第88話 大切な人 後編
解術できた頃には昼近くになっていた。公爵は眠ったままだが表情は穏やかになり、血の気の失せた顔に赤みが差し始めている。
知らせを受け部屋にやってきたミシェルは公爵の顔をのぞき込み、表情を緩ませた。サラもようやく緊張と重圧から解き放たれた。
硬い表情のまま扉の近くで立っていた執事は目が合うとサラに近付き、深々と頭を下げた。
「何と御礼を申し上げて良いか」
年嵩の男性に頭を下げられ慣れないサラも慌てて頭を下げた。
「いつもミシェルさんにお世話になっていますので」
執事は用意していたトレイに大きく膨らんだ革袋をのせて差し出してきた。
「どうかお受け取りください」
袋からは金属同士がこすれるような甲高い音が聞こえてきた。何が入っているのか、どのくらい入っているのか、確認しなくてもわかってしまう。
「これは正式な依頼ではないので、申し訳ございませんが受け取れません。お気持ちだけ頂戴いたします」
サラのきっぱりとした断りに、執事は困ったような表情を見せた。
「しかしそれでは――」
「カルダー、無駄よ」
威厳のある声が食い下がる執事の動きを止めた。いつもの舌足らずでゆったりとした口調からは想像もできないミシェルに、サラは眠気も疲れも忘れて釘付けになった。
「彼女は頑固なの。要らないって言ったら無理やり押しつけても受け取らないわ」
背筋を伸ばし立つ姿は気品に満ちている。呆気にとられているサラに近づく頃にはいつものミシェルに戻っていた。
「私からお礼をさせてもらうわ。何がいい?」
「あ、いえ、でも――」
サラの戸惑いにミシェルはにっと笑った。
「お礼させてくれないなら、家賃上げちゃうからね」
いつものミシェルだ、と脅されているにも関わらずサラはほっとする。
ふと、ある考えが浮かんだ。
「じゃあ、あの――」
サラは意を決し背伸びをすると屈んでくれたミシェルの耳元にお願いをした。
「それだけでいいの?」
呆れたミシェルにサラは顔を真っ赤にして何度も頷くと、目だけで背後に立つセイアッドを示す。
「あとは――教えてもらいますから」
ミシェルはサラの言いたいことを理解したらしく、一瞬目を見開き、そして満足そうに微笑んだ。
「それなら今すぐにでも叶えてあげられるわよ」
「すみません。今日はもう限界です」
「そうね。ごめん」
一人首を傾げるセイアッドを余所に、二人は楽しそうに笑い合った。
ミシェルに待つように言われ、通された別室のソファーで腰掛けているとあまりの心地よさに瞼が重たくなっていく。サラは容赦なく襲いかかってくる眠気払いも兼ねて隣で座るセイアッドに声を掛けた。
「どうして正しい文字がわかったのですか?」
「俺たちはあの文字を使っていたから」
古代種の生きた時代と古代文字の使用されていた時期は当てはまる。でもいくら古代文字を常用していたとはいえ、呪術の術式がわからなければ正解は導き出せない。
サラの表情を見てセイアッドは口を開いた。
「俺の呪殺術を解いているときにアスワドと話をしていた内容から要領は概ね理解した」
「あの時の、あの話だけで?」
驚くサラにセイアッドは柔らかく微笑んだ。
「解術に興味がわいた」
セイアッドの人差し指の背がサラの頬を優しくさする。
「サラが何をどう思っているのか知りたいと思った」
嬉しそうな笑みを浮かべるセイアッドと頬のくすぐったい感覚にサラの体温は一気に急上昇した。
目を丸くして口ごもるサラにセイアッドは言葉を続ける。
「ただ仕組みを理解しても呪術師ではないから正しいかどうかはわからないし、魔族は解術できないからな」
魔力が強く、術を得意とする魔族だが何故か解術だけはできない。
「じゃあ何で――」
「あの二つは、一つが古代文字でもう一つは文字として存在しない偽物だ」
不安と孤独の中で必死に解術していたサラにセイアッドの一言がどれだけ頼もしく嬉しかったことか。
自分もセイアッドにとってそういう存在でありたい。
セイアッドが自分と同じように思っていてくれたことへの喜びと彼をもっと知りたいという思いが一緒になって溢れてくる。
共に並んで歩くために。
これから一緒にいるために。
サラは今日その思いを改めて強くした。
「セイアッドさん、ありがとう」
セイアッドも嬉しそうに笑った。
カルダーは帰りの馬車を用意すると言ったがサラは丁寧に断った。
すでに日は高く人通りも多い。闇の中でも隠すように馬車を用意していたのに、今の時間ではどうしても目立ってしまう。事情がわからないサラでもそれでは都合が悪いのだろうと察した。
老執事は一瞬驚いた表情になったが、サラの申し出に感謝を込めるように深々と頭を下げた。
そう言ったものの、サラは腰掛けた状態でいつの間にか眠ってしまった。
セイアッドは隣で大きく船をこぐ彼女をそっと横にすると自分の膝を枕に眠らせた。夜通し精神力と魔力をすり減らしたサラは、よほどのことがない限り起きないだろう。そう思いながらも何があっても起こす気のないセイアッドは、サラの髪にそっと触れた。
「眠っちゃったのね」
部屋に入るなり可愛い子供を見るような優しい笑顔になったミシェルは、持ってきた紙袋をセイアッドに差し出した。
「お礼とは別に私個人の感謝の気持ちだから、って言っておいて」
訝しがり受け取る気配のないセイアッドにミシェルは苦笑する。
「茶葉よ。あなたが困る変な物じゃないから」
セイアッドは複雑な表情でようやく受け取ると、ミシェルを見つめて口を開いた。
「説明はしなくていいのか?」
珍しく話しかけてきたセイアッドをミシェルは凝視した。しかしそれは自分にではなくサラに対する気遣いからくるものだと気付き、溺愛の徹底ぶりに肩を竦めた。
「必要ないんじゃない?」
魔王の膝枕で眠るサラを見る。よほど疲れていたのか起きる気配はない。
「わざわざ口止めしなくても今日の出来事を他言しないだろうし」
こんな状態にも関わらず帰りの馬車を断っていたことからも、サラは何となく事情を察しているのだろう、とミシェルは推測していた。
「私が『愛人』だろうが本当は『娘』だろうが、きっと何も変わらないわ」
ミシェルにセイアッドを再び見て口角を上げた。
「それはあなたが一番わかっているでしょう」
セイアッドは眠るサラに視線を落とし、表情を和らげて栗毛色の髪を優しく撫でた。
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