第56話

「はぁー、どっこいしょ」

 少年の姿には似つかわしくない年寄り染みた掛け声と大きな溜息を吐き出し、アスワドはのろのろ立ち上がり広い場所に移動した。

「洞窟入口の『印』がぎりぎりだな。初めてだけど仕方ないか」

 独り言のように呟くと集中するように目を閉じる。


 転移術は、印と移動先の場所を術者が頭で思い浮かべなければ成功しない。

『印』は転移術を使う際のひょうだ。

 初めて印を付けた場所への転移成功率は、優秀な魔術師でも決して高くない。しかし遠く離れた場所へ転移しようとすればその分魔力も必要になる。

 行き慣れた場所への転移を諦め、初めてでも距離の近い洞窟の外を選んだということは、本当に魔力が僅かしかないのだろう。


 サラは破魔の魔力が術の妨げにならないようアスワドから距離を取り、まだ立ち上がれないでいるレクスの傍に駆け寄った。

 気付いたレクスは背中を壁に寄りかかりながら立ち上がる。

「大丈夫ですか?」

「はい」

 見下ろす表情は柔らかくサラも自然と微笑んだ。

「一緒に帰りましょうね」

 口から自然と出たその言葉が、レクスにではなく自分自身に言い聞かせているようだ、と何となく思ってしまった。

 レクスは微笑んだがすぐに視線を落とした。

「サラ」

 いつも柔らかく名前を呼ぶ声が強ばっている。優しい瞳に憂いの翳りが見える。

 サラの心に不安の雲が広がっていく。

「ここを出たら――」

 言いかけて不意にレクスは表情を険しくさせると、サラの背後に視線を移した。

 つられて振り返ろうとしたサラは突き飛ばされ、蹌踉よろけけながらも何とか転ばずに体勢を立て直した。空気を切り裂く音が耳の傍で聞こえたのはその直後だった。

 何が起こっているのかわからず反射的にレクスを振り返った瞬間、目の前の状況に呆然とした。

 レクスの右肩に剣が深々と刺さっていた。傷はサラの頭の位置と同じくらいだった。

 剣はレクスの身体を貫通し壁にまで達している。それがどれだけの深い傷なのかは一目瞭然だった。

 サラの身体は震え、足が竦む。息を吸うことすら苦しくなっていた。

 レクスは楔のように突き刺さる剣を左手で抜こうとするが、半分以上刃が埋まっている身体では力が入らないようだ。苦痛に顔が歪む。

 サラも震える両手で柄を握ったがびくともしなかった。


「危ないっ!」

 アスワドの叫び声に振り返ると、紅蓮の炎がサラを飲み込もうと近づいてくる。

 逃げなければレクスが巻き添えになる。咄嗟に彼から離れようとしたが震える足は動いてくれなかった。

 硬直してしまった身体に感じたのは、守るように背中に回されたレクスの右腕だった。先ほどまで剣の柄を握っていた左掌は炎を防ぎ、掻き消していた。

 しかし呪術で弱っている身体は完全に炎を防ぎきれず、左手は焼け爛れていた。サラの背中に回された右腕は、傷口を強引に動かしたせいか鮮血に染まっていた。


 目を覆いたくなるようなレクスの姿に、アルトマン家で結界を強引に吹き飛ばし傷を負っていたことを思い出した。

 自分の身がどうなろうとも護ろうとする。

 サラの口は自然と動いた。

「私が引きつけます」

「何を――」

 戸惑うレクスにサラは笑顔を作って見せた。

「転移術が完成する頃には戻ってきます。だからレクスさんもそれまでに自由になっていてください」

「駄目だ!」

「私だって!」

 珍しく怒鳴ったレクスに内心驚きながらも、却下されることがわかっていたサラは、負けまいと声を張った。

 驚いたのは相手も同じだったようで、目を瞠るレクスに静かに口を開いた。

「私だってレクスさんが思ってくれているのと同じくらい、傍にいて欲しいと思っています」

 戸惑うレクスの腕を振り払うと身体を離し、逃げ出したくなる気持ちを断ち切るように振り返った。


 フロウは真っ直ぐサラだけを見ていた。白い髪を己の血で赤く染め、千切れかけている両足を引きずり、一つになってしまった金色の瞳を爛々と光らせ、迷いなく向かってくる。

 視界の端でアスワドの位置を確認する。二つ目の転移術を作り出している途中らしく、魔法陣はまだ重なっていなかった。

 今のアスワドは無防備だ。逃げることも応戦することもできない。しかも転移術は魔法陣に足を踏み入れれば発動する。もしフロウが陣を踏んでしまえばそのまま外に出てしまう。

 一度発動してしまえばアスワドはもう二度と転移術を使えない。サラ達はここから出ることができなくなる。

 しかもこんな怪物を外に出してしまえばどんな事態に陥るのか。

 大切な家族の顔が浮かぶ。


 サラはフロウを睨むとレクスやアスワドからは反対の方向へ走り出した。

「サラッ!」

「無茶だ!」

 二人の非難を背中で受け止めた。

 想像通り、フロウは身体を反転させると、サラを追いかけてきた。両足を怪我しているせいでそれほど速くない。けれど殺気を孕む気配がすぐ後ろにいるような錯覚を覚えさせる。

 

 サラはアスワドが落ちかけた大きな亀裂を前にして、フロウに向き直る。

 傷を負った獣はサラが立ち止まると、まるで勝ち誇ったように大きく吠えた。そしてこれが最後と言わんばかりに巨体で飛びかかってきた。

 焦る気持ちを抑え十分引きつけてから横に避けた。フロウの振りかぶった手は栗毛色の髪を掠り、空を切る。サラが安心したのも束の間、血まみれの巨体は亀裂の淵寸前で着地すると再びこちらへ向き直った。

 サラは一歩後退する。代わりにフロウが一歩踏み出した途端、その足下が崩落していく。宙に浮いた巨体をばたつかるが翼のないフロウは吸い込まれるように落ちていった。

 雄叫びは岩や地面が落下していく音に掻き消された。


 辺りが静かになると、サラはその場に座り込んだ。

「サラッ!」

「大丈夫?」

 二人の声に振り向き、安堵で顔を綻ばせた瞬間、足首を強い力で掴まれた。顔を戻すと、血だらけの浅黒い手がサラの足首をしっかり捕まえていた。鋭い爪は編み上げの革靴を貫通し皮膚にまで突き刺さっている。

 恐怖で竦むサラの前にフロウが割れ目から顔を出した。目が合うとフロウは口を大きく開けた。まるで笑っているようだ。

「や――」

 慌てて後ずさるが、足首を強い力で引っ張られる。身体が土と石の地面に引きずられ皮膚が裂ける。けれど痛いとか摩擦で熱いとか、感じる間もなかった。


 気付けば身体が宙を浮いていた。必死に両手で亀裂の淵を掴み、落下を免れる。

 視線を下を向けるとそこは奈落だった。どんなに目をこらしても、光の届かない底知れない深さだった。

「サラッ!」

 レクスの声が耳に届いた。

 顔を上げた瞬間、背中に響く重い衝撃と突き刺さる痛みを感じ、息も声も止まる。手に力が入らなくなるが、それでも必死にしがみつく。


 背中から何かが引き抜かれた。強い痛みに悲鳴が漏れる。

 痛む背中で何とか振り返ると、鮮血で染まる五本の指を恍惚とした表情で舐め取っているフロウがいた。

「放さないと言っただろ?」

 いつの間にか瞳の色や自我を取り戻している。不思議に思いつつも自分に向けられる狂気と執念に肌が粟立つ。

「待ってて!」

 術が完成したのか、アスワドの足音が近づいて来る。

 けれどサラの身体は限界を越えていた。痛む背中からは心臓が鼓動をする度に何かが溢れ出ていく。掴んでいる腕は痺れて感覚がない。視界がどんどんと狭く暗くなり、意識が薄れていく。

 フロウは鋭い爪で岩に食い込ませていた左手を抜き取り、両腕でサラの身体を抱え込んだ。

「俺が死ぬならお前も一緒だ。傍にいろ、永遠にな」 

 呪詛のような言葉を耳元で囁き、フロウは躊躇なく壁を蹴った。


 伸ばされたアスワドの手を掴むことができず、サラはフロウと共に深淵の闇に飲み込まれていった。

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