第九話:千夜川桜季

『私も人間だしね、きっと出来ない事の一つや二つはあるよ』


 まるで、今まで自分の出来ない事を知らないまま生きてきたかのような、そんなセリフ。

 笑いたくなるようなこの口上を、俺は何度か聞いたことがある。


 三週目むかし、俺が、桜季をあの二人と引き合わせた。

 ムゲンループの存在にはしゃいでいた、あの頃。夕平達と仲良くなり、桜季のことを『千夜川先輩』と呼んでいた、あの世界で。

 あの頃の俺は、彼女の漆のように艶のある黒髪に見惚れていたし、誰もがはっと目を引くその端整な顔つきに焦がれたりもしていた。


 俺達は、四人で一緒だった。


 当時の俺は、何も知らなかった。あまりにも無知で、あまりにも愚盲だった。今思い返すと、もう目も当てられない。

 俺達の均衡はあまりにも脆く、不明瞭に霞みきっていた。そのことに、見向きもしなかった。


 すべての選択肢を間違えた結果が、あの世界だった。

 満杯に注がれたグラスの水が、ちょいとつつくだけでたくさんこぼれるように。歯車が噛み合わなくなった時には、既に何もかもが遅かった。



 ――――桜季のその言葉が、誇張でも虚言でもないと知るのは、そんな、全てが手遅れになった後の事だった。



◆◆◆



 俺は今まで、運命というものを信じてこなかった。

 天命や運命だとかを、本当に今まで一度も信じはしなかった。

 どちらかというと、『未来は切り開くものだ!』と恥ずかしげもなく断言するアニメのヒーローに共感的でもある。まるで諦めるかのように『全ては運命だった』とのたまう運命論者よりはずっと。

 運命が切り開ける物だから、そう思うからこそ、人は前を向ける。もしただ与えられるだけの物であるのなら、人は地に足を付けて生きてはいない。


 逆に、何かを変えるためならば、人はそれに見合う以上の努力をしなければいけないということでもある。

 そう思って、俺は今まで努力してきた。あの結末を変え、あの世界の先を見たいがために。

 だが、予想外の事が起きた。


 ――――バタフライエフェクト。


 それが、俺の算段を滅茶苦茶にしてしまった。


 。桜季が俺と出会い、その後に夕平と暁に出会った。

 だがこの世界では逆に、先に夕平達が桜季と出会ってしまっている。これは明らかにおかしい。あまつさえ、俺達四人が合流する時期も、まだ三週目の世界線あのときより一ヶ月以上早い。


 バタフライエフェクトが、何らかの形で作用したに違いない。当然、悪い方向に。

 しかもよりによってその桜季が、俺がこの世界で初めて会ったいのりと前からの付き合いがあったという。俺と同じでムゲンループの住人である可能性まであるというおまけ付きで。

 最悪な形で、全てが噛み合いすぎている。ムゲン―ループが、ただの同じ繰り返しじゃないという事は分かっていたはずなのに。


 こうなる運命だった、では済ませられない。

 これは一体、何の悪い冗談だ、と。


 前々から、変化に富んだ世界線だと思っていた。俺の知らない世界の差異が、いやに多いと感じてはいた。

 だが、これではもう全てが未知の世界線だ。まさかここまでバタフライエフェクトの影響が色濃く現れるとは思わなかった。

 ああ、完全に計算外だよ。俺の想像を、斜め上で越えて来ている。

 まるで、今まで俺がやってきた事をあざ笑うかのように。あらゆる世界を彷徨い生きた俺の力が、無意味だと踏みにじるかのように。


 だから。運命に否定的である俺が、敢えて仮定する。

 もし、運命が本当にあるのなら。


「二人とも、傘を貸してくれたお礼におごるよ。何でも言って」

「ええっ? いや、でも悪いですよ。ねえ夕平……」

「あ、いいんすか!? じゃあ俺このジャンボパフェで!!」

「こら夕平!」

「あはは。桧作くんは素直だね。いいよ、幸いお金は持ってるから自分の財布だと思って食べるといい。ほら、立花ちゃんも遠慮せずに」

「す、すいません。じゃあホットコーヒーで……」


 俺をこんな状況に陥れた運命を、俺は恨む。


「……拓二、さん?」


 いつの間にか、また俺の隣に座り直しているいのりの言葉に、俺は応えない。


 ここでいのりを責めるのは簡単だ。こいつは、知らないとはいえ間違いなく余計な事をしてくれた。暁の寿命は、明らかに前回より縮んでいるのだから。

 一方で、俺の準備はまだ何も出来てない。桜季をどうにかするだけの力を、俺は持っていない。

 ……時間が、足りない。


「…………」


 ほんの数秒だけ目を閉じる。意識的に、口内に空気を含ませた。

 何か、打つ手はないか……?


「なあ、相川よう」

「……あん?」


 そんな考え事が、内心で渦巻いていた時だった。

 ふと夕平が俺の名前を呼んだかと思うと、いのりの方を指差して言った。


「あんさあ、その子は誰なんだ? こっちの千夜川先輩の知り合いみたいだけど」

「こら夕平、女の子に指差すな!」

「いえ、お構いなく」


 そんな夕平を窘める暁と、軽く手を振って気にしてないと振る舞ういのり。


「ああ、そうなあ……」


 そう言えば、二人はこれがいのりと初対面か。

 さて、どう言ったもんか……。



『私は、「彼女」と貴方に、似たものを感じました』



 ……もし本当に、桜季もムゲンループの住人である場合、俺達三人のこと、そして『前の事件』の事も覚えていることになる。

 だが、今回俺と桜季は初めて会うという体でここにいる。俺がムゲンループの住人であることには、いくらあの桜季でも気づいてはいないはずだ。


 確かにタイムリミットは削られた。だが、まだここで俺が迂闊なことさえ言わなければ、今すぐの脅威という事にはならない。

 平常心、平常心だ。

 とにかく、今大事なことは。桜季に余計な事を気取られないように、適当に会話を続けることだ。


「ええっと、こいつは柳月祈。中学三年生、で……」

「で?」

「で?」

「で、だな……」



 ……で、どうしよう?



 よく考えたら、他には同じムゲンループの住人ってこと以外、俺もこいつの事を知らないんだが。もちろん、こんな事口が裂けても言えないし。

 俺もいのりとはこいつらと大差ない付き合いだ。むしろ桜季の方が俺よりも付き合い長いんじゃないか。

 かといってあまり親しくないことを正直に話せば、じゃあどうして二人で、ということになる。誤魔化すにしても、苦しい言い方になる。


 あ、あかん。終わった、ミスった。突然の桜季との対面に頭を回し過ぎて、何も考えてない。


「相川?」

「え、えーっと、だな……」

「……?」


 頭が真っ白になっていく。これが俗に言う『テンパる』ってヤツか。 

 桜季の事、暁の事……三週目での出来事が、ぐるぐると思考を妨げる。

 怪しまれないように、怪しまれないようにと思うと、どんどん何も言えなくなっていく。一緒に、視界が狭まる感覚さえしていた。


 もうだめか、と思われたその時。


「もう、拓二さんたら。私も子供じゃないんですから、自己紹介くらい一人で出来ますよ?」

「い、いのり?」


 ここでいのりが俺に声をかけてくれた。驚いて、彼女に目をやる。

 これは、こいつなりのフォローなのか? 俺を助けるなんて、一体どういう風の吹き回しで……。


 いや、だが確かに、こいつが桜季を呼び出したのも、桜季がループを知ってるかどうかを確かめるためだ。変な真似は出来ないという意識においては、俺の思考とほぼ同じ位置にいるはず。

 もしここで俺が不審な真似をすれば、いのりにとっても困る、という事か。


「ご紹介に預かりました。柳月祈と申します。お初にお目にかかります、桧作先輩、立花先輩」


 そう挨拶して、ぺこりと二人に頭を下げる。

 当の彼らは、その馬鹿丁寧さに若干呆気にとられた顔をしていた。


「お、おう……初対面で俺の名前ちゃんと呼んでくれる子初めてだ」

「ふはぁ……礼儀正しいんだねぇ」

「恐縮です」


 と、そこで桜季が三人に合いの手を入れる。


「柳月ちゃんはね、清上学園せいじょうがくえんの中学生徒会長なんだよ。で、私はその高校生徒会長」

「えっ、あの清上? 凄い!」


 暁が、一際大きな声を上げた。

 というのも無理はない。

 清上学園といえば、このあたりで最も偏差値の高い有名進学校の事を指す。その入試の難易度から、塾・他校の関係者からは竜でさえ登れない登竜門とまで言われていて、東大合格者も毎年多数輩出し、マスコミを介した世間への露出も少なくない。

 曰く、そこの生徒は将来多岐方面での活躍が約束されたも同然らしい。

 さらに巷では、その学校名をもじって『〝聖„上』とまで呼ばれることもあるとかないとか。多分、名付けたヤツは極度の中二病だ。


 当然俺も、いのりがそこの生徒だなんて今初めて知った。まあ、流石とでも言っておこうか。


「セイジョウ……ああ、確か暁、小学生ん時入試受けて落ちたトコだっけ?」


 夕平が幼馴染の記憶を頼りに、会話に混じった。


「うん……すごく難しくて、問題の意味も分からなかったよ」

「そうなの? 残念だったね」

「いえ、まあ記念受験みたいなものだったんで……」

「そっか。じゃあ知ってると思うけど、あそこ一貫校だからね、柳月ちゃんとは何度か生徒会の仕事を一緒にすることがあるんだよ」

「んじゃあ、今ここにそのセイジョウってとこのツートップが並んでんのか。なんかすげえな」

「そんな大層なものじゃありませんよ。先生に頼まれたのでやってるだけですから」

「私も同じくー。しかも柳月ちゃんたら、生徒会長就任の時に『担任教諭の督促により仕方なく務めさせていただきます』なんて馬鹿正直に言っちゃったもんだから、大騒ぎだったっけ」


 そしてこの典型的な天才肌特有の空気の読めなさである。夕平も暁も目を丸くしてやがら。 

 まあ俺はもう驚きもしないがな。


「え、えーっと、いつから相川とは仲良くなったんだ?」

「はい。拓二さんは、私が以前から一方的に存じていて――――」


 そのまま会話に興じる四人を見て、俺は一人、こっそりと安堵の息をこぼしていた。


 何はともあれ、助かった、みたいだ。いのりのおかげで、何とか追及を逃れることが出来た。

 いのりなら、ムゲンループのことははぐらかして慎重に話を運んでいくだろう。桜季に関しては、まだ可能性の域を出ない以上、流石に俺と顔を合わした時のようなことをするメリットはないはずだし。

 ここは、素直に恩に着ることにするか。痒い所に手が届くというか、俺の意を汲んでくれるというか。やはり利用する分には使えるヤツだ。

 安心しきり、グラスの水をついと口に含む。彼らの会話を傍聴していた。



「あとは……私、この度拓二さんの彼女になりました。なので、拓二さんのお友達の方ならなおのこと、今後ともよろしくお願いします」



 瞬間、喉を通りかけたお冷がむせた。


 前言撤回。天才肌……こいつ、やりやがった。

 見直しかけた俺の気持ちを返せ。


「ええぇぇっ! そうなの!?」

「ま、マジかよ!」

「へぇ……」


 それまで逸れていた注意が、一気に俺に向く。

 一人を除いて実にオーソドックスな驚き方をありがとう、なんて言う余裕、あるわけねえだろ。


「ちょっ、いのりお前……! ち、違うんだって二人とも」

「いのり……って、名前呼びじゃん! 何ちゃっかりこんな女の子モノにしてんだよ!」

「い、いつからいつから!? ねえねえいつから付き合ってるのねえねえ!?」


 特に暁が、文字通り身を乗り出してまで詰め寄ってくる。謎の圧力さえ感じられた。お前、そんな野次馬根性強かったっけ?


「中学生……年下……うらやまっ、じゃなくてお前、やることやったら犯罪なんだぞ!」

「んなことするかっ!」

「そうだよ夕平! 世の中の中高生がアンタみたいなエロ魔人ってわけじゃないんだから! 全国の中高生カップルに謝れ!」

「お前もお前でどこに熱入ってんだ!?」


 状況は悪化の一途を辿っている。

 なにより腹が立つのは、その元凶が何食わぬ顔でホットミルクを呷ってやがるということだ。


「仲良いのね、三人って」


 そして、それを微笑ましそうに眺める桜季。

 ……過去には、こいつも俺達の面子の中の一人だったのだが。その笑みからは、彼女の内心が計り知れない。


「とにかく、今のはこいつのただの妄言だっての! よりによってこんなヤツ――――」


 それより今は、桜季うんぬん関係なしに急いで弁解せねば――――。


 ……いや、待て。


「……黙ってようかと思ってたが、仕方ないな」

「相川?」


 これは、ひょっとして……使えるかもしれない。


「実はな……こいつが俺を彼氏とか言ってんのは、要は刷り込みなんだ」

「……刷り込み?」

「そう。ガチョウの雛は卵から孵って初めて見た物を追いかける、ってあるだろ? あれだよ」


 ポンとその頭に手を乗せて、がしがしと撫で付けてやる。


「こいつかなり変な奴で、今まで彼氏どころか友達もろくにいなかったせいか、人との接し方がてんで分かってないみたいでさ。んで、なんやかんやで唯一知り合って仲良くなった男の俺を彼氏だとか言ってるらしいんだよ。ま、そう思い込んでんだな。恋に恋するお年頃なんだろ、多分」


 もちろん、全部俺が今考えた設定だ。隣のいのりが物言いたげにこっちを見てる気がするが、こいつを見る限りあながち間違ったことは言ってないと思う。友達とかいなさそうだし。


「い、いくらなんでもそんなことあるかあ?」

「あるからこうなってんだよ。それとも、他に理由があると思うか? この俺に?」

「……おお、なるほど」


 納得されてしまうとそれはそれでムカつくなこの野郎。


「ううん、そんなことないと思うよ。相川くんだし」

「そうだね。キミは一般的にモテる顔立ちだと思うよ、私も」


 姦しい女子二人がフォローのためか口を開く。暁はともかく、桜季にお世辞を掛けてもらえたところで嬉しくはないがな。


「ま、とにかく。こんなやつだから俺だけの手には余る。――――ってなわけで、夕平に暁、あと『千夜川さん』も、良かったらこいつと仲良くしてやってくれ」


 そう言った瞬間、いのりのまぶたが数回瞬いたのを見た。

 どうやらここまで言って、俺の意図に気付いたみたいだった。


「それは全然いいよー。よろしくね、柳月さん」

「ああ、いいぜ。お前のたってのお願いだし。なあ彼氏さん?」

「うっせ、それはもうやめろ」


 案の定、夕平と暁のその言葉にはなんの躊躇もない。まさに二つ返事だ。

 初めて、俺に声をかけたきた時のように。

 ……何時の世界でも、変に気の良い奴らだ。


 ただ、今度はこの二人が狙いではない。

 今一番目的にするべき人物へと、目を向けた。


「……うん、そうだね。今まではあまり親しい関係とは言えなかったけれど、柳月ちゃんの事は個人的に興味もあったし、友達となるのも一興かな?」


 桜季はそう言って、いのりに向けて笑いかける。ありがとうございます、と言っていのりは三人に頭を下げた。


 俺は内心でガッツポーズを作った。


 そう、桜季の存在が異端なら、こっちも異端いのりをぶつけてやればいい。


 もし仮に、桜季がムゲンループの住人であり、かつ『三週目』を知っているのであれば、当事者の俺があまりにも目立つ動きをすれば、真っ先に疑われるはずだ。今はまだ、俺もムゲンループの住人であることを勘付かれるのは危険すぎる。

 。無知蒙昧で愚かだった、あの時の俺を。

 だから、俺は桜季を追及しない。追及出来ない。俺が出来ないその役目を、いのりに任せてみようと思う。こいつなら、俺の代わりを果たせるだけの頭脳がある。いや、いのりだからこそ、俺や桜季の知らない事が出来るかもしれない。

 だから、近付ける機会を作ってやった。この俺の考えを、いのりは汲み取ったはずだ。


 だがそれでも、いつまでも騙せるものではないだろう。

 いつか、俺は桜季と争う。そう遠くない将来、その決着には、どちらかの血が流れることになる。

 最後、どちらかが地に伏し、どちらかがそれを見下ろす、血で血を洗う地獄のような闘いが。その惨状は、あの『三週目』以上に間違いないはずだ。


 その寸前まで桜季に気付かれなければ儲けものだろう。波乱の多いこの世界で、一体この選択がどう転ぶかは、俺でさえ分からない。


 想定外を想定しろ。ここからは一度の弛みも甘さも許されない。今はもう、そんな時期に突入している。

 そう、考え方を変えてやればいい。この出会いは、必ずしもそう悲観するものでもない。デメリットがあれば、メリットもある。


 ここで桜季だけじゃなく夕平や暁と合流したのは、いのりが彼ら二人と出会ったのは、何かがあるように感じる。

 ここでこいつら三人をこれっきりにしてしまうのは、多分間違いだ。


 これまでずっと、俺は多くの選択肢の先を見て、カシコイ生き方をしてきた。こんな博打打ちのようなやり方は、ずっと昔に止めたことだった。ミスったら切り捨てて、またやり直してきた。

 だが、この世界は、それがもう出来ない。桜季は、二度もそんなチャンスを与えてはくれないだろう。

 やり直しが利かない。それは、本来のこの世界の理だった。日常の感覚の麻痺した俺にとって、これが最初で最後に許された、一度だけの鉄火場だ。


 俺は今まで、運命というものを信じてこなかった。

 やり直しというのは、言ってしまえば運命を変えることと相違ない。ムゲンループに、運命という絶対不可侵の二文字は意味を為さない。俺は恒常的に、運命とやらを切り開いてきた。


 だから。運命に否定的である俺が、敢えて仮定する。

 もし、運命が本当にあるのなら。


「よおし、じゃあ今日からいのりちゃんも千夜川先輩も、俺の友達ってことで!」

「もう夕平、さっそくいのりちゃんなんて言って……ごめんね、勝手に。えっと、私もそう呼んでもいい、かな? 馴れ馴れしい?」

「……いえ。驚きましたが、嬉しいです。本当に。ではぜひ、その呼び方で」

「驚いてるように見えないけどね。それに……ふふっ、ちゃっかり私も加わっちゃってるし。面白い子だね、桧作くんは」

「そーだ、メアド交換しようぜ! メアドー!」


 俺をこんな状況に陥れた運命を、俺は笑い飛ばしてやる。



◆◆◆



「よお、お疲れさん」


 とっぷりと夜は更けて、俺といのりは夕平達と別れた後、そのファミレスの駐車場で佇んでいた。そのそばに、車が一台停車した。

 もう雨が上がり、いくつもの星が瞬いている夜空に溶け込んでいる色合いの車から、俺達を迎えに来た細波が声をかけてきた。仕事終わりなのか、ジーンズにロンTというラフな出で立ちで、その窓から俺達に向けて半身を出した。


「ムゲンループの話し合いってのは進んだのか?」

「ええ。これからのこと、やるべきことが少しずつですが見えてきました」


 いのりが、ちらりと俺の方に視線を向けた。


「それも、拓二さんの助力あってのものです」

「へぇ、出来る男だねえ『拓二さん』は?」


 何か言いたげに、にやにやと笑う細波。大方、いのりの俺の呼び方をからかってもじったのだろう。黙ってれば若々しい青年のような顔つきなのに、一気に大人の下衆っぽい笑みを浮かべている。


「うるさいな。何が言いたいんだよ?」

「愛しの彼女のためか? ええ~おいぃー?」

「俺はそんなのになった気はさらさらないからな」


 そうだ、あくまでいのりは俺の駒に過ぎない。俺達はお互いのために足並みを揃えている……かのようにいのりには思わせてはいるが。

 いのりの事だ、俺の言葉を全て信用するとは思えない。だが、もう滅多なことで俺を怒らせようとはしないはずだし、俺というムゲンループの先住者じゅうようさんこうにんを手放すはずがない。なぜなら、俺の協力こそが彼女の唯一の手がかりなのだから。


 そして俺にとっても、いのりは桜季攻略の糸口だ。疑われにくいいのりが、桜季の動向を探ってもらい、いざという時はいのりにも二人のために動いてもらう。そのために、桜季含め夕平と暁とも交友を広げてやったのだ。

 


 でもいのりなら、俺の代わりもきっと務まる。今日で確信した。

 彼女の協力は、たった今から俺にとって大きな価値を作り出した。それは、いのり自身の資質の賜物であるし、そこだけは俺も目に留めている点だ。

 それを踏まえて、俺は答える。


「俺といのりは、支え合うべき同じ世界の住人だ。それ以上でも以下でもねえよ」

「はいはい。冗談だよ。そんな目しなくてもいいだろうに」


 細波が大げさな手振りで肩を竦めさせた。


「まあいいや、立ち話もあれだし家の近くまで送るぜ。中入りな」

「ええ、そうですね。では……」

「いや、細波さんはいのりだけ送ってやってくれ。俺はいい」


 俺の申し出に、いのりと細波が振り返る。


「どうした? 今更遠慮のつもりかよ?」

「拓二さん?」

「用があるんだ。先に帰っといてくれ。俺は電車でも乗って帰るから」

「え、ですが……」

「いいから」


 困惑気味のいのりを無理やり押し入れて、ドアを閉めてやる。


「じゃあまた今度。細波さん、出していいぞ」

「あ、ああ」


 細波が窓を閉め、エンジンを吹かす。

 走り始めた車の窓から、一瞬、いのりの顔が覗いた。無表情ながらも、じいっと、俺を見ていた。口元が何かを言いたげに少しだけ動いたように見えたのは、気のせいだろう。


「……はあ、やれやれ」

「私に気付いてたんだ?」


 二人を乗せた車を見送ってすぐ、声が掛けられた。


 唐突ながら、しかしそれでも夢の中から囁かれているかのように柔らかな語調だった。


 気付くと、その声のした先に、当然のごとく『彼女』は立っていた。その腰まで伸びた黒髪が、夜風に吹かれてしなやかに流れる。髪の一本一本がぶつかり合って粒子でも生んでいるのかと思わんばかりに、その様は綺麗だと感じた。

 十歩分くらい離れた距離で、お互いがお互いを真正面に捉える。店内から漏れ出る光のおかげで、場の薄暗さが和らぐ。俺達のどちらも、相手の顔を視認出来るぎりぎりの位置にいた。


「……いるかな、とは思ってた。アンタは俺に、話がありそうだったから」

「鋭いね。流石、柳月ちゃんが認めただけはある」

「それは、あの恋人とかってやつか? 言っとくけど、俺は本当にそんなんじゃ――――」

「いや、そっちじゃないよ。あの彼女が人の言うことに従う程の素質が、キミにはあるんだろう、ってこと。。ああ、誤魔化さなくてもいいよ。全部分かってるから」


 何の気なしに。

 本当に、何の気なしに目の前の女――――桜季はそう告げた。


 俺達の目論見を、既に見抜いていると。

 いのりを桜季に近づけようとしている魂胆が、桜季にはもうばれている。


「少し眉が下がった。ってことは、やっぱり図星ってところかな」

「……随分、夜目が利くんだな」

「普段は本の虫だけれど、不思議と目は良い方なんだよ。スポーツの時にもちょっとした特技として重宝しててね。例えば――――」


 話を続けながら、ある方向を指差した。

 そして文字通り、『指摘』する。



「その右足、ほんの少し引けてるし、腰をかすかに落としてる。足技……カポエイラかな? 随分変わった技の心得があるんだね」

「っ!」

「目が見開いた。また図星だね」


 嘘だろ、おい。

 いざという時に構えていた足蹴りまで見透かしやがった。こんなことまで出来たのか?


「私は、小さい頃からこうだったんだ」


 静かな憔悴に駆られている俺に向けて、ぽつりと呟くように語りかけてくる。


「他の人間が考えてる事が分かる。他の人間がやろうとする事が理解できる。世界中の人間が、私以下なんだ。『所詮同じ人間のする事だから』って、他の人間が考えてる事なら、他の人間が出来る事なら私にも出来ると思って生きてきたの。……いや、そんなこと、思ってさえいないかもしれない。タンチョウの雄と雌が誰からも教わることなく、対となって求愛のダンスをすることが出来るように、。……でも、キミ達はそうじゃないんだろうね」

「……ああ。いくらお前自身の事を話されても、俺には何も分からないし、響かないぜ」

「そっか……柳月ちゃんと同じ事を言うんだね。柳月ちゃんとキミなら、この感覚も分かってくれるかもと思ってたのに、残念。特にキミは、少し私に似てる気がしたんだけど……」


 似たようなことを、いのりも言っていた。俺と桜季が、似ていると。


 だがやっぱり、違うな。俺は、こいつとは違う。


 こいつは誰もが味わう挫折を経験したことがないし、ムゲンループの住人である俺でさえ抱える紆余曲折を、知識として知ってるだけで理解しないのだ。

 人として有り余る才能が、逆に人としての不自然を生んでいる。


「……冗談。アンタみたいに何でも出来る化物はアンタ一人で十分だ」


 ……もうこいつに、ムゲンループなんて必要ない。

 


 こいつは、かつて俺が目指した存在に限りなく近かった。

 何も失敗しないし、何も間違えたりしない。彼女がどんな邪道外道を通ろうと、世界はそれを祝福し続ける。やること全てが、結局正しい道になる。

 そんな存在。


「化物っていうのは酷いな。私も人間だしね、きっと出来ない事の一つや二つはあるよ」


 だが、諦めるかのように、完璧を嘆くかのように。

 自身の粗を自ら欲しているかのように、そんな事をのたまう彼女を見て、思う。


 こいつは、狂っていると。

 何もかもを持ち合わせているせいで、人間としての欠点が無いせいで、人間としての何かを無くしているのだと。


「……ああ、そうだな」

「え?」


 だから。

 だから俺は、こう言ってやる。



「絶対に、アンタにも出来ない事はある。賭けてもいい。……出来ない事があるってことを、俺がアンタに見せてやるよ」



 宣戦布告。

 俺はそう遠くない未来、千夜川桜季ぜんちぜんのうを超える、と。今ここで、本人を前にそう誓う。


 暗幕のような沈黙が、降りた。それを引っ掻くように、断続的に車が車道を走る音が響く。


「……ぷっ、ふふ。あははっ……!」


 一体どれくらいの時間が経ったのだろう。

 やがて、桜季が笑った。本当に、心底可笑しそうに。


「あはははは……ふう。ごめんね、冗談だよ、冗談。あんまり真剣だから変なこと言っちゃった。気にないで忘れて、ね?」


 くるり、と俺に背中を見せるように踵を返し、手を振った。

 その顔は、小さく笑んでいたと思う。


「……でも……もし私の限界をキミが見せてくれるというんなら、私はそれを信じてみようかな?」


 その言葉を最後に、桜季は歩みを進め、俺の視界から姿を消した。


 不気味なまでの余韻の中に、俺だけがずっと、一人そこに立ち留まり続けていた。

 まるで、世界にたった一人取り残されたかのような静けさの下。ガラスの塵芥を散りばめたかのようだった星空は、何時しか雲に隠れて見えなくなってしまっていた。




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