その後
彼女の呪いが解けるまで
第75話 ミシェル先生の特別講義
記憶も名前も失っていた正体不明の男と出会ってからサラの日常には色々なことがあり、様々なことが変わった。
自分の魔力の意味や父親の死の原因など、胸にわだかまっていたものと向き合うことができた。レイやレクスとの別れは今でも思い出すと辛いけれど、呪いを解いたことで元に戻ったセイアッドとして今は傍にいてくれる。
サラがセイアッドと契約を交わしてからひと月が経ち、今は穏やかでいつもの日常を取り戻していた――はずだった。
******
家賃を届ける日は月の最終日と決めている。
いつものように家賃を届けにいったサラは、いつものように薄着のミシェルに、いつもとは違い家の中に引きずり込まれた。綺麗で広い応接間のテーブルの上には来客用の食器やクッキーが用意されている。
「ミシェルさん、あの――」
「今紅茶だすからぁ。あ、適当に座ってぇ」
戸惑うサラの言葉を満面の笑みでさり気なく遮ったミシェルは、するりと部屋を出て行った。
何かあるんだろうな。
受け取って貰えていない家賃を見つめ、サラは諦めて柔らかなソファーに腰を下ろした。
テーブルを挟みサラの正面に腰掛けたミシェルは慣れた手つきで紅茶を用意する。纏う色香とは裏腹にその所作はしとやかで流れるようだ。正しい手順を踏んで淹れられたそれは、香りといい味といいサラが今まで口にした紅茶の中で一番美味しかった。
「美味しい」
素直な感想がそのまま声に出た。そしてセイアッドにも飲ませてあげたい、とすぐに思った。
彼は朝から魔獣退治の仕事を請けて出かけている。
「良かったぁ」
ミシェルは子供のような笑顔を見せ、自分もカップに口をつけた。
彼女の穏やかな表情と雰囲気にサラは、考えすぎだったかな――と心の中で反省した。
紅茶を一口飲んだミシェルが口を開いた。
「彼とはどこまでいったのぉ? どんな感じなの?」
助走もなくいきなり突っ込んで来た美人にサラは危うく飲みかけの紅茶を吹き出すところだった。
「ど、どこって!? ど、どこにもいっていませんけど」
「嘘!」
ミシェルは眠たげな目を思い切り丸くした。
「何にもないの? 何も?」
余りにミシェルが驚くのでサラは自分が悪いことをしているような気分になった。
『待っている』
その言葉通り、セイアッドは待っていてくれている。
自分がお願いしたことなのに恋愛経験皆無なサラはどの時機でどう伝えれば良いのかわからず、途方に暮れていた。
しどもどろになりながらもミシェルに何とか伝えると、彼女はなるほどねぇ、と吐息のような溜息を漏らした。
「彼のこと嫌なの?」
サラは首を横に振った。
「好きなの?」
真っ直ぐな言葉に、サラは真っ赤になった顔を俯かせた。明確な返答はできなかったが、ミシェルにはそれで十分だったらしい。
「なら問題ないんじゃない?」
それでもサラが顔を上げずにいると、ミシェルは気遣うような優しい声を掛けた。
「もしかして、背中の傷?」
サラは驚いて顔を上げた。
ミシェルは真面目な表情だった。
「ごめんなさいね。前に熱を出して着替えさせた時見えちゃって」
年上の同性として労るミシェルに、サラは何故か目頭が熱くなった。慌てて涙を堪えた。
「普段は気にしていないんです。でも、やっぱり気にしているのかな?」
「まぁ、そういうことなんじゃないかしら。サラちゃんの肌ってすごく綺麗だからちょっと目立ってしまうけど、でもよっぽど近くで見なきゃわからないわよ」
はっきりしたミシェルの言葉に、やっぱりと傷つく反面、すっと気が楽になった。
サラは自然と微笑むことができた。
「そうですか。家族以外には見せたことないから――」
「その台詞はまだ彼の前で言っちゃダメよ」
処女です、って言っているのと同じだからねぇ、と呟いた彼女の言葉は聞かなかったことにした。
「魔王サマはそんなことで嫌いになる
「違います!」
少し声を荒げたサラにミシェルは何故か楽しそうに口角を上げた。
「じゃあ、初々しいサラちゃんに先生がイイことを教えて上げますぅ」
「え? あのお家賃は――」
サラの戸惑いを受け流し、ミシェルの講義は始まった。
******
ミシェルの家を出る頃には頭が痛くなっていた。
『ま、とにかく何かあったらその都度聞いて。もっと具体的で実用的な台詞を色々教えてあげる』
あれより具体的な台詞、言える気がしませんけど。
サラは軽い目眩に足をふらつかせながらも何とか家路についた。
すでに仕事を終えて戻ってきていたセイアッドがサラを出迎えた。
「お帰り」
あぁそうか、と呟いた彼は、サラがどこに言っていたのか気付いたようだった。
風呂上がりだったらしく、濡れた黒髪を軽く撫で付け、上着を羽織っただけで逞しい胸元をはだけさせている姿に、サラの頭は真っ白になり、顔は反対に真っ赤になった。
顔を曇らせたセイアッドは屈みながら掌でサラの額に触れた。
「熱でもあるのか?」
慣れているはずのその行為ですらミシェルの講義を思い出してしまい、身体が強ばる。サラは目の前の顔がまともに見られず、目を泳がせた。
顔は火のように熱いのに身体が氷のように固まってしまったサラをセイアッドは訝しそうに見ている。
「本当に大丈夫か?」
心配そうな声で見上げると、揺れる金色の瞳と目が合う。心配を掛けたくなくてサラは何とか言葉を振り絞る。
「だ、大丈夫です」
セイアッドはようやく表情を和らげた。
その柔らかい微笑みを見て、サラの口は自然に動いた。
「セイアッドさん――あの、今日の――夜」
『今日の夜、ずっと一緒にいてもいい? って聞いてみて』
ミシェルの艶ややか声が耳元で蘇る。
セイアッドの動きが止まり、顔が強ばった――ような気がした。
『勘の良い男ならそれだけでわかるから』
わかってしまったかも知れない。
ミシェルの言葉の意味とセイアッドの表情でサラは泣きそうになる。恥ずかしさと混乱の極致に達したサラの口は再び勝手に動いていた。
「よ、夜ご飯は何にしますか!」
怒鳴るような口調と台詞が全くかみ合っていない。
セイアッドは目を丸くしてサラを見下ろしていたが、しばらくすると「エカム鳥の野菜煮込み」と具体的かつ律儀に答えてくれた。
「野菜煮込みですね。わ、わかりました! 頑張ります!」
おかげでサラの身体は動くことができ、真っ赤な顔のまま逃げるように部屋へ戻っていった。
ひとり残されたセイアッドはサラの姿が見えなくなると、脱力したように項垂れた。
「危なかった。あれは無理だ」
掌で抑えた口から思わず本音が漏れる。そのうち何かに気付いたように眉間に深い縦皺を寄せた。
******
サラが帰ってすぐに叩き金が来客を告げた。扉を開けるとそこには帰ったばかりのサラではなく魔族がいた。端整な顔には盛大に顰められており、先ほどの計画が失敗に終わったことを物語っていた。
「俺に恨みでもあるのか?」
咲き誇る花も一瞬で凍りつくような声が静かに鋭く突き刺さる。
計画は失敗したけど、勘は良いみたいね。
ミシェルは魔王の怒りを軽く流す。
「どうしてぇ?」
「――危うく理性が飛ぶところだった」
項垂れた魔族は、どうやら八つ当たりに来たようだ。
「そのまま飛ばしちゃえば良かったのにぃ」
半分冗談、半分本音の言葉に美麗の魔族は苦虫を噛みつぶしたような表情になった。
「サラに変なことを吹き込まないでくれ」
「いつまでもお預けじゃ大変だろうと気を遣ったんですけどねぇ」
セイアッドは感謝するどころか迷惑そうに溜息を吐いた。
ミシェルはベビードールの裾を軽くつまみ上げた。
「私でよければ相手するけど?」
目の前の魔族は眉一つ動かさなかった。それどころか、不快そうに目を細める。
「お前じゃ務まらない」
ミシェルは想定していた返事に肩を竦めた。
「彼女以外は、でしょ?」
「わかっているなら聞くな」
セイアッドは来た時と同じく、眉間に深い縦皺を刻んだまま帰って行った。
人格が変わってもサラ以外には目もくれないところは相変わらずだ。
「案外理性的ねぇ。サラちゃんにはもう少し大胆な誘い方を教えなきゃ」
ミシェルは可愛い生徒のため、次の作戦に向けてひとりほくそ笑んだ
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