第六話:飯
早朝、午前五時三十分。
「はっ……はっ……はっ」
相川拓二の朝は早い。……なんつって。
朝日が登り切ってないからか、まだまだ肌寒い小風が突き抜ける。
噴き出る汗が、途端に冷えていく。冷たさを一身に受けながら、前へ前へと、疲労が溜まり始めた足を駆けさせる。
地面を一層強く蹴り出す。街の景色が、後ろへ流れていっているかのようだ。
「ひぃっ……ひっ……ふぅ……」
これは違うか。なんかやりたくなるんだよな、これ。
この朝の十五キロランニングも、この世界が始まってから続けている日課だ。一日として欠かしたことはないから、まあまあ走れてるんじゃなかろうか。
ムゲンループは、謂わば、前の世界から精神を引き継ぐことが出来る事象だ。記憶、能力、運動神経、覚えている限りの頭の中での働きを、次の世界に持ち込むことが出来る。
だが、逆に言うと、持ち込めるのは精神だけということでもある。
つまり、身体の側面――――筋力・視力・心肺機能といった身体能力は、他の物と一緒に一年が終わる度にリセットされてしまう。例え前の世界でシュワちゃん並にムキムキになっても、四月一日が始まれば無意味になってしまう。そこがムゲンループの欠点だ。
運動神経は鍛えて次に持ち越すことが出来ても、身体が付いてこれないようじゃ意味が無い。要は頭では分かってても、というヤツだ。
特に、小・中学生の時、ろくに運動もしてこなかったモヤシにはなおさらだった。
だから、俺はムゲンループが起こる度にすぐに身体を鍛えている。この世界が始まってからの日課、と言えよう。
実際、最初は鉛のように重く、鈍い動きしか出来なかった身体が、徐々に可動性を増していくのが分かるのは楽しい。短いスパンでどこまでやれるかという、過去の自分とお手軽にタイムアタック出来るのもいい。身体への理解が前の世界より進んでいる分、自己ベスト更新もさほど難しい話ではないしな。
「はっ、はっ……おっと、時間か」
だが、今日はいつもとは違って他にも用事がある。
人が待ってるんだ。こんな朝早く、きっちりこの時間に公園で。
まあ、当人からしたら俺を待ってる気なんてないだろうがな。
「あらあら、もしかして拓二くん?」
まだ人気もないはずの公園に、たくさんの犬の鳴き声が聞こえてきた。
そんな犬達に囲まれている一人の老婦人が、俺に気付いて声をかけてきた。散歩中なのか、服を着た犬を引き連れている。やっぱり、老人は朝が早い。
紹介しよう。彼女はここら一帯でちょっとしたブルジョワマダムで名が通っている、
彼女には、実は俺がムゲンループに巻き込まれる前よりも知り合いというか、ちょっとだけお世話になったことがあったりする。多分、親以外にそんな人はこの人以外いないんじゃないか。
というか、マジで犬多い。十匹はいる。あの人もはや犬の女王みたいになってる。
「ああ、どもっす。いやあ、偶然ですね」
まあ偶然も何も、ここに行けば会えるのは知ってたんだけどな。いつもこの時間にここに散歩に来ているという、以前教えてもらった時の記憶を頼りに、ここに来たってわけだ。
彼女も夕平と同じで、早めに仲良くなっておくと便利なお助けキャラの一人だったりする。
「拓二くん、朝早いのねー。最近の若い子は感心だわー」
手に頬を添え、二コリと微笑みかけてくれた。その上品な笑みからは、富豪の余裕みたいなものが滲み出ている気がする。
「いやいや、それはお互い様でしょ。散歩ですか?」
「そうねー。こんなに多いと、朝早くじゃないと車も通るし危ないでしょう? だからこんな時間になっちゃうのよ」
「はあー……凄いっすもんね、犬の数。昼には連れて行かないんでしたっけ?」
「お昼にお散歩する時は、数匹ずつ連れて行くのを繰り返してるわねえ。それで毎日結構歩いてるから、こんなお婆ちゃんでも足腰には自信があるのよ」
「へえー」
確かに、前にそんな話を聞いたことがあったな。
だから何だって話だが、この人とこんなたわいのない話をするのは好きだ。実質老人同士だとやっぱり話が合うのかもしれない。
白い毛が特徴の一匹が、夫人を急き立てるように一声甲高く鳴いた。
かがみ込み、そいつの頭を撫でてやる。
「犬いいなあ……一匹くれたりしません?」
「そうねえ。拓二くんが大きくなって、一人暮らしし始めたらプレゼントしてもいいわね」
「……本当に? ありがとう」
もう十回は聞いてる返事だった。俺が犬をねだる度、この人はいつもこう返す。
一人暮らしできるほど大きく、なんざ永遠になれないが、素直に嬉しかったりしていた。
「そうだわ、今度うちに遊びにいらっしゃい。この子達とも遊べるし、お夕食だってご馳走するわよ?」
あれ。今回はえらくこのお呼ばれされるのが早かったな。犬をおだてられて気をよくしたのかもしれない。
犬の話題は、今後も好感度上げに使えるな。
「マジで? 行きます行きます。焼肉とかでもいいすか?」
「ええ、もちろん」
「よっしゃ、やりぃ!」
「うふふ、今から私も楽しみだわ」
そんなたわいのないやり取りが、朝日が街並みを照らすようになる時間まで続いた。
……もっとも、大宮さんと仲良くなったところで、夕平達みたくなにか深い意味があるわけじゃないがな。今のところ。
まあでも、焼肉をごちそうされるなんて、こんなごく普通の高校生(笑)にとってこれ以上ない意味だと思わないか?
◆◆◆
「相川のそれってさ、手作り?」
昼休みでのことだった。夕平と暁の二人と一緒に、もはやおなじみの三人で弁当にありついている時のこと。
夕平が突然、そう尋ねてきた。なにやらものほしそうな目で俺の弁当を見ている。
「んむ? 何だよ、欲しいのか?」
「ああ、欲しい。……いや」
すっと、夕平の目が細まる。
全てを包み込むかのように柔らかく、優しく微笑むようにはにかんだ。
ゆっくりと緩慢な動きで、その手が俺の首元に差し込まれ、指で顎を軽く持ち上げられる。その動作には、どことない色気があった。
「お前が、欲しい」
「ぶっ!」
弁当のおかずを口に入れていた暁が、思いきりむせた。涙を浮かべてむせ続けている。
「お前……」
吸い込まれそうな、子供の用に純粋な瞳。俺なんか気を許せばあっという間に呑まれてしまいそうだ。
そんな夕平に、俺は――――。
「……お前何言ってんの? どこでそんないらん言葉教わったんだ? ああ?」
――――そして俺は当然、一ヶ月鍛え上げたこの握力で夕平バカの手を掴んで締め上げてやった。
「みぎゃ! い、いたいいたいっ! すまん、ごめん悪かった! 冗談だから許しぎゃあああ!」
「どこの層に媚びてんだこら。腐ってんのか、もう腐ってやがったのか、ああん?」
「ぎにゃああああ!」
未だごほごほとむせ返っている暁を尻目に、夕平の悲鳴が続く。
「はっ、放して! アチシの手を放してよぉ!」
「……ちっ」
「いってー……んだよ、ただのジョークだろー……」
「もっかいやるか」
「ごめんなさい」
ふざけることだけはいつまでも飽きない奴だな。やかましいったらない。俺まで変に目立つだろうが。
「んで? 弁当がなんだって?」
「あ、ああ。そう! その弁当ってさ、手作りなのか?」
夕平が、俺の弁当を指差す。
「ああ、そうだけど」
と言っても、そんな大層なもんじゃない。ご飯があって、野菜とジャガイモの煮っ転がし、ミニ餃子などなど、冷凍食品と冷蔵庫の中の余りものでこしらえた、どこにでもあるような面白味のない弁当だ。
「朝は親がどっちも仕事でいないからな。作るか買うかしか昼飯が無いんだ」
「そ、そうなんだ。毎日?」
どこか上ずった声で、暁が声を上げた。
誤魔化そうとする心意気やよし。だが、いい加減頬の赤みを抜け。
「ああ、毎日、朝昼晩ってな。放任主義者なんだ、うちの親」
「へえ……凄いね」
「無駄に女子力あるよな、お前って」
「うっせ。だからまあ、昔から料理は出来るぜ」
事実、小学生の時から料理はしてきたから、ループ以前から少しは料理も作れたりした。
今までは面倒くさかったから、食えればいいやと、そのレパートリーもあまり無かったが。思えば、本気で料理に凝りだしたのは、ムゲンループが始まった頃からだった。
おかげで一般家庭の主婦以上に造詣が深まった。今なら一人で店を開けられると思う。謙遜なしで。今度の世界では、料理店でも始めてみようか。
「お前、何笑ってんだ?」
「あ、顔に出てたか? いや、もし将来料理屋にでもなったら、お前らも誘ってみようかと思ってな」
「りょ、料理屋さんになるの? 相川くん」
きっとその店は賑やかになるだろう。俺が料理を作って、暁が運んで、夕平がサボって。そのままつまみ食いしに移行したところで、暁に怒られる。そんな絵が容易に浮かぶ。
「……夕平は思わずクビにしちまいそうだな」
「ひでえなおいっ!」
「あはは、かもねー」
「おお、ブルータス……」
我ながら、日和見な妄想だと思う。あまりに今の状況では非現実すぎて、罪悪感すら覚えない。
世界は今も、終わらないまま繰り返されているのに。そんな将来や夢は、絶対に叶わない。
今のこの繰り返しがあったからこそ、この二人と今いられるわけで。そんな夢に焦がれるのも、これ以上を望むことも、かなり贅沢な話だと分かってる。
「冗談冗談。ま、たいした将来も夢も無いし、そういうのも悪くないかもって思ってな」
そう言って、すっかり冷めた煮っ転がしを箸でつまんだ。
そんな折だった。
「あの、ここに相川拓二って一年生はいるか? いたら、教えて欲しいんだけど……」
「……ん?」
ふと、教室の外から、俺の名前が挙げられた。
二人も気付いたのか、つられるようにしてその声のする方向に視線を向ける。そこには、ひょろっと背の高い男の集団がいた。そのうちの一番年下と思われる下っ端が、うちのクラスメイトに俺の事を尋ねているようだ。
「お、おいあれって……」
「うん、見たことある……バスケ部の人達だよ」
夕平と暁が顔を合わせて囁き合う中、そのクラスメイトが指差した俺の方に、ぞろぞろと近づいてきた。
この学校のバスケ部は、地方大会にも何度か出場しているなかなかに真面目なところで、チーム以上に個人として強い先輩が数人、全国区の代表として呼ばれていたりもする。
しかし、実際はその輝かしい戦績の一方で、薄暗い裏側がある。俺も昔数年そこに在籍していたが、年功序列が厳しいというだけではあまりにも一年生の扱いが乱雑で、気に入られた人間以外はろくに教えもせずボールにさえ触れられずに一年間を過ごす羽目になるくらいだ。
もちろん、それだけでは終わらない。これはあくまでもまだマシな方だ。特に上手いか下手かで目を付けられた後輩には、パシリはもちろん、言ってしまえばストレス発散の捌け口にもされる。俺はまだ、途中でそこそこ腕を上げて、滅多に本気にならなかったから目にとどまらなかったみたいだが、他の同じ一年生がイジメられていたのを何回か見てきた。顧問は当然のように見て見ぬふりで、その内情はドロドロに濁り切っていた。
……思い出すと、何か胸の辺りがムカムカしてきた
要は、どこにでもあるDQN御用達の部活だった。
「おい、こっち来るぞ、相川……」
「…………」
……大方、部員欲しさに入部してきた一年生に、他にも使えそうな別の
強面ばかり引き連れた集団で、威圧的に『お願い《きょうはく》』するのだ。恐喝詐欺まがいなことをする奴らである。
「お前が相川か?」
そのうちの一人――――確か、副部長が口を開いた。
ついに俺の近くまで囲うようにして、バスケ部がぞろぞろと並んだ。ピンと張り詰めた緊張が、教室に走る。
「……そうですけど」
「話がある。ちょっと俺らと来い」
断ればどうなるか分かってるよな、とでも言いたげな語調だった。
「嫌ですけど」
「お、おい……!」
もちろん、速攻で断ってやる。夕平が慌てた風に声を上げても、別に意に介すことはない。
「今飯食ってるんで。お話ならここでどうぞ」
「…………」
少しばかりの沈黙の後、副部長が突然俺の襟をつかみ上げ、勢いよく持ち上げた。
持ち上がった俺の身体が机を引っかけ、けたたましい音を立てて揺れる。暁が小さく悲鳴を上げた。
「いいから来いって。な? 俺が言ってんだから従えよ」
「…………」
舌打ちでもしたい気分だ。こういう輩は何度も見てきたが、胸糞の悪さは減りもしない。
昔ならこの程度でもびびって何も出来なかっただろうが、今はただただ煩わしい。
「おい、やめろよ」
その時、夕平が再度声を上げた。
意外にも度胸はあるらしく、いつも通りの声音だった。あるいは頑張ってそう見せているのかどうなのか。それでも、夕平みたいな今時の高校生には、そんな風に感じさせないようにするのでもなかなか出来ない事だと思う。それも自分のためでなく、他人のために。
前々から思ってたが、漫画とかの主人公みたいな奴だ。話が話なら、今頃魔王でも倒しに行ってるかもな。
「は? お前関係ないだろ。引っ込んでろ」
「関係なくない。いくら先輩だからって、相川に無理強いさせるなよ」
「そ、そうです。いくらなんでも脅して入部させるのは――――」
「うっせえな! 邪魔だってんだろ!」
どんっ、と反論しようとした暁が突き飛ばされる。
「あっ……!」
慌てて、夕平がその身体を抱きとめた。
「あぶねっ! ……おい、お前ら!」
その横暴についにあいつまでキレ始めてきて、いよいよ収拾がつかなくなり始めていた。
……俺まだなんも言ってないのに、どんどんいざこざが広まっていく。
どいつもこいつも、もうちょっと静かに出来ないもんかね。
やれやれ、だ。
「……待て待て夕平。俺達は平気だから落ち着けって」
「首掴まれてどこが平気なんだよ!? ここは俺が……」
「いいから。これは俺の事だ。……ねえ先輩?」
さっきから掴んだままの手を逆に掴み返す。
いい加減、襟が伸びるんだよ。せっかく新品だってのに。
手首を掴み上げたまま、さっき夕平にしてやったように強く握りしめた。一ヶ月鍛え上げたこの握力で。
ぎりぎり、ぎりぎりと。指が強くその手首に食い込む。
「いっ!? いだだだ!」
「とりあえずこの手邪魔なんで、解いてもらえます?」
すると、割とあっさり指が生地から離れた。おう、根性見せろや。
「おっ、おい! 放した! 手ぇ放したじゃねえかいだだだだだ!」
「おっと、ムカついてつい」
別に放せばこっちも放すなんて言ってないがな。
まあいいが。そろそろうるさいから、手を緩めてやった。
「くっ、痛ぅ……こ、この野郎……!」
「とにかく、何で俺なのか知りませんけど、アンタらのとこみたいな物騒な部活はもちろん、部活自体今は興味ないんで。丁重にお断りします。とっとと帰れ♪」
「どこも丁重じゃねえじゃねえか!」
「いや、アンタが文句言える筋合い無いっしょ」
俺がそうツッコんだその時。
ぐっ、と彼の手が拳状に握りしめられるのが目の端に映った。
「……っち、ごちゃごちゃごちゃごちゃ」
ぎろり、とその目が獲物を見る鷹のように俺を射抜く。
――――俺に狙いを定めつけたような、そんな目つきだった。
「うっせえなあっ!」
その拳が、俺の顔めがけて無造作に飛んできて、
ぼっ、とくぐもった轟音とともに、弧を描いて蹴り上げた足でその腕ごと弾き飛ばした。
「がっ、あっぁ……!?」
「……あー、もう一度言うけどさ、先輩」
声にならない悲鳴。
周りの誰もが、一体何か起こったのかと言わんばかりに目を丸くしている。
そんな彼に、掛けてやる言葉が一つあった。
「とっとと帰れ」
親指を逆向けて、この世界で一番の、最大の笑みでそう告げてやった。
◆◆◆
「いやあー、本当にあれは凄かったぜ! 映画のスパイみたいでよー」
時刻はさらに飛んで、放課後の夕方になった。
「こう、ぐんっ! てやって、ばしぃー、だもんな! あー、すかっとしたー!」
まるで子供が特撮映画でも見た後のような身振り手振りと擬音で、興奮冷めやまぬ風に夕平が一人大声で喋りまくっていた。道行く人達が、皆クスクスと笑って通り過ぎる。
「まだ言ってる……よっぽどだったんだねえ」
「勘弁してくれねえかな……いい加減こっちが恥ずかしくなってきたんだけど」
夕飯の買い物目当てで増え始める主婦たちの雑踏に紛れて、俺達三人は商店街をうろついていた。
というより、俺のそばをこの二人がちょこちょこと付いてきてると言った方が正しいか。
何でも、夕平と暁がお礼に好きなものをおごってくれるのだとか。こういう時だけは、示し合せたかのように息が合う奴らだ。
普通、あんなん見たらビビるだろうに。気の良すぎる馬鹿どもだ。
「そんな、恥ずかしがらなくても。助けてくれてありがとうね。格好良かったよ。夕平もきっと、ああ見えて感謝してるんだよ」
「……あっそ」
「あれ、もしかして本当にちょっと照れてる……?」
「よし、今日の夕飯はオムレツにしよう」
「ああー、今誤魔化したぁー!」
暁が何か言ってるが、至って普通普通。
というか、俺、今日はずっと飯の事しか考えてない気がするな。
実際、ムゲンループ関係以外に考え事と言えば、飯の事だけかもしれん。昼休みの件の通り、この世界では部活に入る気はないし、これ以上勉強をする気にもならない。
……これじゃどこの夕平だと。
他にやってることと言ったら、今の所日課のランニングと趣味のチェスだけだ。帰ったら久々に、今度はただの遊びとしてチェスでもやろうか。
「おい、聞いてっか相川ー?」
「あー聞いてる聞いてる。で、何だっけ?」
「聞いてねえじゃん! あのなあのな、あれってやっぱめっちゃ身体柔らかくないと出来ないのか? ヒーローキック!」
「ヒーローキック……」
「っていうかもっかい見せてくれよ! な?」
期待と羨望の籠った夕平の目が、俺を見る。これは、あわよくば教えてもらおうとしている時の目だ。
別に教える分には構わないが、今の俺の身体では大した事も出来やしない。見本を見せるなんてとても出来そうにないというのが本音だ。
足も少し曲がってたし、軸足がぶれて滑ってずっこけそうになっていた。そんな様子じゃ力が入るわけもなく、事実、食らった副部長も驚きこそすれ、そこまで痛そうにはしてなかった。
はっきり言って、あれでもまだまだ完成された蹴りではない。一年の終盤まで身体づくりに勤しめば、骨を折るくらいの強い蹴りが出せるのだが。
「まあ柔軟もいるっちゃいるけど、あれは回転とか遠心力とかがこうむにゃむにゃーってなって身体が自然と動いていく、みたいな蹴り方だからな」
「ほえー。そんなもん、いったいどこで」
「ハワイで親父に教わったんだ」
「東の名探偵!?」
そんな風にだらだら駄弁っている俺達に割って入るかのように、突然声が飛んできた。
「あ、相川! 相川じゃんか!」
その声に、俺だけでなく夕平と暁の二人も振り返った。
今日は、珍しく名指しで呼ばれることが多い日だ。
視線の先では、一人の高校生がまっすぐにこっちに駆け寄ってきていた。パーマを当てたらしい、目がチカチカする色合いの金髪が大きく靡いている。
その姿に、見覚えがあった。
「あーっと、あれは……尾崎光希、だっけ?」
「知り合いなの?」
「え? ……うーん。知り合い、か?」
入学式の時俺の斜め隣で、これから原チャ盗んで停学になる予定。
……ということぐらいしか、あいつの事を知らないんだけど。今までもほとんど面識がない奴だったし。
「はあ……はあ……はあ。あ、相川ぁ!」
「お、おう。尾崎? 何か用か?」
そんな尾崎に、がしぃっと擬音が出そうな程強く両肩を掴まれる。
普通に痛いんだが。パーソナルスペース侵害で訴えてやろうか。
「すまん、相川! 恩に着る! 本当にありがとう!」
「は、はあ? 何の話だ?」
どうして今日は初対面の奴にこんなにも絡まれる? 俺を静かに生きさせちゃくれんのか? 厄日なの? 大殺界なの? 俺は木星人で君は火星人なの?
「俺、バスケ辞めることにしたんだ。こうして俺が先輩達に歯向って逃げることが出来たのもアンタのおかげなんだし、また今度礼をさせてくれよ」
「ちょっ、ちょっと待った! お前バスケ部だったのか? じゃああの集団の中に?」
「何言ってんだ? 俺、先輩達を案内してたじゃん、アンタの所まで」
……いたっけ? 確かに、俺の名前が呼ばれた気がしたが。
ちらり、と二人に視線を配り、言外に尋ねる。二人とも首を横に振っていた。
あの時の下っ端、こいつだったのか。背が高い奴らに紛れて見えなかった。実際、尾崎は中肉中背の俺とほぼ変わらん身長だし。
「なんかアンタがあんな蹴散らし方してくれたおかげで、俺アンタの知り合いってことになってるから俺に対しても当り散らさなくなったんだよ。今だって他人の原チャパクれって言われて逃げてきたところで……なあ、アンタもしかして、そこまで考えて俺を助けてくれたんだろ?」
「え?」
そんなこと微塵も思ってなかったでござる。
「どうなんすか!?」
……なんて、こんな期待の眼差しを向けられては決して言えない。
「……あー、うん。なるほど」
どうやら俺はコイツに対して一つ誤解があったみたいだ。
そう言えば、ちょうど尾崎が無免許運転してしょっ引かれるのが今日のこの日だったような。だがそれは、あの先輩どもに脅しつけられたせいであって、こいつが自分からしたくてやったというわけじゃなかったのだ。てっきり外見のチャラさがあって、そんな馬鹿する奴なんだろう程度にしか考えてなかった。
けどもう、バスケ部を辞める上に、俺のおかげ(?)で先輩の言うことを聞かなくてもよくなったのなら、こいつが停学になる未来は避けられた、ということになる。この尾崎の救済は、今までにないルートだ。尾崎ハッピールートとでも言おうか。
これもまた、新しいバタフライエフェクトの影響だろう。俺のやったことが、意図せずして尾崎の人生を、ほんの少し変えて見せたのだ。
……やはりまだまだ、このムゲンループには無数の可能性がある。
どんなにそれが滑り落ちそうな程にか細くて、踏み入れるだけで崩れる程脆くても。
間違いなく、全てを救う道も存在するということだ。
「とにかく、本当にサンキューな! んじゃ俺先輩んとこに直々に辞めるって電話かけるから。アンタも何かあれば遠慮なく言ってくれよ。勉強以外でな!」
それだけ言い残して、尾崎は足早に駆け出して行った。角で姿が見えなくなるまで、ずっと俺に手を振りながら。
「…………」
「行っちまったな。何だったんだ?」
「……いや。何てことのない事だ」
「相川くん?」
暁に顔をじっと覗き込まれる。いつもの、彼女が人の表情を読む時の仕草だった。
なんだかおかしくなって、そっと笑い返してやった。すると小首を傾げてきて、ますますおかしい。
この世界は、俺の知らなかったことが多い。セリオの事、いのりの事。そして今日みたいななんてことない日常の中でも、今まで関わらなかった尾崎と顔見知りになるという変化があった。
もうとっくに、学校生活を知り尽くしたとどこかで思っていた。勝手にそう勘違いしていた。だからあっちこっち海外にも行って、まだ知らない事を知ろうとした。
灯台下暗し。俺の身近な世界は、まだまだこんなにも変化にあふれている。
『――――俺の名前は桧作夕平。ほら、さっさと行こうぜ? な、クラスメイト』
『――――初めまして、相川くん。私は……』
この世界なら、きっと。
この変化にとんだ世界なら、きっと。
小さく、息を吐いた。
「何てことのない事が、あったんだよ」
――――今日も、何てことのない日常が過ぎていく。
◆◆◆
その翌日。
「そういや、聞いたか相川? 暁が言ってたんだけどよ、あのバスケ部の副部長さん、無免許運転で捕まったんだってさ」
「……バタフライエフェクトって、すげえ」
……本当に、飽きさせてはくれないな。この世界は。
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