第55話
何も考えていなかった。身体が勝手に動いていた。大きく口を開けた地面に吸い込まれていくアスワドに手を伸ばしていた。
細い左手首を掴んだ瞬間、手に小さな無数の針を押し当てられている様な痛みと、腕が肩から抜けてしまいそうな衝撃に手を放してしまいそうになった。
この手が離れてしまえばアスワドは深く暗い地の底へ落ちてしまう。呪いも消せず友人も救えず、独り闇の中に消えてしまう姿を頭の中から掻き消した。
サラは痛みを堪え、地面にうつぶせのまま上半身を亀裂に乗り出し、左手でも彼の手を掴んだ。両手に呪術による痛みが走る。千切れそうな腕の激痛と相まって、漏れそうになる悲鳴をなんとか飲み込んだ。
アスワドは足掻くことも暴れることもなく、ただ驚いたようにサラを見上げたまま呆然としている。
「手を掴んで!」
「どうして?」
アスワドは不思議そうな顔をしている。
場違いな雰囲気にサラは顔を顰めた。
「どうして俺を助けるの?」
命の危険に晒されながらも間の抜けた質問に苛立ち、つい声を荒げた。
「た、助けるのに理由なんていらないでしょ!」
「俺は君のつがいを封印しようとしているんだよ?」
アスワドはまるで他人事のように青ざめることも焦ることもなく淡々と口を動かす。
「君がこの手を放すだけで厄介な邪魔者を消すことができるんだよ? このままだと君まで落ちてしまうよ。手を放すだけでいい。簡単でしょ? 手が滑ったとか後で理由を付ければ良心の
アスワドは全てを諦めたような、あの笑顔を見せた。
サラに怒りがこみ上げてきた。
「そうですね――なんて言うと思ったら大間違いだから!」
思わぬ剣幕にアスワドは目を瞠っている。
「そんな捻くれた根性のまま逃げるなんて許さない! あなたにはレクスさんとか捕まった解術師の人とか私とか――とにかく、謝るまで逃がさないから!」
うつぶせのまま滅多に出さない大声で怒鳴ったせいか、サラは息苦しくなり、一旦深呼吸をした。
「呪われたまま死ぬなんて、許さないんだから――」
それでも息苦しさは解消されず、サラは再び大きく息を吸った。
「君は馬鹿だね」
真顔で見上げるアスワドの瞳から暗い翳が消えているように見えた。
「お人好しというか甘いというか、それじゃ苦労でしょ?」
サラは抗議しようとしたが手の痺れと息苦しさには勝てなかった。
「あの、ちょっとしんどいから、続きは、上がってからでいいですか?」
「そうだね」
アスワドは苦笑して右手を差し出した。
地面が再び激しく揺れる。アスワドの身体が振り子のように揺れ出した。力が入らなくなっている指先と汗を掻いている掌では、揺れ出した少年の腕を掴み続けることが難しい。
「早く――掴んでっ!」
アスワドは必死に右手でサラの手を掴もうとするが、大きく揺れる身体のせいで掌が何度も空を切る。さっきまでアスワドの手首を掴んでいたはずのサラの両手は、彼の掌を何とか握っている状態だ。必死に力を込めるサラの指からアスワドの掌がゆっくりと滑り落ちていく。
「お願い――誰か」
震える声が漏れた瞬間、腕が伸びアスワドの右手をしっかりと掴んだ。
サラとアスワドをレクスは軽々と引き上げた。
******
アスワドが地面に腰を下ろしたことを確認してサラはレクスを見た。
身体中に傷を負っている上に進行した呪術のせいで座っていることすら辛そうだった。フロウは神殿の真ん中で仰向けに横たわり動かない。
「レクスさん、大丈夫ですか?」
レクスはサラを安心させるように微笑んだ。
「よくそんな身体で今まで生きていられたね」
アスワドはサラと目が合うと「俺が言える立場じゃないか」と肩を竦めた。
「今はここを出るのが先――」
言いたいことをとりあえず飲み込み、サラは出口に目を向けて――愕然とした。外へと繋がる唯一の脱出口には大小さまざまな岩が積み上がり、壁と化していた。
「嘘――」
「さっきの揺れで崩れちゃったのか」
アスワドは絶望的な状況でもやはり淡々としていた。
三人をあざ笑うかのように洞窟がまた揺れ出した。天井や壁も崩落し始めており、誰もがこの空間の最後を感じ始めていた。
サラはしばらく考えた後、口を開いた。
「まだ魔力は残っていますか?」
視線の先のアスワドが口を開く前に「嫌です」とレクスがすかさず却下した。
こんな時にあの「嫌」を聞くとは思わなかった。
サラは呆れつつ、レクスを見上げた。
「まだ何も言って――」
「転移術を使っても、あなただけを置いてはいきません」
考えを見抜いていたレクスの非難にも似た強い視線に、サラはつい俯いた。
歩いて脱出できないのであれば外へ出る方法は転移術しかないが、破魔の力を持つサラは利用できない。レクスやアスワドまで付き合う必要はない。田舎に帰るのとは訳が違う。
このままでは三人とも生き埋めになってしまう。
だったら、せめて二人だけでも――。
「術を重ね掛けすれば破魔の巫女でも出られるって言いたいんでしょ?」
重い沈黙を破った少年の声にサラは顔を上げた。レクスはそうだ、といわんばかりに一瞥する。アスワドは大きく息を吐いた。
「結構疲れているのになぁ。ま、半分は俺のせいだし、仕方ないか」
半ば投げやりになって頭を掻くアスワドにサラは身を乗り出した。
「できるの?」
アスワドは呆れたようにサラを見上げる。
「自分が攫われそうになった時のこと、もう忘れたの?」
すっかり忘れていた様子にアスワドは苦笑した。
「それができないと君を連れ去れないでしょ」
「じゃあ――」
「ただし――」
明るい顔になったサラの言葉を遮って、アスワドは背伸びをすると腕を伸ばして首を回した。
振り返ったその顔は初めて見せる、余裕のない表情だった。
「もう魔力がないから一回だけ。失敗すると普通の転移術すら使えなくなるからね」
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