第84話 その手がふれるもの 前編

 今日も仕事のないサラは、ひと通り家事を終えると暇を持て余していた。

 今日も魔獣退治の仕事を請け負ったセイアッドは、朝から出掛けていた。

 セイアッドは確実に仕事をこなすため、最近ではかなりランクの高い仕事も請け負えるようになっている。解術依頼と違い、魔獣退治は危険な分報酬も多くなる。一度請ければその月の生活には困らないのに、最近は週に一度は出かけている。


 セイアッドと暮らし始めてから三ヶ月が経つ。

 穏やかで長閑な、まるで老夫婦のような日々を過ごしているが、いくらサラがそっちの方面に疎いとはいえ、セイアッドがさすがにそこまで枯れているとは思っていない。

 男性の欲求くらいは知っている。仮にも一度は押し倒された訳だし、結局サラが応えられなかったために、それ以上のことはあれ以来してこない。

 セイアッドは良い人で誠実だ。でも、もし彼が娼館に行っていたとしても、それを咎める資格はないと思っている。

 そして、自分じゃ彼に応えられないくせに他の女性に触れて欲しくないとも思っている。

 あまりに自分勝手で幼稚な嫉妬心に、サラは深く重い溜息を吐いた。


 顔を上げた先の姿鏡に気の利いたことの一つも言えない、生真面目なだけの自分が映っている。

 良くも悪くも平凡な顔は、化粧をしてもしなくてもそれほど変わらない。逆に、すればするほどおかしくなる。くびれも胸もない身体は、高級で大人びた服を着ても借り物のように似合わない。

 背中には傷もある。

 

 ミシェルの助言を思い出す。

『そういうときはあれこれ考えない方が良いわよぉ。ああいうのは雰囲気というか、流れもあるからぁ』

 

 結婚して母親になった同級生もいる。

 死ぬでも呪われるでもないのに、他の人はできているのに、どうして誰でもできるようなことが自分はできないのだろう。


 セイアッドのことが好きだから、ちゃんと応えたい。

 でも呆れられたら、幻滅されたら嫌だ。

 ――嫌われたくない。


 自分がものすごく駄目な人間のように思えて、情けなくて鼻の奥がツンとしてきた。

 暇だとつい余計なことまで考えてしまう。でも読書という気分にもなれない。

 

 こういう時は身体を動かそう。

 そう思い直すと破魔の魔力に集まってきた呪われた品々を解術後に仕舞っておくだけの物置部屋が気になった。用が無ければ普段は立ち入らない場所だ。

 

 薄暗い部屋にはあらゆる物が雑然と置かれている。壺や手鏡、剣や兜、腕輪や指輪など、あらゆる年代の幅広い品揃えは下手な店よりも充実している。

 窓を全開にすると、爽やかで新鮮な風が待ち望んでいたように部屋の中に入ってきた。埃っぽくじめっとした空気が入れ替り、心なしか部屋の中も明るく感じた。

 斡旋所の近くにある骨董屋の看板に「何でも引き取ります」と書いてあったのを思い出し、サラは品物をまとめ始めた。高価そうな物もいくつかあったがサラには不要なものだ。

 腕輪などの装飾品がまとめて置いてある棚に来ると、傍えの腕輪もここに仕舞っていたことを思い出し、そして考えるのはやっぱりセイアッドのことだった。

 休みなく動いていた手がぴたりと止まる。


 今頃何をしているのだろう。

 

 胸の中に居続ける何かを吐き出すように溜息を漏らした。


 

 開けた窓から強い風が部屋の中に吹き込んできた。あまりの勢いに部屋の中の品物が煽られる。

 サラは顔を背けながらも窓を閉めた。ほんの僅かな時間だったにも関わらず部屋の中は散々な状態になってしまった。整理した品物が横倒しになっていたり棚から床に落ちていたりと、最初の状態よりも酷くなっている。


 今日は厄日かもしれない。

 

 サラはがっくりと肩を落とすと、再び品物を整理し始めた。


 ふと、床に転がっているランタンが目に留まった。

 大抵の品物は解術すれば何となくは覚えているが、その持ち運び用の小さなランタンには全く見覚えがなかった。けれど疲れてきたサラはその違和感を気に留めず無防備に持ち上げた。

 その瞬間、指先をよく知っている痛みが走る。

 呪われている、と気付いたのとほぼ同時にランタンは弾かれたように砕け、部屋の中が真っ暗になった。

「えっ?」

 昼間にもかかわらず真夜中のような闇に思わず声が出る。

 けれどそれは一瞬のことで、すぐに部屋の中は先ほどと同じ明るさを取り戻していた。周りを見渡すが変わった様子はない。あのランタンだけが無残にも破片と化していただけだった。


 何だったんだろう、今のは。疲れて立ちくらみでも起こしたかな?

 

 首を傾げながらも、足下に散らばってしまったガラスの破片を屈んでつまみ上げる。破魔の魔力だけで呪術が解けたのか、破片に触れても痛みはなくなっていた。

 いくつか拾い上げたところで指先がチクリと痛んだ。見ると指の腹に赤い筋が浮かび、血が滲んでいた。

 かすり傷だろう、と思っていたが、溢れた血が指を伝っていく。思いのほか深い傷のようだ。指先を口に含みながら、手当のために部屋を出た。


 居間で薬箱から塗り薬と包帯を取り出していると、視界に人影が映り込んだ。驚きながらも振り返ると、セイアッドが立っていた。

 いつ帰ってきたのかと不思議に思ったが安堵感に上書きされてしまう。

「おかえりなさい」

 いつものように声を掛けるがセイアッドは無表情でサラを見下ろしている。その視線に違和感を覚える。

「セイアッドさん?」

 黄金の瞳がサラの指先を捉えた。

 

 セイアッドは僅かな傷でもすぐに治癒術を掛ける。過保護だな、と思いながらも嫌ではなかった。でも彼の悲しそうな顔を見るのが嫌だった。

 

 咄嗟に手を背後に回し傷を隠す。けれどセイアッドはサラの手首をおもむろに掴んだ。

 サラの肌が粟立った。嫌だと一瞬思ってしまった。

 今までセイアッドに触られて嫌だと思ったことがなかっただけに、その反応と感情に驚いているのは自分自身だった。だからセイアッドが掴んだ手首を強引に前に持ってきたことに気付くのが遅くなった。


「あ、ちょっと切っただけだから大――」

 慌てるサラの声に無反応なまま、セイアッドは上体を屈ませサラの傷を舐めた。

「!」

 想像すらしていなかった行動に声もだせず頭が真っ白になる。

 嫌なのに掴まれた手を振りほどくことができない。身体は麻痺したように動かせないでいる。なのに舐められている指先だけは敏感で、食むように触れる唇の柔らかさや逃さないように絡んでくる舌の温かさや、時折軽く噛まれる僅かな痛みが同時に襲う。

「――んっ」

 吐き出される息と一緒に零れた声に、セイアッドが上目使いでサラを見る。


 何か変だ。

 

 今、目の前のセイアッドが自分の知らない誰かに見える。でも頭も心もぐちゃぐちゃで思考は鈍っていく。目の前のセイアッドに抗えず、固く目を瞑る。

 心臓は壊れるのではないかと思うほど大きく早く打ち、その鼓動が耳の中で五月蠅く響く。押し出される血液は異様な熱を帯びて全身を駆け巡り、熱さで頭がぐらぐらする。

 背中をぞくぞくとした感覚が這い上がる。両足に力が入らなくなり、立っているのも辛くなる。でも僅かに残る嫌悪感が、言うことのきかない身体を動かす。

 必死に目の前の知らない誰かから逃れようと後ろへ下がった。

セイアッドは逃がすまいと反対の手でサラの二の腕を掴んだ。無造作で容赦ない指がサラの腕に食い込む。

「――っ!」

 慣れない痛みに悲鳴は堪えたが顔は歪む。

 セイアッドはサラの異変を無視し、掴んだ手を離そうとしない。それどころかサラの首筋に唇を這わせてきた。

「何も考えないで。気持ち良くしてあげるから」

 耳元で囁かれたその言葉に悪寒が走り、今までの違和感が一致した。


 この人はセイアッドさんじゃない!

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