第83話 消えない傷と見えない傷 後編

『多少変なのが混ざっていても両極端でも、元の人格があってそこから分かれたんだ。だから何かが違ってもどこかは同じで、お前がレクスやレイを信じているなら、きっと心配しなくてもいい』


 偉そうに言ったものの、本音では心配だった。

 本当はすぐにでも様子を見に行きたかったが、ちょうど辺境地域に赴任していた騎士が負傷して、代理として行くことになってしまった。当初一週間程度の予定だったが怪我の回復が芳しくない同僚は王都へ戻ることになり、交替要員の準備ができるまで駐留していた。

 王都に戻れても報告やら溜まった仕事を処理して、気が付けば妹の顔を二ヶ月も見ていない。こんなに長く顔を合わせないのは初めてだ。サラが学校の寮に住んでいた時ですら、何かと理由を付けては顔を見に行っていたのに。


 ようやく仕事が落ち着き、今日は早く片付いたので久しぶりにサラの家に行くことにした。

 僅かに感じる緊張を誤魔化すように玄関扉の叩き金を打ち付ける。

 しばらくしても返事がない。不安になって今度は強めに叩き付けた。

 ようやく玄関の扉が開かれた。目の前にあったのはえらく不機嫌なあいつの顔だった。

 顔や手に刻まれていた禍々しい呪いはもう綺麗に消えている。あの日に見た古代種特有の角や翼もない。

 俺の知っている同じ顔、同じ声の魔族なのに、目の前にいるのは初めて会う奴だ。 もう『レクス』でも『レイ』でもないのだ、とわかってしまった。

 目の前に現れた途端、身体が竦んだ。あの二人も強かったがこいつはそれ以上だった。金色の瞳がこちらに向くだけで息を潜めている自分がいる。

 

 赤毛の古代種がこいつを『王』と呼んでいた理由が何となく理解できた。

 そして今、思い切り顔を顰めているこいつはどう見ても『魔王』だ。


「えっ、あ、お兄ちゃん?」

 長身の背後から小柄なサラが慌てたように顔を覗かせた。その声に魔王の凍えるような視線が逸れ、ようやく緊張から解き放たれる。

 

 サラは驚いた表情を見せたが、どこかぎこちない。顔は赤く目が潤んでいる。

「お前、熱でもあるのか?」

「えっ?」

「顔が真っ赤だし、目もとろんとして眠たそうだし」

「あ、えっ――な、何でもないからっ! 熱もないし眠たくないし元気だから! もう、いいから上がって!」

 サラは昔から慌てたり焦ったりすると口調がきつくなる。

 意味不明の言葉を叫び掌で赤い頬を隠すと、棚の上に置いてあった小さな袋を大事そうに手に取った。魔王には「ありがとうございました。嬉しいです」と、本当に嬉しそうに微笑んで家の中に引っ込む。


 その露骨な態度の差はどうなんだ? お兄ちゃんだって泣くんだぞ?


「俺、何か変なこと言ったか?」

 俺の呟きに魔王は一瞬眉根を寄せて目を細めたが、溜息を吐いて緊張を解くと、苛立ちを発散するように無造作に髪を掻きむしった。

「自覚がないところといい、お前の間の悪さは天災だと思って諦める」

「んっ? テンサイ? 何だ?」

 サラ以外に無情な魔王は、俺の疑問を無視すると踵を返した。



******



 家の中は何一つ変わっていない。けれど知らない家に来たみたいで落ち着かない。いつものソファーにいつものように腰掛けたが、やはり据わりが悪かった。

 部屋には俺と魔王――セイアッドだけだった。台所に行ってしまったサラが待ち遠しい。視線を不自然に泳がせているとセイアッドが口を開いた。

「あの時、おかげでサラを失わずにすんだ。礼を言う」

 あの時とは暴走した時のことだろう。素直な感謝の言葉に驚いてしまう。

「意外そうな顔をしているな?」

「実際、意外だからな」

 

 色々な意味で、とは付け足さなかった。


「そうか」

 魔王は怒ることも呆れることも訝しがることもなく、俺の言葉をそのまま受け止めた。

 飄々とした立ち振る舞いと懐の深さが父親と被る。それが越えられない大きな壁のようで、だから俺はレクスよりもレイよりも、セイアッドが一番苦手だと思う。

 あの二人は好きではなかった。俺が長年、必死に抑えていた感情を、突然やってきて迷いなく真っ直ぐサラにぶつけるところに苛立ちを覚えていた。

 でも嫌いではなかった。サラを何よりも大事にしてくれていたし、サラ自身も本当に楽しそうだったから。

 だからもう会えないのだ、と思うと、ほんの少しの寂しさがこみ上げてきてしまった。


「あの――」

 言いかけてトレイを持つサラの姿が視界に入り、不自然に口を閉じてしまった。サラは一瞬戸口で足を止めたが、何事もなかったように部屋には入ってきた。

「元気だった?」

 卓にトレイを置いてサラが床に膝をつく。

「あぁ。お前は、もう大丈夫か? 怪我とか」

 いつものように口が勝手に動いてしまう。

「――傷とか」

 サラはちらりと俺を見て視線をトレイに戻した。曖昧な言い方だったが言われ慣れている妹には何が言いたいかわかったようだ。

「もう平気だよ」

 この台詞を言うとき、サラはいつも困ったような呆れたような、曖昧な微笑みを浮かべる。

 聞かなくても目の前にすれば状態はわかる。それなのについ言葉にして聞いてしまう。

 ただ困らせるだけとわかっているのに。

 俺がしてやれることなど何もないのに。


 サラは持ってきた三つのカップの内、二つに手際良く紅茶を淹れていく。

 爽やかで柔らかい香りが立ち上る。でも一つだけカップを空にしたままポットを置くとサラは立ち上がった。

「せっかく来てくれたのにごめん。大家さんに呼ばれているから少し出掛けてくるね」

 見上げた二つの視線に向けてサラはにこりと微笑んだ。

 嘘だ。そしてセイアッドも気付いている。

「すぐに戻るから」

 でも頑固で人の心の機微に敏感な妹は何を言っても出かけてしまうだろう。

 気遣わせてしまった俺は申し訳なさで小さく頷くしかできなかった。


 腰を浮かせたセイアッドをサラは小さく首を横に振ることで制した。

「すぐ戻ります」

 不承不承といった雰囲気でセイアッドは座り直した。

「気をつけて」

 セイアッドの言葉にサラは笑顔で頷き部屋を出て行った。


 どうやら元の人格に戻ってもサラに対する想いは変わらないようだ。鋭い視線はサラに向くことはなく、その眼差しは相変わらず柔らかく温かい。

 サラもセイアッドに対する態度や表情は何ひとつ変わっていない。

 

 安心したと同時に、少し寂しい気持ちになった。


 軽やかな空気を纏うサラがいなくなった途端、部屋の雰囲気が重くなる。

 積み重なる重さに耐えきれず、視線も顔も上げられなくなっていた。続く沈黙を破りたいがすべがない。何を、どう話して良いかわからない。


「サラと契約をした」

 突然の声に、俺はそれまでの気まずさを忘れたように顔を上げた。

「契約って――あぁ」

 

 俺が辺境地域へ臨時赴任している中、サラは『契約』の件を事後報告という形で家族に告げたようだ。寄宿舎に届いていた実家からの手紙にそんなことが書かれていた。

 その後実家に行って詳細を聞いた。エレナさんはさすがに驚いたようだが、親父は魔族の契約の話を聞いたことがあったらしい。

「長く生きれば楽しいこともあるけれど同じくらい苦労もする。でもそれももう覚悟の上だろうな」

 親父はあまり見せたことのない寂しそうな表情で呟いた。


「契約したことでサラは老いることもできず、家族を見送らねばならない。俺がそうさせてしまった」

「サラはずっとあのままか」

「そうだ」

 家族がいなくなっても俺が死んでも、サラは背中の傷痕をずっと抱えて生きていくのか。

 そう思った瞬間、また何かがのし掛かってきた。

「俺のせいなんだ」

 苦しくなって吐き出すように呻いた。それでも胸のつかえは取れない。だからもう一度吐き出した。

「背中の傷は、俺のせいなんだ」

 

 事情を知っているのか知らないのかセイアッドは何も言わない。それなのに何故か責められている気分になり、言葉をどんどんと吐き出した。


「俺とサラは最初から今みたいに仲が良いわけじゃなくて――と言っても一方的に俺がサラを寄せ付けないようにしていたというか――」


 十二歳で突然種族の違う六歳の妹ができた。嬉しい反面、何の抵抗もなしにすんなり懐く人間族の女の子をどう扱って良いかわからなかった。

 友人にはからかわれ続けていた。


「あいつ、カワイイ妹ができたんだぜ」

「お兄ちゃーん、だってさ」


 他愛も悪意もないガキ同士の言葉に過ぎないのに、その当時、やはりガキだった俺は恥ずかしくて、嫌でしょうがなかった。家でも外でも、何かにつけて纏わり付いてくるサラがうっとうしくなっていった。


 年の離れた、無邪気な妹をどう扱っていいかわからないまま二年が過ぎた。

 ある日、買い物に行こうとして外に出た俺にサラが付いてきた。

 

 留守番していろと言ったのに。

 そう思ったら急に何かが弾けた。

「帰れ! 付いてくるな!」

 自分でも驚くほど大きな声だった。

 サラは一瞬驚き、そして表情を歪めて口をきゅっと結んだ。

 大粒の涙がぽろぽろと零れて落ちる。

 堪え切れなくなったサラはその場で泣き出した。本当に悲しそうに泣く妹の姿に胸が締め付けられた。

 見ていられなくて泣き続ける小さな身体を強引に反転させ背中を押した。

 加減したつもりだったがサラは前のめりによろけた。

 慌ててその身体を掴もうとして、俺の爪が小さな背中を引き裂いた。


 掠っただけだと思っていた。たいした傷じゃないと思っていた。

 でもサラの小さな背中も俺の指先も、真っ赤に染まっていた。



「知らせを受けて帰って来た親父には思い切り殴られたけど、エレナさんは責めなかった」


『父親が亡くなり母親が忙しくなって、家に一人で残されていた幼いサラがどれだけ心細くて寂しかったか。だからお前という家族ができて嬉しかったんだよ』

 親父に言われるまでそんなことにも思い至らなかった自分を恥じた。


『辛い思いをさせてごめんね』

 エレナさんの優しい言葉が一番辛かった。



「その後に初めて顔を会わせた時、サラは何て言ったと思う?」

 セイアッドを見上げた。表情は相変わらず淡々としている。同情も蔑みも浮かんでいないことにほっとしたが、やはり責められている気分になる。


『ごめんね、お兄ちゃん』

 泣きながら謝り、まだ自分を兄と呼んでくれるサラを見て、この時から傍にいようと決めた。それが歪な感情からくる間違った責任の取り方だとしても関係なかった。

 

 そしてその想いは自分だけではどうすることもできなくなっていた。でも俺より真っ直ぐにサラを想ってくれるこいつが現れたおかげで、ようやく吹っ切ることができる気がしていた。


「あの傷痕は消せるか?」

 深い傷を瞬時に治したこいつなら消せるかも知れない。

 でもセイアッドは俺の僅かな望みを断ち切るが如く、きっぱりと言い切った。

「古い傷痕は消せない」

 治癒術師であるエレナさんにも同じように言われた。わかってはいたはずなのに、淡い期待を砕かれつい項垂れた。

 

 傷が消えれば、俺も少し楽になるかもしれない。

 浅はかにも思っていた俺への罰だ。


 背中に傷を負ってからサラは少し変わった。服は肌の露出が多いものは着なくなった。外に出ることが少なくなり、代わりに家で本を読むことが多くなった。

 治癒術師になりたいと言いだしたのもこの頃からだった。


「今まで誰とも付き合わなかったのも、そのせいかもな」

 愚痴に近い呟きがつい漏れた。

「いかな傷だろうと俺には関係ないが」

 呆れような口調のセイアッドの言葉が、すとん、と胸に落ちてきた。重くのし掛かっていた何かが消えた気がした。

 けれど続く言葉に俺の思考は止まる。

「その点に関してだけは感謝するべきか?」


 何を言いたいのかわからない。


 しばらくセイアッドの顔を凝視していたが、しばらくしてその意味を理解してしまった。


「――いや、いい。しないでくれ」

 妹の初めての男に感謝されても嬉しくない。

 第一、俺はどんな顔をすればいいんだよ?

 お前も堂々をそんなことを言うなよ!


 複雑な思いが深い溜息となって吐き出される。

 こんなことを誰かに話すのは初めてだ。誰にも言いたくなかったし、言うつもりもなかったのに、よりによって、なんでこいつにそんな話を――。

 いや、こいつだからできたのかもしれない。

 

 本日何度目かの溜息を吐き出してソファーの背もたれに凭れかかる。

 気持ちも身体もずいぶんと軽くなっていた。


「背中の傷は――見たか?」

 セイアッドは一瞬たじろぎ、端整な顔を顰めていく。思いがけない反応に驚き、不意に先ほどの言葉を思い出した。


『いかな傷だろうと俺には関係ないが』

 

 傷を見て不機嫌になっているのではなく、見ていないから不機嫌なんじゃないか?


 もしかして、あの言い方は――。


「まだ、その――そういうの、じゃないのか?」

 セイアッドは肯定も否定もしない代わりに不機嫌さを募らせていく。

 それ以上言うな、と物語る金色の瞳を怖いと思う反面、何故か楽しくなってきて上体が前のめりになっていた。

「そーか、そーか」

「――そんなに楽しいか」

「まぁね」

 一つ屋根の下に一緒に住んでいて手を出していないことに驚いたが、それよりも本当にサラを大事にしてくれているのだということに兄として嬉しかった。そして同じ男として少し同情した。


『最近、やたら強い魔族が魔獣狩りを請けているらしいよ』


 王都に帰ってきてすぐに、ジークが不思議そうに言っていたことを思い出した。

 どうやら魔獣を狩ることで色々と発散させているようだ。


「あんた、良い奴だな」

 笑いを噛み殺しながら言うとセイアッドはいじけたように顔を逸らした。

 子供のようにわかりやすい仕草でいじける魔族に、今まで感じていた苦手意識が薄れていく。


 こいつならサラはきっと大丈夫だ。

 これからはもう『大丈夫か』と聞くこともなくなるだろう。



「ただいまー」

 サラの明るい声が部屋の空気を一変させる。

 出迎えに立ち上がったセイアッドの背中を見送り、俺はソファーに座ったままで息を吸った。


「おかえり」 

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