第5話 人と神

 古代の装束も、みずらの髪も、雨滴に濡れてしまっていた。伸ばされた手がゆっくりと下ろされる。

 雨が止んだ。

 天を仰ぎ見ていた視線がこちらに向けられ、互いに少し驚いた。

 無表情ながら憂いを帯びた眼差しが、水希の胸をざわめかせる。

 降る筈のない雨を降らせていたのが、この神だとすぐにわかった。

 神は水希の立つ境内に、音もなく飛んできた。

「っ!」

 正しく飛んできたのだ。フワリと宙に浮き、難なく境内のへりを越え、彼女の正面に。濡れていた筈の装束は、乾いていた。

「目が覚めたようだな、気分は悪くないか?」

「あっ、はい」

 真っ正面に立った神の顔が目の前にある。人形の様に整った、キレイな貌が。

(か、か、かお、ちかっ!)

 一気に顔に血が昇る。赤くなった少女に神は首を捻り、

「無理をしていないか?」

 重ねて気遣った。

 彼の方としては、自分の眷属の者が、無理矢理妙なわざで、彼女を前後不覚にしたようなものなので、心配するのは当然である。

 彼女自身に自覚がなくとも。

「だ、だ、大丈夫、です!」

 声は裏返り、間違いなく挙動不審だったが、神もそれ以上の追求はしなかった。記憶をたどれば、概ね人間は自分に対し似たような反応を示すことが有ったからだ。

 一歩後ずさった水希は

「な、なんか、ちょっと、大きくなってませんか!?」

(目線が同じ位置にあるんですけど!)

 今の神様は古代の装束もみずらの髪も同じだったが、背が伸び、丁度水希の年頃と同じくらいの少年に成長していた。当然顔も少し男らしさが出ているし、声も少し低くなったような気がする。

 水希でなくても、大概の女子なら心臓がバクバクになっても不思議はない。

 神は目の前の少女や自分の掌や足元を見て

「…ああ、そのようだな」

 本人は全く気づいていなかった。

(それだけですかー!!!)

 水希は胸の内で絶叫した。

「今、僅かだが、この界隈を浄めた」

 這い出る穢れを抑えるためにした事だったが、神をも予想外の副作用があったようだ。

 少し大きくなった手のひらに目をやり、握っては開いて、

「祈りや願い、感謝の念が我の元に届いた」

 知らず口許に、小さな笑みが浮かんだ。

「人の力だ」

 ついっと視線を水希に戻す。

「お前たちの力だ」

 キレイな顔が優しく微笑む。

 彼は無自覚のまま水希の心臓に、爆弾を投下した。

(!!!!!)

 こんな田舎で育った少女に、イケメンと称するのも憚れるような、美少年の微笑みの爆弾に耐えれるような精神の持ち合わせは、ない。

 悶えることもできず、ただただ硬直する。水希の体から見えない何かが忘我の彼方に飛んでいったかもしれない。


 我を取り戻した水希と神は、二人ならんで欄干に座っていた。

(…まず落ち着こう…)

 呪文のように心で繰り返す。

 欄干に座るなんて罰当たりじゃないかしら、などと違う方向に思考を持っていくが、隣で祀られている神自体が拘らずにいるのだから気にするだけ馬鹿馬鹿しい。

「…あの」

 何か言わなくては、と言葉を探すが何をどう言ったらいいのか。

 隣には、元の無表情の神がいて、不思議とそれに馴染んでいた。

「えっ…と、神様?」

 直接呼び掛けたのは、初めてだったかもしれない。なんだか気恥ずかしいが、他に呼びようがない。

「なんだ」

 無表情で座られると、初めて出会ったときを思い出させた。

「あの地下で、ずっと独りで居たの…ですか?」

 なんとなく、語尾は丁寧語にしておいた。見えないが、一応神様だと言うことを考慮して。

「そうだな」

 神は深く考えもせずに、相槌を打つ。

「あそこで何してたんですか?」

「……」

「あ、その、言いにくいなら別にいいです…」

「いや、そうじゃない」

 戸惑ったのは事実だが、それは彼女の率直さと、なんとなく気遣いの見える質問だったせいだ。普通、気にするのは‘’何をしていたか?‘’ではなく‘’何でそこにいたか?‘’だ。或いは‘’どれくらいそこにいたか?‘’

「水を、浄化きよめていたな」

「湖の?」

「ああ」

 水希と出会ったときは、あの岩場に座していたが、常日頃からあの場にいるわけではない。どちらかと言うと湖の中を漂っている時の方が長い。

 水の一部に戻って、水中の環境を調える。それは湖自体の自浄作用を高める働きだ。

「特に最近は、鉄の塊や水に溶けないものが多くて難儀していた」

 神が言う所の鉄の塊は自転車や空き缶、水に溶けないものはビニール袋などだが、それらは不法投棄によるものだった。ニュースに取り上げられたこともある。

「……すみません…」

 当然、地元民の水希は事情を知っていた。直接彼女が不法投棄に関わったわけではないが、人間代表として謝る。

「気にするな。人の営みもまた自然の一部だ」

 何でもないことのように淡々と神は言う。

「人がいるから我らもまた在る。我が湖の水を浄めるのは使命だ。ただ、あまり我らの手に余るようになると、自らの首を絞める事になる」

 神は真摯に語る。

「…うん」

「てれびというもので、見た。大地から毒の水が湧く場所が有ると言う。そこには我のような存在は無いようだった」

「……うん…」

 段々と俯いていく水希に気付かず、神は続ける。

「人は自らの力で浄めようとしていた」

「っ!」

 はっとした。俯いた顔をあげて、神を見る。無表情でキレイな横顔。

「凄いことだと思う」

「うん!」

 神自身の方が人の力を信じているような気がした。

「我らの神力ちからにも限界はある」

 微動だにしなかった神が水希の方を向く。

「だがお前の望みは叶えよう」

 だから、と彼は続けた。

「祈り、願い、そして信じろ」

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