第十話:特訓
「ふっ――――!」
上体をぐん、と屈ませ、蹴り上げた踵が空を切った。
袈裟切りのような軌道で、空気がぶれるような音を立てる。平均的な日本人男性の背丈で言う、胸上部くらいの位置ってところか。
「――――はっ……!」
素早く思い切り背を伸ばす。
そのまま体をひねりあげ、一回転した勢いに逆らわず身を任せるようにし、軸足の左足を思いきり持ち上げる。強い浮遊感を覚えると同時、目の端にちらりと宙を踊るように飛ぶ左足が映った。
そして、ぐるんと宙を回って着地。
地面の砂利が、粗雑に音を立てた。
「――――はあっ、はあ、はあ……」
響く呼吸音。肺が痛い。
蹴り出す時の回転酔いにも、ようやく少しは慣れてきた。
「すぅ、ふぅぅぅー……」
乱れた息を整えるため、大きく肺に空気を取り込んで、そのまま長細く吐き出す。それを何度か繰り返す。
思い出したかのように、どっと汗が噴き出した。 今日既に二枚目に替えたシャツも、汗まみれでぐしょぐしょにしてしまった。
予想だにしなかった、桜季との対峙。
あの再会から三日、あれから俺は、学校もサボってずっと鍛錬にいそしんでいる。小さな森付近の寂れた公園は、平日なのも相まって人気がない。
そこでたった一人、何時間も空を蹴り続けている。あれを機に、急ぎで技の勘を取り戻そうとしている真っ最中だった。
今になって慌てているのも、我ながら間抜けな話だと思う。夏休みの宿題をほったらかして今泣きを見ている小学生みたいだ。
しかし、そんなことを悔いてはいられない。これでも、やらないよりましだ。
「……さて、と」
――――ところで、こんな町はずれの場所に、さっきから俺以外に人がいる。
そいつは、ついそこの草陰に隠れるように、じっと俺を見ているみたいだ。間違いない。
しばらく気付かなかったが、こうして一息ついているとはっきり分かる。俺じゃなくても分かるくらい、かなり隠れ方がお粗末だった。
いのりや桜季なら、こうも簡単に分かるような隠れ方はしないだろう。とすると、俺の知り合いかそうじゃないのかが問題だ。
俺を見かけただけの通行人なら、こそこそと隠れたりはしないはず。子供にしたって、ここには遊具もなにもない。わざわざここに遊びに来る子供もいないだろう。
俺のことを知っているからこそ、身を隠していると言う方が自然だ。
「…………」
じゃあ……と考えると、一つ。もしかしたら桜季が寄こした人間なのかもしれない。それも、俺を監視するための。
あいつならそれくらいしかねない。というか、何をしてくるか、まるで分からんからな。
まあ、実際にそこにいる奴に訊いた方が早いだろうな。
「…………」
何も言わずに、草陰に歩み寄る。一応注意を払いながら。
今の俺なら、なんの武術の心得もない人間なら簡単に倒せるはずだ。この時点で俺の脅威とはなり得ないとは分かるが、念のため。
――――そして、一気に隠れている方向に向けて駆け出した。
「わ、うわ、しまっ……」
俺の突飛な行動に慌てたような男の声が聞こえた。気付かれてるとは思ってなかったらしい。
がさがさと木の葉が大きく揺れる。
今になって逃げる気か。
もちろん、それを許す俺じゃない。
ぬっと人影が飛び出した。
それとほぼ同時、鞭を放つように右足を繰り出して――――
「わーっ! 待て待て相川、俺だ! スタァーップ!!」
その聞き覚えのある声に、ぴたりと足を止めた。
「……夕平?」
姿を現した夕平は、両手を上げ、降参のポーズを取っていた。
頬の寸前で停止した足のつま先に、顔を動かさずに視線を移し、冷や汗を垂らしている。
「あ、あぶねー……死ぬとこだっ――――ひでぶっ!」
何となく、そのままさらに身体をひねって軽く蹴ってやった。
「おお、なんだやっぱり夕平か」
「やっぱり夕平か……じゃねーよ! 今止まってたよね、寸止めしてたよね!! ひでーじゃねえか!」
「悪い悪い、つい」
登場した途端に騒がしいヤツだ。
学校の帰りらしい制服には、あちこちに葉っぱが付着している。なかなかの時間、そこで息をひそめていたらしい。
近寄って、それらを払い取ってやった。
「んで、なんでお前がここに?」
「なんでって……そりゃお前、今日水曜日だぞ? 簡単に『休む』ってだけ言って三日も学校に来なかったら、心配の一つくらいするだろ」
その顔は、少しだけ険しい。いつもへらへらしている夕平にしては珍しく、怒ってるみたいだった。
心配という言葉に、嘘はないのだろう。
「もしかして、暁も?」
「ああ、あいつはお前の家に向かってると思う。いのりちゃんに場所聞いたりしてた。俺は春子ちゃんって子からお前を見かけたって聞いたから、探して来たんだ」
「そうかそうか。ご苦労なこって」
「ご苦労ってお前な……いや、もういいや。怒るの疲れたし」
呆れたような声で、夕平がそう言った。
「でもお前、どうして仮病してまでこんなこと……」
「……ヒーローごっこ、なんつって」
「馬鹿、そんな遊んでるっぽく見えなかったぞ。なんていうか、鬼気迫るっていうのか……もしかしてお前、ここ三日間ずっと?」
「まあ、鍛錬だからな。欠かすわけにはいかんて」
鍛錬というよりは、今はまだ子供のおままごとみたいなもんだ。傍から見たら、見えない何かと戦ってる痛い子みたいだろうが、俺自身は至って真面目だ。
「前に見せた足蹴りだよな、それ」
「ああ、カポエイラってやつ」
「おっ、それなら聞いたことあんぜ。こう、逆立ちして足ぐるぐる回すやつ」
「……なんかそれ、どっかのポケット怪物と勘違いしてないか? まあいいけど」
そう、先日桜季には動きが読まれたカポエイラは、何気に一般的な認知度は高い種目だし、夕平も映画とか漫画とかで使う場面は見たことがあるんだろう。
だが、実際のカポエイラはパフォーマンス重視の武道で、むしろ相手に当てるのは下手くそのやることだとまで言われる腿法である。本当は片方が蹴ってもう片方がよける、一対一の踊りみたいなもんだ。
と、ブラジルのロドリゲス師匠が昔言っていた。
というわけで、認知度の割に、日本で伝わっているものはかなり誤解されたものだと言わざるを得ない。果たして実戦で使えるかどうかと訊かれれば、俺もろくに言い返せん。
そりゃ、足を出すためにぐるぐる身体を回すくらいなら、スタンガンなり護身用の武器を持った方が簡単に決まってる。
蹴りなら無理して顎とかにぶちかますより、金的を狙った方がずっと効果的だ。もちろん、これが毛の生えた素人じゃなく、マジでその道に生きてきた達人なら話は別だが。
今の俺はそんなものに到底及ばない。足はまだまったく上がらないし、身体は回転の遠心力に持ってかれてる。今のままでは使い物にならないだろう。
時間を掛ければ……あるいは、かもしれないが。
ムゲンループでは、俺は経験した記憶を続けて所持することが出来る。経験だけなら数十年分の積み重ねがあるから、あとは身体が追いつくかどうかだ。
こればかりは、鍛えたり実戦で身体を動かすしかない。
「お前みたいにしれっと何でもこなすような奴でも、こんな練習とかするんだな」
「俺は努力型の人間なんだよ。こんなことでもしないと何も出来ない凡人だからな」
「ふーん。でもさ、そういうもんってここじゃなくて誰かに教えてもらうもんじゃねえの? スクールとか」
「スクールはなあ……あまり参考にならないな」
「なんかそれ、色んな人間に喧嘩売ってね?」
「俺が求めてるものとは違うってだけだよ」
これは俺の個人的な考えだが、カポエイラは、比較的自由な動きが多い。その実態があまり知られてないせいか、その突飛さから相手の不意を突ける。
これは、前の世界でも何度か実証済みだ。最終的には、五人くらいの警官相手に無双することさえ出来た。
だがその自由な動きにも、大本には基本的な動作が多様に盛り込まれていたりする。腰を落とし続ける態勢の取り方、身体の重心のバランス制御、相手をずっと見据えるコツ、それらは覚えて損はない事ばかりだ。
無理やり例えて言えば、子供の身体の動かし方に近い。子供は、遊びながら、無意識のうちに全身をくまなく動かしている。身体の駆動性とでもいうのか、その幅が大人よりも広い。
それと同じように、手っ取り早く身体を慣らす運動に限りなく近づける手段を模索した結果が、カポエイラだった。
カポエイラを使いこなせられれば実戦でやれることの幅は広がるし、独学でならいくらでも応用が利く。例えば蹴る時に足が伸びるようになるのだって、普通に良い事だしな。
カポエイラは、使い手次第でもっと改良……もとい改悪することが出来る武術だとも言える。
だが、スクールで教えてもらおうとすると、どうしてもダンス寄りの見映えのある動きか、せいぜい護身的な技しか身につかないのだ。
流石にそんなんじゃ生ぬるい。自分を見映えよく生かすよりも、他人を再起不能・瀕死に追い込むような戦闘向けの技。
それが今俺の求めているものだからこそ、俺はスクールには行かない。
上手くなろうとするなら教えてもらえ。強くなろうとするならストリートファイトしかない。師匠の至言だった。
「まあ、単純に月謝も払いたくないしな」
「ああ、そうでござんすか……」
「とりあえずそこに座れよ。一休みしたい」
申し訳程度にぽつんと置かれた木製の椅子を指差す。家から持ってきた俺の手荷物が、椅子の足にもたれかかっていた。
これくらいで筋肉痛を起こすようなやわな鍛え方はしてないが、いい加減足が重い。今日はもうここまでだろう。
「よいしょっとい……ふぅー」
「大丈夫か? 汗まみれだけど」
「ああ……悪い、そこのカバンからタオル取ってくれ。まだ使ってないやつな」
「……これか」
夕平がタオルを寄こすまでに、シャツを脱いだ。
ペットボトルの水を頭から被って、風呂上がりのように身体をタオルであてがった。
「サンキュ」
「……なんか、減量中のボクサーみたいだな、お前」
「そんな大それたもんじゃないっての」
「……なあ、聞いてもいいか?」
「ん?」
夕平が口を開いた。
まるで、勉強の意義を教師に訊く子供のように。
「お前がそこまでやる理由は、なんなんだ?」
「…………」
「鍛えて、強くなって……そっから何があるんだ? プロになるわけじゃないだろうし、この先生きてて何になるってんだ?」
肯定も否定の意もなく純粋な疑問として、夕平は俺の目的を問いただす。
俺は、自問する。
何のために今身体を鍛えているのか。何のためにこれまでループを繰り返してきたのか。『四月一日』が訪れた時、何もかもがリセットされてしまうこの世界で、こうして生きていく事の意味とは。
所詮夕平の事だから、大した意味もなく訊いてきたのだろう。適当な理由で受け流そうと思えば、簡単に出来る。
ただ、それでも夕平のその言葉は、思いの外俺の胸中をかすめた。ここでお茶を濁すのは、どこかもったいないような感じがした。
そんな思いがあったから、俺はこう答えた。
「昔な、『俺』は『僕』だったんだ」
「――――はあ?」
唐突な俺の言葉に、疑問符を浮かべる夕平。
そのすっとぼけたような顔がおかしくて、小さく笑みを浮かべた。
「そのままの意味だよ。……昔、俺は自分の事を『僕』って言ってたんだ。それに、今みたいに髪も整えずにぼさぼさで、縁のぶっとい眼鏡も掛けてたし、普段は一人で親かコンビニの店員くらいとしか喋らないような、そんな根暗な奴だった……」
少し呆けた表情の彼に、にやりと口角を吊り上げてみせた。
「意外だろ?」
「まあ、なあ……」
何とも言い難い微妙な顔で頷いていた。
どう反応したらいいのか分からない、といったところだろうな。自分で言っといてあれだが、俺でも人からいきなりこんなこと言われたら困るし。
「『僕』は本当に弱かった。そのせいで、何も守れずに、なんもかんも失った。唯一の友達だった奴とも離れ離れになって、たった一人残された俺は、今でもそれを後悔してる」
「…………」
「だから、俺は強くなる。もう二度と、同じ事を繰り返さないように。弱かった『僕』を完全に捨て去るためにな」
……まったく、柄にもない。一生死なないが墓場にまで持っていくつもりだったのに。こんなこと、恥ずかしくて『本人』にしか言えっこない。
汗を拭き終えて、替えの上着に袖を通していく。
「……夕平、お前は暁をもっとよく見てやってくれ」
恥ずかしついでに、もう一つだけ言っておいてやる。
色々打ち明けたせいか、老婆心がくすぐられていたのだろう。
「え? なんで暁を……」
「大事なものってのは、離れるまで分からないかもしれない。時にはもっと良い物に目移りすることもあるかもしれない。……でも、良い物が必ずしも大事な物とは限らない。そういうのは、近くにあるからこそ大事なんだよ。居なくなってからじゃ遅いって事を、忘れるな」
「…………」
果たして、俺の言葉がこいつにきちんと伝わったのかは分からない。〝この〟夕平は、あの時の事を知らない、ただの一般人だ。きっと俺の言ってる事の半分も理解できないだろう。
でも、俺の言いたい事は言えた。『三週目』以降、俺はこれまで二人に一度として接触してこなかった。ただの一度としてだ。
俺が関わらなければ『三週目』のようなことも起きないのではという淡い考えもあったが、それは甘い願望でしかなかったようだった。
俺は、何度も起こる暁の自殺を、繰り返し五十回も行われてきたそれを止めようとせず、ずっと見過ごしてきた。
一度起きたことは繰り返される。
そんなことをしても、既に遅かったのだ。
あの時の結末を変えるため、あらゆる経験を積むために、俺は二人を避け続け、今までこうして言いたいことも言えなかった。
今まで目を逸らしてきたが、もうこれまでだ。
この流れを止められるだけの人生を、俺は積んできた。
これは一種の誓いだ
俺は、同じことを二度と繰り返さない。
大事なものは、二度も失わせやしない。
「……正直、お前の言ってる事とか、何の話してんのかもよく分からんけど」
ぼりぼり、と頭を掻きながら、夕平は言った。
だがその顔は、いつにも増して真剣味が帯びていた。こいつなりに、何か感じ入るものがあったのかもしれない。
「でも、暁とは幼馴染だしな。アイツがいなくなるとか、俺には何度考えても考えられねえや。だからやっぱり、アイツは一番大事な奴だって、俺は思ってるぜ」
何の躊躇いもなく、俺を真正面から見据えてそう断言した。
それは、とても強い視線だった。
「……ああ、それでいい」
それを聞いて、安心した俺がいる。
良かった。これで当分、暁はコイツに任せられる。そう思えた。
いのりだけじゃない。今回は、夕平の助けだってある。
人の協力がある。
大きな困難に立ち向かうための流れが生まれようとしているのを、この身に感じた。
「さて、そろそろ帰るか。今日はもうこの辺にしとくわ」
タオルをバッグに放り込み、手短に手荷物を整える。
「あ、そうだお前明日は……」
「ああ、明日はちゃんと学校に行くから。心配させて悪かったな」
単位的には、これくらいの休みでどうなるもんじゃない。というかムゲンループの中でどれだけ留年しようが、俺には何の問題も無いわけだが。
「そんならいいや。お前がいないとつまらないからな」
「そりゃどうも、光栄なこって」
恥ずかしげもなくこんなこと言えるから、こいつは人に取り入るのが上手いと言うか、人懐っこい奴だと言うか。
「あ、そうだ!」
そこで、思い出したかのように夕平が声を上げた。
「お前今週の週末、暇か?」
「ん? なんだよ? 特に用事らしい用事は無いが」
せいぜい今日みたく、やる事といったらカポエイラの練習くらいだろう。
「おお、良かった。お前も誘おうと思ってたんだよ」
「……何に?」
そう俺が訊くと、ニンマリと子供のような満面の笑みで夕平がこう言った。
「実はこないだにさ、千夜川先輩から、遊園地のナイトパレードのペアチケットを二枚も貰ったんだ。俺と暁、あとお前といのりちゃんの四人でどうぞ、だってよ。な、良かったら皆で一緒に行かねえか?」
まさかの、嬉し恥ずかしダブルデートのお誘いである。
しかも、その『
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