第9話
そして、着いた所は、知らない家だった。
{どこなんでしょうね}
{初めて来ましたね}
二人の守護霊は、恐る恐る二人の子どもの、後に着いて行った。車を降りた裕美が、二人を連れて、玄関のチャイムを押すと、中から声がして、裕美と同い年くらいの女性が出て来た。表札には【野々村】と言う文字が入っている。
「こんにちは、愛理さん。今日は、本当にお邪魔して良かったのかしら」
「え~、どうしてえ。私が誘ったのに」
「いやあ、何か申し訳なくて」
「何言ってるの。そんな遠慮せずに上がって」
「じゃ、お邪魔しまあす」
この二人は直接の知り合いではない。旦那同士が知り合いで、せっかく近くにいるし、保育園も同じだからと、裕二と、ここの旦那が連絡を取り合って、ママ友になってもらった。しかし、高齢者向けの衣類を作る会社の、社長令嬢である愛理とは、経済的にはるかに格の違う思いで、裕美は肩身が狭かった。実際、有名私立の保育園に、娘の真亜奈(まあな)を入れている野々村家は、夕方、保育園のお迎えでは一番最後に、使用人が、真亜奈を連れて帰ってくる。それまで、母親は自由だった。それに対して裕美は、保育園から一人を抱っこして、一人の手を引いて帰っている。その差は歴然だった。
今日は、その帰りに寄った。そして、そのまま家の中へ入って行った。
{何だ、またママ友とお茶か。優雅な生活だな}
{ママ友のつながりは、大事みたいですから}
{紗枝さんは、さすがに女子ですね。やっぱり、そうなんですか}
{ええ、そうらしいですよ。私の現世の頃の友達には、子どもを産んだ人もいましたけど、そう言う時から、つながりが重視されるみたいです。子どもが大きくなって、保育園や幼稚園になると、もっと大変らしいです}
{親になればなったで、また大変だなあ。でも、〈野々村愛理〉って、ずっと前に聞いた覚えがあるぞ。はて、どこだったかなあ}
当分、子どもどころか、結婚の心配もない泰介だったが、それなりにビビってはい
た。紗枝と話しながら部屋へ入っていくと、泰介は、ママ友の顔に、見覚えがあるよ
うな気がした。中に入ると、案の定<愛結>の動きが始まった。最初こそおやつのナタ
デココをおとなしく食べていたが、食べ終わると、やれ水が欲しい、やれ、違うおや
つが欲しい、やれトイレだ、と忙しい。そして、慣れて来るに従って、家の中をうろ
ろし始めた。さあ、紗枝の出番だ。紗枝はすでに、腹をくくってスタンバイだ。それ
に反して<翔>は、母親の裕美の後ろに隠れて、持ってきたお人形で遊んでいる。
「あれ、あの元気の良いお子さんが、男の子」
「いいえ、こっちです」
裕美も気になって、言えずにいたのだ。
「もう、ちょろちょろしてるんですよ。下の子」
「活発ね。将来、楽しみじゃない」
{冗談じゃない。こんなの絶対楽しみじゃないですう}
紗枝は、汗だくになりながら、現世の人間が聞こえないのをいい事に、うっぷん晴らしをしていた。
{ちょっと待ってえ}
可哀相に、あっちの部屋へ行ったかと思うと、こっちの部屋。果ては、ペットのネコと遊んでいた。
「<愛結>。どこ。あんまりうろうろしちゃ駄目だよ。よそのお家だからね」
珍しく気を使って、裕美が探しに来た。そりゃそうだ、家具や調度品を傷つけでもしたら、修理代なんていくらかかるか分からない。そんな、一目で上等と分かる物ばかりだから。
「さ、こっちにいらっしゃい」
しかし、〈愛結〉は、元の部屋へ連れて行こうとすると、嫌がって泣き出す始末。
「いいわよ。家なら大丈夫。アンリもおとなしいから、一緒に遊んどくといいわ」
アンリと言うネコは、白い上品なネコで、確かにおとなしそうにしていた。
「いいかしら」
「大丈夫よ。さ、早く片付けましょ。もう少しだし。お店はあそこで良いわよね」
「でも、人数は大丈夫でしょうか」
そう言いながら、隣の部屋にアンリと<愛結>を残し、ママ達は戻って行った。
{どうですか、ここなら大丈夫そうですか}
{はあはあ、少し、落ち着きましたよ。ふう}
紗枝は、完全に息が上がっている。相当ハードだったようだ。改めて部屋を見回してみると、なるほど<愛結>にとっては、最高の遊び道具になりそうなものばかりだ。
何か知らないが、トロフィーが幾つも飾ってあるし、置物の熊は、よく北海道土産で買うもの。しかし、木彫りのために相当重たい。<愛結>の頭より大きいので、彼女より、重たいかもしれない。また、ショーケースには、これ見よがしに【ナポレオン】や【へ―ネッシー】【ドンペリ】など、泰介が生きている時には、実物を見た事さえ無かったような、高級酒を置いてある。瓶は、見るからに触りたくなるような、特徴のある瓶だった。そして、またまたある物を発見してしまう。それは、先日の家と同じように、レンガ造りの暖炉の上の写真だ。大学卒業式の、直後のようだ。それを見た泰介は、腰を抜かさんばかりに驚いた。ただ、腰が抜ける事は無いのだが。それは、先日の家と同じ、誰かがデジカメで撮ったような、仲間同士の写真だった。そこに映っていたのは、あの海に行った三人と、野々村愛理だった。ただ、その横には、男女二人の写真が飾られており、一人は野々村、別な男子は何と、佐田だった。あろうことか、佐田は愛理と結婚していたのだ。しかも、表札を見ると確か【野々村】だった。と言う事は、まんまと養子に入っているのだ。
“こりゃ、大変だなあ。それにしてもここの家は、相当な金持ちだ。佐田の奴、うまい事やりやがって”
少し、ケチを付けたくなるような、泰介と正反対の人生だ。
{こりゃ、すごいですね}
泰介がびっくりしていると、紗枝はまだ肩で息をしていた。
{これを、一緒に回ったら、痩せますよ。はあはあ}
{本当だあ。でも、本当は、裕美達がすればいいのにね。あなたみたいにスマートな人じゃなく、あのデブに。守護霊もやり甲斐が無いですよね}
その瞬間だった。下から電気が走って、頭を突き抜けた。尻に、キックの強い痛みを感じた。
{痛え。誰だ、あ、仙人様。何てひどい事を}
{何だと。もう一回言ってみい。今度は、ゲンコツだ}
{ええ、何でえ。何かまずい事言いましたか、俺}
{まったくう『やり甲斐が無い』って言ったな}
{それが何ですか。見てくださいよ、あのデブ。少しは走ったり、腹筋したり、ダイエットすればいいのに、そう思いませんか}
{それは、そう思う。しかし、お前も現金だな。自分があれだけ惚れていた人なのに、自分を覚えていなかったらただの《デブ》呼ばわり}
{いいんです、もう。でも、それはそれとして、仙人様もそう思うでしょ。痩せる努力をすればいいのに。そんなこと言っちゃダメですか}
{問題はその後だよ}
{ああ、『やりがいが無い』って所かあ}
慌てて仙人が、泰介の口を手で塞いだ。そして、耳元に口を近づけて、恐ろしく低い声で囁くように言った。まるで、悪魔の囁きだ。しかも、超丁寧だ。
{お前は、どんな思いして守護霊になれたか、覚えているか}
{は、はい}
二ヤケた顔で、泰介は言った。
{【天輝凜】様に、やっとの思いでもらった守護霊の立場。この機会を逃したら、あんたは、ずっと命の続く限り、【三悪道】で苦しい思いをする。それでも、良いのか}
それまでの、だらんとした雰囲気の泰介の顔が、一瞬にして引き締まった。恐る恐る、泰介は訪ねた。
{それ、何ですか}
{地(じ)獄道(ごくどう)・餓鬼(がき)道(どう)・畜生(ちくしょう)道(どう)の三つの場の事で、地獄は、【閻魔】様がお待ちだ。【餓鬼道】は、いつも腹が減っている。食べ物が口に入らない。だから、ずっと空腹に耐えなければならない。【畜生道】は、その名のとおり、畜生のように、人に言われるがまま、使われて生きていかなければならない。こう言う所に行くか}
{ちょ、ちょっと仙人様。ちょっと待ってください。余りにも厳しいです。どこにも行きたくないです}
{だったら、守護霊に対する文句のような事を言わないの。どんな神や仏が聞いておられるか。知ったもんじゃない。いいか}
{ええっ、どこかで聞いたり、見たりしてるんですか、神様って}
{当然だ。でも見張ってるんじゃ無く、全てが見える}
{ええっ、そんなあ。神様達だけずるい}
{こ、こら。何と言う不届き千万なことを。もう、そんな分からず屋を言うのなら、俺はいい加減手を引くぞ}
{えっ、そんな殺生な。済みません。私が間違っておりました。反省。もう言いませんだから、そんな事言わないで。お願い}
{天(てん)網(もう)恢(かい)恢(かい)疎(そ)にして漏らさず、って言う言葉があるように、天上では、例え私達のような守護霊でも、一挙手一投足が丸見えなのだ。ましてや、貧乏神や死神に至っては、鼻毛を抜くのでさえ見えてしまう。人間の愚行などは、それはそれは、よく見える}
{何か、レーダーのような物をお持ちなのでしょうか}
ふと不思議になった、泰介は聞いた。
{ちゃんと最初から備えてある。人間には『良心』と言うものがあるはずだ}
{『良心』}
泰介は、不思議そうに呟いた。お前、『良心』が無いのか。するとすかさず仙人が言った。
{あ、そうか、お前には元から無いので、分からないか。やっぱり}
慌てた泰介。急いで訂正した。
{違う、違う。違います。僕にだってちゃんとありました。ただそう言えば、この頃『良心』って感じてないな、と思っただけです。ふん}
{あら、それは失礼。その『良心』の変化が逐一伝わるのさ。特に、呵責に耐えられない事をすると、アラームが鳴って知らせてくれる。だから、お前のさっきの言葉は、お前が鈍感で、『良心』を傷つけなかったから、変化なしで対応されているんだ。鈍感もたまにはいいなあ。あははは}
{ふん、僕だって感じて見せますよ。ただ、さっきの一言は、それほど大きな意味を持つんですね。少し用心しようっと}
{少しだって。大いにだ、お前の場合}
二人のやり取りを、最初はびっくりして見ていた紗江も、後からは様子がわかった
らしく、だんだん笑顔になっていった。まるでコントでも見ているように、声を出し
て笑う場面もあった。
{とにかく、もうあんなミスは、絶対しないように。今度見つけたら、こっちから【閻魔】様に報告するからね}
{ひゃー、あの【閻魔】様。それは勘弁して下さい。地獄へ行くのでしょう}
{地獄ならよほどいいよ。お前を良くご存じの【閻魔】様がいらっしゃるから。もし、
違う所に、と仰れば、さっき言った三つのどこかだろうな。うへへ}
仙人は、さも嬉しそうに言った。
{ちょ、ちょっと仙人様、いや、大王様。そんなの嫌ですよ。頑張りますから。お願
いします}
{分かったよ。分かったよ。じゃ、今度こそしっかり働け。これが最後通告と思って
おけ。今のままじゃ、ずっとそのまんまで、ただ《囁く》事しかできない、最弱の守護
霊だ。それに比べて、あの美男美女の、カップル守護霊を見てみろ」
そう言うと仙人は、紗枝と俊の方を見て、さらに続けた。
{毎日汗だくになって、担当の人間の守護をしておる。ああ言う、真摯に努力する守
護霊は、自分が知らないうちに、どんどん守護する力が付いてくる。今に、とてつも
ない力を発揮する。今のうちに、見習ったらどうかな。じゃ、行こうっと。バイバイ}
そう吐き捨てるように言うと、仙人はさっさと姿を消した。さすがに【最後通告】
は効いた。泰介は、しっかり気を引き締め直した。
{済みません。もう、戻ります。じゃ、頑張ってください}
そう言うと、紗枝は憐憫の笑顔で頷いた。<翔>のいる部屋では、裕美と愛理
が、目的の店を決めたらしく、お茶をしていた。相変わらず<翔>はおとなしい。今度
は、青い目のお人形さんと、ままごとのようなことをしている。つくづく、兄と妹が
逆だったら良かったのに、と泰介は感じた。しかし、その時だ。
「ふぎゃあ」
と言うけたたましいネコの泣き声と、
「待ってえ」
と言いながら、<愛結>の追いかける姿に、裕美と愛理はびっくりした。もちろん、
泰介も。追いかけて来た紗枝を見ると、苦笑いをしている。
{どうしたんですか}
泰介が聞くと、
{はあ、それが}
紗枝も、どうしようもなかったらしく、
{ネコと仲良くしている間は良かったんですが、顔を触り出したので。気をつけて見ていました。すると案の定、動く髭が面白かったみたいです}
<愛結>のことだから、十分想定できる。
{そして、一本抜こうとして、引っ掻かれたのです。あの頬の傷を見てください}
そう言われて<愛結>の顔を見てみると、一回どころの傷ではない。両頬どころか、額、鼻の頭など、無数の引っ掻き傷だらけだ。裕美は気を失いそうになっていた。
{うわ、凄い}
「どうしたの」
愛理は、<愛結>の傷など、どうでも良いらしく、ネコを抱きしめ頬ずりをしている。
「どうしたのアンリ。何か〈お痛(いた)〉されたの」
「<愛結>。何、その顔、どうしたの。可哀相に、よしよし」
裕美が、初めて母親らしい声を掛けた気がする、紗枝と泰介だった。しかも、アンリには、目もくれない。まあ、傷が顔中にあるのだから、仕方ない。逆に母親らしい一面を見せてくれて、両守護霊はホッとしていた。しかし、驚くのは二人の母親では無く、<愛結>の態度だった。血は出ていないものの、無数の引っ掻き傷だらけなのに、泣くどころか痛がっている様子も無い。おとなしく母親に抱かれている。その場だけ見れば、ただのおとなしい女の子だった。
「大丈夫。痛くなかった、よしよし」
嫌みったらしく、アンリの方を見て暗に
”そのバカ猫に引っ掻かれたのね”
と言わんばかりに、愛理の膝の上の、アンリを睨みつけている。しかし、愛理はそんなのお構いなしに
「あら、髭が抜けてるわ。可哀相に、痛かったでしょう。よしよし」
逆に、<愛結>を睨みつけている。
「愛理さん、ごめんなさい。この子、何か、しでかしたんじゃないかしら。普段は、おとなしいんだけど」
“はあ。おとなしい、ですって”
さすがの紗江も、驚きの発言だ。
「いやいやこちらこそ、アンリもおとなしいのに。ちょっと喜んで興奮したみたい」
「申し訳ないけど、何か傷薬無いかしら」
「あら、ほんと。ごめんなさい、気が付かなかったわ。何が良いかしら。ちょっと、待っててね」
互いに、腹の中は全然思ってもいない事を、しゃあしゃあと言い合っている。泰介も紗枝も、二人の心の声が、読めた感じがして、顔を見合って苦笑いするだけだった。
”これって、本当の声かな”
泰介は、不思議に思った。
「これでいい」
愛理が持ってきた物を見て、三人、いや一人の人間と二人の守護霊はたまげた。指などの傷に貼る、長さ五センチほどのテープ。いわゆる〈傷バン〉などと言われるテープだった。さすがにもらった裕美も、どうしていいやら困惑していた。
{あれで、どうしろ、っていうんでしょう}
愛理の無神経さに、両守護霊も、驚くよりほか無かった。
「ああ、そうだ。うちにいい薬があったみたい。じゃ、話も終わったし、帰って薬を探してみるわ」
「あらあ、大丈夫かしら。痛くない」
ようやく、<愛結>の顔を見ながら言った。
{このタイミングかい}
さすがの泰介も、呆れるほどだ。
「じゃ、お邪魔しました。またね」
早々と帰り仕度を始める裕美だった。
「どうも、お邪魔しましたあ」
{おいおい}
紗枝も泰介も慌てた。すると愛理が、
「ちょっとお、裕美さん。忘れ物よ」
{わ、忘れ物}
その言葉に慌てる守護霊二人だった。<翔>を連れて帰るのを忘れている。余りの怒りに、おとなしい<翔>を忘れて帰るところだった。
「あらら、ごめんなさい。静かなものだから、忘れていたわ」
”何だと。こらあ、人の子どもを忘れ物だあ。ざけんじゃねえ”
泰介は、少し驚いていた。何と、さっきから心の声が《だだ聞こえ》だ。
”ひょっとしたら、現世の人間の考えている事を、読めるようになったのかも知れない。そう言えば仙人が〈鍵〉の事を言ってたな。”
その事を思い出した泰介は、胸のポケットから、あの時の〈鍵〉を取り出し、じっと見た。仙人は、俊と紗枝の行動に感心し、二人の真摯な行動は、そのうちにとてつもない、力をもたらすような言い方をしていた。つまり、守護霊道に精進していれば、そのような力もついてくるのではないだろうか。そうだとすれば、泰介にも少し、そのような力がついて来たのかも知れない。逆に言うと、仙人は、泰介のような〈アホ〉に相当尽力しているので、相当な守護の力があると言う事だ。
”そうか。だから仙人は、俺の思ってる事が全て分かってたんだ”
と、ようやく気が付いた。するとそこへ、また、あの声が。
{良かった。やっと気が付いたか}
”仙人だ。いつの間に。また来たのお”
{そんなに嫌な顔しなくても、良いじゃないか}
{い、いやいや、嫌な顔なんて、滅相もないです}
{何を今さら。さっき、やっと気付いたようだね。君の思っている事は、君が生まれた時に、言い換えれば、この世界が不幸な運命を、僕に与えた日から《だだ読み》出来たんだよ}
{そんな、大げさですか。しかも、そんなに不幸でしたか}
{まだ、実感していないの。何と言う能天気。ま、だからこそ、あの年まで、現世で務まったんだけどね}
言いにくい事を、はっきり言う仙人。しかし、もう慣れた泰介だ。
{と、ところで、あの、また、心配で来て下さったんですか}
{そうだ。とっても心配で。しっかり、監視しようと思ってね}
そう言いながら、顔がにやけて来た。怪訝に思った泰介は、仙人の心の中を覗いて
みた。しかし、結果はグレー。何にも浮かばない。しかし、あの顔のにやけ方は、尋
常じゃない。何かがある、泰介はそう読んでいた。
{何を、人の心を読んでいる。千年早いわ}
{あ、ばれましたか。済みません}
{お前の守護霊を、いやと言うほどやってきたんだ。そんな奴に、読まれてたまるか。おほん、それでは、私はこれで}
{あれ、もうお帰り。えらく早いですね}
{もうすぐ、用が無くなるし。し、しまった。い、今のは何でも無い。ははは。ではさらば、泰介}
仙人が、泰介の名前を言って帰った。大変珍しいことだ。何かがあったに違いない。しかし、誰に聞くあてもなし。そうやってやり取りをしているうちに、裕美たちは、家に着いた。まずは、<愛結>の手当てからだった。水洗いしてから消毒をする。さすがの<愛結>も、この痛さにはまだ慣れていない。べそをかき、声をあげて泣き出した。すると、何のとりえもなく、人畜無害のように思われていた<翔>が、<愛結>の頭を撫でなでして、
「あ~ちゃん、大丈夫だよ。よしよし」
と世話をしている。これには周りの者が驚いた。そして<愛結>の頬っぺたにキスをした。この事には、周囲の者が唖然とした。珍しく早く帰宅した裕二も
「おいおい、いつの間にこんな事、出来るようになったんだ。凄いな。それよりも顔の傷、大丈夫かな」
驚きながら、<愛結>の顔を見た。そして、そのひどさに改めて驚き、妻に尋ねた。すると妻の裕美は、
「心配なら、病院に連れて行こうか」
と言った。しかし、そんな夫婦の心配をよそに、二人はすぐに、ニコニコし始めた。
そして<愛結>はニコニコしながら、裕二にお帰りのキスをした。その頬は、ネコの引っ掻き傷が、まるで髭が生えたかのように、裕二の頬に触った。普段は、つきたての餅のような肌が、変わり果てている。そんな中でも、痛さを我慢して、父親の帰りを迎えてくれる娘が愛おしかった。しかし、
「お父さん、今日買って来てくれた」
「えっ、何を」
そう言う<愛結>の一言に、ドキッとする裕二だった。すると裕美が言った。
「あなた、昨日酔っぱらって、<愛結>が調子よく言った,テレビのヒーローものの、サイコガンを買ってくるね、って言ってたわよ」
”やべえ、すっかり忘れてた。どうしよう。道理で、今日はニコニコ顔で、すりすりして来た訳か”
「あ、あれね。今日は、<愛結>が怪我したからって、お母さんに電話貰って、心配だったから買って来られなかった。明日、絶対買ってくるよ。ごめん」
「わかった。じゃあ、いいよ。明日買ってきてね」
「うん、約束する」
”こりゃあ、明日必ず買って来なきゃ”
その、裕美も関わった、家族の会話の間中、<翔>は、<愛結>の髪を触り続けていた。
裕二は、抱っこした<愛結>とは逆に、何も言わず、そのままの態度を続ける<翔>が、情けなかった。
「<翔>は、何か欲しい物は無いですか」
わざと<翔>に話を向けてみた。するとあろうことか、手提げバッグが欲しい、と言う。
”何か他に無いのかな”
と、裕二は訝しげに思った。男の子がサイコガンで、女の子が手提げバッグと言うなら、まだ話も分かる。その逆なのだから、不思議なのは確かだ。さらに訊いてみた。
「その他には、何か無い」
すると、<翔>が言うことには、ままごとのセットが欲しい、と言う。裕二は、完全におかしいと思った。
「保育園で、友達はいるの」
「いるよ。亜紀ちゃんと、聖羅ちゃん、奈央ちゃん、かな」
「全部、女の子じゃないか。男の子とは遊ばないの」
「遊ばない。だって、乱暴だから危ないもん」
裕二は、何か違和感を持っていた。このやり取りを聞いていた泰介も、少々不安になっていた。
{絶対おかしいですよね。<翔>は}
{絶対、変だと思います}
{やっぱり。あいつ、ひょっとして、オカマの気があるのかもしれない。もしそうだとしたら、そんな奴の守護霊なんて、したくないなあ}
{泰介さん、そんなこと口にしたら、また、怒られますよ}
微笑みながら、紗枝が言った。すると泰介は、
{いいんです、怒られても。だって、こんな子って、あんまり得意じゃないし。やっぱり、普通の子どもが良いです}
{そりゃそうですけど、決まったものは、仕方ないんじゃないですか。それに、《普通の子》って、どんな子ですか}
優しい紗枝からそう言われると、いい加減な男泰介も、しっかり考えた。
{あ、そ、そうですねえ。《普通》って言うと、ほら、ごく一般的な、ええっと、な、何て言えばいいのかな。ええっとお}
と、すこぶる歯切れが悪い。
{あはは、簡単に言うけど《普通》って、意外と難しいですね}
{だから、とにかくあれやこれや言わないで、頑張りましょう}
紗枝に言われると、納得する。しかしそれでも、往生際が悪いのが泰介だった。
{紗枝さんに言われると弱いけど、ま、様子を見ておきましょう}
{仙人さんや、他の神仏様が見てらっしゃないといいんですが}
逆に心配する、紗枝だった。しかし泰介の、身勝手な考え方は、紗枝の心配した通り、地獄のモニターで丸見えだった。そして、様子を見ていた【閻魔】と仙人は、いつまでも治らない、泰介の〈怠け癖根性〉の、叩き直しについて相談していた。
{【閻魔】様、済みません。私が至らないために。何度言い聞かせても、あいつの性根はあのようにぐうたらで、到底直りません。地獄へお呼びになりませんか。それとも}
{な、何い、地獄へ呼ぶだと。冗談はよしこさんだ}
{【閻魔】様}
仙人は、がくっと肩を落とした。
{た、立ち直れません。半世紀ほど前のギャグのようですな}
{あ、あはは。ま、いいじゃないか。しかし、あいつを地獄へ預かると言うのならば、わしゃ、地獄の代表を降りる。あんな奴の世話は、到底できん。君が出来んと言うなら、そ、そうだ。【カミューン】に預けよう}
そう言うと【閻魔】は、ちらっと仙人を見た。賛同がほしいのだ。しかし、そこはさすがに仙人。抜け目は無い。
{これこれ、【閻魔】様。なかなかお茶目な事を仰って}
少し笑みを浮かべて、仙人は、あたりさわりなく流した。
{取り敢えず、この世界の成長は早い。もう数年待てば、どうしなくちゃいけないか、結論がおのずと出て来るだろうよ}
{それはそうですが}
{心配するな。お前の責任は、もうすぐ終わるだろう。最後に、思い切りゲンコツでも見舞ってやって、永遠の別れでもしておいで}
{それはありがたいです。私ももう、現世に戻れる日が近いようですので、あまり無茶はしないようにします}
{それならもうしばらく、様子を見ようではないか。どうせこのままじゃ、【六道】の、《餓鬼》か《阿修羅(あしゅら)》にお願いすることになるだろうけど、な}
そう言うと、【閻魔】と仙人は、気色悪い笑みを浮かべ、杯を交わした。
そんな怖い話が進んでいるとは露知らず、泰介は<翔>の事が気に掛って、仕方が無かった。残念ながら、気に掛かる内容が『オカマかどうか』と言う事なので、守護霊としての、力量には関わらない。これが、〈翔〉自身の事ならば、泰介にも、相当な成長がみられることになる。それは、同時に、守護の力の向上につながるのだ。
「ゆんちゃん、俺さあ、<翔>はおかしいと思うんだけど、君、どう」
「実は、保育園でも同じだったの。女の子の好きなものばかりで遊ぶんで、女の子のグループにいるんだけど、『<翔>君て、男なのに女の所へ来て遊ぶなんて、変なの』って言われて、しょげたり、すねたりしてた。その時に一緒に遊んでくれたのが、さっきの三人よ」
「こんな時、どうすればいいのかな」
「一回、心療クリニックに連れて行きましょうか」
「そうだね。何とも無けりゃ、それでいいし」
と言うことで、病院に行った所、先生は『ただ女の子の物、つまり、可愛い物やきれいな物が好きなだけで、成長すれば自然に治るでしょう』と言うことだった。おかげで、裕二達家族はホッとしたことだった。それは、誰あろう泰介にも言えることで、ホッと一安心したのだった。こうして、取り敢えず<翔>の件は落ち着いた。
そして数日後、ママ友の会が開催されることになった。紗枝と泰介は、裕美と愛理の、その後が心配ではあった。とにかく、我が子に対する愛理の態度に、すっかり気分を害された格好の裕美だったのだから。当日の店は、《カフェ・ ドッバク&タッチャ・エクラウ 東京》に決まったみたいで、駅の近くで本格的な、ヨーロピアンスイーツを食べられると、女子に大人気だった。ママ友の会らしく、みんな子連れで来ていた。紗江と泰介は、少しほっとして、電車から店までしっかり見守った。しかしよく見ると、<愛結>は、顔の傷は少し残っているし、手には、例のサイコガンが握られていた。ママ友四人がそれを見ると、少し動揺していた。
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