湖の神の守り人

直記

第一章 逃げる少女と追う男

第1話 誰か助けて

 夏の夜。

 日中の熱を抱えたままの大気をかき分け、深林の奥へと走る少女の姿があった。

 着の身着のまま、足元は安物のサンダルという出で立ちで、時々、後ろを振り返りながら、懸命に走る。すでに人が日常入る域を越えているのか、地面は木の根や雑草に覆われ、少女の足を幾度となく捉えた。その都度、少女は体勢を崩したが、すぐに体勢を整え、休むことなく走り続けた。


 激しく荒い息の合間に

「なんで…?」

 を繰り返して。


 滴る汗を手の甲で拭う。

 心臓は激しく波打ち、すでに限界を告げていた。


「見つけた」

 がさがさと草木を掻き分け、少女の横手から男が現れた。ジーンズに綿シャツ、二十代半ばを過ぎたあたりか、若い男だった。

 息一つ乱さず、不思議そうに彼女を眺め、首を小さく傾げた。

「何故逃げる?」

 男の気配に気づいたのか、少女は叫んだ。

「ッ!イヤッ!来ないで!」

「たった二人きりの家族じゃなかったのか?ミズキ?」

「あんたは、違うッ!」

 足を止め、手のひらを強く握り締め、男に向き合った。激しく荒れる息から、絞るように叫んだ。迫る恐怖と必死に戦いながら。

「絶対違うッ!あんたは誰なのッ!」

「何を言っている?」

 くつくつと、喉の奥を鳴らすように笑いながら、ゆっくりと歩を進めた。

 二人の距離が近づく。

 ミズキと呼ばれた少女は、身を翻し、再び走り出した。

 捕まったらどうなるか。

 先ほど自分の身に降りかかった、おぞましい記憶が彼女を追い立てた。

「逃げてもムダだ」

 足場の悪さは同じ筈なのに、男の足取りは軽いものだった。口許に薄ら笑いを浮かべ、じわじわと少女を追い詰める。

 腕を伸ばせば少女のか細い手首に手が届く、そう思った瞬間、男の体が硬直した。凍りついたかのように微動だに出来なくなった。

 伸ばした手がそのまま宙をさまよった。

 それまで必死に前だけを向いて足を進めていた少女が、男を振り返った。

「…に、げ、ろ」

 振り絞った声は少女の元まで音として届かなかった。

膝が折れ、地面に頭をすり付ける。頭が割れるように痛んだ。

陽兄ようにいちゃん…ッ!」

「に、げ…うぅッ!」

 何がなんだか分からなかった。

 痛む頭の奥で、ただただ彼女を守らなければならないのだと、どこか冷静に感じていた。それも自分の手から。

 髪をかきむしり、膝に頭を抱え込む。

(ホシイ)

 胸に沸き起こる激しい劣情。

(ダメだダメだダメだ)

 そんなことは許されない。

(ホシイ)

 あの子は姉の忘れ形見だ。守ってやらなければならない可愛い姪っ子じゃないか。 

 制止する理性を食い破るかのような激しい衝動が沸き起こる。

「逃げて、くれ…」

 堪えられない。

 耐えられない。

 情けなくて、苦しかった。

 自分の体なのに、思うように制御出来ない。体の奥に、熱い何か別の塊が入り込んで、それが意思を乗っ取ろうとしているのだ。

(アレハオマエノチカラニナル)

 だからホシイ。

 それをどうして止めるのか?

 お前も望んだはずだ。

(チカラガホシイト)

 子供をあやすかのように穏やかな声が脳内に響く。

(ダイジョウブ)

 痛む頭を優しく包み、宥める。

 それは当たり前のことなのだ、と。

 力を求めるのは、みな同じ。

 オマエだけじゃない。

 悪魔のように狡猾に、男の意識を奪ってゆく。

(ラクニナレバイイ)

 痛みや苦しみから逃れていい。

 トロトロとした眠りの感覚に意識が飲まれていくのを、なすすべもなく受け入れる。

(ソレデイイ)

 全てを我に預けるのだ。

 己の頭を抱えていた腕が、パタリと落ちた。

 ゆらりと頭をもたげると、周囲を見渡す。

 獲物の姿はなかった。


(なんなの、いまのは?)

 バキバキと枯れ木を踏みしめ、藪を掻き分け、山を登る。整備されていない、獣道に等しい道だ。斜面がそれほど急勾配で無いことだけが救いだった。

 苦しむ叔父を、結果的には見捨てることになってしまったのは悔やまれる。だか、あの場に居続ける事は、叔父の望みではない気がした。微かながら逃げるように訴えていることはわかった。

 叔父と同じ顔をした別人じゃないかと疑ってしまうが、そうじゃないこともわかっている。

 母と年が離れていたせいか、母が水希を産んだとき、叔父はまだ今の水希と同じように14才だった。兄妹のように育った間柄だ。あんなのは陽兄ちゃんじゃない。違いはわかるつもりだ。

 先ほど目にした光景が思い出される。

 薄気味悪い笑みを浮かべていた男が、急に苦しみだし、その体に、不思議な靄の様なものが浮かび上がっていた。赤黒い靄だった。

 現代科学に育てられた割りに、水希は異常現象としか呼べない物を見ても、それほど動揺していなかった。どう考えても悪いものに取りつかれているとしか思えなかったし、そう考えれば納得も出来る。

 それに昔から水希はそういった勘が鋭い方だった。

あれにだけは近づいてはならない。

 訳が分からないながらも、防衛本能に従って、ここまで逃げてきたが、このまま何処へ行けばいいのだろう?

 行く宛が、彼女にはなかった。

 つい先日、両親を事故で失ったばかりだった。

 父は考古学の大学教授で、母はそのアシスタントのような事をしていた。

 二人揃って泊まりで遺跡の調査に出掛けることも多く、水希は、曾祖母と叔父の三人で二人の帰りを待つことも少なくなかった。

 その曾祖母も、春に亡くしたばかりだった。

 98歳と大往生だったとはいえ、足腰も丈夫で、まめまめしく働いていた、大好きなおばあちゃんだった。仕事で家にいない両親に変わって、ミズキを育ててくれたのも彼女だ。

(おばあちゃん、どうしよう?)

 大丈夫だよ、と言ってくれた人はもういない。助けを求めるように、首から下げられた青い石を握った。それは曾祖母の形見の品だった。

 父方の親戚は遠方だし、母方に至っては先ほどから執拗に彼女を追いかける叔父だけだ。

 何より携帯電話も持たず、十円玉一枚も持っていなくて、いったいどうしたらいいというのか?

 当然、身を守る武器もない。

しかも、自宅裏の慣れた山とはいえ、無我夢中でかけてきてしまったため、自分の居場所すら定かてはなかった。

(アイツに捕まる前に遭難して死ぬかも…)

 最悪のシナリオを勝手に想像をして

(アイツに捕まるよりはその方が良いのかも)

 と、やけっぱちな気持ちになる。

 町に降りた方が逃げやすいだろうか?

 だが、未成年の自分は間違いなく補導され、自宅に戻されてしまうだろう。

 せめて何処か隠れる場所でも見つけないと。

 月明かりがあるとはいえ、夜の山は暗く、道も悪い。今が何時かも分からない。

 ざあああっと風が木々を揺らした。イヤな風だ、と思った。

 普段はもっと緑の香りに満ちているのに、今夜の風は、火事の後のように焦げたように煙たく、淀んだものだった。

 足が止まる。

 心細さに心が折れそうになる。

「どうしよう?」

 小さく呟く。

 何人かの友人の顔が浮かんだ。

 助けを求めるにしても、いったいどう説明したらいいのだろう。

 せめて今晩一晩泊めてくれと言えば、泊めて貰えるだろうか?

 何より山を無事に降りられるかも問題だ。

 アイツはまだ私を探しているのだろうか?

 さっきもいつの間にか側まできていた。

 もしかしたら、もうそこまで来ているのではないだろうか?

 だんだんと想像が膨らんで行く。

 不意に、ぎゃーっと鳥が鳴いた。

「ひっ!」

 悲鳴を喉の奥で殺し、周囲に気を配る。

 見慣れた山の筈なのに、いつもとは違う雰囲気が漂っているような気がするのも、気のせいではない。

 多分、まだあの男は諦めていない。

 ぞわぞわと恐怖が背を這い上がる。

 立ち止まっていたらダメだ。

 何処でもいい。行かなくては。

 逃げろと言ってくれた叔父の気持ちに報いたい。

 ぎゅっと石を握り締め、朝まででも歩き通す覚悟で顔を上げた。

 そこに、にぃっと顔を歪め、血走った目でこちらを見ている男と目があった。

 人とは思えない、常軌を逸脱した姿だった。

「キャーッ!」

 飛び上がり、悲鳴を上げ反射的に走り出した。

 怖くて怖くて怖くて。

 気味が悪くて、不気味で、おぞましくて。

 行く手のその先に道が無くなっていることにも気付かず、ただ闇雲に飛び出した。

「ッ!!!」

 踏み込むはずの地面が突然無くなった。

落ちるッ!

 と思う間もなく、少女の体は闇の中に消えていった。


 切り立った崖の上に、男は一人取り残された。

 見下ろしても、獲物の姿は見えず、霧が発生したのか、濃い靄が辺りを白く埋めていた。

「…ふふふふふ…あはははは‼」

 ひとしきり、狂ったように嗤うと

「邪魔が入ったか」

 男は踵をかえし、道と呼ぶにはあまりに鬱蒼と繁った、来た道を引き返した。


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