第五話:対話
「何か飲むか? お茶かコーヒーしか無いけど」
「いえ、結構です。お構い無く」
「ああ、もしかしてブラック無理? サ店行ってミルクとか頼むタイプ?」
「いえ、ミルクは頼みませんが」
「そうか。じゃあコーヒーな」
安っぽい畳が敷かれた、簡素な作りの客間。俺に連れられるまま、彼女は使い古された座布団に腰かけた。
俺は、いのりと名乗った少女を家に招き入れていた。
といっても、変な意味は無い。例え親がまだ帰ってないからと言って、邪推することなかれ。あくまで、こいつから話を聞くためにしてることだ。
まさか俺も、出会ったばかりの女の子を押し倒そうとする程サルじゃないさ。
もっともあちらさんからすれば、男と女が一つの部屋にいるわけだし、俺を警戒するなと言う方が無理な話なのかもしれない。
でも初対面だからといって、そんな相手の感情の機微まで気にしちゃいられないのは間違いない。唐突だろうとなんだろうと、聞くべきことは山ほどある。
────こいつは、この世界の秘密を知っている。
今まで繰り返してきた世界の中で、俺と同じようにムゲンループの存在を知覚出来た人間は今までいなかった。
そう、たったの一人も。
この世界を真に生きていると言えるのは、これまでずっと俺だけで。だからこそ好き放題やってこれた。
正直、ムゲンループが俺だけの物と思っていた俺にとって、この出会いは内心かなりショックだった。天地がひっくり返ったような心地だった。傍からそう見えないのは、ひとえに感情を出さない訓練の成果だと言える。
こんなことは、今までなかった。
俺の方がこの現状について訊きたいくらいだ。一体何が起こってるんだ、と。
こいつの存在は、今まで知らないことを前もって知ってから生きてきた俺には異質過ぎた。
あまりにも謎で、全てが予測不可能。
同じ人間なのに、まるで宇宙人とでも対話してるかのようだ。
「少し待ってくれ、すぐに出来るからな。あ、置いてある茶菓子は適当に食っていいから」
「すいません、ありがとうございます」
「ははは、一応飯前だから、あまり食べすぎるなよ」
気さくに笑いかける振りを装って、俺はいのりに対峙するように腰を下ろした。
俺は……こいつが怖いのだろう。こんな、人の家を子供のようにきょろきょろと見回しているこの女を。
ああでも、精神的には大人だったか。一応中学三年生だと言っていた。
それは俺も同じことだ。肉体的な引き継ぎが不可能なムゲンループでは、俺の肩書も『一応』高校一年生だ。
でも他に、こいつのことについて知ることは何もない。だから怖い。
それは、目の前の少女にも同じことが言えるはずだ。
今から俺が――――いや、『俺達』が互いにするべきことは。
いかに自分の情報を相手に与えず、相手により多くの情報を引き出すか。
言い換えれば、これは一種の交渉だ。相手の情報を、どれだけ値切れるかどうかで俺のこいつの扱い方も決まる。
同じムゲンループの住人だからと言って、はいそうですかでは仲良くしましょうと簡単に信用するわけにはいかない。
……いのりの立ち位置如何では、俺の敵にもなり得るのだから。
「私は」
「うん?」
「私は今回で、世界を繰り返すのは十回目になります」
「っ!?」
……そのはず、だったのだが。
突然の言葉に、流石の俺も反応に遅れてしまった。
こいつは、一体何を……?
「相川先輩は、何回この一年を繰り返されましたか? 少なくとも、私よりは多くのご体験があると愚考しますが」
「…………」
……これは、真面目に答えた方が損だろうな。
どうせ嘘かどうかなんて分かりっこない。適当に言葉を濁らせるか。
「さあ……いちいち数えてなかったな。多分、十回ちょっとだと思うけど」
「そうですか。私は、そうは思いません」
「えっ……?」
そう言ってまたしても、小さくばってんを作るいのり。
まるでおちょくるかのような調子にも関わらず、あくまで抑揚のない声音で続けた。
「私は、先輩が少なくとも二、三十回以上はこのループをご経験なさっているのではないかと私見を述べます」
あっさりと、俺の言う事が嘘だと。
彼女はそう、断言した。
「な、ど、どうして……?」
……落ち着け、どうせハッタリだ。
ならいっそ分かりやすく驚いたように振る舞ってしまえ。その方がまだ自然だ。
「では逆にお聞きします。どうやって私が、貴方の存在に気付けたか、貴方にこうしてお目にかかることが出来たとお思いですか?」
先程までとは打って変わって、まるで水を得た魚のようにいのりは喋っている。心なしか、無表情ながらも顔が生き生きしている気がした。
べらべらと喋っているが、こいつなりの考えがあっての事なのか、それともただの馬鹿なのか。
……分からない。いのりの考えが読めない。
「……いや、分からないな。魔法でも使ったのか? はは、こんな世界だし、魔法が使えるって言われても信じるよ」
俺の面白味の無い冗談にも、いのりは律儀に首を横に振って応えた。
「残念ながら、魔法ではないです。私は、最初に『二度目の四月一日』を確かめた時、こう思いました。『この世界の歪みには、きっと私よりももっと深く関わっている人間がいるはずだ』と。『私は、何らかの世界の事象に偶然巻き込まれただけに過ぎない』と。その考えに、特に確証はありませんでした。そう思いたかっただけだったのかもしれません。恥ずかしながら、私にはこの世界は分からないことだらけだったのです。ですが、それを確かめることしか他に私がやれることも無かったので、まずは日本や世界で起きたこと、どんな些細なことでも頭に詰め込みました」
「それはまた、何でそんなことを」
「そうすれば、次に繋げることが出来るはずだと思ったのです」
「次……?」
俺の問いに、こくりと頷く。
「勿論、『三度目の世界』です。もし、私がまたこのループに巻き込まれたなら、そして私の他に誰かこの繰り返しの世界を認知出来る人がいたなら、二度目の世界と三度目の世界では『変化』があるはずですから」
「それを……ループに巻き込まれてからずっと?」
「はい。バタフライエフェクトで例えた方が分かりやすいかもしれませんね。気候の変化おおきなへんかも、元をたどれば蝶の羽ばたきちいさなへんか。何時か必ず、行き当たることが出来るはずだと思っていました」
それだけ言って、いのりは俺をひたと見据えた。
まるで……俺の何かを見定めているような、そんな目で。
「そして、今私はここにいます。貴方こそが、私よりもはるかにこの世界の真理に近い存在であるという一定以上の確信を持って」
「……凄いな。そんなこと、考えもしなかった」
これは本当のことだった。
少なくとも、ちょうどその頃の俺は家に引きこもってばかりいた。同じ境遇の人間を探そうなんて、昔はもちろん、今の今まで頭にすらなかった。
もし仮に、こいつの言うことが全て本当だとしたら。おそらく、五十年以上の経験を積んだ俺といのりの間には、ムゲンループに対する認識の差はほぼ無いに等しい。ムゲンループの性質を理解した上で、俺の元を訪れたことになる。
バタフライエフェクトを辿って来たといのりは言うが、そう簡単に出来ることじゃないのは、実際にやったことのない俺でも想像はつく。
俺が前回とは違う行動を起こすことによって生まれる差異を見つけるなんて、言うのは簡単だが、砂漠の中に落とした米粒を拾うくらい気の遠くなるような話だ。
しかも、今が五週目だとして、たったそれだけの時間で俺が出来なかったことをやってのけたのだ。
素直に感服していた。こんな年下の少女相手に。
よくそんな手間の掛かることをしてきたもんだな、と。
「この世界は今、狂っています」
静かに、まるで秘密を打ち明けるかのようにいのりはそっと囁いた。
だが、まるで秘密を打ち明けるかのようにその語気は重かった。
「たった一年を繰り返し、生けとし生けるものは自身の使命であるはずの進化をすることが出来ず、永遠をさまよい、そのことにすら気付くことはない。無自覚な堕落が平気で蔓延る、不自然な世界。人の営みも、感情も、あらゆる生物の活動が停滞した、終わらない『
「…………」
「私は、この世界のループから脱出したいのです。そのために、どうか力を貸してください」
その目は、切実だ。
強い意志の籠った目。
だが……俺とは、何かが違う。俺とは別の種類の熱の色をしていた。
それは、きっと、おそらく――――。
「……でも、そこまでしてくれといて悪いけどな。もしお前がループから脱出しようとしてるんなら、俺はあまり役に立たないと思うぞ。そんなの、俺だって分からないんだから」
「そうですか……いえ、構いません。先輩は、私よりもずっと凄い人ですから。お力になっていただけるだけでも十分です」
「えらく持ち上げるなあ……」
凄い、とだけ言われても反応に困るんだが。
「この一ヶ月近くの間、先輩のことはずっと見てましたから。先輩が本当に私と同じなのか、と。こうしてお話が出来て本当に良かったです」
「おいおい、なんか怖いぞその言い方。まるで俺の事ストーキングしてたみたいじゃんか。それに、俺まだ協力するとは一言も――――」
「そうですね。私、先輩のことをストーキングしてました……今日も先輩と男の人が何か話していて、突然殴られたところまで。ちゃんと拝見しておりました」
ぎくり、と背筋が強張る。
突然のストーカー宣言に対してじゃない。いや、それも少しあるが、それ以上に。
先程の、気絶する前の会話が蘇る。
まさか……セリオとの会話を、聞かれていた?
「ちょっと待て……見てたのか?」
「ええ、全部」
ドクン、と心臓が跳ねた。
ああでも、ずっと、引っ掛かっていたことだった。
こいつは、今日の今日まで俺を傍観していたと言う。自分と同じ、ムゲンループの住人かどうかを見定めるために。
なら何故、このタイミングで姿を現した?
────マフィアと話していたところを強請りに来ました、と言わんばかりのタイミングで。
「ああ、なんなら、今からあちこちでその内容を反芻しても構いませんが? 記憶力は良い方なので」
首元に、汗が滲む。
ぬかった。完全にやられた。
こいつの目論見に、今やっと気付いてしまった。
今、セリオと俺の会話の内容を広められでもしたら。
これまでまでの準備も何もかもが終わりだ。情報漏えいの原因として、相手方の組織の前に、セリオ自身が直接俺を『始末』しにくるだろう。もしかしたら、そういうのは部下に任せるか。いや、殺される身としてはそんなもん別にどっちだっていい。
俺は所詮、あいつらからすればただの消耗品だ。使い捨てるか、虫食いの不良品を今ここで捨てるか。あいつらにはその二択以外の選択肢を俺に与えちゃくれないだろう。
逃げようにも、今の俺ではとても次の『四月一日』まで生き延びられるとは思えない。
セリオがその筋の人間だと知った上で、協力しなければ全部バラすと言ってるのだ、こいつは。
……何が。
何が俺は凄い人、だ。
何が俺の力が借りたい、だ。
世界を救うとかなんとか綺麗ごとは言えても、その腹の底は真っ黒じゃないか。
こいつは俺を、自分の目的のために引きずり回して利用したいだけなのだ。
「……分かった。何が目的だ」
そう、言うしかなかった。
まさかこんな子供相手に、脅されるはめになるなんて思いもしなかった。屈辱的過ぎて、思わずやけっぱちに何も考えられなくなった。
「不躾ながら、一つお願いしたいことがありまして」
「……お願い?」
――――やっぱり、こいつは敵か。
コーヒーの匂いが場違いにも宙に漂う。
こくり、と自分の喉が息を飲む音が、部屋一杯に鳴り響いたかのような錯覚を抱いた。
「私……」
「…………」
どうする。
今ここで、殺すか?
この場にいるのは、俺といのりの二人のみ。
マフィアに追われるくらいならいっそのこと────。
「……私を、先輩の彼女としておそばに置かせてもらえませんか?」
「……はっ?」
────思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
◆◆◆
拓二の家から少し離れたところ、その家の住人からは見えない死角になるような位置に、その車はあった。
使い込まれた黒塗りのセダンは、まるで闇夜に紛れているかのようだ。その中に、男が一人。エンジンを吹かしたまま、真っ暗な車内で神妙な面持ちで腕を組み、静かに目をつむっていた。軽快な調子で流れるラジオが、空しくも行き場を無くしていくかのように溶け入った。
彼────細波享介さざなみきょうすけは、人を待っていた。
一服でもしたい心地だったが、仕事中の上に『依頼人』が未成年なのもあって、自然と憚られる。彼は気風のいい図体をしていたが、子供にはどうしても弱かった。
享介は、ただのしがない探偵である。それこそ、犬猫の散歩から人探し、不倫調査まで、その気になればだれでも出来るようなことをやって、細々と毎日食いつなぐだけの日々。別段その日暮らしに困ることは無かったが、何の変わり映えの無い、地味な職業だと享介は常々思っている。よくドラマで取り立てられるような、殺人事件やら強盗やらといった犯罪に関わったことすらもなかった。
そんな彼が得意とするのは、尾行だった。今日もまた、『とある男子高校生』の一日を追っていた。
相川拓二────なんてことの無い、ごく普通の高校生を調べろという依頼だった。
それだけでも十分珍しい依頼だったが、もっと珍しいことに、その依頼を持ちかけてきたのは、なんと中学生の女の子だったのだ。
珍しいとはいえ、こんなケースもないことは無い。思わず最初、享介は彼女を恋に溺れたストーカーだと思っていた。適当に話を合わせ、なだめすかして帰ってもらおうとしていた。
だが、話をするにつれ、彼女の奇妙さが浮き彫りになっていった。
おそらく、彼女も簡単に依頼を引き受けてもらえるとは思ってなかったのだろう。依頼の内容を説明した後、一つ、享介に提案をした。
『ここの近くにある競馬場に私を連れて行ってください。そこで前払いとして私は自分の千円を五十万円にしてお支払いします。そしたら、私の話を聞いてください』
胡散臭さを通り越して、黄色い救急車でも呼んでやろうかとさえ思った。
だが、享介としても面倒事は御免だったし、依頼者である少女もまるでふざけて言ってるようには見えなかったので、それで満足するならと彼女を連れて行った。
その結果として、彼女の千円は、半日で五十三万円にまで膨らんだ。
勝つ馬を全て予言のように言い当て、何一つ外さなかったのだ。
『別に、大したことはしていません。全て、見ていたことを覚えていただけです』
帰りに寄った喫茶店で、彼女は事の全てを享介に話した。
『この世界は、何度もやり直しているんです。世界中誰一人として、その事を認識できませんが。この一年間を繰り返し続けていて、私は偶然、それを理解することが出来るだけです』
享介は、SFチックな漫画や小説を読む方だったため、それがいわゆる、『タイムループ』という表現として話の意味自体は理解することが出来た。
ただ、所詮は空想上の話で、実際に起こっていることなど知る由もない以上、その言葉を素直に認めるはずもなかった。いくらその方面の話に理解があっても、当然享介は彼女の言葉を信じない。
そこで、彼女は数枚の紙切れを取り出し、ペンで何かを書いて享介に手渡した。
『そこに、これから一年で起こることをいくつか書いておきました。またあとでお読みください。きっと、私の言うことがただの狂言ではないとご理解頂けると思います』
その紙は、依頼人――――柳月祈による、『予言書』だった。
今後の国際情勢の展開からこれから起こる事件、事故、芸能ニュースから株価の変動までが、買い物メモのような気軽さでその紙に綴られていた。
その全てが、今のところは全て的中合致している。そして、おそらくはこれからも。
怖くなった享介は、その紙切れのことを誰にも話していない。その頃から、享介は祈の『啓示』を全面的に信じるようになり────というよりは、受け流せるといった方が近いかもしれないが────依頼を引き受けることとなった。
我ながら丸め込められやすいタチだ、と彼は苦笑いする。
だが、一体誰がそれを責められよう。実際、彼女の言うことは、これまで一度として間違いが無かった。
彼には真の意味で知るよしもないが────祈の言うこと《せかいのくりかえし》は、本当の事なのだから。
その時、後ろのドアが開いた。にわかに明るむ室内灯が、車に乗り込む人影を照らした。
今日一日、享介の尾行に参加していた(といっても放課後以降からだが)、件の依頼主だった。
「おう、お疲れいのりちゃん。首尾はどうだった?」
「ええ、まあ、収穫はありました。まずは車を出してください」
「はいよ」
車は、ゆったりとした動きで走り始めた。
「『彼』は、お前さんの『お目当て』の奴だったかい?」
バックミラー越しに、祈の様子を垣間見た。
暗がりに身を委ねるようにして、じっと目を伏せている。
眠っているのか、と享介が思い始めた所で、祈が声を上げた。
「告白して、一旦保留とのお返事をいただきました」
「……何やってんだお前」
「あのな、俺はそんなガキのおままごとのためにこんなことしてるわけじゃ……」
「もちろん、分かっています。大真面目です」
祈の声が、淡々と紡がれる。
「先輩は男性で、私は女ですから。あの人のお力が得られるのであれば、貧相ながら私は私自身の身体を使うこともやぶさかではありませんので」
「……干からびた発想してんね、最近の中学生は」
「精神年齢であればもう成人してます」
「ああ、はいはい。そうだったな」
時々出る、祈のこういう達観的な発言には、享介もまだ慣れない。
なんというか、機械を相手にしているかのような無機質的な感覚を覚えてしまう。時間をループしている人間特有の感覚なのだろうか。
相川という男もまた、この少女と似た雰囲気を持っているのだとすれば、変に疲れてしまいそうだ。
「それに、一般的な恋人同士の甘酸っぱい関係とはかけ離れているかと思います。半分脅して迫ったようなものですから」
「……相川くんを殴った、あの男のことか?」
享介の言葉に、祈が小さく頷いた。
「ええ。どうやら相川先輩にとって、あの男性のことはあまり知られて良い事ではなかったみたいです。そこら辺はハッタリでしたが……上手くいきました。これで先輩の協力を取り付けることが出来ましたから」
拓二は一つ、大きな誤解をしていた。
祈は、拓二とセリオの会話の内容を知らない。
それどころか、セリオの正体も、カタギでは無いとだけで、マフィアとまでは思っていなかった、ということを。
当然、その会話の内容を繰り返すことなんて出来るはずもなく。というより、あの会話が露呈されることが、拓二にとって危険なことだという確証も無かった。
あの脅しは、拓二を無理やりにでも協力させるために考え出した、祈の博打カマかけだった。
あるいは、祈のハッタリは、拓二に鼻で笑われて終わる可能性も当然あった。あるいは、他の拓二の仲間が家に乗り込んで祈を拘束する可能性だってあった。まあ祈は、その最悪の事態まで考慮して享介に離れたところで張り込んでもらっておいたのだが。
あまりに、リスクの大きな賭け。しかし、実際に祈はその賭けに勝った。上手いこと、拓二を出し抜いてのけたのだ。
「まったく、おっかないな。お前さんがそんなことまでするほど、相川くんってのはとんでもない奴なのか?」
嘆息交じりに享介がそう訊くと、相も変わらず淀みの無い調子で祈は答えた。
「ええ。あの人は間違いなく、この世界のループを脱出するために必要不可欠な存在です。完全に支配することさえ出来れば、先輩ほど使える人もいませんから」
◆◆◆
家の表までいのりを見送って、その姿が見えなくなった頃。
「……くそァッ!!」
鈍い音が反響した。
俺の拳が塀に打ち付けられた音だった。打った部分が熱く痺れる。
「…………」
完全にしてやられてしまった。手も足も出ないとは、まさにこのことだ。
ボクシングで言うなら右ストレートで一撃KO。テニスなら一ゲームも取れずにストレート負け。
今の俺には、ただただ敗北感しか残らない。みじめだ。あまりにも。
人生史上、ここまで打ちのめされてしまったのは初めてだった。
結局、俺はいのりを殺すことはしなかった。出来なかった、と言ってもいい。衝動に駆られて手を血で染めることも許されなかった。
少し考えれば分かる。
俺は気絶した後、公園で寝かされていた。当然、いのりだけで俺の身体を運べたとは思えない。
俺の知らない場所で、仲間がいたのだ。俺を尾行していた時も、いのりを家に呼んで話をしていた時も。
それも、ただの協力者じゃない。少なくとも、いのりから俺のこととムゲンループのことについて聞かされている可能性の高い人間だ。
もしいのりを殺していれば、今頃その仲間にあえなく捕らえられてしまっていただろう。
何もかもが見透かされていた。読まれていた。
そもそも、あの状態で殺そうとするなんて、あまりにもどうかしてる。ムショ行きでもいいとか、俺らしくもない。
何がカシコク生きる、だ。
これじゃ、良いように弄ばれたままのピエロじゃないか。かっこ悪いったらありゃしない。
「……よし。決めた」
握りしめていた指を一本ずつゆっくりと解いていき、伏せていた顔を持ち上げる。
「バラされたくなかったら恋人になれ? ……はっ、上等。むしろこっちから協力する振りしてこき下ろしてやろうと思ってたとこだ。願ったり叶ったりだよ」
傍から見たらただの負け惜しみだと笑われようが、これから先で覆していけばいい。まだ何もかも終わったわけじゃない。
今、始まったばかりだ。
不思議と、笑いが込み上げてきた。不愉快な気分は腹の中に蓄えたまま、押し殺し切れずに笑い声がこぼれた。
ムゲンループから脱出? 冗談じゃない。いのりのやることは、俺のやることとあまりにも真反対すぎる。いのりの言うことが正しいと認めることは、俺の全存在が否定されることと同義なのだから。
これからもここに在るためにも、そして俺が俺をを貫くためにも、なんとしてもいのりの悲願は阻止しなければならない。
あいつはあまりにも俺にとって邪魔過ぎる。
なるほど、分かった。これで理解した。
これは、俺といのりのゲームなのだ。この一年の間にムゲンループが解放・霧散されればいのりの勝ち。逆に一年間粘り切れば俺の勝ち。
そして────。
「……見てろよ。柳月祈のことも、これから起こることも何もかもも、全部呑み込んで『カシコク』支配してやるよ」
────どちらか勝った者こそが、この世界の
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