第十四話:赤い部屋

『エレン嬢は、ボスの次女に当たる。訳あって連れてきていたのだが……くれぐれも、粗相の無いように』

『…………』


 前を行くジェウロに連れられるまま、機内を歩く。とても個人で所有しているジェット機だとは思えないほどに広い。

 というか普通にJ〇LだとかA〇Aのジャンボジェット一便をそのまま持ってきたくらいの大きさだと思う。

 金はあるべきところにはあるっていうのは本当だな、とどうでもいいことに意識が向いてしまう。


 かといって、あやうく殺されかけたことに関して何も思わないほど人間が出来てるわけではないが……ここで文句を言ったって仕方ない。まだこの場は向こうに利がある。


 それはひとまず置いておいて、ボス――――マクシミリアンの娘について、想像を巡らせる。


 かつて俺にセリオと名乗っていた時、ヤツはアルベルトという息子がいると言った。

 あれは案の定嘘というか、自分の系列で後ろ楯となってやっている子会社の一人を暗示したフェイク情報だった。


 だが、まさか本当に娘がいるとは思わなかった。しかも次女ということは二人も。とすると、二十八歳という年齢は普通に詐称していた可能性がある。


 この飛行機の中にいるということは、すなわちこういうマフィア絡みのことに理解があるということだろうか。

 まさか今回たまたまファミリーお抱えのプライベートジェットに乗りたくなったわけでもあるまい。


 ジェウロも先程、『彼女の部屋』と言っていた。つまり、この飛行機の中でその次女様専用の部屋があるということだ。

 そのエレンとやらは、何度もこうして飛行機に乗っているのだ。

 それこそおそらく、『上空の密室でするような後ろ暗いこと』も何度も見てきたに違いない。とても父親のお仕事に関わっていないとは言い難いだろう。



『聞いているのか』

『聞いてるよ。下手な真似すりゃ殺されるってことだろ』


 そう、そんなお嬢様に下手な真似をすれば、それこそ俺はマクシミリアンに消される。というかその前にジェウロにサメの餌にされる。

 夕平、暁、いのり――――彼らとの日常を一時捨ててまで、俺はここに来ているんだ。


 こんなところで、死んでなんかいられない。


『着いたぞ』


 ロイヤルホテルばりの通路を進み、通されたのは一見何の変哲のない一部屋だった。

 そのジェウロの言葉で、はっと我に返る。


『ここが――――……っ!?』


 だが、言葉を紡ごうとして口を開き――――慌ててすぐに口を噤んだ。

 嗅覚を刺激する、異様な雰囲気。

 それを直感として感じ取ってしまった。


 


 目を見張る。

 一瞬、そばにいるジェウロの事も忘れて硬直してしまった。

 第六感であろうと、虫の知らせだろうと、神からの天啓であろうとなんでもいい。

 脳髄に囁く強い警告。胸に湧き上がる嫌な予感。


 ――――この部屋は、やばい。


『ジェウロです。お嬢、連れてきました』


 そんな俺の様子にも構わず、ジェウロが部屋の主に話し掛ける。

 その口調は、俺を相手取っていた時よりもどこか柔らかい。まるで引きこもりに声をかける日本の母親のようだった。


 部屋の向こうから反応は無い。ジェウロも、それから何も言わずに押し黙ってしまう。


 痛いくらいの沈黙。

 身じろぎ一つ取るのも躊躇われるくらいだった。


 何分経っただろうか。やがて、向こうから女の子供の声が聞こえた。


『……ねえジェウロ? 一つ賭けをしない?』


 良い声だ。本心からそう思った。

 愛嬌がありながらも、鈴を転がしたかのような澄み切った声音だった。

 天使のような声、というのはこういうことを言うのだろう。マフィアのボスの娘という肩書きが、珍妙な冗談のように聞こえるくらい、甘い響きを持っていた。


 エレンという少女は、姿を見せないまま、歌うようにこう続ける。


『うーんと、そうねえ……じゃあ、そこのお客さんが「puke」するかしないか。どう?』


『puke』? 

 聞き覚えはあるが……何だったか。俗語、だっただろうか。

 思い出せそうで、思い出せない。


 頭を巡らせている俺を尻目に、ジェウロがため息混じりに口を開いた。


『……またそんなお戯れを』

『えぇー、いいじゃない! エレンはね、「puke」しない方に賭けるわ』

『……分かりました。では私は、その反対で』

『オーケー、決まりね! もしエレンが勝ったら、帰ってハロッズのスコーンと紅茶を奢ること! ちゃんと三段のやつだからね』

『ええ、分かりました。そのように』


 何の穢れの無い、無邪気な声が響く。

 なんてことない親子の会話のようなやり取りで、こんな場所には不釣り合いに思えて、少し口元が持ち上げられてしまう。


『それじゃ、入っていいよ。歓迎するね、お客様』


 そしてついに、その綺麗な声で言われてしまった。

 招かれてしまった。

 天使の歓迎の言葉が、あたかも死神の死刑宣告か何かのように感じる。


 肩を粗雑に押された。背中を押すというよりも、突き放すような感じで。

 振り返ると、ジェウロがその部屋に向けてあごをしゃくって見せた。

 行け、と言っているらしい。


 扉は、目の前に佇んでいる。そのドアノブに、ゆっくりと手を掛けた。

 一瞬の逡巡。僅かな葛藤が、内心にあった。

 嫌な予感がするというだけでなく、今更ながら、この扉を開けたらもう取り返しが利かない気がして。


 この飛行機に乗せられたのは半強制的な不可抗力としても、この部屋に入るのは他でもない俺自身だ。

 夕平や暁やいのり達三人との日常から非日常へ飛び込む決断を、今ここでしなくてはいけない――――

 ――――ああ、でもやっぱり今更だな。


 覚悟を決めて、ドアノブをひねり、ぐっとそのドアを押し開けた。


「――――ッ!」



 部屋の中は、地獄そのものだった。


 目に焼き付けられる、全面一色の赤、赤、赤。

 網膜に直接絵の具でも塗りたくられたかのように、視界には赤い色しか映らない。


 床にも、椅子にも、ベッドにも、窓にも壁にも枕にも毛布にも絨毯にもカーテンにもテレビの液晶にもルームライトにも天井にも姿見にも、至る所に、どこを見ても鮮烈な赤がぶちまけられている。


 部屋の隅っこ辺りに倒れているのは――――ああ、人だ。人『だった』ものだ。

 まるで黒いゴミ袋のようにいくつか転がっている。もはや散らかしているといった方が正しいだろうか? その惨状は、創作上のゾンビなどよりも、むごい。


「っあ……う、ぐぇっ!」


 途端、むせ返るくらいの熱気が全身を包む。臭い自体が、熱を帯びているかのようだ。

 どろどろに濁って、体液と臓物そのものの腐敗臭が混じり合った鉄臭さが鼻を突いた。そしてかすかに立ち上る――――硝煙の香り。

 この世のあらゆる腐臭をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたかのような空気に、激しく胃が痙攣した。


 思わず鼻と口を抑えて顔を伏せた。


 真っ赤な部屋。そうここは、血と死の臭いが充満する、赤い部屋ブラッドルームだ。


 目の奥からにじみ出る涙に視界がぼやける。

 強烈な吐き気に苛まれ、思わずうずくまろうとして――――


 と、そこで気付いた。

 現実逃避か何かのように、ふとあることに思い至った。


『puke』。その意味を思い出した。

 意味は……嘔吐する。

 つまりこいつらは、俺が吐くか吐かないかで賭けていたのだ。この惨状を見た、俺の反応を楽しんでやがる。


「――――っぐ! はぁっ! はぁっ、はぁ!」


 喉元まで押し寄せていた胃の内容物を無理やり飲み下した。

 何が賭けだ。

 ふざけるなよ、キチガイどもが。


『ワアーオ、すごいすごい! 本当に吐かなかったよこの人!』

「ああ!?」


 遊ばれてることも分かり、あまりに自分を落ち着かせるのに必死過ぎて、なりふり構わず声を荒げた。

 手で浮かんだ涙をぬぐい取り、ぎろりとその声に向けて睨む。


『お父様から聞いてた通りね。彼はただのエイティーンスじゃないって。チェスの勝負は、嘘をつかないんだって言ってたもの。エレン初めてよ、この部屋に来て吐かなかった人見るの』


 が、すぐにはっと我に返った。


 まるでキスするような距離で、いつの間にか女の子の顔がそこにあったのだ。

 ぱっと目を引くのは、耳に掛かる程度の長さに整えられた、シルクのような金髪。まるで金色の花弁のようだ。

 色素の抜け切った白い肌が、自身の金髪と対照的に艶やかにキラキラと光っている。右頬と髪の毛先に血が掠れてなかったなら、言うことなしだったのだが。

 次に、大きな灰色の瞳が俺の顔を覗く。何もかも見透かされそうな、子供特有のつぶらな瞳孔。その上に乗っかる長い睫毛が、愛らしく小刻みに揺れていた。 


 真っ赤なドレスを着飾る彼女は、まるで人形のように可愛らしく、そして美しかった。

 正直、これ程の美少女にお目にかかったことは、今までムゲンループを生きてきて一度もない。こんな地獄にいること自体が間違いのようだと思ったし、むしろこんな場所に訪れた救世主メシアだとさえ思った。


『いらっしゃい、お客さん。ようこそ、エレンの部屋へ』


 そして――――体の一部であるかのように、小さい車椅子にエレンという少女は腰掛けていた。

 これが、マフィアボスの娘……? 


『……お嬢様、くれぐれもご無理はなさらず、何かあればすぐにご連絡を――――』

『もう、ジェウロったらうるさい! 水を差さないで!』


 俺の後方からエレンを気遣う彼に、その本人は頬を膨らませてピシャリと言い放った。


『今からこの人はエレンのお客様なんだから、ジェウロは関係なしなの! エレンがちゃんとおもてなしするんだから! いい!?』

『…………』

『お返事!』

『……分かりました』


 それだけ言うと、ジェウロは踵を返して去ろうとする。

 が、何のつもりか足を止め、俺に向けてこう言った。


『アイカワ、今から着陸まで後七時間だ。時間になればまた来る。それではまた』


 そして今度こそ、彼は俺達を残してつかつかと歩き去っていった。


 ジェウロの後ろ姿を見送っていると、くいと小さく腕を引っ張られた。エレンだ。

 上目遣いで、にこやかに笑っている。 


『エレンね、dear brotherおにいさまとお喋りするの楽しみにしてたんだ。本当よ? うふふ、とってもとっても楽しみね』

「お、お兄様?」


 思わず日本語になって訊き返してしまう。

 英語にも、日本語同様微妙な差異はある。意味合いとしては、確かにそう聞き取れた。

 つまり……いきなり『お兄様』なんて魅惑的な単語言われてめっちゃ動揺した。


 すると、俺の日本語に何を思ったのか、エレンがこめかみに指を当てて口を開いた。


「ah……お兄様はジャパニーズだったわね。じゃあ日本語の方が話しやすい?」

「……日本語、出来るのか」


 まさか、ここまでかなり流暢な日本語がこんなところで聞けるとは思わず、見事に驚いた。


「ジェウロよりはね。色んなお客さんと話してるうちに覚えたの。凄いでしょー?」


 ジェウロには内緒にしてるのよ、と付け加えてウィンクをしてみせるエレン。

 それが本当なら、普通に凄いな。

 俺だって英語一つ覚えるのにどんだけ苦労したか。


「ほらお兄様、いつまでも突っ立ってないでこっちおいでよ?」

「……ああ」


 手馴れた様子で車椅子を動かし、部屋の中の血の海を渡る。その後ろに、ふらふらと俺も続く。

 靴底が血濡れになろうがもう気にしない。というかそれどころじゃない。


 部屋の中に立ち入ると、一層臭いがキツい。 

 胃の暴れっぷりが尋常じゃない。平気なフリをしながら、こっそり肌をつねって口から息を吸い込み今も吐き気の波と闘っている。

 改めて見ると、赤い部屋というよりも赤黒い部屋だと思った。雲の上の陽光が窓から差し込んでいても、どこか薄暗い。

 時間が経ち赤褐色に変色した血糊が、この部屋に溶け込むように馴染んで見えた。  


「どうぞ、その椅子に掛けて――――あら」


 部屋の中央にぽつんと置かれた来客用らしきアームチェアをエレンは指差すが、そこには既に『先客』がいた。


「えい♪」


 かと思うと、両手でその身体を強く押した。とても人間の身体とは思えないくらいのあっけなさで、軽々と血の床に倒れ伏す。

 びちゃっと嫌な音がした。その額の黒い点のようなものから、多量の血の跡が残っていたのが見えた。


 器用にもエレンは車椅子に乗ったまま、『それ』を部屋の隅にずりずりと引き摺って行く。

 捨てるように放った後、俺に微笑みかけてきた。


「失礼。どうぞ、お兄様」

「お、おう」


 その微笑みが怖い。

 乾ききった笑みを返しながら、勧められた通りに腰かけた。

 椅子の背もたれにも血の汚れが激しく付着していて、おまけにまだ真新しいせいか嫌な感触が背中に乗った。


「さて、まずは自己紹介から始めましょ?」


 椅子に座った俺を見て、満足げに車椅子を俺と向き合う形に動かした。

 足と足がくっ付きそうなほど、お互いの距離は近い。


 口火を切ったのは、やはり彼女の方からだった。


「エレン=ランスロットよ。いーえるえるいーえぬ、えるえーえぬしーいーえるおーてぃーで、エレン=ランスロット。エレンでいいわ。花薫る九歳よ、これからよろしくね?」


 もう一度ウィンクを飛ばし、それからぐいと身を乗り出してきた。


「はい、次お兄様の番!」

「あ、おう……相川拓二だ。相談の相に、川。開拓の拓に数字の二……」


 声を出すたびに吐きそうだ。


「……で、分かるか?」

「ふんふん……」


 一体どこから取り出したのか、メモ書き程度の大きさの紙を取り出して何かを書いていく。

 ペンの先を鼻の頭に当てたりして、数分するとその紙を裏返して見せてきた。


「どうかしら!」


 そこには外人らしいかなり不揃いの漢字で、『相二』と書かれていた。

 ……かなり惜しいな。


「少し違うな。『あい』と『じ』の字は合ってる。他の二文字は間違ってる」

「えーっ? 違うの?」


 心の底から悔しそうな声を上げる。


「まあ日本人でも間違えるくらいのたいしたことないミスだから、気にすんな」

「うぅ……何が違うのかしら」


 親の仇と言わんばかりに、じっと自分が書いた文字を睨むエレン。

 こうしていると、ただの年頃の女の子だ。


「んむー……まっ、いいわ。どうせお兄様はお兄様だもの。ねー?」


 ねー、と言われても。


「そーかい……ああ、あと歳は今年で十六な。まあ自己紹介もそんだけだな。好きに呼んでくれて構わんよ」


 俺としても、こんな可愛らしい少女に『お兄様』と呼ばれるのは悪くない気分だし。


「んふふ……」


 突然、彼女の口から忍び笑いがこぼれた。

 見ると、にっこりと満面の笑みを返してきた。


「ねえお兄様。エレンね、楽しいことがだーい好き。だからもっと、もっとエレンを楽しませて頂戴」


 年相応の幼さが残る、甘えかかるような声。

 ブランデーのように、脳髄を優しく痺れさせる。未成熟な魔性が父性本能を的確にくすぐっていく。

 それまでの吐き気も忘れて、その顔つきに見入ってしまった。


 音を立てず、するりと華奢な身体をさらに前のめりにさせて、もっと距離を近付けさせる。

 ほっそりとした指が、左頬に触れた。ハンドソープの香りに混じって、かすかに鉄臭さが残っている気がする。


「ねえ、お兄様? 一つ、お願いしても……いいかしら?」

「な、何が、何を……だ?」


 まずい、声は上擦ってないだろうか。

 思わず心配になるくらいに、エレンは強烈だ。

 計算されたものでなく、性格に基づいた人懐っこさだと分かるからこそ、柄にもなく彼女への情愛が押し寄せて来る。


 甘噛もうとせんばかりに、エレンは俺の耳元でこう囁いた。


「お話をね、聞かせて欲しいの。それはそれは、胸踊り気持ちが昂るようなお話を」


 そう言い終わると同時――――


 カチャリ、と冷たい金属音が俺の手元から鳴った。


「……え?」


 思わず、反応が遅れてしまった。緩慢な動作で、その音がした方に視線を向ける。

 エレンの身体が、ゆっくりと離れる。

 ちらりと見えたその顔は、やはり純粋に笑ったままだった。


 ――――油断していたと言われれば、その通りだ。

 エレンのやり方に、まんまと騙された。感覚が麻痺してしまっていた。

 血塗れの部屋という超特異な状況の中で、唯一の希望とも言える彼女の快活さに、悪魔的な魅力に、完全にのぼせてしまっていた。

 こいつが、この死人だらけの部屋の主であることを、死体をゴミか何かのように扱っていたことを忘れてしまっていた。


 両の肘掛けに、それぞれ左手と右手が固定されている。いかつい手錠が、俺の両手首で鈍い輝きを放っていた。


「なっ!?」


 驚いて、手を引っ込めようとした。

 が、当然抜けない。手錠は肘掛けに繋げられており、外れる様子もなく、ガシャガシャと空しい音を立てるだけだ。


「外れないよ? それ」


 エレンが、当然のように告げる。


「こ、こいつ……! おまっ、お前何しやがった!?」

「何って……お兄様がちゃあんと逃げないように?」


 そう言う彼女の手には――――もはやおなじみ、拳銃が収まっていた。

 デリンジャーと言われる、小型の銃だ。エレンの小さな手でも持てるポケットサイズで、反動も少ない。正しく握れば、エレンのような子供でも扱えるほどの代物だった。

 その彼女は、しっかり二つの手で支えるようにして、動けない相手を着実に仕留められるポーズを取っていた。


「に、逃げないようにって……」

「だって、こうでもしないとみんな逃げちゃうんだもの。せっかくお招きしたのに、お話もせずに逃げるなんて、失礼だと思わない?」


 口を尖らせ、不満を溢すエレン。

 その口ぶりに、今までとの雰囲気の変化は見られない。

 もっと言えば、。まるで、いつもの事と言うように。

 命を取るということに、何の疑問も浮かべていないのだ。


「……あ」


 ふと、先程の銃声を思い出した。そして、先程エレンがこの椅子からどかし、額に穴をあけていた死体。

 あれは、こいつが撃った銃の音だったのか。


「まさか……こうやってお前はいつも、人を……殺してるのか?」

「…………」


 もう、こいつに何のプラス感情もない。何が天使だ、くそ食らえ。

 こいつは、敵だ。

 銃ごとエレンを睨みつけてやる。


 ――――だが、歯ががちがちと震えて、膝が貧乏ゆすりで震えている。

 そうだ、今俺は動けない。逃げようがない。

 だから、エレン次第で俺は死ぬ。


 さっ、と顔から血の気が失せていくのが分かる。

 俺は恐怖している。

 俺は今日、死ぬのか? そこに転がる死体のように?


 ――――そんな折のことだった。



「……だって、お話がつまらないんだもの」

「は……?」



 確かに、エレンは今そう言った。

 不満顔で、それはそれはつまらなそうに。


 ……いや、ちょっと、ちょっと待て。


 こいつの日本語がおかしいのか? それともとうとう俺が錯乱してきたのか?


 話がつまらない。なるほど、子供は確かに退屈な時間を極端に嫌う。面白くもない話をされて、嫌になる気持ちも分かる。

 それを踏まえて、敢えて言う。


 だから? だから何だ?


 ――――


「今まで、色んな話を聞いたわ」


 目の前の美少女は、言葉を紡ぐ。


「お父様は、この飛行機で世界中あちこちにお仕事に行くのよ。それに付いて行って、世界中の色んな人達とお話してきた。楽しくて楽しくて、何度も付いて行ったわ」


 綺麗なソプラノ声が、部屋に木霊する。


「初めは、本当に楽しかったんだよ。でも、嫌なこともあった。マフィアの関係者だからって、怖がられたし、蔑まれたりもした。初めの時と比べて、どんどんそれが増えていった。そうしてしばらくしてから、ある日、お父様に言われたの――――」


 口元を緩ませ、可愛らしいえくぼを浮かべる。

 その笑顔は、普通の少女のそれと比べて何ら遜色のない可愛らしい笑顔で――――


「もしエレンが気に入らなかったら、その人を殺してもいいって」


 全身の鳥肌が総立つような、そんな言葉が発せられた。


「だから、お兄様。アナタはエレンを楽しませてくれるよね? 死なないように、殺されないように。とっても面白いお話をして頂戴?」

「…………」


 詰まる所、これが裏の世界の日常だ。

 歪を広げ、押し付け合い、そのためなら倫理をもへし曲げる。


 ……厨二臭いとか思うか? 


 彼女の中で、客人とお話することと、その客人を殺すことは同格なのだ。


 純粋な天使は、悪党に唆されて中身が腐ってしまった。

 天使の面を被った畜生に成り下がってしまった哀れな少女に、今俺は後悔と罪悪感を抱いている。理不尽への怒りは、急速に失せた。

 もっとはるかに深い理不尽を、この目でまざまざと見てしまったから。


 もっと早く会いたかったと、少しでも感じてしまった。


 もはや手遅れだと、はっきりと感じてしまった。



「……ふ、ふふっ。くくっ……あはは」

「あれ? お兄様?」


 ……笑いが、こみあげて来る。口角を引き吊り上げるような笑いが。


「あはっ、あはははははは……!!」


 ああ、そうかそうか。

 これが『入門編』か。

 今まで夕闇のようなグレーゾーンに立っていた俺への、一種の肩慣らしだ。この狂った世界に付き合っていけるだけの度胸試しだ。


 上等。

 そんな狂った世界だからこそ、手に入るものがある。


 この時、俺は。


 こういうもんだろ、と。深く考えることを諦めた。


 血の臭いには、何時しか慣れた。血の臭いは血の臭いだと、そうやって割り切っていく。キツイ臭いなんて、オッサン達が詰め込まれた狭苦しい喫煙所と何も変わらない。ゲロと怒号がひしめくバーの酒臭さだとか、シュールストレミングを開けた時の小部屋と比べたら、この部屋の中の方がずっとマシだろう。


 要は気持ちの取り様だ。


 転がる死体も、所詮ただの死体。猫やカラスの死骸を見て気持ち悪がっても吐く奴なんてよっぽどじゃない限りいやしない。


 子供の話し相手? 派遣の家政婦でも出来るようなことを、俺が出来ないわけがない。


 ムゲンループの住人である俺だって、死ぬときゃ死ぬ。だったら、俺の出来ることをやって天命に身を任せよう。

 一番嫌なのは、じたばたと惑ったまま出来ることをやれず惨めに死ぬことだ。

 


 狂ってるものは仕方ない。そういうもんだ。

 

 今は俺が生き残るために出来ることをやるのが大事だ。そのためなら、例え地獄の理にだって適応してみせる。


 大きく息を吐き、どっしりと椅子に背を預けた。

 顎を引き、エレンの目をはっきりと見据える。お互いの視線が絡んだ。


 思えば、一度としてこの少女とまともに目を合わせてなかった。

 こんなにも幼い目の前の少女のことが怖かったのか、俺は?

 まったく、笑える。


「オーケイオーケイ、つまりお前は寂しかったんだよな?」

「え……?」

「よおしエレン、俺とお話しようぜ。話し相手になってやる。どんな話が好きなんだ? アクション活劇か? 切ないメロドラマか? それとも奇々怪々なスプラッタホラーストーリーか?」


 今はエレンに何をされても為すがままなのは忘れて、この少女とのお喋りを楽しもう。


 幸いなことに、実体験ものがたり。少女一人楽しませられるくらいの語り草を、俺は歩んできたはずだ。


 しばらく、エレンは呆気にとられたかのように目を丸くしていたが、俺の言葉の意味を呑み込んだかと思うと、今までにない満面の笑みを浮かべた。


「ヘイタイショー! スプラッタホラーを一つ!」

「ははは、やっぱりな。オーライ、話してやるとするか! あれはそう……日本の、森深くにあるとある洋館での出来事だったっけか――――」


 至る所が赤ペンキのように血で塗れ、誰とも知れない脳漿が飛び散り、ゲロも混ざり、死体には蠅だか虻だかが集り始めている。

 そんな、地獄のような部屋の中。


 ――――俺とエレンはずっと仲良く『お話』をし続けた。



◆◆◆



 ジェウロ=ルッチアは、ボスであるマクシミリアンの腹心である。

 少なくともマクシミリアンの娘のお守りを直々に任されるほどには、かなりの信頼を置かれている人間だった。

 生憎他の同僚や同業者には、この事をあまり理解されない。マフィアの一員にもなって、やることがベビーシッターの真似事とは、と鼻で笑われることが多い。

 それを、ジェウロが気にしたことはなかった。

 何故なら、その娘は大変な『厄介者』だったからだ。


 今、イギリスでは一つの都市伝説が話題となっている。

 それは夜深くに、道中に一人でいると得体のしれない影に襲われ、襲った人間を一人、また一人と攫っていくというもの。


 そこまでならただの連続誘拐犯だが、それで話は終わらない。

 目を覚ますと、そこは暗い部屋の中で、叫んでも喚いても助けが来る気配は無い。手足が縛られているのか、椅子に座らされたまま動くことも出来ない。

 すると、暗闇の中でも何故か視認できるほどのどす黒い影が現れる。その影は、こう言うのだそうだ。



 ――――ねえ、面白いお話をして頂戴?



 何故かその声は、無邪気な子供のそれで、しかも場違いなまでにとても美しい声音をしているらしい。

 これには諸説あり、例えばどこかのとち狂った老婆が、イギリス中で一番声の綺麗な子供を脅してそう言わせているのだとか、そんな根拠のない憶測がなされているのだが……今は割愛しておく。


 そして、朝になるまでその影を満足させられるだけの話が出来たなら無事解放され、もしその影に気に入られなかった場合は、永遠に闇に取り込まれて行方知れずとなってしまう、というものだった。


 その謎の影は、子供のようでありながらも、突然話をしろと不躾な命令をする尊大な態度から、『噺好きの嬢王様』という名称で、イギリス市民の間でまことしやかに囁かれているのだ。


 話が長くなったが、要はその正体がエレンであるということは、マクシミリアンやジェウロ、他数名の絶対機密事項なのであった。


 詳しい出所も広まった経緯も不明だが、若干の脚色はあれど、間違いなくエレンの存在が都市伝説にまで押し上げられてしまっているのだった。


 これには、流石のマクシミリアンも予想外だった。


 もともとエレンとの『お話』は、最後通牒としての機能を見込んでのものだったと、ジェウロは認識している。

 幼い頃からマフィアのボスである父親と連れ添っていく内に、エレンには人の内側を見抜く才が芽生えていた。

 人懐っこい双眸で、その人間の人格・才能・心理を見抜くことに長けていた。恐らくは、生まれつき下半身不随を患う彼女に与えたもうた、別の才能だったのだろう。


 とにかく、マクシミリアンは、その力を活かすことに決めた。

 ファミリーのスパイ・刺客・裏切り者・『やり過ぎた』者・小悪党・エトセトラエトセトラ……。

 そう言った疑惑のある人間をエレンの下に送り、『生か死か』の審判を務めさせたのだ。

 そのための手段が、エレンの言う『お話』だった。


 エレンの能力は、遺憾なく発揮されていった。

 嘘発見器以上に正確に、白セーフか黒アウトかを判別してみせたのだ。馬が合ったり仲良くなった人間はセーフ。エレンが気に入らなかったり怖がったりした人間はアウト。

 ……もっとも、アウトの人間が圧倒的に多かったのも事実だが。

 そしてエレンが相手の外見で判断したかと言われれば、そうでもない。組織内で一番の優男と評されてきた男を、アウトだとジャッジしたこともあった。その結果は、数日後に付いてきた。


 そして稀に、エレンの下に連れて行って、生きて帰された人間もいた。おそらくは、そこから噂が出回ったのだろう。


 このままではエレンに危害が及ぶと考え、エレンの『審判』をこのプライベートジェットの中でのみ行うことを、ジェウロが提案した。それならエレンも安全であるし、噂もすぐに廃れる。そう考えた。


 マクシミリアンは了承した。

 ただし、今まで以上にエレン自身の手を汚させる形で。

 『審判』だけじゃなく、『死刑執行』までもエレンに任せるようになったのは、この頃からだった。


 ジェウロは苦渋した。

 果たして、その選択は正しいのだろうか。年端もいかない女の子に人間を殺させるのは、人として……親としてどうなのか、と。

 マクシミリアンにも直接そう言った。

 結局、聞き入れてもらえないまま、マクシミリアンの真意も掴みきれず、今に至る。


 そして今もなお、ジェウロは悩んだままだった。

 このやり方は、筋を通しているのか? エレンの使い道は、本当にこれでいいのかと。


 そうこうしているうちに、エレンの部屋までたどり着いた。

 もう間もなく、着陸の時間だったからだ。


「…………」


 銃声は聞こえなかったが……おそらく一時間程仮眠を取っていた間に始末したのだろう。

 お目付け役とはいったものの、正直エレンの好き放題にやらせても全く問題は無い。一度ジェウロも、彼女のやり口を見たことがあったが、それはそれは鮮やかなものだった。

 自身の美貌と、赤い部屋というギャップ。さらに持ち前の人見知りしない性格が相手の隙を引き摺り出すのに一役買っている。

 その隙を縫って相手に手錠をかけるのだが、それがプロのヒットマンからでも文句の無い、見事な腕前だった。自然すぎて、誰一人としてその瞬間に気付けないのだ。


 エレンに、こういう汚れ仕事をさせることに反対しているジェウロでも、そこは認めざるを得なかった。


 一度咳払いをし、ノックの後声を上げる。


『ジェウロです。お嬢、そろそろお時間です。ご入浴とお召し物の用意をお願いします』


 声をかけてしばらく沈黙が続き――――どれだけ待っても、何の反応もなかった。

 再度、ノックをする。


『お嬢。聞こえていますか、ジェウロです。眠っておられるのですか? 着陸の時間が迫っておりますので、お早めに用意を――――』


 その時、くすくすと噛み殺した笑い声がジェウロには聞こえた。

 思わず、大きくため息を吐いた。


『……お嬢様、またお戯れですか? 私を困らせないでいただけますかな?』

『…………』

『お嬢? ちゃんとスコーンのセットはご用意させていただくので、何卒』

『……んー、そうねえ』


 すると、部屋の向こうで、囁き声が届いた。



『どうする、お兄様?』

『あー、んじゃ、分けて食おうぜ。一緒に仲良く半分こだ』

『うんっ!』



 その一瞬の、ジェウロの動きは早かった。

 懐の銃を取り出し、リロード。

 壁に背を付き、片手に銃を構え、もう片方の手でドアノブに手を掛けて押さえ付ける。


 ――――中にいる何者かを、突入寸前まで逃がさないためだ。


『お嬢、失礼します!!』


 声を張り上げ、ドアを思い切り蹴り飛ばした。


 大きな音を立てて蝶番が歪んだドアを尻目に、ジェウロは目標に向けて銃口を向けて――――


『よう、ジェウロさん。どうしたんだ、そんなに慌てて?』


 目の前の状況に、彼ほどの人間が呆けてしまった。


 まずは第一に、あのうさん臭い日本人が生きていたことに驚いたが、

 それよりなにより――――


 あのエレンが、車椅子じゃなくてその日本人の膝に乗っかってニコニコと笑っているのは、一体どう云う了見だ。


『――――っ! お嬢、そいつから離れて下さい!』

『えー、やだよ。エレンはお兄様のおひざがいいのー』


 ジェウロが必死に呼びかけても、まるで言うことを聞こうとしない。


『……だってよ? ねえ、今どんな気持ち? 子守りの役取られて今どんな気持ち?』

『黙れ! 貴様お嬢に何を……!』

『と言われてもなー、こうして欲しいって言ったのはエレンであって』

『馬鹿な! お嬢は足が動かんのだ! 間違っても自分からなど――――』

『だから、エレンが頼んできたんだよ。ほれ』


 そう言って、『審判』の被告人は、ひょいと万歳するように両手をかざした。


 その時、ジェウロに衝撃が走った。


『ば、馬鹿な……』


 その手首には、鈍く輝く手錠は掛けられていなかった。


『ちゃんと丁寧に運んでやったから安心しろよ。軽かったから俺でも楽だったぜ』

『もうお兄様ったら、そんなこと言われたら照れちゃうよう!』


 今までにないことだった。


 あの見事な技術で巧みに心の隙を突くエレンが、例え相手がセーフ側の人間であっても、こうして『審判』の途中で自ら手錠を外すようなことなど、ジェウロにも……そしておそらくマクシミリアンでさえも見たことの無い出来事だった。


 前例がない。

 だが、これまでの彼女の実績を見てきたジェウロに、今回の判断を否定するようなことも出来なかった。


『……日本人、貴様』


 その代わりといったように、エレンをそばにはべらせ、椅子に座ってふんぞり返る少年を、視線で殺さんばかりに睨みつける。

 唸るように、続けた。


『貴様一体、何者だ……』

『……とりあえず、日本人って呼ぶのはいい加減止めてくんねーかな』


 少し思案気な素振りを見せてから――――彼はこう言った。



『俺の名前は、相川拓二だ。近々おたくらマフィアの力を借りたくて、俺の力を貸しに来た。これで入門試験はおしまいか――――面接官殿?』



 まるでエレンを真似たかのような、純真無垢な笑顔を浮かべて見せた。





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