第10話

「裕美、子どもさんどうしたの。痛そうね、可哀相に」

一人のママ友が聞いた。

「ええ、ちょっといたずらしちゃって、ふふ」

 愛理がこの場にいるのに、

”実は、野々村家のバカ猫が”

とは言えない。そして、最後の五人目が到着して会が始まった。やはりスイーツの

店。最初は、店独自で挽いたコーヒーで始まった。裕美は後になって知ったことだったが、ほかのみんなは、大学の同級生と言うことだった。ママ友の会らしく、育児の話が中心だった。

”保育園でもう、好きな子がいるのよ”

とか、

”毎日キャラ弁だけど、作り甲斐があって楽しいわ”

など、みんなまじめに頑張っている様子だった。このカフェは、子ども預かりコーナーがあって、ママさんたちは、時間をゆっくり楽しむ事が出来た。二人の守護霊も、子どもが逃げ出さないような、囲いがしてあったので、ぼんやりゆっくりできた。

{こう言うのって、いいですよね}

 泰介が言うと、紗枝も落ち着いた顔で頷いた。余りの退屈さに、泰介はつい、ママ友の話を聞きに、彼女らの貸し切り部屋に来てみた。天井の近くへ飛んで来ると、途端にアルコールと煙草の臭いが、充満していた。いつの間にか、アルコールが出ていた。ついさっきまで、まじめで可愛い奥様方の、育児の会だと思っていた。しかしスイーツを食べ終わると、それからが、本当の会のようだった。次々にビールが運ばれだした。

{凄いですね}

 ビールの本数に、ちょっと引き気味の泰介が言うと、紗枝は事も無げに、

{あ、普通、じゃないですか}

{そう、なんですか}

と、答えた。引きつった笑いを浮かべながら、泰介は言う。その凄さに、圧倒されていた。そう言っているそばから、チューハイの注文の声が、聞こえ出した。すると、右からコークハイ。左からワイン。そして、ついに【お湯割り】がコールされた。この間わずか三十分足らず。

{でた、焼酎。これは、勢いが出てきたな}

 こわばった顔の泰介は、守護霊の仕事は忘れて、その盛り上がっていく様を、凝視していた。それは、さすがの紗枝も同じで、ここまでの経験はないのだろう。

男の喫煙が減っているのに、女性の喫煙が増えている。世の中、禁煙化が進んでいるのに、泰介は不思議だった。ちょうど、紗江もいたので尋ねてみた。すると、さすが元OLだけのことはある。女性の社会進出が、格段に増えている昨今。仕事のストレスから、と言うことで、喫煙家の女性が増えているそうだ。気持ちは分からないでもないが、何かほかの方法は無いものか。子どもを持った事のない泰介だが、自分が結婚するなら、【喫煙の習慣の無い人がいい】とは、思っていた。赤ちゃんが出来た時のことを考えたからだった。やることなすこと、ドジなこの男も、自分の将来については、まともに考えているらしい。少しはまともになった泰介だ。

何はともあれ、吸うか吸わないかは、個人の判断だし、ママ友に何だかんだ言える立場でもないし、だいたい、言ったとしても聞こえ無い。悶々とした心持でぼんやり、盛り上がっていくママ達を眺めていた。ママ達の顔を知る由も無い。ただ、どのママも、通販のダイエット器具の売り上げに、積極的に協力してそうな雰囲気の、素晴らしい体型だった。

飲み会の特徴として、酒が進むに連れて、だんだん声が大きくなる。賑やかになっていく。この場所もそうであった。最初こそ、上品に話していたが、酒が入ってくると、子育ての話から徐々に、旦那への不満に移っていた。特に、一人のママの乱れ方が激しい。旦那に、不満があるのだろう。

{だいたいさあ、ふざけてんだよねえ。あたしい、この前え、今夜飲み会があるから、先にご飯食べてて、って言ったらさあ。カップラーメン食ってやがんの。これ見よがしに、テーブルの上にカップ置いて、焼酎ちびちびやってえ。嫌味なんだよねえ}

「なに、それ。こんなもんしか食ってない、とでも言いたい訳え」

「じゃ、次からさ、めっちゃ、ご馳走の出前取ってやんなよ」

「そうそう、その店で一番、高いのをさ」

「あははは、そうだよ。目ん玉飛び出るんじゃね」

「でも、結婚前って、そんなしょぼい奴じゃなかったよね、信彦って」

”の、ぶ、ひ、こ。ん、信彦。んん”

 泰介のすっとぼけた頭でも、どこかに引っ掛かる言葉だ。

「そうなのよお。学生時代、イケメンだったじゃん。カップルになれた時は、密かに『捕まえたあ』なんて、喜んだのにさ」

「何、言ってるの。そんな事言うなら、家はもっと凄いんだから。あいつ、結婚したら途端に浮気」

「ええっ、何、何。浮気。あんなに大切そうに言ってたのに。希望ちゃん、って」

「何よお、お宅の方が優しそうじゃん」

 泰介の頭の中では、滅多に動かないシナプスが、少しずつ蠢き始めていた。

こうやって、互いの不満をぶちかますと、そこでまた盛り上がるのである。この盛り上がりに、二人の守護霊はドン引きだった。裕美は、と見ると、さすがに大学が違うので、そこまでの口ぶりではなかったが、やはり、盛り上がっていた。ところが泰介は、その賑やかな声に、過去に出会ったような記憶を感じていた。どこで、いつ、何の時だったか、まったく思い出せない。ただ、徐々にではあるが、母親達の何となく耳障りな声、波長や高さに、出会った記憶が、大きくなっていった。そして、脳の中のシナプス同士が、だんだん手を伸ばし始めている時、決定打が出た。

「最近、シマクロばっかりよ。だって、旦那のあんな給料じゃ、今、流行りの服なんて買えやしないわ」

「そんなの私だって同じよ。学生の時に戻っちゃった」

「海に行く時さえ、ビー・サン履けないし。だって、足にネイルもできないよね」

“シマクロ・学生時代・海・ビーチサンダル”

 何かが脳の中で引っ掛かり、まじめな顔をして、何回も繰り返して呟く泰介に、紗江は不思議な思いだった。こんなまじめな顔の泰介は、初めて見たのだ。

{どうかしたんですか。そんなに、まじめな顔をして}

{ええ、何かが引っ掛かるんですよ。あの言葉}

そして、ついにシナプス同士の手がつながり、思い出す。

{ああ}

{どうしたんですか、一体}

{あん時のあいつらだ}

 二人の守護霊にしか聞こえない、大きな声が泰介から発せられた。何と、自分が現世を離れることになった海の事故の時、一緒に行っていた女子たちだった。

“まるで、全然わからないじゃないか。あの時の、くびれは、恥じらいは、いったいどこへやった。弾けんばかりの、巨体ではないか。何てこった、選りによってあいつらと、こんな所で出会うとは}

 瞬間的に、十五年前を思い出した。

{俺を嘲笑した、お返しをしようか。しかし、残念ながら顔が全く分からない}

 さすがに、ここまで来るといくら泰介でも、思い出そうと言うものだ。しかし、すぐに、その考えを捨てて、無心に戻った。仙人の顔が浮かんだのだ。

{何ですか、いきなり大きな声を出したり、ちくしょう、なんて言ったり。何があったんですか}

 紗枝が驚いて聞いた。

{あ、済みません。ええ、実は}

 と、学生時代の天草旅行の時の、海の事故を話した。

『本当は行きたくなかったけど、野球部の友達から、半分無理やりに誘われた事。その時、話の出汁に使われた事。伊勢エビを見つけてヒーローになろうとして、この世に来てしまったことなど』

”あれからすでに、十三回忌を済ませ、友達も仕事で頑張っているだろう”

と、珍しくしょげて話した。その時に、幽体離脱して出会ったのが、さっきの仙人だった事も。

{そうだったんですか}

{お家の方も、たいそう残念だったでしょうね}

{ええ、まあ。そうだと思いたいですね}

{えっ}

{あはは。ま、そう思っていてください}

 父親の〈バカ連発〉には、さすがの泰介も、残念に思われていたのかは、些か自身が無かった。

{すっかり湿っぽい話になりましたね。済みません}

{いいえ、そんな事は、あっ、部屋に戻るようですよ。急ぎましょう}

 下を見るとすっかりご機嫌の四人が、千鳥足で子ども達を迎えに行く所だった。

”この状態のまま、電車で帰るつもりかな”

二人は少し怖かった。

”帰り道が一緒なら、タクシー拾えばばいいのに”

と思ったが、やはりそこは心得たものだった。しっかりと次回の約束を決めて、タクシーに分乗すると、あっという間に二次会へ行った。

{子どもはどうするんでしょうね}

 泰介が、何気なく紗枝に尋ねると、

{二次会の会場に、旦那が迎えに来るそうです。さっき、誰か電話してましたよ}

 と、何の事は無く、当然と言う感じでそう言った。

{優しいですね、最近のご主人たち}

{奥さんが、強いのかな}

 とても、とてもそんな感じには見えなかった、さっきののママさん達の学生時代。

子どもを生むと、立場が逆転するのだろうか。泰介は、未婚だが、少しホッとする自分が確かにいた。それにしても、いつの間に場所やタクシーを手配したのか。相当に、場慣れしている感じがする。さすがに違う大学の裕美は、一次会で帰っていた。

裕美が家に帰ると、裕二は晩酌を済ませ、風呂に入っていた。そう言えば、この早川家も、例外ではない。

“あの、優しく清楚で、上品だった裕美ちゃんが、あの憧れの裕美ちゃんが。あの輪の中にいたのだ”

迎えにこそ行かないが、裕二も、好きにさせている。泰介は複雑な気持ちだった。

「ただいまあ」

「あ、おかえり」

「思ったよりも早かったね」

「ああ、二次会には行かなかったの。ああ、それより、ご主人、お元気ですか。って、みんなから聞かれたわ」

「ああ、そう。九州の天草に、一緒に旅行に行ってから、すっかり仲良くなったらしいよ。試合のたびに、応援に来てたなあ。そう言えば、君は、野球には興味なかったの」

「そう、悪いけど、私、サッカーが大好きだった。だから、あなたが、あのママ友のご主人たちと、野球の試合をしていたなんて、全然」

{あのママ友のご主人たちと野球、って事は、あのふくよかな女達の旦那達は、元野球部か}

 泰介は、耳がダンボになった。

「大井田さんって覚えてる。物凄い事言われていたわ」

“俺は、この世界に来てしまったのに。葬式の時は、申し訳ない、って神妙な顔してたのに。あいつら、三人が三人ともうまくいって、結婚してるんだ”

 泰介は、紗枝の目を憚らず、おいおい泣き出してしまった。気付かない方もどうかしているが、あのママ友の会の時、不満を言われていた旦那達が、泰介の野球部の友達だったのだ。ここに来てやっと分かっているようだ。さすがは、泰介、遅い。逆に、訳が分からない紗枝は、おろおろするばかりだ。と、そこへ、来た来た、例の声。

“ほらほら、いい大人が、泣くんじゃねえよ”

 仙人だ。紗枝にとっては、まさに救いの神だった。

“ほれほれ、ようく考えてみろ。お前がいたから彼らは結婚できた。そうじゃないか”

“あ、そうだ。きっとそうですよ”

 紗枝は、気を使って、仙人をフォローする。どこまでも優しい守護霊だ。

“ほら、紗枝さんも言っておる。お前は、キューピットなんだ。だから、泣くもんじゃない!さ、涙を拭いて…”

 何となく納得できた泰介だったが、そう簡単に『はい、そうですか』と、涙が止まるもんじゃない。すると仙人は、

{いつまでめそめそしとるんじゃあ。ええ加減にせんか~い}

 と、いつまでもシクシクしている泰介を一括した。

{は、は!}

 泰介は、いきなりシャンとして、涙も止まった。すると仙人は、

{やればできるじゃないか。しっかりやれ}

 と、頭を軽く叩いて、さっさと消えて行った。消え際に放った

{ったく、もう}

 と言う、独り言とも、文句とも取れる一言が、仙人の心の全てを表していた。泰介は、泣き止んだ子どものように、口をへの字にして、鼻で溜息を吐いた。頭の上では、大騒動になっているのも、現世の人間には聞こえない。二人は、話を続けていた。

「だから、君もいなかったんだね。本当は、佐田と俺、そして白百合女学園のミス、野々村愛理、そしてもう一人行く予定だったんだけど、急用ができちゃっていけなくなったんだ。だから、呼び掛けた大井田達は、ぶうぶう言ったけど」

「それで代わりに、あの人が行ったわけ」

「そう。代わりの代わり、の、代わりだけど。そして挙句には」

”やっぱ、どいつも知ってるなあ。それにしても、そんなに何人もの代わりだったのか”

 泰介はため息をついて、裕二の話を聞いていた。

「大井田や富士岡は『きれいな海だよ』ってメールして来たよ、。写真添付してさ。でも、そんな時に事故があったのさ」

「その人が、あのドジだって言われてた、あの人」

「そう。『まったく、いい迷惑だ』ってって、メールでぶつぶつ言ってたよ。せっかく連れ来てやったのに、ドジ踏んで、死んじまうんだから、ってね」

“おいおい、そんな風に思ってたのかよ、あいつら。許せねえな”

 泰介は、歯をギリギリさせて聞いている。しかし泰介。今頃気付くから、歯痒いんだよ。学生時代に、気付け。この会話の間にも、〈愛結〉は、すでに違う部屋に行っている。当然、紗枝もいない。〈翔〉がおとなしく、裕美の足元で、相変わらずお人形さんとじゃれている。

「野球部だったの」

「そう!でも、リトルリーグでも、レギュラーにはなれない、って笑ってたよ」

”おい、そんなに下手だったか、俺”

 赤面するくらい、ぼろくそに言われ、紗枝がいると立つ瀬は無かった。

「結構下手だったの」

「そりゃあもう。グラブに穴があいてるんじゃないか、って言うくらい、ボール取れなかったってさ。俺、高校ん時から、あいつらと野球で知り合いだけど、そん時から、彼は、下手くそだったって」

 二人で、ニコニコしながら話し始めた。

”おいおい、ちょっと言い過ぎだろう。それにしても、何だよ、あいつらが同じ野球部に入ろうぜ、って誘ったくせに”

むっとした顔をしたが、ふと、横を見ると、いつの間に戻ったのか、紗枝が横にい

る。はっ、としたが、しっかり聞かれているようだった。紗枝の手前、恥ずかしくて赤くなった顔を、横に向けて隠すしかなかった。紗枝は紗枝で、こちらも横を向くしかなかった。

「合宿に行けば、パンツを忘れて、コンビニでブリーフを買うし」

「何、それ、ダサい」

「練習終わって、着替えたユニフォームを、人のバッグに間違えて入れるし」

「アホくさ」

「スライディングパンツってあるんだけど、人のを間違えて履いて、痒い病気を、人にうつしちゃったそうだし」

「ヤダあ。あのCMしてる、夏になると股が痒い、ってあれ」

「そうそう!、まらないんだ。試合中だって、痒いし。おかげでみんなにうつっちゃって、ひと夏大変だったらしいよ」

「不潔」

”もういいんじゃない”

泰介は、顔から火が出るようだった。紗枝は、少し揺れていた肩が、大きく揺れ始めていた。明らかに笑いをこらえている。

「一番ひどかったのは、リーグ戦も終わりに近い、東横大との最終戦の時さ。東横大の怪我人が多くて、珍しく彼が、試合に出してもらった時のことだよ。ちょうど、俺達北関大との試合だった」

「珍しく」

「そりゃあ、珍しかった。俺、四年間で初めて、グランド上の彼を見たからね。陰でみんな『これ、捨て試合か』なんて、冗談とも、本気とも取れるような事言ってたらしいよ」

”ひでえなあ。そんな事言ってたのか”

「負けた方は、入れ替え戦をかけて年駒大と最終戦、って言う大事な試合だったのに、よほど、メンバーがいなかったのかな。彼は、そりゃあひどかった。ライトフライをポロリ。ライトゴロをトンネル。挙句の果てには、再三のチャンスで三振。送りバントさえできなかった。おかげでうちは、三シーズンぶりに四位に上がったよ」

「入れ替え戦って、下のグループとするんでしょ。サッカーのJ1とJ2みたいに」

「そうなんだ。しかも相手は、高校野球のチャンピオンチームだよ。まあ、普通にすれば、そうそう負ける相手ではないけど、うかうかもしていられない。なんせ、高校でもプロ級の球を投げる投手が、多くなってきたからね」

「そう言えば、松坂とか、ダルビッシュ、田中なんて、凄いわね」

「そうさ。いくら大学野球って言ったって、六大学や東都大学なんて言うレベルじゃ無い僕らは、高校生だろうと必死だよ。だから、入れ替え戦を免れると、優勝したような騒ぎだった」

「その大事な試合に、彼が出て来たってわけ」

「そうなん…。だから《捨て試合》か、ってみんな、我が目を疑ったのさ。結局、入れ替え戦を東横大と年駒大が、争う事になった。荏籐様様だったよ」

泰介は耳を塞ぎたかった。

“もう、止めえ~”

「そうそう、最高だったのが」

“まだあるの”

「最高だったのが」

「それが、九回の裏の、彼のパフォーマンスだよ」

「パフォーマンス。何、それ」

「あろうことか、暑いからって、甚兵衛着て守ってたんだ。考えられる」

「ええっ、あの甚兵衛を」

“おいおい、頼む。勘弁してよ”

 泰介の願いも空しく、裕二の話は続く。

「でしょ。両チームのナインが、呆気に取られたよ」

「そんな事って、良いの」

「良い訳無いよ。だから、即、アンパイアがタイムさ。もちろん、すぐにユニフォームに着替えたたけど、可哀想に、相手の大井田は、これですっかりリズム崩しちゃって、滅多打ち」

「まさか、負けちゃった、とか」

「そう、そうなんだよ。九分九厘、負けたと思っていたのに、勝ちが転がり込んできた」

“わお、参ったから、止めてえ”

{ぷうっ}

 我慢できずに、紗枝が吹き出した。

{ご、ごめんなさい。むふっ}

 そう言いつつ、笑いを必死にこらえている紗枝。

“あん時のピッチャーか、こいつ”

 当時の、相手投手も忘れるようだから、万年補欠も無理は無い。泰介が、真っ赤になって、おたおたしている、その時だった。

「う、何、もう眠いの」

 昼間に相当遊んだみたいで、さすがに<愛結>が眠たい、と訴えて来た。すると裕美は、

「じゃ、一緒に寝ようか。その後はパパと、むふふ」

 裕美のその目に、裕二は脅えた。色っぽさでドキッとするのではなく、恐怖でドキッとした。ちょうど、獣が獲物を狙う、その目をした裕美に、脅えた裕二だった。

「ああ、俺も眠たいなあ」

「何ですって、ああそう。<翔>、パパが眠らないように、見張ってて」

「あははは」

”ふう、助かった。こいつ、北関大のエースだった。ほかの大学の奴まで、俺の事をここまで知ってるなんて、恥ずかしくて、たまんねえなあ”

{さすがに、子ども達も眠たいみたいですね}

 よほど可笑しかったのか、涙を拭き拭き、思い出し笑いを抑えながら紗枝は言った。

{あ、ところで、このあとの成り行きは、想像できますか}

にやけた顔で泰介が聞いた。

{何を、ですか}

紗枝は、不思議そうに言った。

{この後の夫婦です}

{あら、嫌だあ}

 恥ずかしそうに、泰介の肩を軽く叩いた。泰介は、その恥じらいが、とても新鮮で素敵だった。

”学生時代の、裕美ちゃんそっくりだ”

またまた胸がときめいた。

”おっと、いかん、いかん。またまた、けつから火が出る”

慌てて周りを見回し、仙人がいない事を確認した。

{激しいんですよ、この二人}

{嫌だ}

{見た事ありますか}

 泰介は、わざとからかうように、紗枝に聞いた。

{いいえ、残念ながら。あ、残念ではないんですが、あれ}

{残念。あらら、それはもったいない}

{あ、いや、決してそんなんじゃないんです}

{分かりましたよ。人間ですから}

{あ、いや、そ、そんなあ}

頬を赤らめながら、照れを隠す紗枝。

”あ、可愛い”

そんな可愛い紗枝への未練を、必死に打ち消す泰介だった。しかし、本当に残念ながらその夜の悶絶は、裕美の方が爆睡して、男二人が待ちぼうけを食った。こうして、あっという間に一年が経った。守護霊の一年は、現世のおよそ五年になる。だから、守護霊として一年経たなくても、現世の人間はそのスピードで成長し、老けて行く。<翔>が中一、<愛結>が小五になった。残念ながら、三人目が出来ていない。作らなかったのではない。裕二が、裕美の体型に、色気を感じなくなっていたのである。何しろ、結婚する前の体重の、軽く二倍はある。そのおかげで紗枝も恥ずかしいものを見なくて済んだ。しかし、泰介の心配は確実に、深刻なものになっていた。<翔>は、親に隠れて<愛結>のスカートを履いたり、裕美の口紅を塗ってみたり、そちらの方向へ一直線のようだ。腹の中で

”まともな奴が良いよ”

と、またまた嘆く泰介だった。しかし嘆いてすぐ、慌てて周囲を見渡す。いつもなら、このような不謹慎な考えをすると、何処からともなく仙人が現れて、その、甘ったれた根性を叩き直すように、ゲンコツが飛んで来るからだ。しかし今日は、どうやら無かった。そして夏のある日曜日のこと、裕二は裕美に相談をしていた。

「ねえ、このままでいいのかなあ。完全に違う方へ行ってるんじゃない」

「<翔>の事」

「そうさ。あいつ、完全に女になりたいんじゃないか」

「そう言えばそうねえ」

「どうしよう」

「いつか、話しあってみましょうか」

「そうだな」

裕二は、台の上で頭を抱えた。同じように、天井近くで頭を抱えている、もう一人の男、泰介もまた、選択の方向性を決め兼ねていた。守護霊として、今まで散々言われて来たように、自分に与えられた<翔>の命の保護を、彼の命の続く限り全うしていくか?もう一回だけ、仙人に聞いてみるか。この二つからの選択になる。しかし、この期に及んでまだ、ジタバタして、優柔不断な態度をとる、と言うのは余りにも情けない気もするのであった。ただ、〈翔〉は明らかに〈女性への興味・関心が非常に高い〉と言う可能性は高い。本来の生物の在り方ではないが、これは、動物界にも存在するらしい。だから、性の転換自体は、決してあり得ない事ではない。個々の問題である。 

ただ、守護霊とは言え、好みはちゃんとある。泰介は生物学上一般的な、雄が雌を好むタイプの人間であったし、守護霊であった。まあ、そうは言っても霊なので、生物学上、と言うカテゴリーには入れにくいが。

そんなある日、兄妹が珍しく、両方とも家にいた。〈翔〉はインターネットのサイトを一生懸命見ている。何かを探しているようで、必死にディスプレイを見ていた。そして、何かを見つけたらしく、固まったようにして、画面を凝視している。そしてしばらくすると、〈愛結〉を呼びつけた。

「何だよ」

「あのさ、〈愛結〉ちゃんね、性教育、もう受けたでしょ」

「男と女の体の違いとか、だろ。受けたよ。五年生からあるじゃん」

「だったら、性の違いって判るよね。学校にいる時、別な性でいるのってきつくない」

 と、聞く。

「何だよ、急に。きついに決まってんじゃん。『そうだよね』とか、『うっそ、可愛い』なんて言わなきゃなんねえし。気色悪いけど、仕方ねえだろ。それがどうかしたのかよ。兄貴は、平気だってえのか」

「いや、私も嫌よ。『俺、あいつの事好きなんだ』とか『俺、やっちゃうし』なんて、言ってる自分って、とっても嫌い」

「だろ。だったら、何で呼んだんだよ」

「これからはさあ、自分に正直に生きて行かない。やっぱり、心に嘘をついて生きているのって、間違いだと思うんだよね」

「しゃあねえだろ。世間体(せけんてい)ってもんがあんだろう。特に、親は、さ」

「でも、これ見てよ」

 そう言いながら〈翔〉が見せたサイトは、〈翔〉や〈愛結〉と同じ障害に苦しむ人たちのサイトで、そういう人たちが意見を出していた。それを食い入るように読む〈愛結〉。マウスを〈翔〉から奪い、何分にもわたって読んだ。そして読み終えると、

「ふう」

 と、大きな息を吐いた。

「そうだなあ」

 そう呟くと、

「やっぱりなあ」

 と、また独り言。そして、しばらく黙っていたが、急に

「そうだよな。兄貴の言う通り、自分の心に素直になりたいよな。それが真実なんだから。だから、自分の欲する性になればいいんだよ。世間も、それを受け入れてほしいな」

 と、およそ小五とは思えない発言をした。

「だから、そのためにも、心を隠して生きて行ったら、ダメなんじゃないかな」

「そうだな。やっぱりよう、正直に行こうぜ、な、兄貴の言うとおりだ。そうやって、世間にも、苦しみを伝えて行かなきゃ」

 二人はそれまでも、苦しさをできるだけ出さないようにしていたが、この話の後は、気持ちが固まったらしく、すっきりしていた。ただ、泰介は、まさか〈翔〉がそんな風に気持ちを固めたとは思っていなかった。自分が男だったので、てっきり男のままでいるのだと思っていた。その点、紗枝は違うように感じていたが、泰介の気持ちを考えて、黙っていた。しかし、泰介の思いとは逆の方に、二人の気持ちは動いていたのだった。

”裕二父さんよ、どうするんだ”

そう言う間にも、<翔>は着々と、お出かけの準備をしている。【つけま】をつけて終わりのようだ。

”おいおい、どこ行くんだよ”

泰介も慌てて、ついて行く。すると、後を追うように

「兄貴、どこ行くんだよ。あたいも連れて行けや」

 と、ついて来たのは、誰あろう<愛結>だった。小五の女子とは、とても思えない口ぶりだ。正面を見ると、紗枝が苦笑いしながら来ていた。

{凄いとしか、言いようがありません}

 紗江は、もちろん口出しや手出しはできないが、彼女が生前、一般的な女性のようだったゆえ、さらに異様に映るだろう。

「いいわよ。ちょっとさ、新宿二丁目に行って、先輩達を見て来ようかと思って。おいでよ」

「うざったい喋り方だな。何だよ、てめえ男だろ。しゃきっと出来ねえのかよ」

 いわゆる『おネエ』系の人、独特の語尾を少し上げて、鼻に掛けるように話す。泰介も紗枝も、鳥肌が立つ。はっきり正反対の性格、と言うか、正反対の『性別』だ。<愛結>も鬱陶しいらしい。

「してるじゃない。文句言わないの。さ、行くよ」

 三人の、いや、一人と二つの霊の鬱陶しさなんてへっちゃら、とばかりに、<翔>は言った。紗枝も泰介も、もちろんついて行った。新宿二丁目、と言えば有名な場所。それこそ、知る人ぞ知る界隈だ。

{こりゃ、いよいよ本物ですな}

泰介は、いよいよ決断を迫られて来た。どんどん二丁目を進んでいく。

”どうしよう。〈翔〉の目的とする相手は、間違いなく『ニューハーフ』だ。自分に与えられた運命だし、仙人との約束だし、輪廻を待って、仕事を全うするか。この男はどうしても駄目だ、と、いっそのこと、自分から【閻魔】ではなく、【カミューン】様に直訴するか。そうだ、紗枝さんに聞いてみよう”

ここまできても優柔不断だ。紗枝に相談している。すると紗枝は

{やらなきゃ駄目じゃないんですか。自分ならやります}

と、笑顔で一喝されてしまった。ここで、腹は決まった。『ニューハーフ』でも、考えてみりゃ同じ人間。命に違いは無い。

”やっぱり、やるしかないな”

泰介の気持ちがやっと決まった。泰介は、徐々に自分の気持ちが、強くなっていくのを感じていた。

”あの彼がねえ”

 仙人がいれば、感慨深げに呟くかも知れない。いや、単に紗枝の力かも知れない。

そうこうしてるうちに、<翔>は、昼間から開いている店を見つけて、店長と話していた。店長は、栗色の長いウイッグに、明らかに無理のあるけばけばしい衣装を、すでに昼間から着ていた。片膝を組んで、右肘を乗せ、タバコを燻らしている。

「ほほう、中学生なのに、ここらに興味があると言うの」

「はい、私、小さい頃から、周りと違うな、って思ってました。で、小学校の時、妹のスカートやワンピース着て、とっても嬉しかったし、母親の口紅や【つけま】が大好きで、しょっちゅう親の目を盗んでつけてました。テレビじゃ、ファンになる子はみんな男。女子には全然興味ありません」

「へえ。それは、楽しみだこと」

「そうなんです」

「じゃあ、本気で私達みたいになりたいのね」

 そう言いながら出されたお茶を、両手で上品に口に運ぶ。泰介も、あまりのスムーズな動きに、呆気に取られて見ていた。

「あ、私達って、店長みたいな人達、ってことですか」

「当然、そう思うわよ。いわゆる『ニューハーフ』でしょ」

「あ、そうじゃなくて」

「何、それじゃあ…。まさか、本当の女になりたい、って言うんじゃないでしょうね」

「実は、そ、そうなんです。心も体も、女性になってしまいたいんです」

{うっ、ま、マジかよ}

 泰介は、思わず咳き込んだ。

「そう。だったら、何でうちに来るの。うちは『ニューハーフ』の店よ。男が好きな、男の店なのよ」

「私、男の人との付き合い方を知らないので、ここで少し勉強させてもらいながら、手術費用も貯めたいんです」

「まあ、感心だこと。そこまで、自分の事を分かってるなら、うちで雇ってあげるから、働いても良いけど、法律で決まったことがあるのよ。最低でも、高卒でないと、こんな店じゃ働けないわ」

「そうですか。分かりました。そうします。頑張って、卒業してきます。その時は、使ってくださいますか」

 灰皿にたばこをもみ消しながら、店長は言った。

「もちろんよ。あんたみたいに、可愛い子は、うちの客がほっとかないかもねえ」

 店長は、いかにも嬉しそうに言った。

「それにしても、しっかり考えてるのね。そんな子、応援したくなっちゃう。ニューハーフ』は、仲間意識が強いから、私が応援するって言うと、みんなが応援するわよ。頑張りな」

 二人の話をフロアーの隅で聞いていた<愛結>は、話が終わりそうなのを見越して、二人に近付き、店長に言った。

「おう、おじさん。あたいの兄貴さあ、全くおかまっぽいんだ。いわゆる『ニューハーフ』になりてえらしいんだ」

 <愛結>の可愛らしい顔から発せられる、およそ小学生とは思えない言葉遣いに圧倒されながら、店長は目を丸くして、おたおたしながら言った。

「だ、だから、おじさんじゃないってばあ。やだあ」

「わ、分かった、分かった。お姉さん。頼むから、男らしくするように、言ってくんないかなあ」

「いや、それは無理だわ」

「何でだよ」

 顔を近づけて、まるで威嚇するように<愛結>は言った。

「何で、って。あなたの兄さんは、私達みたいにただ、男が好き、って言うのとは違うわ。体と気持ちが違うんじゃないの」

「何だ、そりゃ」

{【体と心の性が違う人】って事ですよね}

泰介が、珍しく博学な事を言うと、

{わあ、難しい事を知ってるんですね}

と、紗枝は驚いて聞いた。そして、

{私も聞いた事があります。生前、実は私の友達に一人いました。でも、周囲には言いにくいらしく、なかなか、言いませんでした}

{そりゃ、悩むでしょ…}

{たまたま、私が彼女、と言うか、彼の恋愛の対象となったために、告白されたのです}

 泰介は、たまげた。

“やはり、美人はどんな人からも愛されるんだなあ”

{それで、そのことがわかったのですね}

{ええ。でも、初めは仲良しの友達と思っていたのですが、だんだん、変な事をするようになって。ただ、相手にとっては、精いっぱいの愛情表現だったのでしょう}

{あなたも、大変でしたね}

 この場に仙人がいれば、さんざんチャかしたに違いない。なんせ、あのお調子者で、能天気で有名な泰介が、こともあろうに相談相手になっているのだ。仙人よいずこに

「じゃあ、おじ、じゃなかった。お姉さん。兄貴って、中身は女って事か」

「ま、そう言うことよ。あんただって同じじゃない。中身は男でしょ」

 そう言われてハッとした。

「ああ、そう言えば俺も中身は男か」

 今頃気付いていた。店長は続けた。

「でもね、これはほかの人には言えないから、本人はとても苦しいはずよ」

 それを聞いた〈愛結〉は、まじまじと兄を見ながら言った。

「そうかあ。兄貴、小さい時からそんな気持ちだったのか。分かった。じゃ、兄貴。帰って父さんと母さんに言おうぜ。あんたが女になりたいって」

「で、でもお、大丈夫かしら。私、怒られるんじゃないかしら」

 逆に〈翔〉の方がビビっている。

「仕方ねえよ。早い事言っちまいなよ。そして、体も女になれば」

{おいおい、簡単に言うな。俺のことも考えてくれよ}

 泰介の願いなど、聞こえる訳が無い。また、聞こえても<翔>が変わる訳は無い。新宿二丁目を後にした二人と二つの霊は、恐る恐る、子ども部屋に戻り、父親の帰りを待った。一時間くらいすると、父親が帰って来た。

「父さん、実はお話があります」

 こうして始まった<翔>の話は、紛糾することなく、静かなうちに終わった。中一と言えば、生まれてから十年以上だ。親が感じ無いはずはない。ましてや<翔>の強い意志と現実を考えれば、仕方のないことだろう。

「お前の思うようにやれ」

 裕二の一言で、<翔>の進路は決まった。

「変な奴に引っ掛かからないでよ」

 裕美はそれだけ言うと、顔を覆ったまま部屋を出て行った。

「良かったな、兄貴。これから、どうどうと女として生きていけるな」

 肩を叩きながらそう言ったのは、やはり誰あろう<愛結>だった。これが小五の女子か。

{いよいよ、女の守護霊に変身か。ふう}

 泰介はさすがに複雑だった。全然気が乗らない。しかし、紗江も言ったように

“仕方ないこと”

だ。親も納得したのなら、腹をくくるしかない。こうして、<翔>は、外見は男子ながら、内面は女子として生きていくことになった。しかし、学校では、当然男として振る舞う。そして、休みの日になると、お化粧をして、スカートを履いて、ショッピングやランチに行く。今の所、誰も知り合いはいないので、同じ女子の恰好をしながら、男みたいな<愛結>を相手に出掛けて行く。しかし、今時の女子は、ツイッターやライン等で、結構知り合いになれるものだ。<翔>も三年生にもなると、結構な友達が出来ていた。もちろん女子だ。相手は当然、同じ女子として、原宿を歩いたり、秋葉原を歩いたりする。おかげで泰介は楽だった。女子同士だと、まず危険な事はしない。

それは、紗江にも言えた。<翔>の友達について行くので、<愛結>も同じように、危険な目に遭わない。ただ、様子を見ていれば良い。フラれたとはいえ、まだ未練たっぷりの泰介だ。何も危険な事は無く、心の底では、未だに恋心を捨てきれない紗江と、二人っ切りで、一緒の空間にいられるだけで嬉しかった。

“このまま、何事も無く大人になって、早めに寿命をまっとうしてくれれば、俺は非常に助かる。そして、妹の<愛結>の寿命も全うしてくれれば、紗枝さんを少し待つだけで、現世に戻れる。そうしたら、人間で紗枝さんに交際を申し込める”

一人でニヤニヤしながら、そんなことを考える泰介だった。実際に兄妹は、怪我をすることも無く、危ない目に遭うことも無く順調に大きくなっていった。そして、とうとう<翔>が高校を卒業する時が来て、<愛結>が高二の年に、兄妹は別々な道を歩み始めることになった。

「兄貴、いよいよ二丁目の、あの店に行くのかい」

 <愛結>が言うと

「そうね。まずはあそこの店からね。あそこのお店で、可愛い男の子と一杯知り合いになって、貯金して、手術を受けるのよ」

“ちゃんと将来の展望は持ってて、感心だな”

紗枝と顔を見合わせた泰介は、自分より年が下で、こんな状況にありながら、しっかり現実を見据えた〈翔〉に、いたく感心した。

「俺も、高校卒業したら、兄貴のとこに遊びに行ってみようかな」

「あ、いいわよ。おいでよ。でも、ちゃんとおしゃれして来てよ。ジャージなんかで来たら、お店に入れないから」

「分かってるって!」

 小さい頃から、自分を磨いてきただけあって、<翔>は、お化粧をするとそこそこに見られる。ちょうど女優の、[水川あさみ]のようだった。そして、とうとう四月になり、<翔>は例のあの店『オンメン・ドイモ』に勤めるようになった。当然のように、声から表情、仕草など、何から何まで女子のように振る舞っている。一カ月の研修期間を終わって、<翔>は店で客をとれるようになっていた。

「あ、社長。いらっしゃい。紹介します。この子新人の翔子です。若いし、可愛いし、どうぞごひいきに」

「あ、そうかそうか、新人か。どれ、こっちへおいで」

「はあい」

「はいどうぞ。おビール。社長、お見知りおきを」

 そう言うと、<翔>はビールを注ぎながら、首を傾け愛想笑いをした。社長と呼ばれる男は、顔が赤くなっていて、良い調子になっている。何軒目だろう

「なかなか若くて可愛い。ぴちぴちじゃないか。気に入ったぞ」

 社長と呼ばれるその男は、肩を抱き寄せ、いきなりキスしようとした。

「あ、駄目よ、社長。まだ。良く知らないし、もう少し慣れてからね。はい、もう一杯どうぞ」

 <翔>は、なかなか上手にあしらっている。ママも、店の奥から心配そうに見ているが、<翔>のてなれた扱いに、少しホッとしたようだった。

“へえ、こんなおじさんでも、こう言う店が好きな人もいるんだ。俺には、しかし分からんなあ”

なかなか、<翔>の守護に気乗りのしない泰介だ。死ぬまで知らなかった、死ぬまで食べたくない、など、人間、生きている時は、よく〈死ぬまで〉と言う、言葉をよく使う。しかし、〈死んでから〉初めて知ると言う事は、そうは無いだろう。泰介はこんな店に入った事が無い。だから、死んでから初めて知った。

{初めてなんで、何でもおもしろいなあ}

 泰介にすれば、<翔>に関しては、店の中と言うことで安全だし、それは言いかえれば、泰介が暇であると言う証明だった。ただ、今まで気付かなかったが、それぞれにいるはずの守護霊が見当たらない。と言うより、見えない。何故だろう。こんな時に頼みの仙人さえいれば、すぐ聞けるのだが。そう言えば最近、仙人がさっぱり姿を見せない。とうとう、匙を投げられたか。いや、あの仙人が泰介の『普通の人間の守護霊がいい』などと言う、不届きなわがままを、見逃すはずはない。何かがあったに違いない。


その読み通り、実は仙人にとって、重要な時期を迎えていたのだ。彼は、泰介の後に守護霊として担当した人が、百歳を余裕越えで大往生した。実に細やかな守護ぶりに、【閻魔】様や【天輝凜】様どころか、【カミューン】様も感動され、特別待遇を受けようとしていた。それは、人間として輪廻するのか、それとも【三界(さんかい)萬(まん)霊(れい)の番人】として、森羅万象の生命の、成仏を見極める大役に着くのか、神仏や天人(てんにん)と話し合っていたのだった。【三界萬霊】とは、生きとし生けるものが、生死流(る)転(てん)する、苦しみ多き迷いの生存領域を、欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)の三種に分類したものだ。そしてその塔は、その三つの世界の全ての霊が、成仏して輪廻できるよう、供養するためのもので、【六道(ろくどう)】につながる重要な塔である。神々や天人は、ぜひ【三界萬霊の番人】として、この世界に残ってほしいと言う希望が多かった。しかし、仙人は悩んでいた。なぜなら、彼は現世に戻って、もう一度新しい恋愛をして、その恋愛を成就させてみたかったのだ。実は現世の時に、大恋愛をした仙人は、自分からその恋に、急に終止符を打ってしまった。しかも、大好きなまま…。何も言えず、恋しい気持ちのまま別れなければならなかった、大好きな彼女。彼女には、申し訳なくて仕方が無い。自分には、後悔だけしか残っていない。あの後どうなったのか、一度確認して気持ちにケリをつけたかった。どうにか新しい気持ちになって、恋でも、仕事でも良いから、とにかく幸せになっていてほしかった。そこを確認したうえで、新しい恋をして、今度こそ後悔の無いように、成就させてみたかったのだった。そして、一番気安い【閻魔】にその旨を伝えた。すると【閻魔】が、【釈迦】に伝え、【釈迦】は【天輝凜】に、そして【天輝凜】は【カミューン】に伝えた。すると【カミューン】は、仙人を呼び、【閻魔】以下みんなを集め、その前で、気乗りのしない顔のまま、

{仙人よ、今の本当の気持ちを教えてくれ。わしは、お前が以前の彼女の、今を知りたい、と言う希望を持っている、と聞いたが}

 と聞いた。すると仙人は、間髪入れず答えた。

{『三界萬霊の番人』などと言う大役は、私には到底無理です。私がまだ、人間道から天道へ行けるような修行も積んでおりません。それゆえ、彼女の今を知ることができましたら、潔く人間に輪廻させて頂き、寿命尽きるまでに必ず、修行を積み、天道へ参ります。ですから}

{やっぱりなあ。こんな適任はいないと思ったんだが、絶対断るんじゃないかと}

 【カミューン】は、かなりがっかりしていた。他も、えっ、と言う顔で、少しざわついた。仙人は、仏界からも神界からも信頼が厚い。何とかこの話を受けてほしいと青の世界の誰もが思っていた。しかし、まじめで、優しく、責任感の強い彼のこと。

死に別れになった生前の彼女の、今現在の姿を見たい、と言うのだ。自分が幸せに出来なかったため、どのような生きざまだったかを知りたいと言う。【カミューン】は、再度【閻魔】以下を集め、対応を協議した。そして彼の希望通りにすることにした。

但し、一つだけ条件をつけた。仙人は、事もあろうに、全仏、全神の王【カミューン】の依頼を引き延ばし、次に自分が輪廻した人間の、寿命が尽きるまで待ってほしいと、逆にお願いしたのである。それは今度、現世からここに戻ったその折には、今度こそ【三界(さんかい)萬(まん)霊(れい)の番人】の立場が待っている。言い換えれば、それは逃れられない。

それを甘んじて受けるので、今回はそのわがままを許してほしいと言うのだ。【カミューン】は、それを分かったうえで、せいぜい精進して来い、と言った。仙人は大喜びで、生前の彼女の生きざまを、【閻魔】のいる地獄へ行って、ビデオの再生のように見せてもらった。仙人は、涙を流して喜んだ。

西園寺公江と言う名前の、仙人の元カノは、江戸時代まで石高付きの旗本。明治時代は公爵、学校は初等科から向学院、と言う生粋のお嬢様だった。仙人も、元々は山形の豪農で、漆原辰夫と言う。敷地面積五千坪の農地と使用人三百人、と言う金持ちだが、まじめなボンボンだった。知り合ったのは、向学院大学の在学中だった。同級生だった二人は、二年になり、互いに専攻が文学の日本史、と言うことで気が合っていった。そのうちに、どちらからともなくお茶を飲んだり、食事に行ったり、ごく自然に友達になっていった。そして、四年になると、いよいよ就職の話が出る。互いの進路に関しては、気になる。場合によっては、別れが待っているかもしれないからだ。その時、初めてお互いが相思相愛だと言う事に気が付いた。そのあとも、お互いにまじめな二人は、若い者にしては珍しく、手を握る事さえせず、ただひたすら食事や映画など、一昔前のデートをするだけだった。刻々と卒業の日は近づき、辰夫は大学院に残りたいと言う。公江は、ヨーロッパに留学したいと言う。その事は、お互いが選んだ道だから、干渉や反対はしなかった。ただ、もう少し一緒に居たかった。しかし、その希望がかなう術は、もう無くなったのだ。年が明けた一月。辰夫は、公江とのことを、大切な思い出とするために、自分の大好きだった登山。それも【冬山登山】で、自分の気持ちをはっきりさせようと思っていた。そしてその日は、やってきた。山岳部だった辰夫は『冬山は止めてほしい』と、珍しく強く反対する公江を振り切って、真冬の、中央アルプス【槍ヶ岳】に入って行った。反対しながらも、中央線のホームで夜中の発車を見送る時、ホームの陰で初めてキスをした。そして、目にいっぱい涙をためて見送った。それが、二人の最後だった。雪庇を踏み外した辰夫は、二千メートル滑落し、息絶えたのだった。落ちてすぐは奇跡的に、かすかながら意識はあったものの、その意識が失せる時は目に見えていた。その時、辰夫の身に変化が起きた。泰介が経験した、あの幽体離脱だった。みるみる自分の体が浮かんでいく。強く、寒い風が吹いても、何とも感じない。猛烈に吹き付ける吹雪に、意識を失ったまま、だんだん白くなっていく自分が、不思議でならなかった。山に入って三日目。携帯に応答しない、辰夫の安否を心配した公江の捜索願で、辰夫の無念の死が発見されたのだった。泰介の場合とは、やはり、雲泥の違いだった。

 そのあと、何処へ行くあても無く、浮遊していた辰夫を救ったのは、【補助霊】と言う守護霊の補助役の霊だった。この霊は、守護霊と、この辰夫のように、良き人格のまま行先を失った霊とを、取り持つ役目を持っていた。守護霊は周知のように、現世において努力を惜しまず、仁徳を重ね、自ら切磋琢磨して、より向上しようと言う人間に、生前において、出来るだけその能力を発揮させようとしたり、生命に危機が迫っている時は、何らかの方法でその危機から救おうとしたりしてくれる。【カミューン】は、このような人間の霊は、できるだけ側に置き、大切な役を担わそうとしていた。

それは言わずもがな、人類の発展につながるからである。【補助霊】から連絡を受けた【カミューン】は、すぐさま、【閻魔】に連絡を取り、取り敢えず【閻魔】に立ち合わせるよう、その霊に伝えた。しかし、この霊はよほど融通が利かないらしく、本当に【閻魔】に会わせただけ、で終わってしまった。【閻魔】はいつもの調子だ。【カミューン】様が言われたのなら、と言うことで、簡単に、【釈迦】、【天輝凜】を通して、辰夫の霊を【水天宮】へ向かわせたのだった。【水天宮】では一般的には、守護霊として、認められた霊と一緒に【補助霊】が、入り込む赤ちゃんを選択するのだが、この時は【閻魔】が、例の調子で良く吟味もせず、辰夫の霊と、直接赤ちゃんを選択してしまったのだ。これが辰夫の不幸の始まりだった。彼が選んだのが、誰あろう『荏籐泰介』だったのだ。その後の苦労は、聞くも涙、語るも涙。おお、【閻魔】よ。何と言う事を。

しかし今、やっとその呪縛から解き放たれた、辰夫こと仙人が、公江の現在の姿をようやく、目の当たりにする事ができるのだ。愛しの公江はどうしているのだろう。


「何い。お前、何て言った。もう一度言ってみろ」

 裕二の大声が、早川家の窓ガラスを通して、通りにまで聞こえていた。

「おう、何度でも言ってやらあ。おれ、男になっからさ」

 裕二は両手で、机の上を叩いた後、わなわな震えている。

「お前、自分の言ってる事が分かってるのか」

 唇が小刻みに震え、その怒りの強さを物語っている。

「ああ、分かってるよ。分かってて言ってるよ。それがどうしたってえの」

「それがどうした、って。兄貴があんなになったからって、お前まで」

 裕二は、まっすぐに伸ばした肘を、がくっと折り、頭を抱え込んだ。横では裕美が、そのでかい図体を揺らしながら、すすり泣いている。

「何で家(うち)は、こんな変な子どもばっかりなんだあ」

 裕二が、泣きベソをかきながら、吐き捨てるように言うと、

「おいおい、親父、変なの、って言うことは無いだろう。俺も兄貴と一緒だったって事じゃないかよ。そのどこが変だよ」

 と、〈愛結〉は、落ち着いて、論理的に言った。確かに、変な事は何も無い。

「変じゃないか。何で、男に生まれたのに女、女に生まれたのに男。一体、何が悪いんだ。俺も裕美も何も悪い事してないのに」

 逆に、裕二の方が取り乱している。

「だからさあ、悪い事かあ。ただ、俺達、自分に正直に生きたいって、言ってるだけじゃん。だって仕方ないだろうよ。見かけは女だけど、男より女の方が好きなんだもん。

だから、いっそのこと、兄妹を逆に言ったらいいじゃんよお。兄貴じゃなくて、姉貴。妹じゃなくて弟。これだったら、いいんじゃないか、な、いいアイデアだろ」

 得意気に話す<愛結>の話に、泣くのを止めた裕二も、ふと考えた。これはなかなかいい考えだ。

「そうか。うちは、もともと姉弟の二人だったんだ。うん、こりゃいいぞ。なあ、ゆんちゃん。これでいけばいいじゃないか、愛結、よくやった」

{ちょ、ちょっと。そ、そんなのアリ}

 上で紗江は、明らかに戸惑っていた。現世の時が、ごくごく平凡な生き方をしていた紗江だけに、泰介とは勝手が違った。裕美も、いつの間にか泣くのを止めて、

「お父さん、家(うち)の子って、変じゃなくって賢いじゃない。立派、立派」

 と、裕二と手を握り合っている。まったく、夫婦そろってこうだから、子どもたちも個性的なんじゃないのか?と、言いたくなるようなシーンだ。

{私が言いたいわ、あなた達ご夫婦に。立派だわ}

 ため息と一緒に呟くように、紗江は言った。確かに、超ポジティブな考え方だ。しかし、その根本理念に、自分たちの信念は無い。あるのは世間体と自分勝手な理論だった。

「じゃあ、明日からどうするんだ。即、男になるのか」

「ちょっと待てよ、親父。物事には順序ってもんがあるからさ。昨日まで、仮にも女だった奴が、今日からいきなり男になったら、そりゃ、誰だって驚くさ。神様や仏様だって腰抜かすわ」

「じゃあ、どうするんだ。いつから男になるんだよ」

「まあ、そう焦らないで、見ててくれよ。男になるには、まず服や頭から変えねえとな」

「お買いものね。お兄ちゃんのは合わないの」

「兄貴のは、ダサくて。あんな兄貴だから、まるで女が着るんじゃねえか、って言うような服ばっかだからさ。俺は、俺らしい服着てえんだ」

「何だ、割と普通だな」

「何だよ、気になる言い方だな」

「あ、いや、兄ちゃんがあんな店に行ったから、お前も何か妙な事するのかな、って思ってさ」

「おい、親父。俺、性を変えたいんだ。気持ちが男なんだよ。だから、元々の男性になりたいんだ」

「あ、いい。分かった。じゃ、お前に任せるからな」

「あ、そりゃどうも。じゃ、あとはそうだ名前。愛結じゃ駄目だな。かと言って、せっかく付けてくれた名前だし、全く変えてしまうのも申し訳ないし」

「へえ、お前、割と考えてくれてるんだな」

 両手を握り合ったまま、裕二と裕美は向かい合って頷いた。

「当ったり前だろ。俺、兄貴みたいに、冷淡じゃねえからな」

{そこは、そうねえ。彼、彼女。うーん、何て言ったら良いのか。両親をちゃんと説得しようって言うんだから、〈翔〉ちゃんよりは、割と筋が通ってるわね}

 紗江も、その点は感じていた。

「取り敢えず、高校までは女子でいくよ。その間バイトして、金を貯める。俺は性転換に必要な手術費用と、大学に行く、その費用も貯めるんだ」

「お前、そこまで」

「当然よう。俺、大学の医学部に行って、色んな障害に悩んでいる人達を救いてえんだ」

「大学まで行くつもりか」

「行っちゃ、悪いか。自分で学費稼ぐんだけど」

「い、いやそんな事は無いよ。そうか、それなら少しは出そうか」

 夫婦は、万が一

“じゃあ、お願い”

 と言われたらどうしようか、ドキドキしながら、建前で言った。すると〈愛結〉は、それを見透かしたように、

「遠慮しときます。自分で決めた道さ。姓を変えるんだから、これ以上あんた達に迷惑はかけられない」

 と、はっきり言い切った。

「〈愛結〉、お前」

 抱き合ったまま、両親は泣き崩れた。

「ま、すんなり事が進むとは思っちゃいねえけど、ぶつかってみる価値はあんだろ」

「お前は何てお利口なんだ。大した子どもだよ」

「よせやい。照れるぜ」

 親よりもはるかに、しっかりした考えの子どもだ。

{愛結ちゃん、あなたって人は}

紗江は、あまりの素晴らしい考え方に、涙が出て来た。<翔>よりも、しっかりしている。紗江は、担当が当たりだったようだ。やはり、生前の生き方が反映されるんじゃないのか、泰介。

だから泰介は、早川家でこのような立派なやり取りが行われている時も、相変わらず『オン・メン・ドイモ』の一室で、ほかの守護霊を探していた。今まで出会った人間の守護霊も見えなかった。それは、血の繋がっていない人間だったからだ。紗江が見えるのは、<翔>と<愛結>が兄妹だからであった。それだけのことなのに、悩んでいた。

そんな些細なことで泰介が悩んでいるうちに、<翔>にも、お客が付くようになった。

{いよいよ、<翔>もいっぱしの【おネエ】だな。結構、もててやがる。ああ、でもやっぱり気乗りしないよ。誰か、代わってくんねえかなあ。おっと、危ねえ。こんなこと口走ってるのがバレたら、また、あいつが来る。くわばら、くわばら}

 この期に及んで、まだ、決め切れていない。全く、諦めの悪い男だ。

「翔子。こちらの〈社長〉がお呼びよ」

「はあい、ママ。今、行きます」

 あちらこちらから、お呼びがかかる。泰介は、この店では、お客は誰でも[社長]で呼ばれる事に気が付いた。そうしていると、また別な一人の中年が、指名した。

「こちらが、どうしてもご指名だって。翔ちゃん、行って差し上げて」

「はい、じゃ、済みません社長さん。あちらでお呼びのようなので、ちょっと行って来ます。またすぐ戻ってきますので。ごめんなさい。チュッ」

 そう言うと、軽くほっぺたにキスをして、別な席の客の所に急いで行った。席に付いてビールをお酌する。

「忙しそうだね」

「おかげさまで、可愛がっていただいて。ありがとうございます」

「翔ちゃんみたいに可愛いと、食べたくなるからねえ。ワハハ」

「まあ、社長さんたらあ、はい。どうぞ」

「おっとっとお。翔ちゃんは、酒を注ぐタイミング、うまいなあ」

「ありがとうございます。社長さんって、何の会社なんですか」

「知りたいかい」

「知りたあい」

 その社長は、グイッとビールを飲むと、いきなり右手を〈翔〉の肩に回して、小声で言った。

「危ない会社だよ、むふふ」

「あら、危ないって、ヤバイ事してるんですかあ」

鼻に掛った甘えた声でもたれかかり、若い女の子と間違える様な仕草だ。

{うまいなあ、あいつ。本当に天職だ}

泰介は、感心していた。そのうちに二人は、顔をくっつけるように近づいて、何やら話し出した。

{何を話してるんだろう。あんなに、顔をくっつけて}

怪訝に思った泰介は、社長の心を読んでみた。すると案の定、良くない話だ。泰介が

“ヤバいなあ。何とかしないと”

 そう思っていると、<翔>が、少し困っていた。

「ちょっと、ママと相談して来ます」

 そう言い残すと、席を立った。そして、ママの所へ来ると愚痴っていた。

「ねえ、ママ。言ってください。お持ち帰りなんて言うんですよ。失礼ね」

「ねえ翔ちゃん、お持ち帰りの見返りって、いくらでも良いのよ。こちらから、めっちゃ高い料金を言ってみると良いわ」

「そうかあ、高すぎたら、拒否される訳ですね」

「そう。ただ、それでも良い、って言われるかも知れないから、その時は、目的地に付いたらすぐに、[前金]でお願いするのよ。それと」

「それと、何ですか」

「うん、少し心配なことがあって。ただの思いすごしかもしれないけど、あの社長にお持ち帰りされた子は、店に戻って来ないのよ」

「どう言うことですか、それ」

「ひょっとするとヘッドハンティングされたのか、彼の経営する別な店に誘われたか、じゃないかしら。ま、良くは分からないけど、次の日から出て来ないの」

「じゃ、ママ。私、着いたら、携帯のGPSで場所を送り続けます。それで確認してください」

{よし、取りあえず、そうしてくれ}

 上で聞きながら、ちょっとホッとした泰介だった。

「社長、お待ちい。今夜は、離しませんからあ」

 そう言うと、抱きついて頬っぺたをくっつけた。

{う。あの髭面と脂ぎった頬っぺたに。俺の方が気分悪いわ}

 初めて見る、男同士の抱擁に、引いてしまった。

{あれが、今夜は裸同士で毛むくじゃらの絡み合い。うへえ、気持ち悪う。どうしよう。あ、そうか、危ない事は無いんだ。好きな者同士だから、危険は無いか。事が済むまで、黙って目をつぶって浮いてりゃいいんだ}

店の終わりは、午前二時。社長は、それまで待てないらしく、ママに大枚を握らせて、<翔>を連れだした。それでも、午後十一時を回っていた。タクシーを呼ぶと、二人で手をつないで乗り込む。すでにタクシーの中で、互いの体を触りまくっている。

運転手の、えげつない顔に、泰介は妙な親近感を覚えた。タクシーを降りたのは、社長と呼ばれる男のマンションではなく、全く別なマンションだった。この社長と呼ばれる男は、『ニューハーフ』専門の店を、都内に数か所経営しており、全ての店がいつも満員だった。さらに、最近では熟年の主婦層をターゲットにした、若いイケメン男子をホストにした店も、いくつか開店し、かなり儲けていた。しかし、『ニューハーフ』も若いイケメンも、有名な店から引き抜いていると言う噂があり、ママの心配も当然だった。つまり、泰介にとってはありがたい事だが、これからの出来事は、毛むくじゃらの男同士の絡みではなく、引き抜き交渉の可能性があった。しかし、そんな裏事情はをく知らない〈翔〉は、男の部屋へ入って行った。

「翔ちゃん、先に風呂入んなよ」

「あらあ、社長さん。私を食べる気かしら」

「ここまで来て、カップラーメンだけ食べるなんて、あり得る」

 意味の分からない例えだが、社長は要するに<翔>の言う『食べる』つもりらしい。

「食べても良いけど、社長さん。《前金》でお願いします」

「えっ、《前金》。そんなの聞いてなかったぞ」

「ええ、でもこれはお店の決まりだから、済みませんけど、よろしくお願いします。そうでないと、私は、帰してもらいます」

「はあ。じゃあ、いくら」

「一晩十万です」

ニコッとして答える<翔>に、

「ひ、一晩、十万。そんなバカな。そりゃ、あんまりだろう」

「嫌なら良いんですよ。私、帰りますから」

 そう言うと、ドアの方へ向きを変え、もう一回言った。

「どうします、十万。《前金》ですが」

「払えねえよ」

「じゃ、ごめんなさい。失礼します」

 〈翔〉は、そう言うとドアに向かって一直線に歩き出した。

{あ、まずい}

 そう言うと、泰介は<翔>に、急いで逃げるよう、知らせようとしたが遅かった。社長は、恐ろしく素早く、〈翔〉にとびかかり、<翔>を後ろから羽交い絞めにして、どすの利いた声で、<翔>に囁(ささや)いた。逃げようと体をくねらせる<翔>だが、女になるために体を鍛えなかった<翔>は、筋肉など全然ない。白く、細い手足は、普通の女子が見ても羨ましいくらいだった。だから、そんな<翔>など、赤子の手を捻るより簡単だ。

「おい、そんな嫌がるなよ。今、気持ち良くさせてやっからよ」

 上から見ていた泰介は、慌てていた。守護霊失格の決定的シーンだ。これで、<翔>が万が一、首でも絞められてお陀仏になったら、泰介の輪廻は消滅する。言い換えれば、泰介は浮遊霊となって、成仏できないままうろうろすることになる。『三界萬霊』の教えに従うにも、[六道]への入り方が分からないのだから悲惨だ。どうするつもりだ、泰介。その間にも、社長は<翔>をベッドの方に、ずるずると引きずって行く。いいアイデアが無いものか、必死に考える泰介。

{そうか、あいつの苦手な物を見つけて、あいつの耳元で囁くしかない}

そう決めると泰介は、社長の頭の中をじっと見て、一番怖い物を探してみた。そして何かを確信したかのように頷くと、すーっと降りて、社長の耳元に近付き、

{ねえ、あなた、今日のお帰りは何時かしら。もう、夜中ですけど}

と、一言囁いた。その途端

「ひええ。何でお前知ってるんだ。た、助けてえ。帰る、帰る。今からすぐに」

 そう叫ぶと、脱いだ服を全部抱え、ドアから大急ぎで飛び出し、エレベーターまで走りながら、タクシーを呼んでいた。見ていた泰介が、ちょっと気になったのは、社長の下半身は、すでにパンツ一丁だった事だ。

{やったあ。大・成・功}

右手でガッツポーズをとる。初めての大仕事に、すっかり得意になって、それこそ有頂天だった。

“あのままでいいのかな”

 と、一瞬思ったが、悪いのはそっちだから、と、さっさと〈翔〉の方に戻った。呆気に取られたのは<翔>だ。何があったのかさっぱり分からない。

“やばい。このままじゃ、社長に食われる”

と、必死で逃げようとしていたのに、突然、社長自ら声をあげて、服も何も持って逃げて行ったのだから、その気持ちも分かる。

「一体、何が起きたんだ」

独り言をつぶやく<翔>。

「どうやら、助かったのか」

 〈翔〉が、ぽつりと呟くと、

「いいや」

 と言う声がして、ドアの方を見ると、何と社長がいるではないか

{げえ、何で}

 泰介は、驚いた。そう言えば、タクシーに乗るまで確認しなかったぞ。しまった。気付かれたか}

「一瞬驚いて、タクシーに乗りそうになったが、よくよく考えたら、家内は旅行中だったよ。危うく逃げられる所だったぜ、ハニー」

 ニヤッと不気味な笑いを浮かべ、右手に持ったジャケットを、右肩に引っ掛け、肩で風切って<翔>の方へどんどん近付いて来る。えらいカッコつけてるが、相変わらず、下半身はパンツだ。

{しまったあ。今度こそ万事休す。<翔>をどうやって助けよう}

上でおろおろしているうちにも、社長は<翔>の正面に立ち、両手を<翔>の両肩に軽く乗せ、腰を捻り、首を傾けた。そして顔をゆっくり近付けて行く。<翔>は両手で顔を覆い、必死に抵抗するが、鹿の足のような細い手。片手でのけられてしまった。そして、必死で顔を伏せる<翔>の、あごの下を軽く持ち上げた。顔から下でさんざんもがく<翔>だが、顔は社長の右手でしっかり固定されてしまった。

{う、やべえ。社長の物になっちまうよ}

そのうち、ドン、と言う人がベッドに倒れる音がして、

「子ネコちゃん、頂こうかね」

 と言う社長の、嬉しそうな声がした。危うし〈翔〉。しかし、考えてみれば、泰介も<翔>の命さえ救えばいいのだから、『ニューハーフ』が好きな男に、邪魔立てする必要は無かった。ただ、そうは言っても、良心が傷む。何とか方法は無いものか。ここに来て何と、泰介の良心が動き出したのだ。いいぞ、泰介、その調子。泰介は仕方なく、社長が次に怖がっている物を透視して、試してみることにした。社長は意外にも、犬が怖いらしい。小さい頃にかまれた記憶が、トラウマになっているらしい。耳元で、鳴き声を真似た。すると、

「ぎゃあ」

 と、大きな声を出したかと思うと、飛び跳ねるように、ベッドから飛び起きた。そして、一斉に噴き出した汗を拭き拭き、急いで周囲を見回した。

「何だよ、空耳かよ。びっくりさせんなよ。ねえ、子ネコちゃん」

 そう言いながら、半ば諦めたように、ベッドで泣きながら横になる〈翔〉の上に、再びのしかかっていった。もう一度同じ手を使っても、今度は、人間の方が反応しにくくなる。かと言って、三番目に怖がっている物を読んでみたが、これは何と、もう一人の愛人だった。ただし、そっちは女性。しかもこの女性は、この男が、本妻がいるくせに愛人の自分と不倫し、愛人の男とも不倫、している事を知っている。その事を、妻にばらされるのが怖いのだ。これには泰介も、対応できない。この男、いわゆる【両性を愛する事が出来る】タイプなのか。これには、さすがに守護霊でも、その経験が無いのでどうしようもない。万策尽きた泰介、観念するか。その時だった。ドアをノックする音がした。泰介は、ホッとした。社長は、チッっと舌打ちすると、ベッドの上の<翔>の上から降り、そーっとドアの方へ行った。

「誰だ、今頃。何の用だ」

 社長が声を掛け、覗き窓から外を覗いていた。

「う、ママ」

 そう言うと、

「失礼しますよ、社長。あなたまさか、家の大事な可愛い子に、何か変な事でもしたんじゃないでしょうね」

と、言いながらママが入ってきた。帰宅時間の遅い<翔>を心配していたママは、店を出る前に<翔>が渡しておいたGPSを見て、この場所を探しあてて来た。

「い、いや、そ、そんなあ、変な事、なんて」

「ママ、助かりました」

「何かされなかった。それとも《前金》もらった」

<翔>に尋ねると、<翔>は黙って首を振った。

「社長さん、上等じゃないですか。この子は言ったはずですよ、《前金》で、って。ねえ言ったんでしょ、翔ちゃん」

「はい」

口をアヒル口にして、母親に甘える女の子のような甘えた声で、体をくねらせながら<翔>は言った。その顔と声に、泰介は呆れて、見とれていた。

「さ、帰るわよ。用意して」

 そう言うと、ママは<翔>を連れてさっさとマンションを出て言った。後に残った社長は、一人悔しい思いをしていたが、

「あいつは何とかして手に入れたいなあ」

 と、懲りずに考えていた。車の上で、ホッとする泰介だったが、愛憎の世界の凄じい一端を垣間見て、恋もしたことが無いくせに、現世の人間の、情愛の怖さを感じていた。

あくる日<翔>は、昨夜のような事は、水商売に関わる上では、仕方ない事と割り切っていたので、普通に出勤していた。逆に泰介の方が、少々興奮気味だった。しかし時間は、何事も無かったかのように、次の日も、その次の日も、普通に流れて行った。<翔>は、おかげで着々と貯金が貯まっていった。そんなある日、泰介が生きていれば、同じくらいだろうと思われる年頃の、中年がやってきた。年の割には、腹は出ておらず、七三に分けた髪は、ふさふさだったが、少し白い物が混じっていた。体はがっちりしていて、スポーツをやっていたのだろう。

「いらっしゃあい。おじさま、何、お飲みになりますか」

「あ、可愛いね。初めてだな。名前、何て言うの」

「あ、初めまして。翔子って言います。どうぞよろしくお願いします」

「あ、そう。よろしくね。僕、こう言う者だよ」

 そう言いながら、早速出した名刺には、[ホウモウ・ハーフ・タレントプロダクション(HHTP) 常務取締役ジャーネー・中河]と書いてあった。泰介には、何のことかさっぱり分からなかった。ただ、あの有名な【ジャニーズ】の会社の偉い人のような、名前に似ているのだけは確かだし、それは泰介にも分かる。そこら辺は、何となく訝しい感じだ。

「わあ、すっごおい。ハーフタレント。いいなあ」

 ビールを注ぎながら、<翔>は上目づかいに見ていた。早速、色仕掛けを仕掛けている。疑うことは全くしない。先日、あんな目に遭っていると言うのに。あの泰介ごときでさえ、怪訝に思っている。おっとっと、また泰介が噛みつきそうだ。

{何だ、ホウモウ・ハーフタレントって。だいたい『ホウモウ』ってどう言う意味なんだ。<翔>達の類は、普通に知ってるのかな}

 <翔>の喜びように、不思議そうに見ている泰介だった。

「社長さん、タレントプロ、なんでしょ」

完全に自分を売り込むつもりのようだ。

「もちろん」

{しかし、どいつもこいつも、店に来る客ってのが、社長や代表だとか、偉い肩書が多いね。みんな、役職で釣るのかねえ}

 少々、役職に食傷気味の泰介。まあ、仕方ないだろう。あのまま、大学を出て普通の人間やっていたとしても、大した役職は付かなかっただろうから、いろんな役職の人間を見て、楽しめるだけでも、今の立場が似合っていたかも知れない。あらあらまた。

あんまり言うと、泰介が今度こそ、噛みついて来そうだから、ここらで止めておこう。案の定、睨みつけている。こりゃ、失敬

「来週、コンテストやるんだ。君なら、可能性あるよ。良かったら出てみない」

「ええっ、何のコンテストですか」

 驚いた〈翔〉は、ビールを注ぎながら、顔を上げてしまった。

「き、君。翔ちゃん、ビール、ビール」

「あら、ごめんなさい。つい」

 中河の話に夢中になり、ビールを少し零してしまった。慌てて、ズボンを拭く<翔>。

“コンテスト。何だろう”

 <翔>の拭く、その手を握り、またまた股間か。ではなく、<翔>のその手を両手で握り、

「どうだい、ぜひ出てみてくれ」

熱烈に誘い出した。

「でも、何のコンテストか分からなくちゃ」

{何だ、ホウモウって知らないのか。<翔>は知ってるのか、と思ってた}

「えっ、決まってるじゃないか。美女子コンテストだよ」

「美女子。中河さん、私」

「分かってるって。そんなの隠せばいいのさ。隠しちゃえよ。前張りみたいだけど、今は、全然分からないのがある。それからの話さ。まずは、そのコンテストに出て、合格すればいいんだよ。君なら行けるって」

「テレビの【まるな愛】さんみたいに、なればいいんですか」

「そうだよ。前にいらした、カルセールさんは、体は女でも、中身は全くの男みたいだったから、見ててちょっと『引くう』って感じだけど、まるなさんは、OK」

「私、そこまで考えてなかったから。どうしよう」

「ま、とにかくおいでよ。絶対大丈夫だから」

「本当ですか。でも、ここのお店に聞いて見なきゃ。私、目的があって、お金が必要なんです。その事を話したら、ここの店長さん、応援してくれるって、高卒まで待ってくれたんです」

「あ、じゃ、俺から言っとくから。その代わり、絶対おいでよ」

{まあ、確かに綺麗と言えば、綺麗だよな、あいつ。さすがに、ずっと女子を追いかけて来たからな}

 確かに最近の【ニューハーフ】は、きれいに仕上げている。肉食系の女子が増えれば、草食系の男子が増えるって言う、人間の、いわゆる種としてのバランスを取っているのだろが、生物学的には、一言では片付けられない。

{この、中河って男。まさか、この前の社長のような、独特な性質じゃないだろうな。それにしても、どこかで見たような顔だ}

 その夜、〈翔〉は、店長に相談していた。

「話、聞いたわよ。で、どうするの」

「店長には義理があるので、店長の意向に任せたいんです」

「そうか」

 そう言うと、店長は太い腕を組んだまま、しばらく黙っていた。〈翔〉は、下を向いたままだ。数分後、意を決したように店長が口を開いた。

「なあ、俺達応援するって言っただろ」

 つい数分前までの女性は、豹変。店長は、すっかり男に戻っている。

「はい。そうなんです。だから、こんな気持ちを持ってしまったことに、とても、申し訳ないと思っています。済みません」

「じゃなくて」

「はあ」

「〈翔〉ちゃんよお」

「はい」

「応援するってのは、ここに引き留めとく事だけじゃないんだよ」

「はあ」

「お前が、より高収入を得られるなら、そこへ行く事を止めないことも、応援するって事じゃねえか」

「…」

「だから、行きたい所に行けよ」

「て、店長」

 そう言うと、〈翔〉は店長の分厚い胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。その頭を、店長は優しく撫でた。

「その代わり、約束だ。絶対、金儲けて、目標を達成するんだぞ。いいな。そして、必ず顔を見せに来い」

 〈翔〉は、泣きながら、何度も何度も、頷いたのだった。その場面だけを見ていれば、浪花節の世界かと思うような、光景だった。

その週の日曜日。お台場のテレビ局の前には、大型の貸し切りバスが用意され、《コンテスト会場行き》と、行く先を表示してある。そのバスに、きれいな女子(多分、男)が続々と乗り込んで行く。その中に<翔>の姿もあった。

{やっぱり行くんだよね。そりゃそうだろうなあ。店長が背中を押してくれたし}

 不安そうな顔の泰介をよそに、やる気十分で<翔>は乗った。やがて、五十人はいるだろうか。満席に近いほど乗り込むと、案内役の男が添乗して来た。

「今日は、みなさんご苦労さんでんな。合格するように、しっかり頑張りや。ワシ、会場まで君らの相手をします、明石家大輔言います。よろしゅう頼むわ。ほな、今から会場に行くでえ。ただし、みんなが不安にならんように、全員目隠しをするさかい、ちいっと我慢してや」

 流暢な関西弁に軽いノリの言いまわし。すっかり芸能人のような、雰囲気を醸し出している。声は、あの宮海大輔のようだが、顔や体つきは全く、さんまのような感じの、不思議な雰囲気だ。

{どこへ行くんだろう。目隠しをする必要なんかあるんだろうか}

訝しげに思いながら、泰介は見ていた。するとバスはいつの間にか中央道に入り、一路、山梨に向かっていた。

{こっちは、山梨だぞ。全く何を考えてるんだか。それにしても、何か、怪しいなあ。わざわざ、都会の真ん中から、田舎の方へ行く必要があるのか}

 一人だけ見える泰介は、訝しげに、明石家大輔と目隠しをして回る、三人の手伝いの人間を、そっと見ていた。すると案の定、目隠しをした後、四人は、ドライバーと何かをこそこそ話していた。二時間ほど走り、目的地らしき所に着いた。なんとそこは山梨だった。

{ここはどこだよ。あれえ、あれ富士山じゃないか。何するの、こんな所で}

車は富士吉田インターを降りると、富士山に向かって、一直線に走り出した。そしてその途中から横道にそれて、さらに田舎道に入って行く。泰介も全く初めてのような所だった。くねくねの道を十分ほど入ると、目的地に着いた。乗っている女子モドキは、車酔いしている者もいた。

「さあ、着いたで。降りてや。楽しいとこでっせ」

 不気味な笑いを浮かべながら、明石家大輔は他の者に目隠しを取らせ、降ろし始めた。そこは富士の富岳風穴の傍だった。

「ええ、どこ、ここ」

「都内じゃないの」

「ええ、マジい。こんな田舎。しかも、富士山じゃん」

 みんな口々に驚きの声を発している。それもそのはずだ、みんな、お台場から出発したのだから、当然、都内と考えていただろう。それが、東京とはおよそかけ離れた、田舎に来ている。しかも目の前にあるのは、洞窟入り口だ。。

「これがコンテスト会場だって。ざ、けんじゃねえよ」

と、いきなり男に戻る女子もいた。すると、さっきの明石家大輔が

「さあ、見た目は気にせんと、急いで入ってみなはれ」

 と、後ろから女子モドキの背中を押した。

{何だよ、ここ。【富岳風穴】って書いてあるぞ}

みんな、恐る恐る入って行くと、中は薄暗い。途中は鍾乳洞のように、寒かった。さすがにみんな異常を感じたのか、静かだった。だいたい、大輔自体が話さない。そして、十分ほど歩くと、正面にようやく明かりの漏れる、大きな扉の前に着いた。『おお』と言う声が小さく聞こえる。そして、大輔がその扉を開けると、中はすっかり変わって、まるでテレビ局のように華やかだった。

「うわあ、すげえ」

「外と全然違うじゃん」

 思わず歓声が上がる。すると、

「いらっしゃい、みなさん。ようこそ、ハーフ・ホウモウ・タレントプロダクションへ。お待ちしていました」

「あっ、中河さん」

大歓声だ。中河は、二階から手を振りながら、階段を伝ってゆっくり下りて来た。

階下では、いつの間にか、ステージの上がせり上がって、楽団が軽快なJポップを流し、スタイルのいい女の子(こっちは本物か)たちが数十人、曲に合わせて踊っている。今、世の中で大人気の、何とか四十八と言う、歌い踊るグループのようだ。

ステージも出来上がり、派手なレーザーが色とりどりに、女の子たちの周りを照らしていた。その中を派手な金色に、赤の混じったネクタイをした中河は、ピンクの上着を脱ぎ、白いズボンにエナメルに輝く靴を、さも見せびらかすかのように見せて、前におかれた大きなソファに腰掛けた。サングラスはしたままだ。

「みんな。そこの椅子にかけなさい」

 いつの間にか、上から目線の口調だ。しかし、集まった女子たちは、目をキラキラさせて、側の椅子に腰かけた。

{何だこりゃあ。コンテストじゃないぞ}

 泰介は、あまりにも変わった趣向の会場に、すっかり違和感を持ち、怪しい目で那珂川を見ていた。ようやく、彼にも守護霊としての意識が、働き始めたようだ。頑張れ、泰介。

「いやあ、遠い所まで済まなかった。決して、嘘を言うつもりはなかったのだ。ただ、『全員合格』を伝えるには、都内じゃない所が、良いんじゃないかと思ってね」

『全員合格』と言う言葉に、一瞬静まり返った会場は、すぐ後に、まるで男に戻ったような野太い声で、喜ぶ叫び声に包まれた。その会場全体が揺れそうなくらい、大歓声が上がった。ドドドドドー、パッシャーン。BGMまで付いている。

{全員合格だって。ますます怪しい。こんな場所に連れて来て、全員合格。しかも、途中を目隠し。何やらきな臭いにおいがするぞ。<翔>、気をつけろ}

 泰介の声が聞こえているのかどうかは分からないが、<翔>は意外と冷静だった。やはり、タレントを目指している訳でないので、そこまでの盛り上がりはなかった。あくまでも、自分の蓄えが優先だった。

「実は、君達に声を掛けたことが、合格の合図だったんだ。だから、集合さえしてくれれば、タレントとしてデビューするきっかけが、出来たって事なんだ」

 さすがに、野太い声はせず、黄色いくキャー、キャーと言う、甲高い声に戻ってわめいているが、大変喜んでいる事には間違いない。

「早速、来週からのデビューに向けて、まずは契約手続きを取ってもらう。なに、書面に印鑑さえ押してもらえば、それですべて終わり。何せ君達は、僕の眼鏡にかなった人たちだからねえ。じゃあ、後はこいつに任せる。君達の成功を祈るよ」

 そう言うと中河は、軽く右手を額に当て、二本の指でさっと合図をすると、また階段を上って、二階へ消えた。二階が事務所なのだろうか

「はい、じゃあここに並んで、印鑑押してや」

 さっきの明石家大輔が、紙と朱肉を用意して、彼女達の前に座った。相変わらず、キャー、キャーとうるさい。我先に列を作る。あっという間に列が出来てしまった。それを上から見た泰介は驚いた。

『私は、ハーフ・ホウモウ・タレントプロダクション(HHTP)の一員として、タレントデビューを目指し、全てを承諾したものとして働くことを誓います 印』

と書いてある。泰介は『全てを承諾して、とは、契約内容を全て承諾したものとして』と言う意味ではないのか心配した。しかし、契約書で見える範囲には、それらしい文言は見当たらない。

“大丈夫なのか”

泰介は、怪しい気持ちが膨らんでいった。しかも、『デビューを目指し働く』と言う事は、デビューさせるのではなく、そのために働く、と言う意味ではないのか。あの泰介が読んでも、曖昧な表現だらけだった。いよいよ不可解な文書へのサイン。泰介は<翔>に、『もう一回、隅から隅まで読み直せ』と、どうにかして伝える術はないものか必死に考えた。最後に並んでいる<翔>に、順番が来る前に、何とかしないとまずい。

“そうだ、あのダンサー達の話を聞いてみたらどうだろう”

そう思った泰介は、<翔>をチラチラ見ながら、さっきのダンサー達の控室へ潜入した。すると部屋の上の方は、煙草の煙で白く曇っている。

{何じゃ、こりゃ}

さすがに、息をしていないのでせき込むことは無いが、前が見えないほどだった。

やっと、部屋の中央の天井に辿り着くと、聞こえる聞こえる。女子とも男子ともとれるような、太い声や優しい声など、さまざまだった。

「この後、私達ド・ガンカナ・メンナの店に出てから、今度は午後十一時から《コッチ・ニモ・オイト》のお店よ。急がないと」

「体が、たまったもんじゃないわ」

「だいたいさあ、働き過ぎじゃないかしら」

「もう一つの店だって、朝四時までよ」

「七時から十一時。十二時から朝四時。何か、損してる感じしない」

「するう。給料ってさあ、安過ぎじゃね。残業代も出ないし、割に合わないわ」

「前のママが言ってたわ。各地方で、最低賃金って決まってるんだって。それに掛ける八時間だってさ」

「確かに、八時間だよ。でも、時間外労働手当、ってやつも付くはずじゃないかしら。働いてるの、深夜の時間帯だし」

「だったら、あの給料じゃおかしいんじゃない」

「でも仕方ないわ。俺達、サインしちまったからな。ふう。あんな研修費、テレビに出るくらい有名にならないと、とても返せる訳ないし」

{何だろう、研修費って。契約書にあったかな}

 泰介は、話を聞きながら、くれぐれも〈翔〉のサインの時に、しっかり見ようと思った。かなり、危ない仕事のようだ。

「でも、今日、カモが五十人くらいいたんじゃない。私達の代わりのカモさん達が」

「じゃあ、今日でこのお迎えセレモニーも、お役御免ってことかな」

「ああ、多分ね。次のオーディションを開くまでは、あいつらがやるって事でしょ」

「早く、デビューしたいな」

「HNA四二も、私達の前のダンサーだよ。我慢してやってれば、いつか日の目を見るって。だから、その日を夢見て頑張ろうよ」

「でも、ちらって聞いたんだけど、いなくなっちゃった人が結構いるんだって」

「何、いなくなったって。まさか、パスポートって関係ないんでしょうね」

「あ、そう言えば、この会場に来た時に、あの男に渡したパスポート、どうなったのかしら」

{あの男、って、明石家大輔か}

「そうそう、そう言えば渡してから、返してもらってないわね」

「期限があるでしょ。私って、そろそろ危ないかも」

「でも、とにかく、毎日頑張ろう、っと。明日のスターよ。ちょっとだけ、オネエだけど」

{うへ、ちょっとどころじゃねえんだけど。それにしても、パスポート。そう言えば、あの時にこそこそ言ってたのは、パスポートを取って来いって、話してたのかな。何するんだろう}

 泰介は、あの中河が店で〈翔〉と、ひそひそと話していた事を思い出した。

「そうね。でも、ちょっと、怖いかも。だって、いつも禿げ頭の用心棒が、出入り口で見張ってるでしょ」

「そりゃあ、逃げられたら困るんじゃないの」

「何か、やっぱり内部に変なシステムがあるのかな」

「かもね。しかし、ご飯食べられるし、お風呂も入れる。寝る所もある。うまくいきゃ、抱いたり、抱かせてもらったり、不満はないわ。私は、女は勘弁だけど、男は若けりゃ構わない」

「私も、やっぱり若い男ね」

「さあさあ、早く着替えて次の準備だ。次は、どこだ。船橋。こりゃ急がないと、はげから大目玉食らうぞ」

{ほほう。そう言うシステムだったのか}

泰介は、少し中身が分かってきた。顔は、曇っていて良くは見えないが、鏡を前にして顔を触りながら話している。多分、化粧をいじっているのだろう。

『男子の持っている物は、そのままにしておけ』

と中河が〈翔〉に言った、あの言葉の意味が分かってきた。

実際、この子達は今から、働きに出るらしい。

{メジャーデビューと言う名目で呼び寄せて、『ニューハーフ』の店で働かせる。そして、男が気に入ったら、お持ち帰りか。だから〈翔〉も、〇○○を取ってしまって、完全に女になったらダメなんだ。それに、パスポートの話もしていた。まさか、海外進出をねらっているんじゃないだろうな。とにかく、うまく騙されている。こりゃ急いでサインをしないように、何とかしなきゃ}

慌てた泰介は、急いでさっきのステージのある部屋に戻り、<翔>にサインをさせないように、考えていた。しかし、<翔>の順番は、次だった。

{まずい、どうにかしないと}

 泰介は焦った。しかし、囁くか、紙を吹き飛ばして、紙を失くすしか手立ては無い。

囁く内容を考えているうちに、あえなく<翔>のサインを、許してしまった。

{しかし、しっかり読んでいてサインをしてたから、何か考えただろう}

 もう〈翔〉に任せるしかない。次の場面で何とかしよう、と泰介は腹をくくった。

守護霊としての、意識は、どんどん高まっているようだ。明石家大輔は、

「ほな、これで契約は終わりや。お疲れさんでんな」

 ポンポン、と人数分の契約書の束を重ねると、最後にニヤッ、と不気味に笑った。

「後は、こいつらに聞いてや。ほな、頼むで」

そう言うと、いつの間にか大輔の後ろに来ていた、[おがた・ましだ]と言うネームプレートを付けた二人組に、後を委ねて、もう一人の禿げ頭と一緒に、別室へ消えて行った。

「はあい、集合。酒の強いのは酒豪、今は集合。イエイ」

「あのお、すんません。彼の言う事は、流してや」

「こら、誰が流して、や。水が流れてたら、滑るやないか」

「それでええがな」

「そしたら、誰もおらんようになる。閉店ガラガラやないか」

「で、いいんとちゃうか」

「これこれ、ワシ、すべりまくっとるで」

「……」

 ひきつった愛想笑いを浮かべて、説明を待っている応募者たちだった。

「あらあら、すんまへんな。ほな、説明しまっせ」

 やっと始まった説明だが、その前にみんな疲れてしまった。しかし、<翔>は真剣に聞いている。ただし、説明の所だけ。そして、それぞれの部屋の荷物やキーを渡され、それぞれ、部屋の奥にある、寮へと移動した。その、すべりまくる漫才のような説明と、部屋の様子を、上の方で胡坐をかき、右肘を右膝に乗せ、顎をその右手に乗せて見ていた泰介は、ふうと、ため息をつくと、<翔>と一緒に寮へ行った。荷物を整理しながら<翔>は、店長にこれからの事を連絡しておこうと、携帯で連絡しようとした。しかし、あろうことか電波が入らない。この静岡で、電波が入らないなんていう事は、考えられなかった。実は店長も、心配して連絡を取ったのだが、電波が入らなかったのだった。

「おかしいわ。電波が入らないなんて」

 店長は、すぐさまコンテストの様子を聞いた。すると、お台場から中央道に乗った所までは確認が取れた。店長は、中河の身辺が、怪しいと直感した。

「今度、彼が来たら知らせてね。逃がさないようにね」

「分かったわ、ママ。任せて」

 青い、髭剃り後の頬に、美白用の化粧品を塗った、画体のいい女子達が、口々に言った。

「それにしても、あの中河ってやつ、何ものかしら。くそったれ。捕まえたら、ただじゃ済まさねえぞ」

 店長も、本気の時には、元の性に戻る。

{おいおい、電波が入らないってありかよ、静岡だろ}

泰介は、<翔>の様子を見て、驚いた。

{外に連絡を取るには、どうしたらいいんだろう。公衆電話は無いし、手紙なんて、出せる訳ないし}

 それは<翔>も同じだった。困った<翔>は、隣室の者に聞くことにした。

「こんにちは。居るう。ちょっと、いいかしら」

「あ~ら、お隣りさん。いらっしゃい。何か、御用。あら、あなた可愛いわねえ」

 やり取りを聞いていると、泰介は、寒気がして鳥肌が立った。

「ちょ、ちょっと、お尋ねしたいんだけど、ここ携帯が入らないって知ってる」

「あ、そうそう。入らないわ。私もさっき、掛けてみたの。そしたら、あなた、電波が入りませんって言うじゃない。参ったわ。彼、心配してるだろうなあ」

「あなたもやっぱり。じゃ、お隣りさんてどうなのかな。ちょっと、尋ねてみるわ」

 そう言うと<翔>は、その隣の部屋に聞いてみた。すると、やっぱり入らないと言う。それなら、二階はどうかと言うと、やはり二階も同じだった。

「これ、ちょっとおかしくない。こんな時代に、この静岡で携帯の電波が入らないってある」

「そうよ、スマホだって同じよ。全然ダメ」

 二階の廊下にぞろぞろ、集まる『ニューハーフ』達。

「おかしいわね。どうしよう。彼、泣いちゃうかもお」

 そこへ現れたのは、さっきの二人[おがた・ましだ]だ。

「ちょっと、おネエさん達、何、騒いではんの」

「だって、携帯やスマホの電波が入らないじゃないよ。使えないじゃん。どうやったら、外に連絡できるの」

「はあ」

 二人は、呆気に取られた顔をして言った。

「あんたら、聞いてまへんのん」

「何を」

「あんたら、籠の鳥でっせ。ここからは、外に出られないし、連絡も取れまへん。外に出るには、みんなで仕事に出る時か、売れっ子になってデビューするか、しかないんです」

「籠の鳥。そんなの聞いて無いし。どうするのよ、監禁じゃない」

「犯罪よ。あなた達、訴えてやるわ」

「さ、みんな帰りましょう。こんな所居られる訳ないじゃん」

 すると、二人は薄笑いを浮かべて、急にマジな言い方になった。

「おうおう、お前ら籠の鳥じゃっ、ちゅうねん」

「何よ、すごみきかせたって、そんなの平気よ。ざけんじゃ無いわよ」

「よう言うてくれるやないか。お前ら、さっき契約したろ。サインしたんやろ。あれ、よう読んだか。ちゃんと書いてあったやろう」

「ちゃんと読んだわよ。でも、社員として働く、しか書いてなかったわよ。ねえ、みんな」

 いつの間にか、全員が集まって、むんむんした雰囲気になっていた。いくらおネエの集まりとは言え、画体は良く、体育大学出身のような女子、もいる。下手すると、普通の男より、良い体つきかもしれない。しかも、それが数十人。このまま興奮してもし、ここで喧嘩にでもなったら〔おかがた・ましだ〕に、勝ち目はない。

「ほ、ほんじゃあ、ここにある契約書を、後ろのモニターに映すさかい、よう見てや」

 その雰囲気を察した二人は、そう言うと、自分たちの後ろにある二階廊下、休憩室にある、テレビ・ビデオモニターのスイッチを入れた。画面には、<翔>の契約書が映されていた。

「さ、こ、この部分。ようく読んで」

二人が止めた部分をよく読んでみると、書いてある、確かに。しかし、右下の部分の普通は、絶対読まないような部分に小さく、本当に小さく但し書きが合った。

『※私達は、デビューが決まるまで、または、お客に気に入られて、引き抜かれるまで、寮から出ない事を約束します。電話も無しです』

「くっそお。そんなことも書いてあったのか」

「こらこら、大事なんはその次や。しっかり、読まんかい」

「えっ、なになに。『※2私達の給与は、労基法に定められた最低賃金で契約し、しかも、仮採用期間のみの契約とします』。どや、分かったか」

「ええか。仮採用期間のみの契約やで」

「えっ、それって、どういう事」

 〔おかがた〕が、目をひん剥いて言った。

「かり、さい、よう、言うこっちゃ」

 すると、それを聞いていた〔ましだ〕が、今度は〔おかがた〕に

「そら、読み方やろ。相変わらず、アホやな。もう」

「そな言うたかて、《仮採用》は〈かりさいよう〉やろ」

「もう、ええわ。わしが言うたる。あのな、オネエちゃん達、よう聞きや。《仮採用》言う事は、いつでも辞めてもらって結構です、言う事や」

 オネエ達は騒ぎ出す。

「おら、辞めてやろうじゃねえか」

「おらおら」

 すると〔ましだ〕はニコッとして、

「そら結構なもんです。いつでもどうぞお辞めください。ただし、研修費はその場で、耳揃えて返してもらうさかい、な」

 不気味な含み笑いで、言葉を締めくくった。その意味は、何となくオネエ達にも分かった。

「やだあ、見てない。詐欺」

「なんだとお、インチキじゃねえか。くそったれえ」

{ああ、よくあるパターンだな。引っ掛かったなあ。また、やっちゃったあ}

泰介も、またやられたとばかりに、地団太を踏んだ。現世にいる時に、自分でも何回も引っ掛かったくせに、この世界に来ても守護する者をやられるとは。ため息しか出て来ない。

「さ、分かったなら帰って寝えや。明日から早いでえ。ほな」

 〔おかがた〕が吐き捨てるように言ったと思ったら、続けて〔ましだ〕が、思い出したように言った。

「あ、逃げ出そうなんて、アホな事考えんときや。絶対無理やからね。頼むで。言うとくけどな。ここから逃げ出すのは、富士の樹海を、磁石無しで歩くのと同じやで」

「ど、どう言う事よ」

「知っての通り、あの樹海は、磁石が効かん。そやから、あそこに入ったら、二度と出て来れんのと同じ、言いまっせ。こっから逃げるんは、それと同じくらい大変や、言うてんのや」

「だからあ、分かりやすく言ってよ」

「死にまっせ、言う事や。ここにおったら、住む所もあるし、給料もあるし、飯も出る。こんなええ事無いでえ」

「でも、一生出られないじゃない」

「彼に会えないじゃない。誘拐よ。訴えるから」

「人聞き悪い事言うなあ。一生出れんなんて、一言も言うて無い」

「だって、逃げたらダメでしょ」

「今のままはいかん、言うただけや」

「じゃ、どうしたら出られるのさ。どうせ、また、嘘でしょ」

「ンな、アホな。出れまっせ。客を、仰山捕まえたらええんじゃ。お前ら、ホンマに契約書読んでへんなあ。も一回、隅々まで読んでみ。簡単な事やで。ま、頑張りな」

 そう言うと、勝ち誇ったように、寮を出て行った。確かに、先ほど泰介が上から見た時には、この風穴の中は明かりが無いとどこも見えない。手探りで行くしかない。仮に手探りで行けたとしても、外に出ると樹海が待っている。完全に閉じ込められた。

<翔>は、と見ると、唇を噛みしめて、歯を食いしばって、我慢していた。白くて細い体に、大きくつぶらな瞳。肩まで伸ばした栗色の髪は、軽くウエーブが掛かり、まるで、エレガントな女性のように見える<翔>。『オンメン・ドイモ』で、鍛えてもらったせいか、より美しくなり、何も知らない男が見れば、とてもチャーミングに見える。そんな<翔>だが、唇を噛みしめて睨む姿は、かつて、別な性でいた時の<翔>だった。

「仕方ないですよ。さ、それなら諦めて、もう一回読んでみましょうよ」

 そんな凄みのある顔から出てきた言葉とは、とても思えないおネエ言葉で、ほかのみんなに、気持ちの切り替えを促した。

{ほお、さすがに目標を持ってると、要らぬ労力は使わないんだな。ま、抵抗しても、無駄だって事は分かるけどな}

「そうねえ。私達だけじゃどうしようもないものね」

「ああ、悔しい。今度、中河見かけたら、捕まえてぶん殴ってやるわ」

「そうよ。何が、全員合格よ。嘘ばっかしじゃない」

 みんな、落ち着いて見てみると、すでに寝る用意をしていたのか、パジャマ姿にネットを被っている。ただ、お化粧を落としているので、凄い顔のおネエ達が、ぶつぶつ言っている。

「騙された私達がバカだった」

「さ、明日から、早速、興業って言ってたでしょ。この調子じゃどうせこき使われるんだから、使われながら、何とか脱走する作戦でも練ろうよ」

「そうね、じゃ休むとするわ。お休み」

“寝よう、寝よう”

“しかし、悔しいわ”

と、ぶつぶつ言いながらも、それぞれの部屋へ帰って行った。

{どうするんだ。ああ、危険は無いけれど、ずっとおネエで過ごすんだな。何か、ちょっと寂しいかな}

 泰介は、またぶつぶつ言っている。自分は、<翔>が成長してからは、何も守護霊らしい事は出来ていないくせに。それでも、聞き方によれば『安全で、退屈だ。イコール、少しは守護霊らしい事もしたい』と、聞こえないことも無かった。<翔>は、部屋に戻ると、ベッドの上に体を投げ出し、横になってため息を漏らした。そして、さっき彼らが言っていた【契約書】のコピーをしっかり読み直した。すると、最初のページの一番下に、虫眼鏡で見なければ分からないくらいの小さな文字で書いてあった。その内容を見て、〈翔〉は愕然とした。『研修費一千万を返却した場合のみ、契約終了となります』と書いてある。つまり、今までの交通費や宿泊代、その他もろもろを研修として、その費用を自分で借りたことにしてあるのだ。あの〔ましだ〕が言った〈研修費〉とは、この事だった。一千万なんて。完全に騙された。しかし、もう遅い。

“店長には、どうにか連絡したいなあ。何とか方法は無いかしら”

<翔> は、浅はかだった態度を悔やんでいた。

“こんな時、仙人様ならどうするかな”

泰介も、一緒になって考えてはいるが、いいアイデアは簡単には浮かばない。考えているうちに、いつの間にか眠ってしまった。

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