第54話

 涙が溢れ視界が滲む。会いたかったその人の姿が歪みだす。もっとちゃんと見たくて、確かめたくて、足が勝手に動いていた。

 こちらに背を向けているフロウの脇を走り抜ける。

 背後でフロウの気配を感じた。けれどレクスの放った魔法がサラの横を通り抜け、絶叫と轟音と共にそれは消えた。


 砂煙が舞う中、レクスの胸に迷いなく飛び込んだ。レクスはサラを受け止め、しっかりと両腕で包み込む。

「消えてしまったかと――会いたかった」

 埋めていた顔を上げる。間近で見てもレクスの顔は左目しかわからないのは、舞う砂埃のせいではなく呪術のせいだ。それでも彼はやはりレクスだ。その瞬間、サラの胸の中でずっと抑えていたものが一気に膨らんだ。

「ずっと傍にいるって言ったのに、何も言わないでいなくなるなんて酷いよ!」

 普段は絶対に口にしない、子供じみた言葉が涙と一緒にあふれ出て止まらない。でも声にして言わなければまたレクスが消えてしまいそうで、思いのたけを全部吐き出した。

「すみません」

 レクスはひび割れた声で謝った。抑揚の少ないその声に戸惑いと申し訳なさが滲んでいる。

 サラは彼の背中にまわしていた右手でレクスの頬の辺りに添えるように触れた。掌の触れた部分から色が薄くなっていく。しばらくすると表情がわかるくらいまで戻っていた。そっと手を離しても、それ以上呪術が進行することはなかった。

「大丈夫ですか? 苦しくないですか?」

 言い慣れた台詞が自然と口を突く。けれどそれは解術師として尋ねた言葉ではなかった。

 レクスは少し顔を曇らせ、掌で包むようにそっとサラの頬に触れた。

「あなたはいつも人の心配ばかりしていますね」

 頬がじんわりと温かくなり、それが治癒術だと気付いた頃には大きな掌は離れていた。

 レクスは黄金の瞳を揺らし俯いた。

「この手であなたを傷付けてしまう前に消えてしまおうかと」

 躊躇いに掠れるその声は幾分ひび割れているものの元の声に戻りつつあった。

「けれど、誰にも触れてほしくないし渡したくない」

 そう言うと顔を上げサラの背後に強い視線を送った。

 レクスはサラの両肩を優しく掴んでそっと身体を離した。

「あれにも――」

 視線の先に山となった瓦礫を弾き飛ばし、獣のような咆哮を上げるフロウが姿を現した。角は無残に折れ溢れる血で真っ赤に染まる身体は誰が見ても満身創痍なのに、金色の瞳は黒く変化した強膜の中で異常なまでの光を放っている。

「――もう一人の自分にも」

 驚き見上げるサラをレクスは自分の背後に庇った。

「不本意ですが、彼のところへ行ってください」

 視線で指し示した先にいたのはアスワドだった。サラと目が合うとにっと笑い、まるで友人を呼ぶかのように手招きした。

「でも――」

 レクスは優しく言葉を続けた。

「あなたには危害は加えません。護ってくれます」


 アスワドは王を再び封印すると言った。本心か偽りかはわからない。呪いに蝕まれ、歪んでしまった感情を吐き出しただけかもしれない。でもその言葉を聞いてしまったことで、彼はサラにとって敵ではないかもしれないが、味方ではない。だからレクスの願いも素直に受け入れられずにいた。

 自分の大切な人を窮地に陥れた首謀者に護ってもらうことも嫌だった。

 

「お願いです。あなたを傷付けたくない」

 レクスの声に含まれる焦りを感じ、サラは自分の感情を押し殺して頷いた。


「レクスさん」

 サラは振り向いたレクスの胸元を両手で掴み、思い切り引っ張った。珍しく驚いている顔が近づいてくると同時にサラは背伸びをして目を閉じた。

 冷たい感触が唇に触れたのを確認して、踵を地面に落とす。自分も顔や耳がものすごく熱い。サラは恐る恐る目を開けた。

 そこにはさっきと寸分違わない、驚くレクスの顔があった。恥ずかしさと沈黙に耐えられず、サラは口を開いた。

「こ、今度勝手に消えたら許しませんから! 約束ですよ!」

 照れ隠しの強い口調になってしまったがレクスは苦笑するように微笑み、はっきりと答えた。

「はい」

 サラが走り出すと同時にフロウが雄たけびを上げながらレクスへ向かってきた。


 

 駆け寄ってきたサラにアスワドは少年の顔で大人びた笑顔を見せた。

「しばらくここで大人しくしていてね」

 それでも素直に頷けなかったが、頭のすぐ上を通過した石の欠片に首を竦めると、慌てて自分とそう変わらないアスワドの背中に隠れるように回り込んだ。

「――お世話になります」

「それはそうと、あれは誰?」

 アスワドの表情は声動揺、深刻なものだった。胸に一抹の不安がよぎる。

「誰って――」

 あなたの知っている王じゃないの? 

 けれどその言葉は喉に張り付いて出てこなかった。

「あんな感じだったかなぁ? でも別人格にしてはやけにまともだし――」

 うーん、と唸りながらアスワドは首を捻った。そして前触れもなくサラを振り仰いだ。

「ねぇ、彼はいつからいるの?」

「最初に会った時――から――」

 言いながらサラは契約する前のレクスとその後のレクスの言葉使いや雰囲気が微妙に変化していたことを思い出していた。

「じゃ、もう一人が後から出てきたんだね」

 サラは不安を拭い去るように慌てて頷いた。

 アスワドは顎を少し上げ、こんな状況下で何か思案し出した。

 サラは動かなくなったアスワドの肩を掴み、その身体を強引に反転させた。何事かと驚き目を瞠る顔を真正面から見据え、訴えた。

「それより先に結界を解いて!」

「――え?」

 瞬きを繰り返すアスワドに語気を強める。

「あなたが張った、呪術を強める結界!」

 ようやく合点した様子のアスワドは「あ、そうだった」と小さく指を鳴らす。

「はい、終了」

 乾いた音が洞窟内に響いただけでサラには何が変わったのかわからない。あまりにもあっさり了承したアスワドにサラは疑いの眼差しを向けた。

「――本当に?」

「嘘じゃないってば」

 アスワドは心外だと言わんばかりに口を尖らせた。

 レクスを見ると、外見的には何も変わっていない。

「進行した呪術は結界を解いても戻らないよ」

 客観的で淡々とした口ぶりにサラは少年の顔を睨み付けた。

「誰のせいで――」

「それよりも」

 アスワドは抗議の声を意に介さず遮った。

「あいつの目、真っ黒でしょ?」

 フロウの黄金の瞳は黒一色の眼の中で爛々らんらんと輝いている。

「あれが暴走の証拠。強膜きょうまくが黒くなるんだ」

「じゃ反対に、黒くなっていなければ暴走していないってこと?」

 そうだよ、とアスワドは頷いた。

 暴走しているフロウは剣を放り投げ、牙を剥き出し、素手でレクスに襲いかかっている。言葉を発せずただ獣のように唸るその姿に知性や理性は感じられない。闇雲に突っ込んでいっては避けられ、壁に激突している。けれど雄叫びを上げながら立ち上がり再びレクスに向かっていく。

「やっぱり暴走すると厄介だねぇ」

 レクスの剣が身体を切りつけ貫いても、呻くことも怯むこともしない。痛みも恐れも感じていないような姿にサラ言葉を失った。

「ああなると自我のない怪物だ。あんな姿は見たくないんだ」

 独り言のような呟きは、本当は別の誰かに向けられたもののようだった。

 

 コルヴォに会った日の乱闘の時にサラの首を絞めたのは、レイが暴走したと思い込んでいた。でも目に変化はなかったし、言葉を発し会話も成り立っていた。

 

 何かが違う。

 サラの胸に巣くう違和感はどんどんと大きくなっていく。


「そうそう。俺たち以外は邪魔だから外に出したよ」

 アスワドは思い出したようにサラを見た。

「他の人って――」

「君たちと一緒に来ていた騎士や学者」

 思わぬ言葉にサラはアスワドに詰め寄った。

「生きているの?」

 アスワドは当たり前のようにサラを見た。

「年を取ると何事も面倒になってね。ちょっと眠らせたよ」

 あの獣人と魔人が一番大変だった、とアスワドはげんなりした表情で呟いた。それが誰のことなのかサラは安堵と喜びで顔が緩んだ。

「一応殺すなとは言っておいたけど、あいつに見つかった人は運が悪かったと諦めるしかないね」

 フロウの血に濡れた刃を思い出し、サラは視線を落とした。

 

 大きく息を吸ったアスワドが肩を回し始めた。

「さて、アレを大人しくさせるか」

 一歩前に出てフロウに向けて手を翳そうとした直後、周囲の壁や天井のあちこちに亀裂が走る。

 洞窟は己に刻まれた傷に耐えきれなくなったように大きく震えだした。揺れは今までに感じたものより遙かに大きく、サラは立っていられずに座り込んだ。

 低く唸るような地響きと共に、前触れなく地面に亀裂が刻まれる。両足で踏みとどまっているアスワドの足下を雷のように走り抜け、次の瞬間、暗く深い口を大きく開けた。

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