第8話 アンナ・アディントンとその宿命

「お嬢様……お紅茶でございます」


「そうですわね」


 その日、アルピレーナ学園の食堂で、アリシア・オーレンドルフにアンナ・アディントンは紅茶を注いでいた。


 食堂といっても、女生徒が大半を占めるアルピレーナ学院においてはカフェのような役割も果たしており、食事をする生徒がいる一方で優雅にティータイムを楽しむ生徒も多かった。


 アリシアはアンナが淹れた紅茶に少し顔をしかめる。


「……アンナ、どうしてアナタはいつまで立っても紅茶を淹れるのが下手なんですの?」


「……申し訳ございません」


 アンナはただ謝るだけである。アリシアは大きくため息をついた。


「……そろそろ、潮時ですわね」


「え……ど、どういう意味でしょうか、お嬢様」


「……クビよ。アナタをワタクシの従者としてクビにするのですわ」


 アリシアは何事もなかったかのように、そう言った。


 アンナは何を言われたか分からなかった。なぜなら、それはアリシアが絶対に言わないはずの言葉であったからである。


「あ……アリシアお嬢様……そんなことは……許されないはずです」


 アンナは震えながらも懸命にそう述べた。しかし、アリシアは紅茶に口をつけ、動揺する素振りさえ見せない。


「……オーレンドルフ家とアディントン家は、いにしえの盟約により永遠に袂を分かつことはできない……それくらいワタクシも知っておりますわ」


「でしたら……なぜそのようなご冗談を?」


「冗談では……ないからですわ!」


 そういって、アリシアは手に持っていた紅茶をアンナにぶちまけた。アンナは熱い紅茶をモロに食らってつらそうに顔を抑える。


「くだらない……そんな盟約、このワタクシが今ここで破棄致しますわ!」


 アリシアは食堂に響くような大声でそう言った。アンナはつらそうな顔でアリシアを見る。


「……魔剣は……この魔剣はどうなるのですか?」


 アンナはそういって腰元の剣をアリシアの前に差し出す。


 鞘に収まったままではあるが、その剣は、どことなく不気味な雰囲気を醸し出していた。


「ふっ……知りませんわ。アナタが処分しなさい」


「なっ……お嬢様! この魔剣はオーレンドルフとアディントンの盟約の元にあるものです! それを、我等アディントン家が長年守ってきたのです……それなのに……」


「だったら、その魔剣の力を、開放すればよいのではなくて?」


 アンナはアリシアのことを目を丸くして見る。


「アリシア様……正気ですか?」


「ええ。長年開放しなかったのが悪いのですわ。そんなもの、開放してみれば大したことないのかもしれないし」


「そんな……この魔剣は一度開放すれば……どうなるか……」


「そのために、アディントン家がいるのでしょう? 汚れた黒魔術を使う、アディントン家が」


 アンナは既に我慢の限界だった。自分をクビにするというのは、アディントン家の歴史そのものを否定するということだ。


 生まれた時からずっとアリシアの従者として育てられ、自分の人生をほぼ犠牲にしてきたアンナにとって、アリシアが言っていることは正気の沙汰ではなかった。


「それに、万が一、アンナが制御に失敗しても、『炎上令嬢』たるこのワタクシが、アンナごとその魔剣、燃やし尽くしてさし上げますわ」


 すると、アリシアの周りに火の粉のようなものが燃え上がる。


 オーレンドルフ家において、百年に1人の火炎系魔術を操る天才として生まれたアリシア……確かに、アリシアならば、アンナが背負う魔剣さえも、退けるかもしれない。


 しかし、アンナにとって、問題はそんなことではなかった。


「……お願いします、お嬢様……どうか、その御言葉、撤回して下さい……」


 アンナは地面に頭をつけて、土下座する形となった。


 食堂の周囲の女生徒達は、くすくすと笑っている。アンナがアリシアに逆らえないことなど誰しもが知っていることであった。


「いいですわ。ただし……」


「……ただし?」


 アリシアは思い切り口の端を釣り上げて、嬉しそうに微笑んだ。


「ワタクシに『魔術競技大会』で勝ったならば、ワタクシ、土下座してアナタに言ったことを撤回致しますわ」


 アリシアは満足気にそう言った。同時に、アンナは絶望の縁に立たされた。


 アンナにとって、それは不可能だった。アリシアの従者として特別に個室を与えられているアンナは、三人一組で出場する魔術競技大会に参加する規程さえ満たしていない。


 もちろん、アンナに協力してくれるような女生徒など、アンナでなくても、その食堂にいる全員が、この学院にはいないことを理解していた。


「そ、そんな……」


「無理、とは言わせませんわ。できなければアナタはクビ……アディントン家と我家の因縁も、ワタクシの代で終わり、ということになりますわね」


 そう言うと、アリシアはぶちまけられた紅茶の残った部分を口に含み、ゴクリと飲み込んだ。


「『魔術競技大会』が終わるまでは、このことは保留にして差し上げますわ。せいぜい、残り少ない期間、精一杯ワタクシに使えるといいですわ」


 そういってアリシアは呆然とするアンナを他所に歩き出してしまった。


 アリシアは泣きたい気分だった。しかし、それ以上に悔しい気分で一杯だった。


 自分はどうしてこんなにも惨めなのか……それを打開する術はなにもないのか……



『殺せばいいだろう。あんな奴は』



「……え?」


 アンナは思わず周囲を見渡してしまった……誰も喋ってなどいない。アンナに話しかけてなどいなかった。


 しかし、アンナには聞こえた。自分に対して話しかけてくる邪悪な声……


 アンナは思わず床に落ちていた剣を手に取る。


「……まさか、この剣……」


 アンナは剣を手にしてまじまじと見つめる。


 魔剣『バスティーユ』。


 アンナが生まれた時から、寝る時も片時も離せない、アンナにとっては体の一部のようなものであった。


 バスティーユは魔装具であり、その効果も、母親から聞いてアンナも把握していた。


 しかし、鞘から抜いたことは一度もない。そして、その正体がなんなのかもわかっていなかった。


 ただ時折アンナにも、その剣が何かただならぬ気配を放っているということだけは理解できた。


「……バスティーユ。アナタ……なのですか?」


 鞘に収まった魔剣を手にし、アンナはそれを見つめる。


 アンナはバスティーユの刀身を一度も見たことはなかった。


 しかし、鞘を手にすると、それを強烈に引き抜いてみたいという誘惑にかられてしまうのである。


「アンナ! 何をしていますの!?」


「あ……す、すいません。お嬢様」


 アリシアの声で、アンナは我に返った。


 それと同時に、アリシアへの怒りがふつふつと煮えたぎってきた。


 これは、自分だけの問題ではない……アディントン家全体に関わるような大きな問題だった。


 それを、まるで自分の気まぐれのように言ったアリシア……アンナにとっては到底許すことができなかった。


 絶対に、見返してやりたい……自分に対して行った非礼を絶対に撤回させてやりたい。



『そうだ。怒れ。それでいい』



 アンナにはまたしても邪悪な声が聞こえて来ていた。もちろん、声が聞こえなくても、既にアンナの腹は決まっていた。


 この瞬間こそが、アンナ・アディントンが逆襲を決意した瞬間である。

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