第82話 消えない傷と見えない傷 前編

 自分の気持ちを口に出してすっきりしたはずなのに、サラの心と身体は余計に混乱していた。

 セイアッドは気持ちが通じ合ったからと言って馴れ馴れしくもしないし余所余所しくもしない。今までどおり接してくれるが、触れる手や眼差しは一層優しく、温かくなった気がする。

 だからサラはどうしていいかわからなくなっていた。

 優しく触れる手に、見つめてくる眼差しに、嬉しさと喜びと緊張が混ざり合う。指先が偶然触れただけで慌てて引っ込めてしまう。たまたま目が合っただけで顔を背けてしまう。

 嬉しいのに、嫌じゃないのにどうしても身体が勝手に動いてしまう。気付かぬうちに表情も曇りがちになっていたらしく、セイアッドと不自然な距離ができていた。

 出掛けてくる、と彼が突然言いだしたのもそのせいだろう。


 愛想を尽かされたかもしれない。

 傍にいて欲しいと言ったのに、避けているような行動をするなんて自分でもおかしいと思う。

 行き先も告げず出て行ったセイアッドを玄関で見送ったサラは、その足で家を飛び出していた。



******



「それは大変ねぇ」

 ひと通り聞き終えたミシェルは溜息交じりに呟いた。

「どうしていいか――もう、わからなくて」

 よほど思い詰めていたのかサラの涙は涸れることなく流れ続けている。


 ミシェルが玄関の扉を開けると俯いたままでサラが立っていた。理由はわからないが普通じゃない彼女の様子にとりあえず家に上げた。

 ソファーに座っても黙ったままのサラに、ミシェルは問い詰めることも話し掛けることもせず、紅茶を淹れてじっくり待った。


 嫌われたかもしれない。どうしたらいいのかわからない。

 

 ミシェルが一杯目の紅茶を飲み干したところでようやく発せられた声は今にも消えそうで、それだけを呟くとサラから涙と言葉が堰を切ったように溢れてきた。

 よほど思い詰めているのか、普段のサラでは考えられない話し方だった。時系列はバラバラで、進んだと思ったら戻ったり肝心な所をすっ飛ばしたりして全容を掴むのに苦労した。それでも聞いているうちにミシェルはサラの悩みを概ね把握した。



「嫌われてはいないと思うわよ」

「でも――」

「魔王さんは勘の良い男だからサラちゃんの緊張の理由がわかったんじゃない? だから困らせないように少し距離を取ったんだと思うわ」


 それ以外の理由も考えられるが、今のサラには言わない方が良い、とミシェルは判断した。


「初めてだから、っていうのはあるけれどどうしてそんなに緊張しちゃうのかしら? 触られるのもダメなの?」

 サラはすぐに首を横に振った。

「嫌じゃないんです。セイアッドさんに触られると気持ちいいし――あっ、違っ、いや、あの変な意味じゃなくて、その、髪とか頬とか――」

 つい零れた自分の気持ちに必死で言葉を足していくサラを見て、ミシェルの口元は綻ぶ。

「ミシェルさんは知っていると思いますけど、その――背中に」

「あぁ、傷のこと?」

 サラは視線を落としながら小さく頷いた。

「家族以外には見せたことがない、って言いましたよね」

「言っていたわね」

 サラは一呼吸置いてゆっくり口を開いた。

「小さな村なので、私が怪我をしたことは村の人全員に知れてしまいました。傷はまだ塞がっていなかったけれど動けるようになって学校に行くと、同級生は心配してくれたり気を遣ってくれたりしました。でも男の子の一人が『本当に怪我したのか見せてみろ』と言って服の襟を引っ張ったんです。まだ包帯を巻いていたので傷は見えていないと思うのですが、彼は襟から見えた、厚く巻かれた包帯に驚いたようで――」


 うわっ! ひでぇ!


 今でも鮮明に聞こえるその叫び声に、サラは視線を落とし言葉を詰まらせた。


「振り返ると彼の顔は真っ青で、すごく怯えていました」


 サラはミシェルの視線に気付いたように顔を上げ僅かに表情を緩めたが、いつもの笑顔にはなりきれていなかった。


「その後、彼は先生に怒られたり両親に連れられて家まで謝りに来たりと大騒ぎになりました。でもそれからその子は余所余所しくなってしまって」


 異性の言葉と表情が今もサラの心に傷を残しているようだ。

 子供の言葉は良くも悪くも素直で正直で嘘がない。サラもそれを知っているからこそ、十何年も前の傷をまだ誰にも見せられないでいる。


「きっとその子は、そんな傷たいしたことない、って言いたかったのよ」

 ミシェルの言葉にサラが驚いた様な表情で顔を上げた。

「でもまだ子供だったし、自分が思っていたよりも大怪我で吃驚しちゃったんじゃないの?」

 それでもサラは浮かない表情で視線を落とす。

「男の子ってさ、好きな子をつい苛めちゃうのよねぇ」

「そういうもの、ですか?」

 一般的に聞かれる話にもサラは知らなかったのか首を傾げている。

「魔王さんは狭量な男じゃないんでしょ?」

 その点に関してサラは迷いなく頷く。

「じゃあ大丈夫よ」

「でも――見て気持ちの良いものではないだろうし」

「それぞれの感じ方で違うと思うけど、私はそう思わなかったわよ」


 微かではあるが確かに傷は残っていた。数本の細く白い線は背中に刻まれており、熱でほのかに上気した肌ではより目立つ。

 けれど気持ち悪いとは思わなかった。反対に『守ってあげたい』と思った。


 同性の私でもそう思っちゃうんだから、魔王さんはどうなっちゃうのかしら。

「むしろ盛り上がっちゃうんじゃない?」 


 心の中だけで呟いていたはずなのに、興奮していたせいか声に出ていたらしい。サラが「何がです?」と真顔で聞いてくる。

 教えても良いけれど、それで引かれるとさすがに彼が不憫でならない。ぐっと堪え、別の話題に切り替えた。


「それにねぇ、着たままでもできるからぁ」

 話題について行けない様子でミシェルを見ていたサラだったが、何を言っているのかわかったらしく、顔が急に赤くなった。

 ミシェルは楽しくなり口の端をつり上げる。

「脱がさないほうが好きって人もいるしぃ。きっと魔王さんなら服も汚さないで上手にやっ――」

「あ、いや、あの、そういうのはまだいいですっ」

 

 顔を上気させて困りながらも必死に何かに耐える彼女が好ましく可愛らしい。


 サラから話を聞いたとき、何故セイアッドが距離を取ったのかミシェルにはすぐわかった。

 いくら理性的とは言え限度はある。今まで抑えていたものが大きければ大きいほど、それが決壊すれば歯止めが効かなくなる。気持ちが通じ合ったからこそ、心の準備が追いつかず混乱する彼女を早まって傷付けないように自分から離れたのだろう。

 

 潤んだ瞳で見上げられれば今まで保っていた理性は崩れ、甘く切ない声で名前を呼ばれれば緩んだたがは簡単に外れるのだから。



******



 セイアッドは昼過ぎに帰ってきた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 サラの出迎えにセイアッドは笑顔を返す。でもやはり気を遣っているのか、今までの様に触れてきたりしない。そのままサラの横を通り過ぎていく。

 アルトマン家からの帰りの馬車の中で、レクスにも同じようなことをさせてしまった、と不意に思い出した。自分が招いたことだとわかっていても、あの時同様、胸の奥がずきりと痛む。

 サラは俯いてしまいそうになる顔を必死に堪えた。

「――セイアッドさん」

 セイアッドが顔だけで振り返る。

「その、ごめんなさい」

「どうした?」

 急に頭を下げたサラに、セイアッドは慌てて身体ごと向き直った。

「あの――」

 視線が泳いでしまうサラは大きく息を吸うと意を決しセイアッドを見つめた。

「もう大丈夫ですっ!」

 突然すぎる宣言にセイアッドは目を丸くしてサラを凝視している。

「あ、いや、大丈夫なんですけど、でも全部大丈夫じゃなくて――嫌ではないんですけど、その私の問題で、だから」

 しどろもどろで曖昧な説明でも理解したセイアッドはふと表情を緩めた。

「わかっている」

 その言葉でサラは動かし続けていた口をようやく止めた。

「嫌でないならいい」

 柔らかい表情と気遣う言葉に張り詰めていた何かが切れ、サラの目に涙が滲む。セイアッドは今にも泣き出しそうになっているサラの頭をぽんぽんと撫でた。

「謝ることも焦ることもないって言っただろう?」

 俯いたままサラが小さく頷くと、セイアッドはゆっくりと抱きしめた。

 セイアッドの胸に顔を埋めたサラは、違和感に身体を少し引いた。

「あぁ、これか」

 気付いたセイアッドはサラを抱きしめたまま、器用に胸ポケットから小さな小袋を取り出した。

「あの受付嬢が、この店の菓子は美味しいと言っていただろう」

 両手で受け取った小さな巾着袋には有名な菓子店の名前が書かれている。流行に敏感なビビアナが美味しいと言っていたその店は隣町にある。

「どうして?」

 視線を小袋からセイアッドへ移した。

「落ち込んでいるようだったから」

「これを買いに行っていたんですか?」

「ああ」

 ふさぎ込んでいたサラを気遣って買ってきてくれたようだ。サラは甘いものが苦手だが、ビビアナが「甘さ控えめだから大丈夫ですよ」と言っていたことも覚えていたのだろう。

 セイアッドの優しさに涙が溢れそうになり、慌てて視線を小袋に戻した。視線の先の可愛らしい赤いリボンの包装に、ふとあることが気になった。あの店はいつも行列ができており、それも並んでいるのはほぼ若い女性だ。

「もしかして、並んだんですか?」

「並ばなければ買えない」

 菓子店の前で並ぶ若い女性の行列の中に長身美形の魔族が一人。

 どれほどの違和感とどれほどの視線があっただろう。その光景を想像してサラは少し吹き出した。セイアッドも笑うサラを見て顔を綻ばせた。

「平気でしたか?」

「何がだ?」

 セイアッドは真顔で首を傾げる。

「並んでいるのは女性ばかりでしょう。目立ちませんでしたか?」

「周りは女ばかりだったが、目立つのはいつものことだ」

 セイアッドは周囲の視線を全く気にしないが、サラはそうはいかない。同じ女性からのものであればそこに込められる感情に、もやもやしたり落ち着かなくなったりしてしまう。

「――声とか掛けられませんでしたか?」

 少し低くなったサラの声に、セイアッドは瞬きを繰り返した後、口の端をにっとつり上げた。

「それは悋気か?」

「リンキ?」

 前にもレイが呟いた言葉だが意味はわからない。今度はサラが真顔で首を傾げた。 セイアッドは楽しそうに笑いながら口を開いた。

「嫉妬のことだ」

「そ、そういうつもりは――」

 まだ形になっていない感情を言い当てられ動揺するサラの手の中から、セイアッドは小袋をそっと取り上げると玄関脇の棚に置いた。その行動の意味が理解できないサラはセイアッドに名前を呼ばれるまで小袋を視線で追っていた。

「先ほどの話に戻るが――」

 見上げたセイアッドの瞳が熱を帯び始めていることに気付く。

「どこまでが大丈夫か教えて欲しい」

「どこまでって――」

 戸惑っているサラの左手を掴むと、自身の右手の指を全部絡ませてきた。小さなサラの掌はセイアッドの大きな手でしっかり包み込まれている。

「これは?」

 驚いて再び見上げるとセイアッドは艶のある笑みを浮かべてサラを見下ろしている。

「だ――大丈夫です」

 

 正直、大丈夫じゃない。

 掌が密着しているだけなのに緊張と恥ずかしさで心臓が口から飛び出そうだった。そんなサラの状態を気付いているであろうセイアッドは、繋いだ手をそのままに左の人差し指を軽く曲げ、サラの耳の下にある毛先に触れる。

「これは?」

 緊張で口ごもってしまったサラは小さく頷く。

 セイアッドはサラの回答に満足そうに微笑むと、その指をすっと頬に持ってきた。 触れるか触れないかの微妙な頬の感触は、くすぐったさと、それとは違う感覚が混ざり身体が勝手にびくりと動く。恥ずかしさで瞼を固く閉じ、サラは真っ赤な顔を俯かせた。

「もう駄目か?」

 その声に上目遣いに見るとセイアッドの顔がすぐ近くにあった。

「だ――」

 大丈夫、と言おうとして薄く開いた唇にセイアッドが唇を重ねてきた。けれどサラが驚いている間にそれはすぐに離れる。

 鼻先が触れるほど近くにある端整な顔にサラの鼓動は大きくなるばかりだ。

「――今のは?」

「だ――い丈夫――です」

 吐息と共に零れたサラの言葉を聞くとセイアッドはもう一度唇を重ねてきた。先ほどよりも深く噛み付くような口づけにサラは二三歩後ずさったが、壁に遮られてしまいすぐにセイアッドに押さえ込まれた。けれどその手は壊れ物を扱うように優しく、サラの掌と首を包む込んでいる。

 互いの舌が絡みつくように触れ合ううち、無意識にサラの右手はセイアッドの背中に回されていた。

 サラの首に宛がわれていたセイアッドの左手がゆっくり下りてくる。重なる唇の隙間から自分の声とは思えない甘い吐息が漏れる。


 突然、触れる手が動きを止め、唇が名残惜しそうに離れていく。

 サラが潤む瞳で見上げると、セイアッドは眉間に深い縦皺を刻み玄関の方を睨んでいる。

 見上げるサラに気付いたセイアッドは幾分表情を和らげた。

「――毎回思うが、絶妙な間の悪さだ」

 不機嫌さと残念さを帳消しにするかの如くサラの頭を優しく撫でていたが、背後の玄関扉に向けた視線は鋭かった。

 

 大いなる苛立ちに全く気付いていないように、背後の玄関が来訪者を告げた。

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