第39話 闇を彷徨う
思い出せたのは、友と思っていた男の仕打ちだった。暴走を止められる手段がない、と言って呪術を掛けた。
それならば殺せばいい。いつ現れるとも知れない巫女を待ち続けるなど性に合わない。
けれどアスワドはそうしなかった。巫女が見つかる前に暴走した時は呪殺術で死ぬよう仕掛けたくせに「殺したくない」と言った。
身勝手で都合の良すぎる言い訳にどす黒い感情が煙のように広がっていく。
頭が割れるように痛い。呼吸がままならないほど胸が苦しい。
何も考えられなくなり、目の前の邪魔なものがなくなれば楽になる――それだけが俺を支配する。
まずは目の前の男から消してしまおうと手を伸ばす。
指先にかかる寸前で術に捕らわれた。禍々しい鎖が巻き付くと、身体を焼かれ、千切られ、砕かれているような痛みが全身を襲う。
意識はぶつりと途切れた。
どのくらい経ったのか。
朧気ながらその存在を感じ、気が付けばすぐ傍にいた。
あれだけ求めてやまなかった彼女が傍にいる。けれど忌々しい鎖に捕らわれた身体は動かせず、声も出せず、意識も保てない。記憶は靄がかかったように曖昧で、どうして彼女をこんなに愛おしいと思うのかわからない。
そして、俺じゃない俺が彼女の傍にいた。俺だけがどす黒い感情と一緒に鎖に捕らわれたままだった。
お前も俺も同じだ。なのにどうしてお前だけ自由なんだ? どうしてお前だけ彼女に触れていられるんだ?
彼女は微笑む。その瞳はこちらを見上げ、その唇がこちらに話しかける。けれどそれは俺に対してじゃない。
彼女に触れるその手は、その身体は俺じゃない。俺には何も感じられない。
彼女の傍にいると強く食い込んでいた鎖が緩む。そのせいか俺じゃない男は俺という存在に気付くようになった。
怯えていた。
俺が勝手に身体を動かしたと思っている。
そうじゃない。
お前も俺だ。
俺が仕向けた訳じゃない。元は同じだ。だからお前がしようとしたことはお前自身が望んでいることだ。
けれどあいつは彼女を避け始め、離れようとしている。傍にいたいと願っているのに、自分の感情に戸惑い逃げようとしている。
彼女に触れていられるお前が彼女を守らなくてどうする?
必死に叫んでも、もう一人の俺には届かなかった。
あいつが意識を失った隙に、どす黒い感情と鎖を身体に巻きつけたまま強引に浮上した。
ようやく彼女は俺を見た。
嬉しかった。触れたかった。
記憶は戻っていないのにずっと抑えてきた思いのままに身体は動く。
けれどその瞳は俺じゃない俺を探し、その唇が俺を拒絶する。
違う。同じなんだ。
あいつも俺も同じなのに、なぜあいつだけを求める? どうして俺じゃない?
同じなのに、どうして俺だけを恐れる?
その瞬間、全てがどうでもよくなった。
呪いも命も、何もかも。
あの時と同じくどす黒い感情が、鎖の隙間から身体中に満ちていく。
割れるような頭の痛みに藻掻く指が彼女の細い首に食い込んでいる。胸が苦しく息を吸おうと開けた口が勝手に動く。どす黒い感情が勝手に身体を動かし、勝手に言葉を発し続ける。
彼女を恐れ「邪魔だ」と言い放つ。だから彼女を殺そうとしている。
「こいつは壊れる」
そう自分の発した言葉の意味に気が付いた。
俺たちが壊れた後、このどす黒い感情が暴走という形で身体を支配することに。
彼女は苦しそうな表情の中で僅かに微笑み、指先を伸ばす。頬に優しく触れた瞬間、どす黒い感情は一瞬で霧散した。
彼女だった。
俺たちを救ってくれるのは、俺たちが守るべきは彼女だ。
怯える彼女を強引に腕の中に閉じ込めた。彼女が触れるだけで暗い感情は消えていく。むかつくような胸の苦しみや割れるような頭の痛みが消えていく。
慈しみや優しさは全てあいつが持っていってしまったようだ。俺にはそういう部分がすっぽりと抜けている。優しい言葉をかけたいのに、優しく触れたいのにその加減がわからない。だからいつもあいつがしているように、見よう見まねで彼女の髪に触れてみた。
柔らかくて脆かった。すぐに壊れてしまいそうな彼女を感情に呑まれたとはいえ、傷付けたことが腹立たしい。綺麗に巻かれた真新しい包帯が視界に入る度に嫌になる。
ずっと言えなかった言葉を、ずっと言いたかった言葉をようやく口にした。嘘や偽りはない。俺も、もう一人の俺も心からそう思っている。もっと上手な言い方があったのだろうけど、俺にはこれが精一杯だ。
彼女が目の前からいなくなってしまったら、あの言葉通り、俺たちは壊れてしまうのだろう。暴走という形で全てを無に帰すのだろう。
世界も自分自身も。
でもそれでいい。
彼女のいない世界には何もないのだから。
永遠の闇の中を、孤独に
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