第85話 その手がふれるもの 後編

 火照っていた身体が一瞬で冷めていく。

「嫌っ!」

 必死に腕を伸ばし、密着している身体から逃れようと抵抗する。セイアッドは驚いたようにサラを見つめた。

「あなたは誰?」

 精一杯絞り出した声は掠れて震えていた。

「あれっ? 何でばれた?」

 目の前のセイアッドの口から呟かれたそれは聞き覚えがなく、男性とも女性とも取れる声だった。


「おかしいなぁ。しばらくぶりで勘が鈍ったかな?」

 セイアッドの姿をした誰かはぶつぶつと呟きながら首を傾げた。サラの訝しがる視線に気付いたのか、セイアッドの顔でにこりと微笑んだ。

「助けてもらったからお返ししようと思ったんだけど」


 助ける? お返し? 何のこと?


 頭の中が疑問符だらけになったサラにセイアッドの偽者がのしかかってきた。

「ヤダっ! 離れて!」

「真面目だなぁ」

 誰とも知らない男の呆れたような言葉が胸に刺さり、抵抗することを忘れた。

 偽者はセイアッドの顔でにっと笑った。

「そういうの気にしないで楽しんだらいいのに。だってこれって、あんたの好きな男でしょ?」

「見た目じゃない! 私は、セイアッドさんじゃなきゃ嫌なの!」

 悔しいのか悲しいのか腹立たしいのか、自分でもよくわからない涙を浮かべて拒絶するサラにセイアッドの偽者は動きを止めた。


「あんた、もしかして――」

 戸惑う偽者の言葉を遮るように甲高い破壊音が部屋中に響き渡った。音の方を見ると、窓から飛び込んできた古代種の姿のセイアッドが、自分の姿をした偽者に掴みかかろうとしていた。

「やっぱり! 古代種のつがいか!」

 自分に向かってくる本物に慌てた偽者はゆらりとその姿を変えた。長身の身体はみるみる縮み、漆黒の真っ直ぐな黒髪は栗毛の柔らかい髪に変化する。

 その姿はサラそのものだった。

 驚いたのはサラ本人だけではなかった。セイアッドの金色の瞳は纏っていた殺気を掻き消し、引き裂こうと振りかぶった鋭い爪をその場で止めた。

 その隙に偽者のサラは素早い動きで逃げ出し、セイアッドが破った窓に足を掛けていた。

「お返しできなくて残念だけどつがいならしょうがない。死にたくないからね」

 そう言って笑顔で振り返ったその姿はセイアッドでもサラでもなく、赤い瞳の中性的な顔立ちの男だった。

「ありがとね、解術師さん」


 ひらりと窓の向こうに消えたその姿を呆然と見送っていると、盛大な舌打ちが聞こえた。振り仰ぐとセイアッドが窓の方をものすごい形相で睨んでいた。

 

 こ、怖っ!


 セイアッドはサラの視線に気付くと表情を和らげた。

「大丈夫か?」

 本物のセイアッドにサラの肩の力が抜ける。

 セイアッドはサラの頬に指を寄せようとして己の爪に気付き、手を引っ込めようとする。咄嗟にサラはその指をぎゅっと握った。

「大丈夫です」

 驚いたセイアッドはすぐに表情を和らげ、ようやくいつもの姿に戻った。



 セイアッドはサラの指の傷を見つけると何も言わず治癒術を掛けたが、表情はやはり悲しそうだった。

「すまなかった」

 セイアッドさんが謝ることじゃないのに。

 首を横に振るとサラはセイアッドの胸に飛び込んでいた。さっきまで感じていた嫌悪はない。むしろずっとこうしていたいと思っている。

「セイアッドさん」

 サラは名前を呼びながらセイアッドの背中に手を回した。

 セイアッドの両手がサラに応えるように優しく包み込む。

「無事でよかった」

「助けてくれてありがとう」

 サラを見下ろす金色の瞳が揺れる。

「誰にも触らせたくない」

「私だって、セイアッドさんが他の女の人に触られたり触ったりするのは嫌です」

 セイアッドが好きだ。

 サラは改めてその思いを強くした。

 互いの顔が引き寄せ合うように近づき、サラは自然と目を閉じた。


 唇が触れる、と感じた寸前でセイアッドが離れていく気配に目を開ける。セイアッドの視線は再び窓の方を向いていた。

「覗きとは良い趣味じゃない」

「残念。ばれていたかぁ」

 破れた窓から楽しそうなミシェルがひょいと顔を出した。

「ミ、ミシェルさん!?」

「偶然この近くを通りかかったからぁ」

 慌てふためくサラとは対照的なセイアッドは冷静で棘のある言葉を投げつける。

「偶然とは便利な言葉だな」

 けれどミシェルは眉一つ動かさない。

「私のことは気にしないで続けて頂戴」

「わかった」

 素直に続けようとするセイアッドにサラは三度慌てる。

「わ、わわわ、わかられても困ります!」


 生真面目なサラが続けられるわけもなく、壊した窓を渋るセイアッドと一緒に謝った。ミシェルもセイアッドも、何故か残念そうな顔になっていたことにサラは気付けなかった。

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