らず、大きな企画も持ち上がらない。大ベストセラーがある会社と言うのは──それが電化製品や食品を扱っているのでないなら尚更──その商品に頼り切ってしまうというのが普通なのだ。最近、新型のボールペンの企画開発でにわかにこの部署は盛り上がっているのだが、それだって秀子一人ではどうにもならない。例え必死に実現させても、それが流通ルートに乗るかどうかすら分からないのだ。

ところで、キャリアウーマンというのは、ある程度の地位が無いといけないと秀子は考えている。何故なら、女性が職場に居続けることを快く思わない男性の上司が未だに居るのも事実であり、そういう上司は大抵いい人ぶって『早く結婚したらどうだ』と誰かしら紹介したがる。それを断るには、会社が手放したくても手放せないほどの根を張る──つまり地位を手に入れなければならない。

 だが、私は凡人だ。

 パソコンから目を離し、メガネを取って目をこする。秀子は今年で三十四歳になった。だが、相変わらず同じ生活が続いている。上司に頭を下げ、部下を怒鳴り、会議をして、パソコンの前に座り、疲れたと思う暇も無く会社の人間と飲みに行く。たまにバッティングセンターに行って、あたりもしないのに部下や同僚の手前喜んでみたりする。大学をぎりぎりで出て、親のコネで何とか就職した会社で、毎日毎日同じ日々を過ごしている。始めは、仕事も楽しかった。新しい事を覚えていくたびに、それが喜びにつながっていったものだった。だが、今となっては真新しい仕事など無い。ただただ、上から下からどこかで見たような面倒事を押し付けられるだけだ。中間管理職の宿命とも言えた。比較的六道商事は労働環境がいいのが唯一の救いだった。忙しくなければ、八時には帰れる。それだけと言えば、それまでだった。没頭する趣味も無いので、夕食を食べ、家事をし、風呂に入ったら後は寝るだけの生活なのだから、どうしようもない。

 この前など、田舎の年老いた母がまたお見合いの話を持ってきた。この格差社会が進む日本で、自分より年収が上で、なおかつ自分を愛してくれるような男がどこに居るというのだろう。人生は短い。もう三十四歳だと言うのに、結婚しても待っているのは老いだ。馬鹿馬鹿しい。ただただ、年増女が浅ましく這いまわっている、と思われるのがオチなのだ。

「係長、お茶とコーヒー、どちらにします?」

 秀子は、コーヒーしか飲まない。十二年も勤めてここで同じ時を過ごしている秀子にとっての『現実』を知らない部下を見る。二十代くらいの、まだまだ自分は大学生です、と言いたそうな顔がそこにあった。三十四歳ですでに、眉間にナイフで切りつけたようなしわがある自分とは、随分と違っていた。しわひとつ無い美しい顔。可愛らしいえくぼ。仕事一筋で生きてきた秀子には、もはや何一つ残って無いものだった。

「係長、あのう……」

「コーヒーで良いわ」

羨ましかった。羨ましいあまり、彼女を見つめすぎたかもしれない。もしかしたら、嫌われてしまっただろうか。そんな事を考えている内に、デスクにはいつの間にかコーヒーが置いてあった。ご丁寧に、白濁としたミルクが黒いコーヒーを侵食していた。

 秀子はミルクが飲めなかった。


 給湯室は廊下からは見えないようになっていた。秀子はマグカップを軽く洗い、コーヒーを入れなおしていた。インスタントでもなんでも構いはしなかったから、ブラックコーヒーが飲みたかった。一瓶三百円もしないインスタントコーヒーの粉をマグカップに放り込み、ポットのスイッチを押そうとした時、その声は聞こえてきた。

「ねぇ、あなた係長にコーヒー出した時、ミルクと砂糖いれちゃったでしょ」

「え、いけなかったんですか」

 新人と、五年目の女性社員だった。どちらも名前がなんだったか忘れてしまった。ネームプレートを見れば、すぐに思い出すのだが。

「まあ、言ってない私が悪かったけどさ。係長って何考えてるかよくわかんないし、正直不気味じゃない? コーヒーの好き嫌いはあるみたいだから、砂糖は厳禁ってことにしてるの」

「そうなんですか。全然知らなかったです。桜井係長って仕事できそうですけど、化粧気もあんまりないし……なんか正直、絡みづらいですよね」

「分かるわー、それ。……ていうか、知ってる? あの人仕事終わりに一人でどっかいっちゃうの。どこか分かる?」

 知りません、どこなんですかと新人が困った声をかけると、くすくすと社員が笑う。空気の震えが、秀子にまで伝わったような気がした。

「ありえないんだけど、ゲーセンで……ガンシューティングって分かる? 銃撃つゲーム。あれをめちゃくちゃやりこんでるんですって。一回同期のミキが彼氏とプリ撮りに行ったときに鉢合わせちゃってさ。ミキおかしくて彼氏引きずりながら逃げちゃったんだって。まさか上司の前で爆笑するわけにもいかないじゃん? 私超ウケちゃってさ」

 秀子はそこまで聞いて、ようやくポットのボタンを押した。新人と女性社員がクスクスと笑っていたが、話の内容はお湯の落ちる音で消えていった。結局、コーヒーはその場で飲んだ。暗い給湯室の中で飲む黒いコーヒーは、とても飲んだ気がしなかった。




『──調べによると、男は意味不明な供述を繰り返しており──』

 TVのニュースでは、相変わらず同じような出来事が延々と流れている。秀子は、そんなニュースを聞き流しながら、喫茶店で昼食のフレンチトーストを食べていた。同じように昼食をとるような同僚は居ない。二年前に、同期入社の最後の子が結婚し、それきりだ。次の年の年賀状には、幸せそうなその子と、夫が笑顔で写っていた。

 さっさと地球は滅亡しないのかしら。

秀子は元々温厚なほうだが、最近年のせいか少々愚痴っぽくなってきていた。そんな自分が、秀子はたまらなく嫌だった。核戦争による地球滅亡のシナリオを考え始めたころ、店の扉が軋むように開いた。会社に程近いこの小さな喫茶店は、最早レトロをとうの昔に通り過ぎているようなボロい店だ。秀子はここのあまり甘くないフレンチトーストが気に入っているためにここに来ているが、今の若い新入社員には物足りない店だし、レトロを愛する大人さえも寄り付きそうに無いボロさ加減で、ここの常連である秀子でさえ、何故つぶれないのかはなはだ疑問なくらい変な店なのだ。そんなこの喫茶店に客が来るというのは、一大事とも取れる出来事なのである。……肝心の老主人は、と言うと、あまり興味が無さそうにしていたりするのだが。

 入ってきたのは、でっぷりと太った男だった。まだ5月だというのに、いまにもはちきれんばかりのYシャツは汗染みが出来ており、手には少し水滴がしたたっているほど濡れているハンカチを持っていた。どこかのサラリーマンかと思っていると、いつの間にか秀子の前の席に座っている。空気が生暖かくなったような気がする。男の吐息の一つ一つがとにかく不快に感じられる。……そう感じないほうがおかしい。

「すみません、桜井秀子さんですよね?」

男が息を切らしながら話しかけてくる。別に走ってきたようにも思えない、。あまり関わりたくないが、目の前で話しかけられて無視する、と言うのも感じが悪い。しかも、よりによって自分の名前をフルネームで言っている。もしかしたら、取引先の人かもしれない。

「そうですが……」

しかし、誰であったのか思い出せない。秀子は焦った。会社員と言うのは、マナーが最も問われる職業だ。もしこの男が何処かのお偉いさんだったりすれば、秀子に重大なダメージを与えてしまう可能性もある。一体誰なのだろう。

「本当ですか⁉ いやぁ、良かった良かった。実は私、こういう者です」

男ははちきれそうなYシャツのポケットから、少しシワの入った名刺を取り出し、秀子に手渡した。それには『日本魔法少女協会スカウト部門チーフ 酒木原秀明』と印刷されていた。……秀子は、自分は少し疲れているのでは無いか、仕事の途中で居眠りして、夢を見ているのではないか、と思ってしまった。自分の頬をつねってみたが、痛かった。……現実だとすれば、『日本魔法少女協会』とは一体何なのだろう。少し前に流行った、メイドキッサなるものと同じようなものなのだろうか。秀子の頭の中で、まるでシャボン玉のように憶測が浮かんでは消えていったが、確信を得られるような答えは得られなかった。まず、メイドキッサなる所にスカウトされているのであれば、この酒木原と言う男は少々見当違いをしている。まず、秀子はそこまで美人ではない。しかも、眉間にナイフで傷つけたようなシワがある女に、

「いらっしゃいませご主人様」

などと言われて喜ぶ男が存在するのであろうか。例えいたとしても、秀子はそんなところで働きたくは無い。

「どうやら貴女は勘違いしていらっしゃるようですね」

出されたおしぼりで色々なところを拭きつつ、酒木原は言った。

「スカウトと言っても、あくまでお話を聞いていただくことを前提としています。お嫌でしたら、断ってくださって結構です」

酒木原は出された水を一気に飲み干した。相当のどが乾いていたのだろう。さらに老主人におかわりを促した。

「スカウト……って言われても……。一体、何のスカウトなんですか?」

 秀子は、氷が溶け切ってしまったコーヒーを飲んだ。水とコーヒーは、混ざるとやはり水が勝ってしまうようだ。それはすでに水に侵食されていた。

「魔法少女です。……プリントミスですかね? 書いてありませんか?」

「書いてありますよ」

「では、私が言いたい事も分かりますよね」

「分かりません」

即答だった。秀子は絶対そんな事分かりたくなかった。

「んー……分かりました分かりました。じゃあ、説明しましょう」

秀子は、もうここを立ち去ってしまいたかった。だが、お昼休みはまだ一時間近く残っている。どうやって理由をつければ良いのか、秀子には検討もつかなかった。

「要するに、桜井さんに魔法少女になっていただきたいんですよ」

「意味が分かりません。新手の風俗なら断ります」

「いえいえ、そんないかがわしい職業ではありません。……それにお言葉ですが、私が風俗を開くならもっとほかの人を使いますよ」

秀子が男をにらみつけると、さすがに言い過ぎたと思ったのか、とてもバツの悪そうな表情を作った。最も、手元ではいつの間にか運ばれてきたコーヒーに角砂糖を三個ほど突っ込んでいた。大して悪いとも思っていないのだろう。

「桜井さんは、小さいころアニメはご覧になっていましたか? ほら、コンパクトを開いて呪文を唱えたり、ステッキを振って箒を乗り回すアレです」

「はぁ、まぁ人並みには」

「でしょう?……あ、すみません。私にも彼女と同じものをもらえますか?」

70はゆうに超えているであろう老主人がよろよろとフレンチトーストを持ってくるのと同時に、再び酒木原が口を開いた。

「まぁ、魔法少女と一口に言っても、種類がたくさんありましてね。トラブル解決タイプ、純戦闘型徒手空拳タイプ、純戦闘型砲撃タイプ、医療従事タイプ・科学応用タイプ……数え切れないほどです。それだけ、魔法少女の需要は多いという事でしょう」

「はぁ。私は実際にそんな『魔法少女』なんて見た事無いですけど」

「それなんです!」

突然大声をあげた酒木原に、秀子は驚きのあまり危うくひっくり返ってしまうところだった。

「大声をあげてしまって申し訳ありません。ですが、桜井さんの言うとおりなんです」

「はぁ」

酒木原は、どうやらこの店のフレンチトーストがいたく気に入ってしまったらしい。老主人に今度はフレンチトーストを三枚頼むと、再び秀子の方に向き直った。

「女性であるあなたに話すのは少しためらいがあるのですが……。九十年代以降、女性の性の乱れはどんどん加速しています。ご存知ですね?」

秀子は最早あきれて物も言えず、とりあえずうなずいておいた。

「それに伴って、早くからそういう行為に及ぶ人が増え、我々が求める魔法少女の条件に合う女性はどんどん減りつつあるのです。魔法少女になるための第一条件は処女ですからね」

「帰っていいですか」

「お願いしますからもう少しだけ話を聞いてください。二十年前、全国に五千人居たはずの魔法少女は、いまではもう百人近くまで減ってしまっているのです」

「それで、私を魔法少女にしたいと。そういう事ですか?」

酒木原はしきりにうなずいた。秀子がようやく理解できたのが嬉しかったのか、首がちぎれんばかりにうなずいていた。

「お断りします」

酒木原の両眼が大きく見開かれた。……大方、まさか断られるとは思っていなかったのだろう。

「確かに、どう調べたのか分かりませんが、私はこの年までずっと処女です。……別に興味が無かったわけでも無いですし、機会が無かったわけでもありません。でも、そんなわけの分からない職業に就いて、今の生活を捨てるような真似はしたくありません」

言えた。秀子は心中自分を褒めたい気分だった。ここまで自分の言いたい事をはっきり言えたのも久しぶりのような気がした。だが、酒木原は笑っていた。あれだけはっきり断られたというのに。

「ほう、そうですか。いやいや、確かに貴女が言う事はほとんど本心のようですね」

「どういうことですか」

「貴女、一度で良いから何かの主人公になりたいと思ったことはありませんか?」

「はぁ」

「ドラマの主人公は、それが喜劇でも悲劇でも、変化と刺激に満ちた生活を送っています。まぁ、主人公にとってはいい迷惑かもしれませんがね。しかし、貴女は今の変化の無さ過ぎる生活に、飽き飽きしているのでは?」

「それとこれとは……」

「別だと言いたいんですか?」

 図星だ。言い返す言葉も無い。

「大丈夫ですよ、桜井さん。今の会社を辞める必要なんかありません。それに、基本的には一年契約で更新制です。いやでしたら一年だけ頑張って、それで契約を解除していただいても構いません。それに、活動するのは夜だけです」

「どうして夜だけしか活動しないんですか?」

 酒木原は鞄から書類を出しながら、こちらに目線を合わせずに答えた。

「魔物は夜にしか活動しないからです。大丈夫ですよ、桜井さんには十分な戦闘能力があるはずですから。……桜井さん、はんこか何かお持ちですか? 出来れば、銀行の届け出印がいいのですが」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 何も秀子は、そんな得体の知れない魔物などと戦うとは言っていない。確かに酒木原が言うとおり、日々の生活にはうんざりしている。毎日毎日同じようなループが続き、将来どうなるのか分からない。十二年間勤めてきた会社でもいまだ係長だし、仕事を舐めている後輩や部下からは負け犬呼ばわりされているのを知らないわけではない。

「大体、私がそんな事をやってなんのメリットがあるんですか?」

「もちろんあります。あなたが今勤めている会社で一生働いても得られないくらいの報酬をお支払いします。桜井さんは、結婚する気がおありじゃないんでしょう?」

「そ、それは……」

「隠さなくても、事前調査で確認済みです。老後は今のご時勢、おひとりじゃ大変ですよ? 厚生年金も出るでしょうが、結果的に貧乏で寂しい生活が待っているのは目に見えています。いまや年金生活なんて幻想に等しいですからね。協会に一時でも所属すれば、老後の生活も委託業者の超高級老人ホームで暮らせます」

いくらなんでも胡散臭い……が、秀子は不思議とそちらの怪しさを疑うのでは無く、老後の暮らしの事を考えていた。秀子は、自分がすべて苦しめばいいと思っていた。周りの人間に迷惑をかけるのだけはごめんだからだ。だが、それは逆ではないだろうか。自分が苦しむ分だけ、周りの誰かも苦しむのではないのだろうか。どんなにつっぱっても、いつかは老人ホームやヘルパーに頼るときは来るのだろう。それを、自分が苦しんでいる、と言い張るのは愚かしい事だ。実際に苦労しているのは、ほかでもない老人ホームの職員やヘルパーだし、彼らに頼っている事を『苦しんでいる』などと言うのは愚の骨頂だろう。それに老人となった自分の周りに誰が居るというのだ。親は死に、友人はロクにおらず、今まで同僚に冷たく接した自分に、誰が好き好んで一緒に居てくれるのだろう。そう考えると、秀子の心の中には不安が洪水のように押し寄せてきた。

 今はいい。会社と言う居場所があるから。だが、老後はどうなる?

「あの……桜井さん?」

酒木原は、いつの間にか三つ目のフレンチトーストを食べ終わっていた。

「何でもありません」

とりあえず話を聞いてみよう。確かにわけの分からない話である事は間違いない。だが、秀子はそれ以上に不安に駆られていた。

「一応、その魔物とかの説明をして欲しいんですけど……」

酒木原は驚いて、思わず口に運んでいたフレンチトーストを落としてしまった。

「ああ、そうか! 説明するのをすっかり忘れていましたよ。まず、魔物ですが、大した事はありません。人間の悪意が生み出す化け物ですが、やつらに大した知能は無いですし、桜井さんの能力の高さがあるなら、朝飯前でしょう」

秀子にはいまいち理解できなかった。この際、この男の話をすべて信じるとしても、秀子自身にそんな能力の高さがあるとは到底思えなかった。大学時代はラクロス部だったが、すでにその時の能力は失われている。何を根拠にそんな事を言うのだろう。

「実は、人間には潜在的に魔力があるんですよ。その力は年をとる毎に上昇し、大体二十歳前後でピークを迎えます。三十を越えた人間は、理論上際限なく魔力が上昇するのです。しかし、先ほど言った通り、童貞や処女で無くなると魔力は無くなってしまうのです」

「つまり、私はちょうど脂の乗った旬の魔法少女ってことですか」

「言い方は悪いですが、まぁそういう事になりますね。……そう言えば、まだ返答を聞いていませんが……。どうするんですか? 桜井さん。強制はしません。あなたの判断がすべてです」

秀子の心は意外にも揺れていた。老後を考えると、わけの分からない職業でも、ヘッドハンティングの一種だと思えばかなりおいしい。だが、この男の話が全て嘘だとしたら。自分がさっき言ったとおり、変な風俗で働かされるかもしれない。

「……分かりました。出来るかどうか分かりませんが、やらせていただきます」

だが秀子は『今から』逃げたかった。現実から目を逸らしたいが、老後も見据えるという矛盾を孕んだ自分の欲望を満たしたかった。

「……分かりました。次は登録名なんですが……そうそう、流石に桜井さんくらいの女性が魔法『少女』と名乗るのはキツイですね」

「私も嫌です」

「桜井さんは確か……そうそう、係長でしたね。なら『魔法係長』でどうでしょう?」

「まぁ、別に『少女』以外なら……」

「そうですか。なら、魔法係長で登録しておきますね」

酒木原が契約書にそう書くのを見ながら、秀子はある種の恍惚感さえ感じていた。それが自分が決断できた事実に対するものなのか、今まで通ってきた安全な道を逸れた事への背徳感なのかは分からなかった。だが、この男が風俗の人間だろうと、人身売買のブローカーだろうと、魔法少女を集めていようとかまわなかった。秀子にとっては、その矛盾した欲望を満たす事だけが最も大切な事だったのだから。



「……以上で、説明は終わりです。何か質問はございますか?」

「いくつか質問しても良いですか?」

「どうぞ」

「まず、この武器は何なんですか」

秀子の目の前には、明らかに極めた人が持つような銃が置いてあった。今更ながら、秀子はとんでもない事に首を突っ込んでしまった、と悔やんでいる。

「勘違いしないでください。これは立派な魔銃……その名もトカレフです」

「トカレフって言ってるじゃないですか」

「よく見てください。グリップ……って分かります? そうそう、その握る部分です。そこには普通は銃弾を入れる弾倉があるんですが、無いでしょう?」

確かに、何も入っていない。それに、プラスチックのように軽い。

「弾は自身の魔力を込めますから、媒介さえあればなんら問題ないんです。昔はメルヘンチックで綺麗な色をしていたのですが、最近シックな色がブームですから。どうです?大人の魅力があふれ出ているでしょう?」

 むしろ青い服を着た国家権力の方々が惹きつけられそうな魅力があふれ出ている、と秀子は思ったが、あえて深く聞かない事にした。シックでないデザインの事を考えたら、気分が悪くなってきたからだ。

「もう一つだけ聞いても良いですか?」

「何なりとどうぞ」

「まさかとは思うんですけど……コスチュームとか」

「ありますよ」

秀子が言い終わるか終わらないうちに、ある意味一番肯定して欲しくない事実を肯定されてしまった。

「メイド・ゴスロリ・女子高生・少女風……。リクエストさえあれば、オーダーメイドでお作り……」

「じ、じゃあ目立たないスーツか何かを」

「しますが、桜井さんの場合、一年だけの勤務ですから、一からお作りするのはもったいないですね。協会のレンタル品を使いましょう」

一縷の望みが絶たれてしまった。……いや、待てよ。秀子は思い直した。酒木原はシックなデザインが流行っていると言った。ならば、コスチュームもシックなデザインが流行っていてもなんらおかしくないではないか。

「あのう、サンプル画像とかはあるんですか?」

酒木原はベルトが少しきつくて苦しいのか、少し顔をゆがめながら、腰のポケットから何とか携帯電話を取り出した。そして、秀子に画像を見せてくれた。赤を基調としたドレスのような作りで、動きやすくするためか少しスカートが短めになっている。胸には大きなリボンがあしらわれており、これも派手なオレンジ色をしている。袖口にはフリフリの素材が使われているようで、それを着ているサンプル画像の少女は、まるで携帯の中で踊っているようだった。

「……派手すぎませんか?」

「協会がスタンダードとして基準にしている、現在最高性能の魔法少女服ですよ?」

 そんな事は知らない。再び秀子は気分が悪くなった。脳内では、赤いフリフリのドレスを着て、右手に銃を握り、夜空を駆け回りながら化け物と戦う自分が居た。三十分前に自分で決めた事とは言え、あまりに軽率だった、と悔やまずには居られなかった。

「あと、移動手段なんですが、これになります」

酒木原が再びバッグをあさり、野球ボールほどの赤い水晶玉を七つ取り出し、テーブルに慎重に置いた。

「何ですか?これは……」

「宝玉です。これに魔力を込めると、桜井さんを乗せて飛べるようになります」

胡散臭い事この上ない。大体、魔法使いは箒に乗るものではないのか?秀子がそう訝っていると、酒木原が顔を覗き込んできた。

「ああ、もしかして箒を期待してましたか?」

「期待してたわけじゃあ無いですけど」

「昔は箒だったんですよ? ですがホラ、上昇するときの衝撃で痔になる人が続出しまして。おまけに、目立つんですよ。箒っていうのは」

確かに、あんな柄の細いものに乗りたくは無い。……秀子は、今日始めて酒木原の言う事に納得できたような気がした。

「さて、これで本当に私からの説明は終わりです。後ほど変身についてはお伝えしますので、メールの指示を待つようにしてください」

そう言うと、酒木原は立ち上がった。秀子が顔を上げると、そこにはもう誰も居なかった。テーブルには、フレンチトーストの皿が三枚とコーヒーの飲み残し、一万円札が置いてあった。



「係長、お帰りなさい。どこまで行ってたんです?」

年上の部下が笑みを浮かべながら話しかけてきた。秀子はそれを笑顔ではぐらかすと、再びデスクに座った。パソコンを立ち上げると、受信メールはやはりゼロだった。会社では、また延々と同じ日々が続くのだろう。不安が無いと言えば嘘になる。だが、秀子の中では、矛盾した欲望を満たした事の満足感の方が遥かに大きかった。酒木原から貰った道具を、デスクの引き出しの奥に閉った。

「あの……係長」

デスクの前に、今朝の女の子が立っていた。

「今朝はすいませんでした。私……係長がミルク嫌いなの知らなかったんです。本当にすいませんでした」

彼女の髪が揺れる。

「いいの」

「え?」

「いいのよ。怒ってないから。それより、コーヒー入れてくれない?」

彼女ははじめ目を丸くしたが、すぐに笑顔に戻り、またあのえくぼを見せてくれた。運ばれてきたコーヒーには、ミルクは入っていなかった。秀子が口に運ぶと、口の中にほのかな甘みが広がった。新人は、随分と忘れっぽいようだった。

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