第87話 大切な人 前編
「夜更けにごめんなさい」
暗い色の外套を羽織り突然サラの家を訪ねて来たミシェルは、今まで見せたことない真剣な表情だった。
夜遅い時間帯の訪問を訝しがることも責めることもせず、サラはすぐに家の中に招き入れた。けれど彼女は「呪術に掛けられている人を助けて欲しいの。お願い」と両足を玄関先に留めたまま真っ直ぐに見つめている。
断る理由はない。
サラは大きく頷くとミシェルに向き直り、その場で詳しく事情を聞いた。
呪殺術に掛けらてしまったその人を助けようと、多くの解術師が解術を試みた。しかし滅多にない強力な術に古手や名の通った者も為す術なく二週間が経ち、もはや一刻の猶予もないらしい。
混乱しているのかあえて感情を殺しているのか、取り乱すことなく淡々と事情を説明する無表情のミシェルにサラの胸は痛んだ。きっと『その人』はミシェルの大切な人なのだろうと、何となくそう感じていた。
ミシェルは解術師として独り立ちしたサラの初めての依頼人であり、格安の家賃で住む家を提供してくれた大家であり、無駄に色気を振りまくけれど面倒見の良いお姉さんで、サラにとってはかけがいのない人だ。
仕事としてでなく、いつも世話になっている者として助けたい。
彼女のことは信頼しているし、何より呪術で命の危険がある人がいると聞いた以上、放ってはおけない。
サラは『その人』が何者なのかは聞かず、首を縦に振った。
四半刻後には、三人はミシェルの家の裏で暗闇に紛れるように待機していた黒の箱馬車に乗り込んでいた。
人目を避けるように裏路地や住宅街を走り、連れて行かれたのは立派な屋敷だった。寒空の元、玄関で微動だにせず待っていた年配の執事はミシェルを見ると深々と頭を下げ、細身の身体できびきびとサラ達を先導した。長く広い廊下をどのくらい歩いただろうか、執事が足を止めたのは大きな寝室の前だった。
静かで小さな明かりだけの薄暗い部屋の中で、その人は大きな寝台の上で眠っていた。老年にさしかかった男性だった。時折苦しそうに歪められる青白い顔と微かに上下する胸だけが、その人が生きていることを物語っている。呪術のせいか窶れているが、整っていて優しそうな顔立ちだった。
サラは髪の色も年齢も違うのに、何故か亡くなった父親を思い出していた。
「この人を――クロスフォード公爵の呪術を解いて欲しいの」
ミシェルの掠れた声でサラは初めてその人がクロスフォード公爵で、ここが別荘だと知った。ミシェルが家の中を処分したいと言って出した貴金属の中で、一際高価そうな指輪の贈り主だ。
サラは入り口で影のようにひっそりと佇んでいた執事に頼み、公爵の手を上掛けに出してもらった。骨が浮き出ている甲は氷のように冷たく、触れた途端に肌を刺す痛みがサラを襲う。呪術に掛けられているのは間違いない。
「全力を尽くします」
サラは不安を表情に出さないよう、ミシェルに微笑んだ。
アスワドの助力を得て一度解術した経験があるとは言え、最も難しいとされる呪殺術はやはり一筋縄ではいかない。長く複雑な術式が目の前に現れる。果たして自分にこれが解けるのだろうか、と不安になる。
何とか気持ちを奮い立たせ、念のために、と持参した解術全典を見ながら慎重に確実に作業を進めていった。傍から見ればまるで新人の解術師のように頼りなく見えるだろうが、そんなことは気にしていられない。公爵の体力やサラの魔力を考えるとやり直しは難しく、解術が遅れれば遅れるほど命は危ぶまれる。
アスワドは呪術師の視点から貴重な助言や術式を組む際の肝所を教えてくれた。その言葉を思い出しては解術師として応用していった。
サラとセイアッドと公爵しかいない静かな部屋には鳥の囀りが聞こえてきていた。大きな窓の分厚いカーテンの僅かな隙間から明るい太陽の光が筋となって差し込み、長い毛足の絨毯の色や柄を鮮やかに照らしていた。
それまで動き続けていたサラの指がぴたりと止まる。
最後の術式に差し掛かったところで、どちらが正しい文字がわからなくなっていた。
徹夜での解術で体力も集中力も限界を超え、思考力も落ちていた。一旦悩み始めると集中力が切れてしまいそうになる。集中力が切れてしまえば、これまで組み上げてきた術式が消えてしまう。
サラは焦り、指が二つの文字で迷いながらも、覚悟を決めて選択しようとした瞬間、迷いのない声が聞こえた。
「それじゃない。その左だ」
サラは振り返る。
「集中力が切れるぞ」
セイアッドの真剣な眼差しと言葉に、我に返ると正面を向き直る。幸いまだ術式は消えていなかった。疑問は一旦忘れ、サラは再び解術に意識を戻した。
セイアッドの指摘は正しかった。
サラが選ぼうとしていた文字は呪術者の最後の罠だった。
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