第2話 出逢えたのは

 おばあちゃん、助けて!

 落ちる瞬間、少女はそう願った。


(大丈夫だよ、水希や)

 優しくて懐かしい声がする。

(これをおまえにやるよ)

「キレイだね」

(もし、困った事があったら神様にお願いしな)

「かみさま?」

(そうだよ。この湖に居られる神様だよ。ずっと昔、おばあの前の前の、もっと前のおばあちゃんは神様に助けて頂いたんだよ)

「へー、そうなんだ」

(きっと水希の事も助けて下さる)

「そうかな?」

(そうだよ。だから大丈夫)

 信じていれば。


 ゆらゆらと漂う。

 記憶の何処かに見た光景。

(…おばあちゃん…)

 夢でも会えて嬉しかった。

 ゆめ?

 それとも本当は、おばあちゃんのいる世界に来てしまっただけなのか。

 ゆらゆらと揺れる。

(ああ、ここは水の中のようね…)

 そう思った瞬間、手に、足に、顔に、至るところに水の感触が閃いた。

(水の中?)

 もし本当に水の中だとしたら息ができなくて死んでしまう。

 だが、全く苦しくなかった。

 むしろゆらゆらと揺られているのは気持ちが良かった。

 温かくて、穏やかで、懐かしい。

 うっとりとその感覚に浸り、ここ最近の辛い現実を忘れた。


 実際、彼女は水の中にいた。

 宙に投げ出され、かなりの高さから落下したはずだが、無傷だった。

 激しい水飛沫を上げて、水面に叩きつけられたはずだから、奇跡的にと言っても過言じゃない。

 その彼女は、青い球体に守られるように包まれ、気を失っていた。

 時々、水泡がプクプクと上がって、水棲生物がそのまわりを泳いでいる。水は透明に澄んでいて、水上から光が射し込み、キラキラと辺りを照らしていた。金砂が降っているような、幻想的な光景だ。そのせいか、夜中の水中とは思えない明るさだった。

 その中を青く輝く球体は、見えない力に引っ張られるように、ゆっくり沈んで行った。

 深く、湖底につくほどに沈むと、球体は水流に乗ったらしく、くるくる流され始めた。水希の目が覚めていたら間違いなく目を回していたであろうスピードで。

 ほどなくして、岸辺にたどり着いた。球体は、速度を落として、きらきらと弾けて消えた。


 気がつくと、岩場に横たわっていた。

 水際の縁にへばりくっついている貝のような姿だった。

「いっ…た…た…た」

 身を起こしてみると、身体中に痛みが走った。

 必死過ぎて気にも止めていなかったが、剥き出しの腕や足に擦過傷が無数にあった。

 それと若いとはいえ、山道を走り回ったせいで、筋肉も関節も悲鳴を上げているようだ。

 ぎしぎし骨を鳴らしながら、なんとか立ち上がる。歩けないといったこともなさそうだ。

 服は濡れていて、履いていたサンダルは無くなっていた。

「…生きてる…」

 手も足も動く。

 心臓に手をやれば、とくとくと穏やかに脈打っているのが感じられた。

「…信じらんない。確か私、崖から落ちたんじゃなかったっけ?」

 しかも死んだおばあちゃんに会った気がする。

 あれはゆめ?

「っていうか、ここドコ?」

 それほど明るくはないが、全く見えないほどでもない。岩壁が少し光っているみたいだ。

鍾乳洞というほど凸凹はしていないが、人の手が入っているようには感じられない。

 ピチャンピチャンと、水の跳ねる音がし、冷たい空気が流れている。濡れた体は冷たくて震えた。

 岩肌は堅いが素足で歩く他ない。空気の流れる方に向かえば、この洞窟から出られるかもしれない。そう思って、壁に手をつき、恐る恐る歩きだした。

 産まれた時から住んでいるし、探検ごっこもかなりしてきて、この地域の事は知らないことはないと思っていた水希だったが、こんな洞窟があるなんて知らなかった。おばあちゃんからも聞いたことがない。

「そういえば、戦時中の防空壕があるって聞いたことがあったっけ」

 ここがそうとは思えないが。

 チャプンと時折、陸に水が上がってくる。

 水辺独特の臭さが無く、むしろ滝のそばにいるような清涼感があった。

 洞窟という通気の悪そうなところなのに、走り回っていた山の中の方がよっぽどイヤな臭いがしていた。

「…最悪…」

 思い出して、顔をしかめた。

 どうしてあんな事になったのかは分からない。

「寒いし…」

 色んな事が最悪だ。

 進むうちに、道幅が広がってきて、足元を浚っていた水からは離れた。乾いた道の方が歩きやすい。

さらに進むと岩の陰に布の様なものが見えた。

「…えっ…なに?」

 そっと近付く。

「人形?」

 そこには整った顔の、だがしかし今時見慣れない姿の人形が座っていた。

「…みずらだ…」

 思わず水希は呟いた。

 古代日本の髪型は、歴史や古典の教科書などにもでてくるが、彼女の父親の専門でもあった。故に水希も知らなくはない。詳しいかというと、そうでもないが。

 側によって膝をつき、まじまじとみつめ、

「すごーい…」

伏せた瞼の長い睫毛。白い肌にシミ一つない。着ている服も袖を紐で絞り、帯で腰を締めた古代の装束だった。

人形は、背筋を伸ばし、右足を胡座のように組み、反対の足を水の中に浸している。両手のひらは腿に無造作に投げ出されていて、今にも動き出しそうだった。

「なんでこんなところに?」

「こんなところで悪かったな」

「ううん、そんなこともないんだけど……。…ってしゃべった‼」

 閉ざされた瞳が開き、ゆっくりと、水希の方に首が向けられる。黒曜石のような煌めきが二つ、彼女を捉えた。

(きれいな目)

 見つめられると、何もかもを見透かされてしまうような気がして、落ち着かない。

「…あ、あの…、えっと、その……」

 まず、何を言えばいいのか?動揺のあまり、そこからすでにわからない。

 能面のようにきれいな顔が、水面に戻された。もとの姿勢に戻るとやはり人形のように見える。

 視線が外れて、正直ほっとした水希だ。

「何があった?」

「えっ?」

「何かあったから、ここに来たのだろう」

 見た目10才くらいの少年の物言いとしては、淡々としていたが、不思議と違和感はなかった。

「ここがどこか、知ってるの?」

 みずらの少年は、ちらりと水希を見、

「湖の中だが。お前は自分から飛び込んだんじゃないのか?」

「へ…?」

「何もないなら地上に戻ればいい」

「えっ‼いや、何もなくはないです‼」

 むしろ色々有りすぎて、説明ができないくらいです。

「戻れと言われても、どうしたらいいかわからないし…」

 少なくともここは安全そうだった。イヤな気配もしない。

「そ、れ、に、…っくしゅっ!」

 突然飛び出したくしゃみに、

「ああ、人間は濡れていると病になるのだったな」

 少年は1人納得したように頷き、スッと手を振った。動きはたったソレだけだった。

「ええー!!!!!」

 水希の体から水滴が勝手に離れて、少年の足元の水面と同化した。

 頭のてっぺんから足の先まで、水気が無くなっていた。完全に乾いている。

「ウソー!なにこれー!」

 べたべたと自分の体にさわって確認するが、髪の毛も、服も、何事も無かったかのようにさらりとした手触りだった。

「…あなた、何者なの?」

 もっと早くにしてもおかしくない質問が、今になってようやく出てきた。

 少年は変わらず淡々と

「お前たち人間はカミと呼ぶな」

 といった。


「…神、様…?」

 目をパチパチと瞬く。

 どう見ても10才くらいの子供に見えるのだか。いや、今起きた奇跡とも呼べる事象を、無視するわけではないが。

「正しくはミだ」

「ミ?」

(身?実?見?)

 美とかもあるなと、漢字変換を脳内で勝手にし始める。軽い現実逃避だと思いつつも。

「これだ」

 自称神様は水面を指差し、言いよどむ。言葉がうまく出てこない。永い時を独りで過ごしすぎたせいか。会話らしい会話は、久し振りだった。

「……ああ、そうだ、ミズだ」

「水?」

 水希が反芻すると、神は小さく頷いた。

「我はミズであり、ミズが我でもある」

「うーん、よくわかんないんだけど、おばあちゃんの言っていた事が本当だったって事かなぁ?」

 いつも言っていた。神様は本当にいて、守ってくれている。口癖のようによく言っていた。

「お前の首のそれは?」

「えっ?これっ?」

 水希の胸元を飾る青い石。おばあちゃんの形見。

「……それが我を呼んだのだ」

「おばあちゃんだ……」

 目頭が熱くなる。水希の危機を神様に伝えてくれたのはきっと曾祖母に違いないと。

 神は横目でその石を見る。

(……あの石は…)

 記憶の底に沈んでいたものを引っ張りあげる。故意に沈めた物もあるし、時の忘却に任せて喪われたものもあった。

(……懐かしい…)

 そう思えるほどに、時は経っていたのだと、ようやく神は思い至った。

「お前は祈った筈だ」

 神は水から足を引き上げた。

「願った筈だ」

 座り込んだ水希の前に立ちはだかる。真っ正面から向き合って

希望のぞみを言え」

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