第38話

 男がゆっくりとした動作で左手を伸ばしてきた。サラは痺れたように動かない足を何とか後ろへ下げる。

 指先から遠のくと男は眉間に皺を刻んだ。そして唯一繋がっている手に力を込めサラの身体を強引にたぐり寄せた。

「やっ――」

 驚きと恐怖で声が唇から漏れる。けれどそれはすぐに男の胸板で塞がれた。自由な右手で胸板を押し返そうと藻掻もがく。

 男は暴れるサラを腕の中に閉じ込め「大人しくしろ」と低い声と囁いた。

「離――」

「無理矢理大人しくさせた方がいいか?」

 首を絞められたときの光景を思い出し、サラは抗議の言葉と空気を一緒に飲み込んだ。


 レクスの腕の中にいる。はたから見れば抱き合っているようにしか見えないのに、今のサラには恐怖心と緊張感しかない。目を合わせないよう俯き、息を潜めてただじっとしていた。早打ちしている自分の心音だけがやけに大きく聞こえる。


 無言の男はサラを腕の中に捕らえたまま何もせず動かない。

 その内、いつまでこうしていれば良いのだろう、と緊張感が緩んでくる。拘束する腕は優しく包み込むようで、抱きしめられているような錯覚を起こさせる。

 髪をくように風がそよぐと、緊張で汗ばんでいる皮膚に新鮮で冷たい空気が触れる。昨日からずっと頭に篭もっている熱が発散されるようで、すっきりした気分になる。


 ふと自分を抱きしめている男に意識が向く。

 いつも傍にあった温もりと匂いと耳元で聞こえる規則正しい鼓動がサラを安心させ、緊張の糸をほどいていく。

 次第に瞼が重くなる。昨日は襲われたりレクスから避けられたりカイの過保護が久しぶりに暴走したりと、色々なことがありすぎてよく眠れなかった。その騒動は現在も進行中で、自分が思っている以上に疲れていたようだ。

 

 少しだけなら大丈夫かな。


 拒絶するように固く握り締めていた右手で男の服をそっと掴むと、サラはゆっくり目を閉じた。


 優しく労るように髪を触られている。覚えのある指先の感触に、意識を取り戻したサラは顔を上げた。目の前にいた見知った顔に笑顔になりかけたが、レクスと同じ顔をした男は驚きの表情を浮かべていた。

 レクスではないことを改めて思い知らされ、サラは俯いた。

 男の指が髪からそっと離れる。

「あいつはお前から離れようとした。それでは困る」

 その声は愚痴のようにも言い訳のようにも聞こえ、サラは顔を上げた。あの乱闘で見せた無慈悲さや冷徹さは感じられず、恐怖は薄らいでいた。

「あいつ、ってレクスさん?」

「だから少し大人しくしてもらった」

「どうして――」

 そう言いかけてサラはレクスに避けられていたことを思い出した。


「離れたいほど嫌になったの?」

 レクスには怖くて聞けなかった。だから目の前の男が彼ではないと知りつつ、知っているからこそ尋ねていた。誰でもいいから心に刺さったままの棘を抜いて欲しかった。


 語尾が少し震えていることに気付いたのか、男は僅かに目を瞠るとサラの頬を伝う涙を拭った。レクスと同じ指が触れる。でもその触り方はまるでガラス細工に触れるように恐る恐るだ。


 男はしばらく無言だったがやがて口を開いた。

「お前には呪いを解いて貰わなくていけない。今離れれば呪いを解くどころか死ぬだけだ」

 サラの求めていた答えではなかった。抜けなかった棘は更に深く食い込み、疼き出す。堪えることに疲れ、自暴自棄で口を開いた。


「首を絞めて殺そうとしたのに? 私が死ねばあなたは呪いを解かなくても自由になれるって言ったのに?」

 責めるような口調で八つ当たりしている自分に気付き目を伏せた。

「あれは――悋気りんきだ」

 男は手を上げることも怒ることもなく、ただ申し訳なさを滲ませて呟いた。

 聞き慣れない言葉にサラは男を見つめる。男はきまりが悪そうにサラから視線を外すと、その場を取り繕うように口を開いた。

「本気ならその細首はすぐに握り潰している」

 頑丈そうな猿男のいびつになった頭を思い出したサラは、恐怖で視線を落とした。

「傍にいる」

 意外な言葉にサラは視線を戻す。男は目が合うとふと笑った。

 レクスと違い表情や感情を前面に出す男に戸惑いつつも、その笑顔に顔が熱くなっていく。

「俺がお前を守る。誰にも渡さない。だからお前も勝手に死ぬな」

 男は真剣な表情でサラを真っ直ぐに見つめ返している。

 聞きようによっては愛の告白とも取れる台詞にサラは口籠もる。そしてまだ自分が腕の中で抱きしめられていることを思い出した。


どうしたらいいのか、火照った顔で混乱するサラに男は不敵な笑みを浮かべて言葉を続けた。


「お前が死んだらこの世界はなくなるからな。覚えておけよ」


 やっぱり魔王だ。

 サラは慌てて頭を縦に振った。

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