第7話

 レクスと同居を始めて一週間が経った。自分から言い出したとはいえ、家族以外の男性と一緒に暮らすということに多少の不安があったが、それも杞憂に終わった。押し倒されることもなければ、寝込みを襲われることもない。レクスはサラの嫌がるようなことはしないし、お願いすると素直に聞いてくれる――ただあることを除けば。

「レクスさん、そろそろ離れませ」「嫌です」

 耳元で囁かれた、やや食い気味の慇懃いんぎんで揺るがない否定にサラは小さく溜息を吐いた。

『あなたの命が消えるその時まで傍にいます』

 その言葉通り、レクスはいつもサラの傍にいた。風呂場やお手洗いや寝室にはさすがについてこないが、それ以外はほぼ同じ空間にいる。しかも居間で本を読んでいる時は、まさに今がそうだが、レクスに後ろから抱きかかえられている。小柄なサラの身体はレクスの長い足に挟まれ、腰は長い腕に巻きつかれすっぽりと包まれている。

 最初に抱きつかれた時はさすがに驚いた。しどろもどろになりながらもレクスに理由を尋ねてみたが「傍にいたいので」と端折りすぎてよくわからない答えだった。読書に集中できないので止めて欲しいとお願いしても、これだけは受け入れてくれなかった。

 サラの予測した通り、契約後の呪術は進行が止まっている。けれどレクスの身体に掛かる負担は、軽減されただけで解消されてはいない。

 レクスは弱音や愚痴を口に出さないが、もしかすると『破魔』の魔力に直接触れることで呪術の痛みや苦しみが和らぐのかもしれない。

 身体が楽になるからくっついているのだろう。そう思うことにした。これも解術師としての務め、と無理やり割り切り、読書中の抱きつきに関しては容認した。

 レクスが妙な気配や変なちょっかいを出さないせいもあり、サラは傍にいられても抱きつかれても、気にならないし鬱陶しいとも思わなかった。流石にこれだけ密着されればサラには緊張や照れがあるものの、魔族は人間より体温が低いことも幸いしているのか、心地よい温もりに家族と離れて暮らす寂しさが和らいでいることも事実だった。


「何を読んでいるのですか?」

「これは、か――」

 反射的に見上げたサラは、背後から覗き込んでいたレクスの顔がすぐ目の前にあることに驚き呼吸を止めた。あっという間に熱くなる顔を慌てて背けると、本の文字を目で追い、強引に解術師の頭に切り替えた。

「か、解術全典といって解術に関する知識や方法が載っています。解術師なら必ず持っている教科書みたいな本です」

 レクスの身体に刻まれている術式を調べた結果、三つの術は二つの『封印術』と一つの『呪術』だとわかった。

 力や魔力を封じる『封力封魔術』。

 場所や物に物質を封じる『留置封印術』。

 徐々に命を削る『呪殺術』。

 このうちレクスが自由に出歩いていたことから、留置封印術は不完全ではないかと見立てている。

 不完全な術は解術し易い。一つでも呪術が解ければ記憶も少しは戻るかもしれないと考えたサラは改めて『留置封印術』の術式を頭にたたき込み、分厚い本を閉じた。

「これから解術をしたいのですが、いいでしょうか?」

 今度はゆっくりと振り返る。目が合ったレクスは何故か不機嫌そう眉根を寄せていた。

「レクスさん?」

 不思議そうに見上げるサラにレクスは抱き締める腕に力を込めた。

「具合悪いですか? どこか痛いですか?」

 心配するサラの肩にレクスは深い溜息を吐きながら顔を埋めた。しばらくして「仕方ないですね」と呟き、名残惜しそうに離れていった。

 

 サラは寝室から鞘に入ったナイフを持ってくると、ソファーに座ったままのレクスと向かい合わせで腰を下ろした。

「血がつきますけど大丈夫ですか?」

 術師の血液には魔力が宿っているため術の行使に血を利用することは珍しくない。解術師も例外ではなく、血を対象に付けることで解術の成功率は格段に上がる。特に破魔の魔力を持つサラの血は効果が高くこの方法を用いることが多い。ただ血を嫌がる依頼人もいるので事前確認は必ず行っていた。

「どこかに傷をつけるのですか?」

 怪訝そうな声に見上げると、レクスは明らかに顔を曇らせている。慌てて言葉を続けた。

「いえ、レクスさんを傷つけるのではなく――」

「わかっています」

 サラはレクスをしばらく見つめ、彼が何を懸念しているのか理解して苦笑した。

「指先を少し切るだけですよ」

「あなたを傷つけるくらいならこのままでいい」

 レクスはサラの手に優しく触れながらあっさりと言い放った。自分の命を何とも思っていないような言葉にサラの頭は真っ白になった。

 一瞬、誰かの倒れている姿が脳裏に浮かんだ。

「ダメっ!」

 自分でも驚くほど大きな声で叫んでいた。レクスも目を瞠っている。我に返ったサラは大きく息を吐いて肩の力を抜いた。

「ちゃんと解術しなければダメです。今は落ち着いていますけど、私に何かあったり腕輪が壊れたりすればレクスさんは元に戻るどころか――死んでしまいます」

 最後は少し言葉を詰まらせながらもサラはレクスを真っ直ぐ見上げた。

「もちろんレクスさんが解術を必要としないと言うのであれば、私は何もできません。でも――」

 サラはそこで視線を落とし、しばらくして顔を上げた。

「血は使いません。だからこのままでいいだなんて、もう言わないでください」

「わかりました」

 困ったような表情を浮かべながらもレクスは頷いた。


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