第二章 神の力と人の力

第1話 それぞれの思惑

 まずは浄めて頂かないと、と社殿ではなく、社務所の奥、宮司が寝起きをしている居住スペースへ水希は一人連れてかれた。

「あ、あの、」

 戸惑う水希にお構いなしで、さっさと支度を整え、彼女を風呂場に押し込めた。

「あなたからは穢れがします。浄めて頂かないと社殿にお入れするわけにはいきません」

 戸を一枚隔てて、宮司が更に追い討ちをかけるように告げた。

「キレイに洗って浄めて下さい」

(…確かに汚いけど!)

 先程から袂で鼻を押さえていたり、眉を潜めていたり、汚いものを見る眼差しであったり。

 口調は丁寧なのに、態度はあまり誉められたものではない。

「タオルはそこにおいてあります。服は後で持たせますので棄てて下さい。とりあえず、一刻も早く、爪の先から頭のてっぺんまで、浄めて下さい」

 そこまで言う?

 あまりの言い種に、怒りを通り越して呆気にとられる。

「そんなにひどい…?」

 年頃の娘としては少々ショックだ。言われた通り、早く清めよう。

 素直なのが彼女の良いところだ。

 古い神社だが、桧の浴槽とシャワーもついてる。置いてあるものは普通のボディソープやシャンプーだった。トリートメントまで揃っている。

(これ、神主さんの私物だよね…)

 さらさらのストレートヘアは羨ましいほど艶やかだった。

(これのおかげか…)

 思わずメーカーを確認してしまう。こんな非常事態にも関わらず、美容が気になるお年頃。

 浴槽にはしっかりお湯が張られていた。温かい湯船に浸かると、ようやくほっと力を抜くことが出来た。

 今までの事が、全て嘘のようだ。

 おかしくなった叔父に、追いかけ回されたのが昨夜の事とは思えない。

 10才くらいの少年が神様とか。

 その自称神様がパンっと手を打っただけで、道の先に扉が現れたとか。

 なんだかもう色々有りすぎ。

「あーもう、どうなっちゃうんだろう」

 呟くと、はたはたと涙が溢れて止まらなくなった。

(もう泣かないと思っていたのに)

 曾祖母を喪い、両親を喪い、涙など渇れたかと思っていたのに。

 堰を切ったかのようだった。

 今まで留めていた心の中の不安や恐怖、無理をして我慢した全てが、温かな湯船に融かされて、体の外に出されていく。

 ずっと、苦しかった。

「…ふっ…ううっ…」

 それでもまだ、唇を抑え、声を噛み殺し、こんな風に泣いている場合ではないのにと、自分を責め、挫けそうになる心を叱咤する。

(まだ、ダメ)

 ブクブクとお湯に顔を沈め、流れる涙を誤魔化した。


 神は鑑の前に鎮座していた。

 神器の鑑は古い銅鏡で、現代の鏡よりも像が歪んで見える。

 その鑑には、少しばかりの戸惑いが浮かんだ、整った顔立ちの少年が映っている。

 目をしばたかせ、首を小さく捻ってみる。

 鑑の中の像が同じ動きをした。

 映っているのは自分なのだと認めるのに、瞬き二つ分ほどの時間を擁した。

(これほどまでに…)

 思わずため息が漏れる。

 手のひらをみれば、子供特有の柔らかそうな、まろみのある可愛い手のひらだった。

 洞窟の中にいた頃は、全く気にならなかった。というか、気にしていなかった。

 ただ、過去にした約束を守って、そこにあり続けた。

 意識も、あったりなかったりしたように思う。

 そのまま、何事もなければ、元のように水に還って、神であったことも、過去の記憶も、全てを失っていたのかもしれなかった。

 強い祈りが、神を神として、この場に留めたのだとしたら、その力は間違いなく水希のものだ。

 鑑に映る己の姿を、じっと凝視し、神は思う。

(…今の我に、何が出来るだろうか…)

 彼女の願いに応えることが出来るだろうか?


 水希が風呂場で涙を流し、神が悄然としている頃に、宮司はうきうきと神を迎える準備をしていた。

 彼にしてみれば、念願かなっての神の来臨だ。

 どれほどこの日を待ったかしれない。

 御神酒おみきの盃を用意する手を止めて

(それにしても澪さんが亡くなっていたなんて…)

 そんな気配はしなかった。

 もちろん、いつ亡くなってもおかしくないくらい高齢だった事はわかっている。人の命は短くて、彼らのように人とは違う流れの中で生きるものに取ってみては、ほとんど瞬きの間だ。

(あの絶品一口稲荷が食べれなくなってしまったなんて)

 悲しすぎる。

 止まっていた手を再び動かし、神へのお供えである神饌しんせんの用意をする。神饌とは、海や川、山、野などで取れた旬のものを初め、酒や米、水などをいう。

「ヌシさま、お呼びですか?」

 そこに、とてとてと、可愛らしい足音がして、ひょこりと小さな女の子が現れた。神の見た目年齢よりも更に幼い。

「ええ、コン。お前にあの娘さんのお世話を頼みたいのです」

「さきほど、ヌシさまが、お連れした方ですか?」

 小首を傾げると、小動物チックな可愛らしさがアップした。

 見た目は5、6歳の人の子のように見えるが実際は生まれて5、6年でもなければ人の子供でもなかった。

「あの子は澪さんの曾孫さんですよ」

「ええー!」

 驚いた拍子に、ピョコンと三角耳が飛び出した。

「コン、耳」

「うわっ!ああ…」

 飛び出た耳を手のひらでグイグイ押し込む。

「人の前では気をつけて下さいね」

「…はい…」

 しょんぼりと項垂れて

「ヌシさまのように、上手くいかないのです」

「慣れの問題ですよ」

 宮司が頭を押さえる小さな手の上を、ぽんっと柔らかく叩いてやると、飛び出た耳が見えなくなった。

「ありがとうございます‼」

「どういたしまして」

 ふふふっと小さく笑う。

「昔は私も上手く出来なかったものです」

 人の中で暮らすには、人の姿でいる方が都合が良い。

 始めは今のコンのように耳や尻尾が飛び出して、周りの人間に驚かれたり、恐がられたりしたものだが、神を待つ間にすっかり上手く化けれるようになった。

 それでも時々、澪のように気付くものが現れる。

 曾孫の水希は気づいた様子はないので、澪のような人間の方が特殊なのだと改めて思った。

 完璧に化けていたのにも関わらず、

「あなた、人とは違うわね」

 と、一目で言われたときには、ついつい今のコンのように頭を押さえてしまったものだ。耳は飛び出ていなかったが。

 懐かしい記憶にふふっと笑って

「さあ、お前はこれを持って水希さんの所に行って下さい」

 手渡されたのはおにぎりとお味噌汁、漬け物、お茶に箸がのったお膳だった。

「ちょっと遅くなりましたがお昼御飯です。人の子は、ちゃんと食べないと大きくなれませんからね」

「はいっ」

「あと、きっとお困りになっていると思うので、ちょっと手伝ってあげて下さい」

 具体的に何を手伝えばいいかは言わなかった。

 コンは特に何も気にせず素直に返事をした。

「食事が終わったら社殿へ連れてきてください。そこでお前も我が主様にご挨拶をしましょうね」


 なんとか涙を押さえ込んで、水希が風呂から上がると、服が一式別のものに変わっていた。

「…なに、これ?」

 確かに、服は処分するとか言っていた。代わりのものを用意するとも。

 水希はバスタオルを巻いただけの姿で呆然と立ち尽くした。

 それ事態は、知っている。

 着物だ。

 しかも下着も襦袢じゅばんと呼ばれる着物用の肌着だ。彼女はわかっていなかったが腰巻きもあった。

 おばあちゃんがちょくちょく着物を着る人だったので、わかっては、いる。

 ただ、自分で着たことはない。

 和装で着たことがあるのは、七五三の着物を除けば浴衣くらいだ。それだって、一人で着たのではなく、着付けてもらってのことだ。

 手に取ってみて、今度は違う意味で泣きそうになった。

「…着れないよ…」

 籠にきちんと畳まれたそれを、一つずつ手に取ってみてみる。襦袢、腰巻き、白衣しらぎぬ、白帯、伊達襟。

「…はあ……」

 ため息しかでない。

 緋袴ひばかまを見つけるに至っては、

(ああ、そっかぁ。巫女さんだ…)

 ここ神社だしね。

 着替えがコレでも仕方がない気がしてくるから不思議だ。

 でも、彼女に着る能力はない。

 かといって、あの宮司に助けを求めるのは絶対にイヤだった。

 なんとか着てみようかと、最初に手にした襦袢を持つ。

 羽織ってみると、懐かしい匂いがした。

 そこに、コンコンと控えめな戸を叩く音がした。

「っ!」

 悪い事をしているわけではないが、慣れないことをしていたせいもあって水希は身体を強張らせた。

(ヤバい、もう戻って来た?)

 とりあえず、布を掻き寄せ、前を隠す。

「あの~、お風呂上がりました?」

「えっ…?」

 耳に届いた声は、宮司とは違う可愛らしいものだった。

 少しだけ戸を開けて、脱衣場の外の様子を見る。巫女装束を着た幼稚園児くらいの子がちんまりと立っていた。首を小さく傾げているのは上手く言葉が出ないせいか。

「えーと、ヌシさま、じゃなくて……神主さま?にお手伝いをするように言われて来ました!」

 よく言えたねーとかいいながら頭でも撫でてあげたくなる。

(…かわいい…)

「あ、お風呂、済んでましたね?」

 戸の隙間からくりくりの黒目が覗いていた。






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