第40話
家に帰るとレクスと別人格の男――どうやら呪術のせいでわかれてしまったもう一つの人格――に名前を付けるよう頼まれた。確かに、元は同じとはいえ二人とも「レクス」だとややこしい。前は「ラー・シャイ」と呼ばれていたらしい。
「思い出したならその名前でいいんじゃないですか?」
彼は呆れた様に見下ろした。
「じゃあ呼んでみて」
「何を?」
「名前。ほら」
言ってみろ、と言わんばかりに顎をしゃくる。サラはむっとしつつ声に出した。が、正しく発音できなかった。魔族語はサラが普段使わない発音ばかりで「ラーサイ」とか「ヤーサッイ」と言っては彼を大いに笑わせてしまった。
無表情しか見たことのない顔が大口を開けて笑っている違和感に戸惑う。けれど楽しそうにしている姿にどこかほっとしていた。ただ、あまりに笑われるのと発音のおかしさに恥ずかしくなる。でも彼は意地悪く笑うだけでサラが舌を噛むまで止めさせてくれなかった。
「だから、ちゃんと発音出来る名前を付けて欲しいんだ」
彼は見上げるサラを見つめ「呼んでもらえない名前なら意味はないだろ?」と寂しそうに微笑んだ。
サラは何と答えて良いかわからず、ただ見つめ返すだけしかできなかった。
「それに俺はこの名前があまり好きじゃない」
「どうして?」
「無という意味だから」
彼の表情は悲しみを堪えるためにわざとふてくされる子供のように見えた。
サラはしばらく考えて「レイっていうのはどうですか?」と提案した。
「古代語で『光』という意味です」
レクスが静かに
「――言いにくくないか?」
荒くれ者を簡単にのした男の、怖々とした言い方が可笑しくてサラは思わず苦笑した。けれど見上げると金色の瞳は不安そうに揺れていた。サラは表情を戻して真顔で頷いた。
「レイさん」
レイはサラの顔をじっと見つめたままだ。不安になり「嫌ですか?」とつい聞いてしまった。
「嫌だ」
はっきりとした拒絶の言葉に落ち込む。けれど俯き掛けたサラにレイは言葉を続けた。
「さん付けは止めろ」
驚きと困惑で顔を上げたサラにレイは呆れた表情で口を開いた。
「他人行儀で嫌だ」
「他人ですよ」
「お前は大人しそうな顔をして意外にきつい事を言うな」
「だって呼び捨ては――」
レイは小さく舌打ちし、渋るサラの両頬を指でつまみ上げた。
「にゃ!」
突然の行動に驚いておかしな声が漏れた。
「呼び捨てにしないとこの頬がたるむぞ」
レイは意地悪い笑みを浮かべ、ほらほら、と指を引っ張り上げた。痛くはない。けれど伸びきった自分の顔を思い浮かべサラは慌てた。
「や、やめてください」
レイの指を引き剥がそうとするが全く動かない。
「サラ」
名前を呼ばれてサラは視線を上げた。レイはつまんでいた指を解いてサラの両頬を掌でそっと包んだ。
「名前だけで呼んでくれないか」
縋るような瞳があった。自然とサラは自分の掌を彼の手の甲に添えていた。
「――レイ?」
緊張と慣れないせいで調子が疑問形になってしまったが、それでもレイは嬉しそうに笑った。見下ろす瞳は穏やかで優しかった。
レイはレクスが座っていた同じソファーの場所に腰を下ろすとサラを手招きした。首を傾げるサラに「傷を治すから」とぶっきらぼうに言い放った。
「すぐ治るし――」
レイは立ち上がり手首を捕まえてサラを強引に座らせた。
自分で取る、と必死に拒むサラにレイは「大人しくして」と強い口調で制し、反対に優しい手つきで包帯を取っていく。サラは無性に恥ずかしくなり、目の前の顔を見ることができない。所在なく目を泳がせ、頭の中で複雑な術式を解くことでその場を凌いだ。
そんなサラをレイが楽しそうに笑って見ていたことなど知る由もなかった。
冷たい掌が首に触れ、サラは小さく肩を震わせた。それは肌に感じる冷たさや僅かに残る恐怖心ではなく、彼に優しく触れられて跳ね上がった心臓の鼓動からくるもので、顔や耳は一瞬で熱くなった。
昨日もレクスに傷を治して貰った。けれど実際に目にするのは初めてで、無詠唱であっという間に傷を治したことにサラは恥ずかしさや照れを忘れるほど感心した。大きい掌が首から離れた途端、どうして呪文を唱えなくても術が使えるのか、呪術で封印されているのに体調は大丈夫なのか、など質問攻めにしていた。レイは呆れたような表情を浮かべながらもきちんと答えた。
サラが満足して一息吐いたところでレイは「悪かった」とぼそりと呟いた。
視線を合わせずに謝る魔族に、サラは幼い弟妹の姿を重ね合わせ自然と口元が綻んだ。
「もう大丈夫ですから」
レイは表情を明るくしサラを抱きしめた。潰されてしまいそうな勢いだったためサラは色気ではなく命の危険を感じる。
「レイ――く、苦しい」
「お前が好きだ」
抗議を一切受け付けず突然真っ直な感情をぶつけてきたレイにサラは戸惑う。
ふと腕の力が緩み、見上げたサラの視線が金色の瞳とぶつかった。
「お前が俺をどう思っているかわからない。でも俺はお前が好きだ」
何故か涙が溢れそうだった。嬉しいのか悲しいのか自分でもわからない。サラは頷くだけで精一杯だった。
「それだけは言っておきたかった。驚かせて悪かったな」
レイは何故か悲しそうな表情で微笑み、身体を離すとサラの頭をあやすように撫でた。
彼の記憶は戻っていない。まだ自分が何者か、巫女とは何なのかわかっていないだろう。だからこの言葉に嘘はないとしても、今の生活が仮初めに過ぎないことをサラは知っている。
巫女が現れ、呪術が解ければ彼は元に戻る。
レクスとレイだった頃の記憶は消えてなくなるかも知れない。
でも――。
私もあなたが好きです。いつか、離れる日が来ても。
その言葉は零れそうな涙と一緒に飲み込んだ。
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