第16話 その2

 準備万端。あとはPSPの液晶画面に保護フィルムをそっと乗せるだけだ。邪魔するものは何もない。もしもフィルムに気泡が入りでもしたら、それはもうきっとたぶんおそらく神の意志だ。僕に液晶保護フィルムを使うなと言う啓示だ。でもたとえ神だろうと、僕の邪魔はさせない。それだけの準備と覚悟はしたんだ。


 僕はPSPとフィルムを持ってマグネットアンカーを使って貨物区へ向かった。宇宙空間だからこそ可能にした完全なクリーンルームと化した貨物区だ。


 そして速やかに衣服を脱ぎ去る。もはや自分の部屋のような船だ。誰に気兼ねすることなく躊躇なく全裸になる。


 脱ぎ捨てた服をその場に残して貨物区のハッチに張り付き、コンパネで中の様子を確認する。庫内の気圧は正常値範囲内、室温は6度。一度宇宙空間に晒したから温度がだいぶ下がっているが、大丈夫だ。問題ない。


 ハッチオープン。船内より若干気圧が高かったか、冷気が一気に押し寄せてきた。冷たい空気が僕の髪を躍らせる。思っていたよりも寒いが、気圧差的にはむしろ好都合だ。僕の身体に付着していた微粒子すらも吹き飛ばしてくれるし、船内に浮遊するチリやホコリが貨物区内に侵入することもない。


 マグネットアンカーを撃ち込んでするりと庫内に滑り込む。貨物区は今は空っぽなのでだだっ広い立方体の中央に何本もの柱が立っているだけの空間だ。通路から差し込む光が示すホコリのブラウン運動も確認できないほどのクリーンさだ。


 僕に反応して庫内に明かりが灯り、ハッチは静かに貨物区に封をした。これで貨物区は外部と空気の対流さえ行われない完全密室となった。


 あとは時間との戦いだ。室温6度という予想より低い温度が敵となるか味方となるか。いや、全裸に6度はちょっとおかしいか。鳥肌立ちまくりだ。


 僕は庫内のほぼ中央部に進み出て貨物固定用の柱にもたれかかるようにして身体を安定させた。マグネットアンカーを手放し、PSP本体と液晶保護フィルムを空間に固定する。


 呼吸は浅くゆっくりと。息を止めるからかえって吐息が漏れてしまうんだ。もう同じミスはしない。


 液晶保護フィルムの角度を微調整する。今のところフィルムにホコリ一つも見つけることはできない。完璧だ。このままPSPをゆっくりと、グラディウスの初期状態のビッグバイパーのようにゆっくりと、フィルムに近付けて液晶画面に貼り付ければいい。


 何か重くくぐもった音がしたが、関係ない。あと少しだ。あと少しで幸せの瞬間が訪れる。


 PSPと液晶保護フィルムが、今まさに合体する、って待て。音? 音がするはずがない。何の音だ?


 そして僕は強烈な違和感に襲われた。


 何か、ついさっきと何か違ってる。何が違う? 僕は貨物区のほぼ真ん中にいたはずだ。荷物固定用の柱に寄りかかるように立っていたはずが、今はやや斜め下に柱が見える。足も床から離れている。僕は完全に宙に浮いた状態で空間固定されていた。


「見えざる神の左手か!」


 船が動かされたんだ。見えざる神の左手、タグボートロボット達によって、他の船を係留するためにベイドック内の座標をほんの少しずらされたんだ。


 慣性の法則。運動の第一法則だ。 船は見えざる神の左手によって運動エネルギーを与えられたが、中の僕は船に身体を固定していなかったからそのエネルギーの恩恵にあずかれない。止まっている物体は外部から力がかからなければその場に留まり続ける。僕は動くことなく、斜め上に2メートル、船と相対的に移動してしまったんだ。


「やばい、な。動けない」


 思わず独り言がこぼれ出た。僕は空間で完全に停止している。マグネットアンカーもちょっと離れたところにあり手が届かない。この無重力空間において、運動エネルギーを発するものを何も持っていない。すなわち、動くことが完全に出来ない状態だ。


 救助を呼ぼうにもタブレット端末は居住区に置いてきた。スマートフォンは脱ぎ捨てた服のポケットの中だ。音声入力で外部に連絡を取るにしても、オペレータはミナミナだ。こっちは全裸だ。貨物区のカメラに映る僕は全裸だ。全裸で何やってんだって話になる。ミナミナだけじゃない。オペレータの女の子みんなに被害が及ぶ可能性もある。出禁レベルの話じゃない。問題あり過ぎる。


 とにかく身体を動かしてみる。全裸で。主要関節の可動範囲をよく考えて、大きく反動をつけるように、円を描くように、できるだけジタバタしてみるが、ダメだ。その場でくるりと回転は出来るけど、相対位置を変えることはできない。


 それならば、と波動拳を撃ってみる。全裸で。身体を腰から折り畳むように前傾姿勢を取り、腰に両手を合わせて構え、生命の波動が両手に満ちてくるイメージを思い描き、両腕を一気に突き出しながら心を爆発させる。


「波動拳ッ!」


 出る訳がない。どうした航太。いったい僕は何をやっているんだ。全裸で。少し落ち着け。冷静になれ。


 このまま再び見えざる神の左手が船を動かすのを待つか? 貨物を積み込むため港内作業員が来るのを5時間ちょい待つか? それは難しい。何より全裸だ。僕は全裸だ。室温6度に全裸で数時間も放置されれば低体温症で命の危険すらあり得る。


「どうする?」


 思わず自分自身に問いかけてしまう。


 全裸だ。いわゆるフルモンティだ。人間は全裸だと何て弱く儚い生き物なんだろうか。何も出来ない。目の前に浮いているPSPを見つめることしか出来ないのか。


 ん? PSP?


 手を伸ばせば掴める位置に浮いているプレイステーションポータブル。これはオリジナル機じゃない。PSP初期型を忠実に再現した機械だ。忠実に再現したからこそ、確か、あの機能も再現されていたはずだ。


 PSPを掴み取る。やれるか? いや、やるんだ。


 僕は身体の重心を貫くラインをイメージして、そのラインに沿うように腕を突き出した。手首も肘も真っ直ぐに伸ばし、そして突き出したこの手にはPSPがある。この角度でいけるはずだ。


 ゲームに熱中し過ぎて手に力が入っちゃったって感じでPSP本体を捻るように力を込める。すると、本体上部のディスクドライブが負荷に耐えきれずに勝手に開き、カシャッと軽い音を立ててUMDが勢い良く射出された。PSP初期型の伝説的初期不良、フライングディスクシステムだ。


「行け!」


 ゲームディスクが飛んで行く。僕の手にほんの少しの反動を残して。


 作用反作用の法則だ。ディスクが撃ち出されるのに使われた力と同じだけの力が僕の手にかかる。ほんのわずかな力だが、うまく行けば僕の身体を動かしてくれるはずだ。ちょっとでも動けばいい。あとは慣性でいずれは壁に手がつくだろう。


 しかし、フライングディスクの力が弱過ぎたのか、腕の筋肉の収縮や関節の挙動で運動エネルギーを吸収してしまったか、僕の身体はぴくりとも動くことはなかった。


 ダメ、か。ならば、次は撃ち出されたディスクに頼るしかない。宙を舞うUMDは真っ直ぐにマグネットアンカーへ向かっていた。


 あとはビリヤードと同じだ。やがてUMDはマグネットアンカー本体にぶつかり、運動エネルギーの受け渡しが行われて、今度はマグネットアンカーがゆっくりと動き出した。そして壁に当たり、真っ直ぐに跳ね返ってくる。僕の方に向かって。


「よし。問題なし、だ」


 持ってて良かった、PSP、だな。


 ゆったりと流れてくるマグネットアンカーを掴み取り、僕は勝利を確信した。さあ、こんな冷たい空間とはさっさとおさらばしよう。


 いや、待て。僕はここに何しに来たんだ。PSPに液晶保護フィルムを完全に気泡を除去して貼るためだ。


 僕を助けてくれたPSPを見る。一見してフィルムが綺麗に張られているように思えるが。じっと見る。気泡もなさそうに見えるが。ぐっと見る。そして小さなホコリクズがひとかけら、フィルムに紛れ込んでいるのを見つけてしまった。


「どこからだよっ!」


 僕はPSPを握りしめたまま慟哭した。全裸で。

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