第76話 続・ミシェル先生の(ちょっとだけ真面目な)特別講義

 ある日の昼を過ぎた頃。

 同性のサラでさえ目のやり場に困る、胸元が大きく開いた服を着たミシェルが家を訪ねてきた。

「今時間があったら、家に来てくれると助かるんだけどぉ」

 家の中を掃除したら色々なものが出てきたので処分したいが、変なものが混ざっていないか見て欲しい。

 蕩けるような笑顔でお願いしてきたミシェルを見て先日の講義内容が思い出される。嫌な予感がしないでもないが、普段お世話になっている上に解術師として求められているのであれば断る理由にはならない。

 

 いいですよ、と言いかけた口は少しひんやりとした大きな掌で塞がれてしまった。

 見なくてもわかる。それは、いつの間にか背後に立っていたセイアッドのものだ。もう片方の手も、行かせまいとするようにサラの二の腕をしっかり掴んでいた。

 振り仰ぎ見た金色の瞳は、凍えるような冷たい視線で玄関にいるミシェルを射貫いている。けれど彼女は「やぁねぇ、そんなに警戒しないでよぉ。誰かさんより先に食べたりしないから」と不機嫌な魔王の威圧を真正面から受け止めてにこやかに微笑んだ。

 二人の険悪な雰囲気の原因が自分だとは思いもしないサラは、口元を抑えられたまま小さく首を傾げた。



 サラと一緒に家を出ようとしたセイアッドにミシェルは笑顔できっぱり言い切った。

「何もしない男は家に上げない主義なの。だからあなたはここでおとなしく待っていてねぇ」

 セイアッドは不機嫌を通り越し、険のある表情になった。

 サラが焦る一方で、怒りの矛先を向けられているミシェルは何かを含んだ笑みを浮かべている。彼女は表情を全く変えず、突然サラの腕を掴んで自分の方へ引き寄せた。

 引っ張られたサラは蹌踉けてしまい、転びはしなかったが驚いて小さな悲鳴を上げた。

 すばやく身を乗り出したセイアッドにミシェルは顔を近づけ魔族語で囁いた。

「(大事にするのはいいけれど、誰かにとられてからじゃあ遅いのよ)」

 途端にセイアッドの顔から表情が消えた。

「――淫魔風情が」

 唸るように呟かれた声と鋭く細められた目だけが殺気に似た怒気を帯びる。徐々に大きくなっていく魔力が静電気のようにびりびりと肌を刺す。


 咄嗟にサラはミシェルとセイアッドの間に割って入った。それでも無慈悲な視線はサラの後ろに立つミシェルを射貫いたままで、見れば爪が鋭く伸びていく。


 サラは飛びつくようにセイアッドの胸に抱きついた。

 魔王は動きを止め、自分の胸に飛び込んできた栗毛色の頭を見下ろした。

 首が痛くなるほど顔を上げたサラは優しく言い含めた。

「すぐに帰ってきますから」

 回した両手で広い背中を撫でるようにさする。

 サラを見下ろしていたセイアッドに表情が戻り、息苦くなるほど膨張した魔力も消えた。

 いつもの彼に、サラは心の中で安堵した。

一瞬苦しそうに顔を歪めたセイアッドは小柄なサラの肩に額を埋め、覆い被さるように抱きしめた。

「セイアッドさん?」

 呼びかけてもセイアッドは動かない。沈黙が続く。サラは不安になった。

「――サラ」

 耳元で小さく囁かれた声はどこか不安定で弱々しい。

「はい」

 名前を呼ばれたサラは『ここにいます』と言葉の代わりに背中に回した腕に力を込めた。

「――何でもない」

「――そうですか」

 それっきりサラもセイアッドも口を噤んだ。けれど、どちらも自分から身体を離そうとはしなかった。


 元凶となったミシェルは怯えも反省もせず、「やっぱりつがいなのねぇ」と納得したように一人呟いていた。



******



 応接間のテーブルの上には、来ることがわかっていたようにもてなしが準備されていた。

 変わらず美味しい紅茶を一口飲むと、サラは山のように積まれた貴金属と向き合った。全て別人から貰った物らしく、その証拠にミシェルに似合う、という共通点以外は価値も装飾も見事にバラバラだった。


「全部処分するんですか?」

 少し勿体ない、と思う心がサラにそう言わせている。

「もう『良い思い出』だから必要ないの」

 驚くことにミシェルは誰に何を貰ったか、全て記憶していた。

「ちなみにこれは誰から貰ったんですか?」

 サラは高価そうな指輪を何気なく手に取った。肌を刺すような痛みはない。

「それはクロスフォード公爵から貰ったものよぉ」

 クロスフォード公爵と言えば王族の近縁で、庶民で貴族の世界に疎いサラでも知っているほど高名だ。公爵は高齢で、年内に領地であるクロスフォードへ隠棲するとの噂がある。

 軽い気持ちで聞いてしまったことを後悔しながら、サラはそっと指輪を戻した。


「大切にしていたつもりだけど、結構傷ついているわねぇ」

 ミシェルは手前にあったネックレスを手にとって溜息交じりにぼやいた。

「人も同じよね。生きているだけなのにあちこち傷がつく。身体も心も」

 

 その言葉に一瞬でレクスの声が蘇る。


『愛しい人。あなたの心に傷を残してしまうことを許してください』


 あの切ない声を思い出す度に胸が痛む。


『お前に会えて良かった。この思いだけは忘れない』

『ありがとう、レイ。私も忘れないから』


 最後にレイと交わした約束が心の奥で燻り続ける。


「やっぱり――忘れなきゃ――いけないのかな」

 震える声でそう言った後、すぐに「無理だ」と心が否定する。

 セイアッドは忘れろとは言わなかった。けれど二人のことを忘れなければ、何かにつけて思い出し、比較してしまいそうで嫌だった。


「忘れる必要はないんじゃない? 忘れようとするとかえって忘れられなくなるわよ」

 唐突な問い掛けだったにもかかわらずミシェルはサラが何を言いたいのかわかっているようだった。

 サラが顔を上げるとミシェルは柔らかく微笑んでいた。

「あの二人に出会って今のあなたがいる。だから忘れるのではなくて感謝すればいいのよ」

 思いもよらない答えにサラはミシェルを真っ直ぐ見つめ返した。


「悔いが残ってしまうとそれは『苦くて辛い記憶』という傷になる。でもあなたは彼らを呪いから解放したじゃない。暴走したときも誰も傷つけさせずに元に戻したじゃない」

 そう言ってミシェルはサラを優しく抱きしめた。

「サラちゃんは間違っていない。二人が消えたのはあなたのせいじゃないわ。だからもう謝らなくてもいいのよ」

 ほのかに香る香水が心を落ち着かせる。


 自分が契約したことで消えてしまった二人に対し、気付かないうちに罪悪感が芽生えていたことをサラはようやく自覚した。

 ミシェルは労るようにサラの頭を優しく撫でた。その温かい掌に促され涙が溢れてきた。あの夜以降、サラは一度も泣かなかった。泣いてしまえばセイアッドに悪いと勝手に思っていた。

 何かを吐き出すように泣きじゃくるサラに、ミシェルは優しく囁いた。

「今の彼が、きっとそれを傷じゃなくて『良い思い出』に変えてくれるわよ」


 今のサラにはまだその言葉の意味がわからない。でも心の傷は少し塞がった気がした。



 泣いて腫れぼったくなった瞼が元に戻る頃には、貴金属を全て調べ終えていた。幸い呪われているものはなく、ミシェルの怪しくて深い交友関係を垣間見ただけで解術せずに終わった。

 律儀に報酬を用意していたミシェルに、サラは斡旋所を通していない依頼を請けると後々の手続きが面倒なことと、ただ貴金属に触れただけで解術していないことと、泣いて服を汚してしまったことを理由に丁重に断った。

「それじゃあ私の気が済まないわぁ」

 受け取ってくれないならお家賃、倍にしちゃおうかしら。

 物騒なことをぼそりと呟いたミシェルに、サラは目に入ったをみて良い案を思いついた。

「あっ! じゃあ報酬を貰う代わりに、教えて欲しいことがあって――」

途端にミシェルの瞳が輝いた。

「なぁに? あ、男の落とし方ぁ?」

「ちっ、違いますっ!」

 必死になってサラは否定した。



******



 出かける前の件を気にしているのか、少し元気のないセイアッドに夕食の後、紅茶を出した。

「今日は済まなかった」

「何ですか?」

 そう返した直後にサラはすぐに何のことか気が付いた。

「あ、あの時の?」

 返事の代わりにセイアッドは視線を落とした。

「ミシェルさんはちょっと変わっていますけど良い人ですよ」

 視線を上げたセイアッドは顔を顰めている。

「玄関でのことですよね?」

「そうだ」

「ミシェルさんに手を上げそうになったことですか?」

「違う」

 むしろあの程度で済んだことに感謝するべきだ、とセイアッドの顔が物語っている。

「他にありましたか?」

 全く浮かばないサラは真剣に考え始めた。

 人前でサラを抱きしめてしまったことに対してセイアッドは申し訳ないと思っていたのだが、当の本人にはそれが謝罪の理由には該当しないらしい。


 嫌ではなかった――ということだろうか。

 緩む口元を隠すことも兼ねてカップに口をつけたセイアッドは味が違うと気付きサラの顔を見た。

 そのサラは自分のカップに手をつけずじっとセイアッドを見つめていた。

「どうですか?」

 緊張したような表情と妙な気迫に押されたセイアッドは目を瞠ったが、それがどこからくるのかわかり苦笑した。

「――うまい」

「良かった」

 サラは安堵の笑みを浮かべ、ようやく自分のカップに口をつけた。

「この前ミシェルさんに出された紅茶が美味しかったから、セイアッドさんと一緒に飲みたいなって――」

 直後に沸騰した薬缶を止めるためサラは立ち上がり背を向けた。驚いて見つめるセイアッドには気付かず、嬉しそうに話を続けた。

「だから今日はそのコツを聞いて淹れてみたのですが――」

 笑顔で振り返ったサラは、セイアッドの視線に気付き不思議そうに首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「――いや」

 セイアッドは紅茶を勢いよく喉へ流し込んだ。まるで砂漠を彷徨っていた旅人のような飲みっぷりにサラは目を丸くした。

「おかわりしますか?」

「ああ」

 熱い紅茶を一気に飲んだからなのかそれとも別の理由からか、顔と耳を赤くしながら目を泳がせるセイアッドに、サラは苦笑しながらも幸せな気持ちになっていた。

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