第7話
一週間後、簡単なお祝いがあった。【お七夜(おひちや)】と言うそうだ。続いて【名付】、【百日(ももか)】、そして【一歳】のお誕生。そして三歳、五歳、七歳と続いて行く。子どもが育ちにくかった昔は、区切りの祝いだった。「早川 翔」と名付けられたその男の子は、すくすくと成長した。元気が良かった。寝返りが早く、ハイハイも早かった。必然的に、泰介も忙しかった。ベビーベッドも、もうすぐ乗り越えそうだが、簡単にできない<翔>は、大泣きする。母親のゆんちゃんが飛んで来て、
「あら、翔ちゃんどうしたの。ガラガラを回そうか。いやなの。よちよち、それなら抱っこしようかね」
と言った。そして、〈翔〉を抱き上げたゆんちゃんの顔を、何気なく見た泰介は、ふとした疑問を持った。
“ゆんちゃん、と言うのは愛称だ。名前は何て言うのだろう”
と。それと言うのも、彼女の顔をよく見ると、丸々として分からないけれど、泰介が知っている、ある女性のポイントを発見したからだった。それは誰あろう、あの《裕美》だった。彼女の頭のつむじには、ホクロがあったのだ。〈翔〉を抱き上げようと、頭を下げた時、何と、ゆんちゃんの頭のつむじに、ホクロがあったのだった。
“まさか、だよな。まさか,あの裕美ちゃんが、こんな姿になってるなんて。やめてくれよ”
ごくっと、唾を飲み込んだ(唾があるかどうかは)泰介は、ふうっと天井付近から降りていくと、そっと彼女の耳元で囁いた。
{白石さん}
すると彼女は驚いて、周囲をぐるぐる見回した。心を読んでみると、
“何、今の。私の旧姓で呼ばれた気がしたけど。空耳かな”
その思いを見た泰介は、ひゅーっと下に落ち、床に落っこちて、ぴらぴらになった。何と、泰介が学生時代に思いを寄せていたと言う【白石裕美】だったのだ。
“清楚で大人しく、スタイル抜群で魅力的。《準ミス東横》にも選ばれるような、才女だった彼女が、あろうことか、こんなあられもない、醜い姿になるなんて。もう、ダメだ。立ち直れない。あの、あの裕美ちゃんが。オーマイ、ゴッド”
その時だった。
{バカたれ、渇、大渇}
警(きょう)策(さく)で頭をパッチ~ン、と思い切り叩かれ、床からすぐに立ち上がった。
{何を嘆いておるか。だいたい、日本の神仏に仕えようという者が、言うに事欠いて『オーマイ、ゴッド』とは、どういうつもりじゃ。いつまでも、いつまでも、未練たらしく言ってるんじゃない。あの女性は、今は結婚して早川裕美だ。お前の、知っている彼女は、早く忘れなさい。だいたい、彼女はまだ現世だし。第一、彼女の方はお前を知っていたのか}
頭をさすりながら、仙人に呟く。
{あ。そ、それは。どうでしょうか}
{けりをつけるために、聞いてみるか}
仙人にそう言われて、泰介は、裕美の耳元へ行くと、囁いてみた。
{こんにちは。久しぶり。荏籐泰介です}
すると、今度ははっきりと、妙な顔をして、眉間にしわを寄せて裕美は呟いた。
「だ、誰。誰かいるの。誰よ、荏籐泰介って。気持ち悪い」
怪訝で、不安そうな顔をして、辺りを見回している。部屋の隅に行って、恐れている。仙人は何も言わず、肩を叩きながら、泰介を諭すように言った。
{良かったね。はっきりして。さ、しっかり守護霊の仕事してね}
こっくりと頷く泰介を見て、微笑んだ仙人は、す~っと消えて行った。しかし泰介は、しばらく呆然とするのだった。泰介が、ゆんちゃんショックから立ち直りかけた頃だった。〈翔〉が、つかまり立ちが出来るようになった、ある日の事。あろうことか、<翔>は、マンションの十一回の窓柵越しに、外をのぞいていた。上から見ていた泰介は、嫌な予感がしていた。すると案の定、柵の上にとまったトンボに興味を示し、つかまり立ちをした。そして、人の気配を感じて、少し飛びあがったトンボに触ろうと、手を伸ばして体を乗り出した。その拍子にバランスを崩し、柵を越えそうになった。
もし、そのまま落ちれば、数十メートル落下し、命は無い所だ。青くなった泰介が、後ろからその体を何とか支えたいが、守護霊は直接、現世の物には触れない。もし、落ちたら駄目だろう。どうしよう、と、窓の下を覗くと、窓の外から<翔>の手を引っ張っている【死神】と目が合った。その瞬間、【死神】は、あっと、驚いたように声を出し、その子どもの手を離して、急いで逃げて行った。
“死神さえ逃げる。言われたとおりだな。守護霊になっても一緒か。ま今回は、それが幸いしたけど”
ため息をついたが、とりあえず子どもの命は守った。一事が万事、この調子だったため、泰介も毎日疲れた。そんな事を繰り返して、一年が過ぎた。<翔>も、ベビーベッドから布団に寝るようになっていた。しかしそのため、寝ていたかと思うと、いつの間にか動き回っていることが多く、泰介も常にひやひやしていた。
{こいつ、先が思いやられるなあ}
ため息交じりに、漏らすことが多くなっていた。
{いくら、人間の時に迷惑ばかりかけたからって、こんなにひどくは無かった、と自分では思うけどなあ}
<翔>の周りで浮かびながら、ぶつぶつ言っていた。
{冗談じゃないよ。そんなもんじゃなかったよ}
と、突然聞き慣れた声がした。
{えっ、その声は、仙人様}
{よく覚えていましたね。どうしているか、気になったので見に来たよ。【様】を付けていただいて光栄ですな。少しは、役に立っているかい}
{少しどころじゃなく、大変役に立ってますよ。何度、助けた事か。僕がいなかったら、命に関わっていたかもしれない、って事もたくさんありましたよ}
{へえ、ため口じゃないんだ。それが一番びっくりだね}
{そんなあ、ため口だなんて。仙人様に、そんな失礼な事ができますか。でも、『そんなもんじゃなかった』と言うのは、ちょっとひどくありませんか。僕は、そんなにひどくは無かったでしょ}
{はは、ま、そのうちに分かるよ}
{ええっ、そのうちに。ちゃんと今、教えて下さいよ}
{それにしても、その妙な敬語、気色悪う。何を企んでいるのかな}
{企む。人聞きの悪い。何も企んじゃいません}
{本当に}
仙人は、完全に疑っている。守護霊には、上位と下位のランクがあり、上位になれば、いくつかの能力を、ある神からもらえる。これは泰介も後にもらえる可能性がある。上位とは、言い換えれば優秀な者と言う事になる。対象としている人間が、その命を全うするまで、人間を守る事が出来た霊である。しかし、対象の人間が、その命半ばにして現世を離れる事になった場合は下位となり、能力をもらえる機会は減って来る。しかし、泰介のような人間が対象になった場合、赤ん坊と言えど這い出した時点で、ドジを踏む可能性がある。このような人間の場合、逆にどこまで命を永らえたか、そちらを判定基準にする。仙人の場合、非常に優秀と判断されたのである。だから、相手の心を読む読心の技は与えてもらっている。しかし泰介は、その事は知らない。
{本当です。ただ}
{ほら来た。ただ、何}
{赤ん坊を変えるわけには}
生まれた時からの付き合いだ。しかも、心が読めている。ただ、内容までは読めていないものの、どんな要求があるか、それは周知の事だった。
{バカ者}
久しぶりの仙人は、それこそ久しぶりの大きな声で、泰介を一喝した。
{やっぱり。何も言う事は無い。精進せえ。では}
{お、お~い。ま、待ってくれえ}
そう言い捨てると、仙人はさっさと消えてしまった。
{はあ、やっぱり無理か。仕方ない。頑張って見ておこう}
<翔>は、相変わらずよろよろしながら、つかまり立ちをして、部屋中をうろうろしている。ゆんちゃんは、<翔>を産んだ頃とはまったく変わって、のんきにテレビを見ながら、お菓子をぼりぼり食っている。おかげで、すっかりあんこ形の体型になっていた。すでに、産後太りとは言えない。
{まったく、食ってばっかりだな。しかも、見ているテレビ番組と言えば、ダイエットの番組だ。やってる事と、矛盾している。全く、あの頃の裕美ちゃんは、どこへ行ってしまったんだ}
そうこうしているうちに、父親の裕二が帰って来た。
「お帰りなさい、あなた。お疲れ様。ほら、翔君。パパにお疲れ様、って」
そう言うと、ゆんちゃんはさっさと裕二に子どもを抱っこさせ、料理を作りに台所へ行った。
「ちょ、ちょっとお」
そう言いながらも、裕二は仕方なく、足元の子どもを見ながら、着替えをしていた。
{情けないなあ、何だよこの男}
人間だった時、自分がどうだったか、すっかり忘れてしまったように、呟く泰介だった。食事も早々と済ませ、裕二を風呂に急かすゆんちゃんは、今夜のことを決めているようだった。子どもを寝かしつけて、さっさと楽しい事をしよう、と言う魂胆のようだが、子どもは、思うように動いてはくれない。なかなか寝ない息子を、やっとのことで寝かしつけた二人は、夢中でラブに入っていった。息子が、その途中で目を覚ました事も全然気づかず、二人は愛し合っていた。泰介は、夫婦の寝室で浮いたまま、二人の様子を、固唾を飲んで見とれていた。
“裕美ちゃんとうまくいってれば、あんなこともできたかもな。あ~、忘れられないよ”
泰介は、二人の愛し合う姿に、ついつい再び、自分を重ねて見入っていた。その時だった。またまた頭に、ガンと言う音がするくらい、大きな衝撃を受けた。
{痛えなあ。誰だよ}
泰介が振り返ると、何と仙人が上にいた。
{あっ}
{やっぱり。心配して戻ってみると、案の定この調子だ。しっかり、彼に着いておけ。ほら、彼が動いてるぞ。全くう}
{あらら。済みません}
仙人の、怒りの鉄拳を食らった泰介は、こぶを摩り摩り、慌てて<翔>を探した。しかしラブに夢中の、二人の横にはいない。<翔>は、急かされて風呂に入った裕二が、つい、締め忘れた風呂のドアの方へ、よちよちと歩いて行っているのだ。裕二は、風呂場の洗面台の、電気も消し忘れていて、そこ目指して歩いている。
“危なかった”
今回は、仙人にマジに感謝しながらも泰介は、はらはらしながら、事の成り行きを見守るしかなかった。風呂には、まだ湯が貯まっているし、床もまだ濡れていてとても危ない。このまま進んで行くと、何らかの怪我をするか、下手すれば湯に溺れて死ぬかもしれない。そうなると、泰介の復活はあり得なかった。泰介は、<翔>が寿命を終えるまで、彼を守る必要があった。
{やべえ、マジ危なくなってきた}
その不安が的中し、<翔>は洗面台に行き、手を伸ばした。何と、その先には父親が剃っていた、T型ひげそりがそのまま残してある。何か、面白い物は無いか探すように、背の届かない洗面台の上を、手探りし始めた。
{あの、ばか。何やってんだよ}
もう、この場面で裕二に怒っても仕方が無い。泰介は、はらはらしながら見ていた。
すると、案の定ひげそりに手が触れた。
{さあ、急がないと。何か無いか}
とうとう泰介は動き出した。すると、いい塩梅にひげそり用のスプレーが、側に置いてある。泰介は<翔>に囁きかけた。
{こっちの方が面白いよ、ほら}
と耳元で囁き、その缶の方に顔を向けさせた。すると、どうやら興味を持ってくれたようである。
“何とかうまくいってくれ”
こっちが、必死になって頑張っている時にも、あの夫婦は、別な意味で頑張っている。いや、こっちは必死だったが、あっちは絶頂だったに違いない。裕美がなりふり構わず、大きな声を出している。スプレーを持った〈翔〉は、不思議そうに缶を眺めていた。その裕美の、大きな声に呆れながらも、泰介は、
“何とか、缶の吹き出し口を押してくれ”
と思って見ていた。泰介は、スプレーを自分の顔に引っ掛け、<翔>が泣きだし、夫婦が気付いてくれるはず、と算段していた。しかし、その期待もむなしく翔は、何の変哲もない缶に飽きてしまい、缶を放り投げた。
「カラン、カラン。カラカラ」
闇を引き裂く、缶の転がる音。その音に、ふんふん言ってた夫婦の動きが、ピタッと固まった。怪我の功名だった。まるで、太った豚が、やせ細った山羊の上に乗ってるような、姿勢のまま、その豚。いや、その裕美は、山羊。いや、裕二に
「ね、ねえ何、今の音。見て来てよ」
と、言葉も態度も、完全に上から目線で言った。
「じゃ、見てくるから、降りて」
裕二は、パンツをはくと、恐る恐る明りのついている方へ進んで行った。それを見ていた泰介は、まだ、赤ん坊の不在に気付かないバカ夫婦に、かつての自分を忘れて呆れていた。缶を放り投げてくれた事の方が、<翔>のためには良かったのだから、泰介は、取り敢えずほっとした。
こんな毎日を過ごしながら、急におとなしくなってきた<翔>。三才になった。泰介も、やっと少し気を抜ける時間もでき、力を抜く方法も分かってきた。保育園に行くようになり、友達もできた。保育園は楽しいらしく。帰ってきたら毎日、裕美にその日の出来事を話している。そのお腹には、二人目の子どもができていた。保育園の話をしたあとは、日に日に大きくなっていく母親のおなかを摩り、生まれてくる赤ん坊の事を楽しみにしているのだった。ある休みの日。裕美がママ友の所へ行くことになった。すぐ近くらしく、二人で歩いて行った。そして、ほどなくママ友の家に着いた。
玄関のチャイムを押して、インターホン越しの会話の後、ドアが開いて中からママ友が顔を出し、二人を中に入れた。当然、泰介もついて行った。ママ友の子どもは女の子だったが、被っているお面は、戦隊物のテレビのヒーロー。そして、手にはごつい剣を持っている。見るからにおてんばだった。付いている守護霊を見てみると、明らかに疲れていた。しかし、男の泰介から見てもイケメンだった。一般的には、守護霊同士は見えないが、新人の守護霊に限り、見える事がある。このイケメンも、最近守護霊になったのかも知れない。前の人はどうかしたのだろうか。
{ご苦労様です。かなり元気そうですね}
{元気なんてもんじゃないですよ。こっちは、命がすり減ります}
男の守護霊は、疲労困憊の様子で、しかも『命がすり減る』などど冗談を交えて答えた。とにかく必死な様子で、女の子を追いかけている。
“生きてる時、俺より駄目だったのかな、この人”
と、泰介は珍しく、上から目線で同情してしまうが、どうしようもできない。とてもそんな風には見えないのだが。
{前の人は、どうされたのですか}
と尋ねてみると、
{あはは。ダウンしたそうです。あまりにこの子が激しいので}
【ダウン】だと。守護霊のパワーが無かったのか、この子が凄かったのか。それにしても、その担当になるとは、
“この人、俺より優秀じゃねえのか。途中から大変な子どもの、ピンチヒッター守護霊になってるんだぞ”
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