第74話

 唇が離れ、目をゆっくりと開けた。目の前には先ほどと何一つ変わらない顔がある。見つめる金色の瞳も、抱きしめる手の温もりも同じ。


 でも、もう違う。


 サラは涙を止めることができなかった。そのうち、息をすることすら苦しくなって思わず俯いた。

「サラ」

 名前を呼ぶ優しい声も同じだ。

「すまない」

 彼はそう言うと優しく胸元に引き寄せた。


 あなたが悪いわけじゃない。


 心の中で叫んでもそれは声にはならず、頭を横に振ることしかできなかった。

 彼がサラの頭を子供をあやすようにぽんぽんと撫でた。

 緊張の糸が少し解けたサラは、おずおずと顔を上げる。

「死者の門の前で助けてくれましたよね?」

 彼は一瞬驚いた顔になったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

「覚えていたのか」

 言いながらサラの瞳から溢れる涙をさりげなく指の背で優しく拭った。

「ありがとうございました。おかげで死なずに済みました」

「お互い様だ。俺の方こそ呪いを解いて貰った。ありがとう」

 見上げるサラに彼は少し視線を落とす。

「お前に出会うまではいつ死んでもいいと思っていた。独りで彷徨いながら、このまま消えてしまっても仕方ないとどこかで諦めていた」

 そこで言葉を止めた。

「でも、今は違う」

 彼は視線を戻すとサラに頬に大きな掌を添えた。

「いつまでも共にいたい。お前にもそう思って貰えれば嬉しいが」

 真っ直ぐで優しい告白にサラは喜びと戸惑いが混ざり合い、ただ見つめ返すことかできなかった。

 けれど彼はそれを予測していたかのように言葉を続けた。

「無理強いはしない。忘れろとも言わない。気持ちの整理がつくまで待つ。だから焦らなくていい」

 心を読まれたようで驚くサラを、優しく包み込むように微笑んだ。

「でも、どうしても無理だと思ったら正直に言ってほしい」


 古風だな。

 そう思ったサラは彼の話し方とどこか懐かしい雰囲気で、あることに気が付いた。


「もしかして、あの日の夜、初めて会った時の――」

 彼は少し思案して、しばらくして合点がいったように表情を明るくした。

「声を掛けてきたので答えたら、いきなり転んだので驚いた」

 そこで彼は柔らかく微笑んだ。

「でも、それまでは誰にも気付いて貰えなかったから嬉しかった」


 腕輪で契約する前とした後でレクスの話し方や雰囲気が微妙に違っていたことがずっと気に掛かっていた。

 けれどそれが今、ようやくわかった。元の人格は全く知らない人ではなく、最初に会っていた。

 サラの胸から不安の雲が消え、同時に申し訳なさが募る。


「ごめんなさい。私、ずっとレクスさんだとばかり」

「――気にするな。あれも一応俺だ」

 そうは言いながらも、少しだけいじけたような表情がおかしくてサラは頬を緩めた。

「だから違う名前を付けてほしい。レクスという名は気に入っていたのだが仕方ない」


『レクスでもレイでもない、俺だけの名前を』


 死者の門の前で、真剣な表情で訴えてきた時の言葉を思い出す。

 窓に目を向けると大きな月が見えた。初めて会った夜もこんな綺麗な満月だった。

月は漆黒の夜に目映い光を放っている。


「セイアッド」

 古代語で月という意味の単語が自然と口をついて出た。

 初めて出会った日も綺麗で大きな月があった。漆黒の夜空に光を放つ月が、レクスでもありレイでもある彼にぴったりだと思えた。

 不安そうに見上げるサラにセイアッドは微笑んだ。

「良い名だ」

 サラも嬉しくなり微笑んだ。


 部屋が少し寒くなっていることに気付き暖炉を確認すると、炎が消えかけていた。

「もう半夜はんやだ。寝た方がいい」

 セイアッドはサラを包み込んでいた腕を解いた。

 あっさりとした行為にサラはどうしてか、少し悲しくなった。

 その場で俯いてしまったサラにセイアッドは首を傾げた。

「どうかしたか?」

「あ、いえ――」

 自分でも説明できない感情に口ごもる。

 セイアッドはそんなサラを見ていたが、やがて口を開いた。

「この前のように横抱きで部屋まで運んでもいいが――」

 サラはぎょっとして顔を上げた。

「そうなると理性は崩壊するだろうから――」

 話の流れがおかしな方向に進んでいることに身体中から汗が吹き出る。

「つい先ほど言った『待つ』という言葉は撤回することになるな」

 セイアッドは真っ直ぐ見下ろすと、綺麗な指でくいとサラの頤を持ち上げた。

「俺はそれでも問題ないが」


 え? ええええっ!


 さわやかな笑顔に騙されそうだが、言っていることは無茶苦茶だ。混乱するサラにセイアッドの顔が近づいてくる。サラは拒むことも受け入れることもできず、慌てて目をつぶった。

 彼の唇が軽く触れていったのは額だった。驚いて目を開けると、セイアッドは面白そうにサラを見下ろしていた。

「これくらいは許してくれるか?」

 どこまでが冗談でどこまでが本気なのかわからなかったが、「待つ」と言った言葉を裏切らなかった彼の律儀さに感謝した。火照った顔のまま、サラは表情を緩ませ頷いた。

 セイアッドも安心したようにふっと笑った。

「おやすみ、サラ」

 セイアッドに優しく名前を呼ばれ鼓動が早く大きくなる。

「お、おやすみなさい」

 サラは密かに呼吸を整えながら部屋を出ようと扉を開けた。

 ひんやりとした空気が部屋の中になだれ込み、サラの身体を撫でていく。澄んだ空気を身体の中に吸い込むと、複雑な感情や様々な思いに塗り込められた心の中が一瞬で鮮明になった。自分でもよくわからないままだった気持ちがはっきりと理解できた。

 振り返ると、セイアッドは先ほどと同じように立っていた。

「セイアッドさん」

 振り返ったセイアッドにサラは大きく息を吸うと、伝えたい思いをそのまま声にした。

「あの、無理じゃないと思うので――だから、もう少し待っていてくれますか?」

 セイアッドは驚いた表情で目を瞠り、しばらくして苦笑した。

「待っている」

 サラは嬉しくなって笑顔になった。




 暗く静かな部屋の冷たいベッドに身震いしながら潜り込み目を閉じる。

 横になると身体が重く疲れていることに気付く。普段とは違う忙しさと緊張の中で一日を過ごしていたようだ。

 

 レクスとレイが消えたことは寂しくて遣りきれなくて、彼らを思い出すだけで胸が締め付けられる。目頭が熱くなり、もう出ないだろうと思っていた涙がまた溢れる。でもセイアッドのおかげで取り残されたような寂しさや不安は少し薄れていた。

 いつになるかわからないけれど、何にも引きずられることなくセイアッドと向かい合える日がくるとサラは予感していた。


 今日は長くて短い一日だった。

 悲しかったり嬉しかったり、寂しかったり驚いたりと、色々思い出したり考えたりすると、頭や心がぐちゃぐちゃになって眠れない。


 目が覚めたら、起きたら考えよう。

 明日も明後日も、少しずつゆっくりでも前に進んでいければいい。

 一人じゃない。彼がいるから。

 

 そう思うと身体も心も少し軽くなったような気がした。

 サラは大きく息を吐き、やってくる微睡みの中へ意識を委ねた。



******



 サラが部屋を出ていった後、しばらくしてセイアッドは溜息を吐いた。


『セイアッドさん』

 サラが本当の俺だけを見て、俺だけの名前を呼んだ瞬間に心が震えた。


『あの、無理じゃないと思うので――だから、もう少し待っていてくれますか?』

 上目遣いで恥ずかしそうに声をふり絞るサラに、自分で言った約束を反故にしてしまうところだった。


 契約は人間で言えば結婚のようなもので、大抵はそれなりに深い関係になっている。

 なのに、サラとはまだ何もない。互いを牽制しあっていたからどちらも手が出せず、一番の敵が自分じゃない自分だったというのも今にして思えば笑える話だが、あの時は必死だった。

 ただ、どちらかが手をだしていたら今の俺は複雑で遣りきれないので、それはそれでほっとしている。


 アスワドがいなくて本当に良かった。付き合いが長いのでわかるが、今の俺を見ればあいつは絶対にからかってくる。

 しぶといあいつのことだ。そのうち、何食わぬ顔でふらりと帰ってくるだろう。


「待つのは嫌いじゃないが、いつまで耐えられるかな」


 セイアッドは溜息交じりに一人呟いた。


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