第七話:打算

 ――――フライパンを大きく揺らす。


 小気味の良い音を立てて、卵の絡まった米がぱらぱらと宙を踊った。砂漠の流砂のようないい光沢具合だ。しゃもじでさっとかき回し、ネギ、塩を適当に振ってもう一度フライパンの上を跳ねさせる。


 強い熱気が頬をくすぐった。

 そして前もって切り刻んだベーコンを投入して万遍なく炒め付けていく。

 ここで弱火にはしない。

 香り付けのための醤油を垂らし、中火くらいで数秒焼く。いわゆる醤油焼きという奴だ。あまりチャーハンにするようなことじゃないが、なんとなく。店開くわけじゃなし、風味付けなんて深く考えない。適当で十分だ。


 皿に盛り付け、少量のパセリを乗せて、完成。


 ごくごく普通の、一般家庭的な昼食――――チャーハンである。



「よし……っと」

「拓二ー」

「うん? ああ、おはよう。母さん」


 そんなある昼下がりのこと。

 後ろから、母さんが俺を呼んだ。


 いつもは仕事で滅多に家にいない彼女は、たまの休みでは今日のように家に引きこもっている。

 人生の多くの時間が仕事で忙殺されている分、家では見事に堕落しきった私生活を送っているのだ。


 例えば、今みたく新聞片手にネグリジェ姿で家中を闊歩するのなんて、日常茶飯事だ。


「またそんな裸族みたいな格好しやがって……」

「だって、疲れてんだもん。家の中でまで気張りたくないし。……アンタも今のうちによーく見ときなさい。会社ウチの馬鹿どもが見たくても見れない私のサービス姿よん?」


 生憎俺にそんな性癖が無い以上、実の母親としまのサービスショットなんざ、金を貰っても見たかない。


「服を着ろ。目に毒だ」

「実の母親を毒とか言う? 普通に傷つくんですけど」


 そう言いながら、あまり堪えてないかのような眠そうな口調だった。もう十二時を回っているというのに、寝ぼけ眼を擦っている。


 会社の女社長といえば聞こえはいいが、小さなところ故、会社は常に火の車。家計も共働きだからこそ人並みの家庭より少し上といったぐらいで、金持ちというほどでは到底ない。

 そしてこの母親、家の一切合切を俺に任せているせいで、俺がいないとこの家の家事を全般的に滞らせてしまう、生粋の仕事人間なのだ。


 それは親としてどうなんだという話ではあるが、逆に言うと俺も好き放題やらせてもらえたりもしているし、お互い様だ。

 いつか、色んな外国に行ったという話をしたと思う。あの話に付け加えると、あれは決してどの世界の時でも、旅行のように行って帰って来たというものじゃない。海を渡ってから、次の『四月一日』になるまで家に帰らなかったこともある。

 ほとんど留学という形で、学校も勝手に休学にしていたその時でさえ、何とも言われなかった。


 両親二人とも、『生活さえ出来れば何をしようがそいつの勝手』を地で行っており、あまり俺に干渉しようとしない。家族というよりも、ハウスシェアをしている同居人と言った方が近いのだろう。


 例えば、俺の初めての運動会の時も、来てくれはしたが仕事の商談に行くついでだったようで、昼飯分の金を渡してさっさと去って行ったし、それっきり運動会を見に来たことは無かった。家族三人水入らずで旅行なんてことも、俺が五歳になった頃にはしなくなっていった。


 冷めきった関係と言われればそれまでだが、俺はこの関係に満足している。

 学費やらなんやら最低限のことはしてくれる甲斐性はあるし、もともと俺もテレビでよく取り上げられるような親の過干渉を嫌う性格だった。

 加えて、ムゲンループを満喫するのには都合がいい。


 親子仲も決して悪くは無い。

 もはやこの家の暗黙の了解となっている以上、親二人もそれでいいと思っているということだろう。それ以上の事は気にしない。


「親ならもうちょい子供に良いところ見せてから言ってくれよ」

「えー。こんなにもアンタのために毎日毎日身を粉にして働いてるってのに、お母さん悲しいわー」

「……はあ」


 親と会話するというより、自分の娘と話しているような気分だ。娘いないけど。

 というか、精神年齢的にも親と子くらいの年の差はあるんだった。ならこの感覚も、あながち間違いじゃないのかもしれない。


「でね、アンタにお客さん。外にいるよ」


 実にどうでもよさそうな様子で、ぼりぼりと頭を掻いている。台所でフケを飛ばすなというに。


「おいおい、それを早く言えよ。むやみに人を待たせるもんじゃない」

「はぁーい。ちぃー、うっせえな……」

「殴るぞ」


 きゃーこわーい、とかなんとか言って、二階へと昇って行ってしまった。誰が来たのかさえ言わず。

 また寝室で、惰眠をむさぼる気だろう。


「はあ……」


 休日の昼間から、変に疲れてきた。

 皿に盛ったチャーハンをラップに手早く包み、冷蔵庫に放り込んだ。仕方ない、客人とやらが先だ。


 やがて、待ちきれなくなったのか、俺を急かすような呼び鈴が家の中に響いた。


「はいはい、どちらさんで……っと」


 外に向かって、玄関のドアを開ける。

 俺のお客様は二人だった。


「――――……げっ」


 それを見て、思わず、変な声が出てしまった。

 ひくひくと、口端が吊り上がっていくのが抑えられない。


 一人は、何故か顔を赤らめて鼻を押さえている若い青年。見知らぬ男だ。嬉しさ半分、気まずさ半分と言った顔。

 ……ああ、そうか。母さん、ネグリジェ姿だったしな。いつぞやの時も、そのまま外に出て配達員の兄ちゃんに騒がれてたし。


「拓二さん。こんにちは」


 現実逃避のようにそんなどうでもいいことを考えていると、もう一人がケロッとした澄まし顔で俺に声をかけてきた。


 問題はこいつだ。


 ああ、くそう。

 居留守すればよかった。いやだが、母さんが既に応対してるし、こいつならすぐに分かるか。


 俺の一番の頭痛の種。


 出来れば会いたくもない、忘れたくても忘れられない。この世界で一番タチの悪い少女。


 いのりが、俺の家を訪問していた。

 ……今日の俺の気苦労は、これからだったらしい。



◆◆◆



「……まあ、ムゲンループについての話し合いをしにきたってのは分かった」


 昼食時なのもあって、なかなか盛況な感じでスタッフが慌しいファミレス。


 俺は連れ添いらしい男と向かい合うように座っていて、そして何故か隣にいのりが腰かけている。何だこの状況。


「んで、なんでここで?」


 気付けば男のものらしいセダンの車に乗って、近くのファミレスにまで連れてこられていた。

 車の中で、男の名前が細波享介ということ、探偵をしていることだけ聞いた。


 情報量として、あまりにも少ないかもしれない。 というのも、細波は根がお喋りらしく、やれどこどこの生まれだとか、どうして探偵をしているのかなど無駄なゴミ情報ばかり喋っていたからだ。

 一応、滑り込ませるように俺も自分の名前は告げたが、いのりは人形のようにだんまりを決め込むしで、後はずっと細波の声が車内に響いていた。


 つまり結局、元々ここで話し合うつもりだったのか、込み入った話は一切していなかったのだ。


「ああ、それはいのりちゃんの提案な。俺なら職業柄、もっとこじゃれた感じのカフェとか案内出来たんだけど。どうしてもって」

「ええ。拓二さん、お腹空いてるだろうなあって。私が拓二さんの分も払いますので、遠慮なくどうぞ」


 思えば、いのりと会話するのはあの日以来か。一週間ちょっと前ということになる。

 というか年下のガキにおごられるとか、俺どんだけ甲斐性なしに見られてんだよ。ちゃんと自分の分は払えるわ。


「ええー……いのりちゃん、理由そんだけ?」

「? はい。そうですけど、細波さん。他に何が?」

「あーっと……色々ツッコみどころしかねえんだけど、いいか?」


 俺が口を開くと、いのりがさっと俺に視線を向けた。何なんだ……。


「まず、ムゲンループの話し合いをするのに、こんな場所でやるのか? 細波さんの言う通り、もっと人のいない所でやりたかったんだがな」

「そういえば、拓二さんはこの世界……事象をムゲンループと呼んでいるのですね。なら私もそれにあやかることにします」

「あと、それな。『拓二さん』ってなんだお前。気色悪いわ」

「お、おい」


 慌てた風に細波が声を上げる。口が過ぎると言いたげだ。

 まあ確かに俺自身、いのりに対しては歳相応というか、歳不相応というか。これじゃ拗ねた子供と変わらないかもしれないな。


「第一に、ムゲンループの話は誰に聞かれようが全く問題ありません。どこでもいいんです。聞かれたところで、せいぜいゲームの話か気の狂った人くらいしか思いませんよ」


 当のいのりは全く気にしたそぶりも見せず、あっさりと言ってのける。


「お前がどう思われようが知ったこっちゃないが、それに俺を巻き込むなよ」

「そして拓二さんの呼び方ですが」


 無視かよ。


「これは簡単な事です。私が拓二さんのことをそう呼びたいからです」

「…………」

「…………」

「拓二先輩、の方がよろしかったでしょうか?」


 俺も、そして喋り好きな細波まで、これには閉口してしまう。

 いのりは初々しく照れもしなければ、声もどもらない。まるで自然体。こんなのに好意があると言われても、信じる馬鹿はいないだろう。

 大方、恋人という建前があった方がこの先共に行動しやすいといったところだろうが。


「お前それ本気……なんだろうな。お前はそんな意味のない嘘は吐かないヤツだ」

「会って日の浅いはずの私に、流石のご慧眼です」


 こいつ俺をおちょくってんのか? 


「会ってまだ二回目だから、疑いたくもなるんだけどな……」

「会って二回目、とおっしゃいますが、私はずっと前から拓二さんの事を見てました」

「あー、そういやそうだったな。確か一か月前からストーカーしてたとかなんとかだっけ」

「……なんちゅう会話してんだ、お前ら」


 細波が呆れたように俺達を見ていた。


「とりあえず、ご飯にしましょう。ささ、どうぞ」


 何か気取った風にメニューにいのりが手を差し出した。

 指ばってんもそうだが、なにかしらのポーズをとるのが癖なのか?


 とりあえず俺は目に付いたペペロンチーノとフォッカチオ、細波はステーキセット、いのりは俺と同じペペロンチーノを頼んだ。お冷が渡されて、ウェイトレスは慌ただしそうにして戻って行った。


「細波さん、アンタはムゲンループの住人なんですか? まあ多分違うんだろうけど」


 もし仮に細波がムゲンループの住人なら、俺を脅してまで接触を試みようとはしない。もっと慎重に付け入ろうとするはずだ。

 振り返ってみると、あの日の事は、いのりにとってもかなり一杯一杯の行動だったんじゃないだろうか。協力を取り付けるために手段を問わないところとか。


 要はいのりがセリオの会話を聞いていたというのが、そのためのブラフだったのではないか、と俺は睨んでいる。あくまで俺の想像だが。そもそも、セリオ程の人間が会話の内容を聞かれる距離にいる人間を見過ごすなんてヘマ、するはずがないし。


「ああ、俺は――――……」

「ええ。その通り、細波さんはただムゲンループを知っているだけの一般人です。一年経てば私達の事を全て忘れるでしょう」

「うわー、なんか俺さびしーこと言われてるー」

「……私も、どうなるか分かりませんから。果たしてまだもう一年、あるのかどうか」

「そうなのか」


 別にいのりが記憶を無くそうがどうでもいいが、何やら少し確信めいた口調だったから訊いてみる。

 もしかしたらこいつは、俺以上に何か知ってるのかもしれない。


「前にも申しましたが、私はあくまでムゲンループに巻き込まれた存在だと思っています」

「言ってたな。何でだ?」

「拓二さんがいらっしゃるからです」


 また俺か。いい加減くどいぞ。

 ……いや、だがそう間違った事は言ってないかもしれない。


「でもまあ、そうだな……少なくとも俺はお前よりこのループに住んで長い。お前は偶然ムゲンループに取り込まれたって言った方が納得できる」

「その通りです。理屈もプロセスも全て不明瞭ですが。そうすると、今こうして私がムゲンループの事を認識出来る時間も、限られている可能性が高いです。……拓二さんとは違って」

「…………」

「そして――――」

「果たして自分がもう何年もループが出来るか怪しいから、でまかせでもいいから俺を脅して利用しようとしていた?」


 いのりの言葉を遮るようにして、そう言ってやった。

 これにはいのりも驚いたように、わずかに目を見開いた。やっぱり、そうだったか。

 思えば、初めて表情に変化を見せたな。俺はもうこいつはロボットか何かなのかと思い始めていたところだ。


「でまかせじゃないってんなら言ってみろ。あいつが言った言葉、今すぐ反芻してみせろよ。俺に遠慮はいらない。出来るんだろ?」

「…………」

「……なあ、打算はもう止めようぜ。気付かれないとでも思ってたか? 馬鹿か、お前は俺を舐めすぎだ。ちっと考えれば、お前の浅知恵はお見通しなんだよ」

「な、なにこんな女の子にムキになってんだ相川くん、少し――――」

「黙ってろ青二才が」


 人睨み利かせると、細波がすぐに口をつぐんだ。


 ……なるほど。なるほどなるほど。

 どうやら色々分かってきた。

 何故、俺がこいつを見る度に、妙にイラつくというか、胸の中がざわつくのか。

 確かにこいつは、いわゆる天才肌と呼ばれる奴だろう。頭の回転は早く、自分の中で決めたことを成し遂げる達成力みたいなものもある。わずか数年で俺を見つけるという能力があったからこそ、一度間違いなく俺を出し抜けたとも言える。そこは認める。

 だが、所詮それまでだ。こいつにそれ以上の手は無い。だからこそ、ムゲンループの住人である俺だけが頼りなのだと思う。ムゲンループの脱出のために出来ることが、他に無い。

 俺しか他に、アテになる人間がいのりにはいないのだ。


「じゃあ俺も前に言ったな。お前が何回この一年を繰り返したのかって訊いてきた時、いちいち数えてないから分からない、みたいな事を」

「……はい。存じ上げています」


 だというのにそのいのりは、上から目線で俺を見定め、自分の掌で踊らせようとしている。

 既に俺をムゲンループの脱出のための駒として概算し、自分の立場もわきまえずに自分を俺より上に置いた気になって、利用しようとする魂胆を隠そうともしない。

 いのりはハナから公平な取引をしようとしていない。足元を掬ってアンフェアな立ち位置を築こうとしているのだ。

 たかが数年を繰り返した程度のジャリが、この俺を相手に。


 馬鹿にするのも大概にしろ。


「その言葉は本当だ。……少なくとも五十年はこの世界にいるから、本当にもう俺でさえ分からない」

「……っ!」

「ご、ごじゅっ……!?」


 空気が凍る。二人が息を呑むのが分かった。

 どうやらいのりも、本気で二、三十年程度だと思っていたらしい。

 はは、良い顔だ。余裕ぶった顔が剥がれてきたな。それだけで正直に明かした甲斐がある。


「そんな俺でも、ムゲンループは謎だらけだ。何も分かっちゃいない。それでも分かることは、俺がお前よりはるかにここでの生き方に精通してるってことだ。どうやらお前は俺を利用する気でいるみたいだが、言っておいてやる」


 まくし立てるように、続けた。


「俺はお前の人形じゃない。お前がハッタリかましてたのは分かったし、今ここでお前に従う義理は無い。物理的にお前らをどうこうする方法も、俺にはいくらでもある。その事を忘れるな」


 余裕があるのはこいつらじゃない。俺の方だ。

 五十年だぞ? 今まで年数を意識したことは無かったが、いのりの数年間と比べると、切るカードもこちらの方が圧倒的な手数だ。

 そのハンデに気付いてはいるのだろう。だが、それでも敢えて俺をどうこうしようとするとは、あまりにも虫が良すぎる。片腹痛いわ。

 そういう意味では、いのり以上にもっと強かな奴は世界にごまんといた。オンラインチェスと同じだ。相手に駒不足を悟られてなお挑もうとするのは、愚者のやることだ。


 やるならもっと上手に隠せ。建前を出して本音を腹ん中に籠めろ。

 まあ、いくら天才とか言っても所詮、子供か。考えてみれば、いのりと細波、二人の歳を足しても俺には届かないのだ。こういう所の未熟も頷ける。


 今俺がしてるのは脅しのようなアドバイスだ。わざわざ調子に乗るなと言ってるようなもんだから、俺もまだまだ優しいくらいだ。そうだろう?


「……拓二さんのご忠告、痛み入ります。すみませんでした」


 やがて、ぽつりと呟いていのりがぺこりと頭を下げた。神妙な顔つきで、細波は押し黙っていた。


「でも……それでも、私は」

「……だから、俺が見といてやる」

「え?」


 何故かそこで不思議そうに俺を仰ぎ見て、首をかしげる。

 お前が言った事だろうに。怒らせてしまって、もう協力が期待できないとでも思っていたのだろうか。


「なに呆けてんだ。お前は確かに俺より優秀だが、危なっかしい。どうしても経験が足りないのは良く分かった。だから、それを俺が補ってやる。お前はムゲンループの謎を解いて脱出の糸口を探る。俺達は、協力してここから脱出するんだよ」

「…………」

「俺達の立場は上も下もないし、片方が片方を搾取するんじゃない。お前は脱出のために好き放題やれ。そのお前を、俺が助ける。――――それで初めて取引成立だ。分かったか?」


 しばらくの無言。じいっと、いのりが何の表情も浮かべずに俺を見つめている。


「……やっぱり、アナタが『先』でよかった」

「は? 先ってお前――――」


 がばっと、唐突にその身体が持ち上がった。

 女特有の柔らかい匂いが鼻腔を突いた。ほんの少しの重みをもって、しなだれかかられる。


「なっ、おい……!」


 俺は、いのりに抱きしめられていた。


「……分かりました。私、拓二さんがおっしゃるようにします。よろしく、お願いします」


 ヒュゥ、と囃し立てるように細波が口笛を吹いた。


「お待たせしました、お料理の方を……あらあら、仲の良いカップルさんですね」

「お、ウェイトレスの姉ちゃんもそう思うだろ。詳しくは言わないけど、似た者同士なんだ、こいつら」

「細波さん、アンタまで……!」


 こいつ、楽しんでやがる。

 まあ俺が逆の立場でも絶対笑って見てるだろうけどな。


「お客様、よろしかったらカップル専用のジュースをお出ししましょうか?」

「い、いいっすいいっす! ほらお前も離れろや!」

「……むう。分かりました」


 渋々と言った感じで、いのりが身体を離した。何で不満そうなんだか。

 クスクスと笑いながら、ウェイトレスさんも去って行った。


「ま、とにかく、相川くんの言った通りだな。俺達は助け合っていかないと。そうだろ、いのりちゃん」


 話はまとまった、と細波は口を開いた。

 それを受けて、いのりが大きく頷く仕草を見せた。


「ええ、そうですね。そのためにムゲンループについて、そしてこれからの私達の事について話し合いましょう」

「…………」

「みんなが、ここから脱出できるように」

「……ああ、そうだな」


 とうとう、俺達は脱出に向けての本題に入る。

 わけだが。


 まあ生憎、俺はここから脱出する気はこれっぽっちも無い。


 当たり前だろう。ムゲンループ脱出の協力なんざ、冗談じゃない。俺はここで、ずっと楽して暮らしたいんだから。だが、こいつらはそこの所を誤解している。

 俺のやりたい事といのりの言う事が見事に相対することに、こいつらは気付いてない。どうやら、上手い事俺の口車に乗っかってくれた。

 いのりは厄介だ。下手をすると俺の知らない所で脱出の方法を探り当ててしまうかもしれない。


 だから俺は、協力する振りをして、さりげなく誤誘導ミスリードを誘ってやる。最初からそれが目的に過ぎない。


 こいつは最初、俺を利用することを考えていたみたいだが、決してそれは間違いじゃなかった。例えそれが、俺を舐め腐ったやり方だとしても。

 いや、

 対等な関係というのは、常に人を選ばないといけない。いのりにとってすれば、俺は最悪の人選だ。


 俺の申し出を、こいつらはそのまま善心からのものだと捉えてしまった。

 ここからの脱出を願う、同じ境遇の者に対する心情からのものと勘違いした。あるいは、いのりなりの心細さから、俺を信じたい気持ちでもあったのかもしれない。

 だが生憎、ウン十年一人で生きてきた俺にそんな気は全くない。やるなら一人で、とも言いたいが、ムゲンループがそんな融通の利くものじゃないことは既に分かっている。いのりが脱出する時は、俺もまとめて一緒の可能性がある。

 だから、俺はいのりを絶対に脱出させない。


 交渉沙汰に良心や信頼は敵だ。利用しているつもりが、いつの間にか利用されてしまう。

 分かったか、いのり。いや、まだ分からないだろう。

 お前には付け入る隙が多すぎる。だからお前はまだ甘い。



 これが、本物の支配だ。

 これが、経験の差だ。



 しとしと、しとしと、と。

 店の外では、ぶ厚い雲から雨が降り始めていた。

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