第九十五話:音楽祭・その一
暦が十一月を刻んでから三日。
本来、文化の日という祝日であるはずの今日この日、学校の体育館周辺は人の海となって賑わっていた。
空一面、濁った灰色のフィルターで覆われたかのような暗雲のもと、文化祭二日目のメインイベントである音楽祭は執り行われる。もちろん文化祭のクラスごとの催しも同時に行われているが、学ぐるみで推し出している音楽祭には敵わない。
また、集まっているのは学校関係者だけではない。 二日目である今日から、関係者以外の一般に向けての学校の解放は始まっているため(来年度の新高校生に対するオープンスクールを兼ねた、謂わば『客引き』を意図してのものだろう)、祝日ということもあってか父兄らしき顔ぶれも多い。
「…………」
そんな一般客のうちの一人、柳月祈は、ポツンと校門脇の方に取り残されていた。
「……人が、多い……」
そんな当たり前の後悔をのたまうも、時既に遅く、単身ここを訪れた祈はそんな人ごみに紛れられず、所在無く眺めているしかなかった。
夕平達以外に知り合いもおらず、文化祭という行事の過ごし方というものが分からない。祈が生徒会長で良かったと思ったことの一つは、清上祭中仕事に忙殺されて暇が無いことだった。
そういう訳もあって、昨日から引き続く各クラスの出し物を見回って楽しむという考えは、祈にはまるで無かったりする。
────それにしても、本当に人が多い。祈は遠巻きに人間観察をしながらも改めて思った。
体育館にひしめくように並ぶ大勢、屋台の学生の呼び込み、ビラ配り、クラス展示の勧誘の声等々、実に盛況だ。
これなら清上祭とも規模としては引けを取らないのではないか。こんなにまで大きな文化祭だというのに、今まで祈は知らなかった。
「おーっ、いたいた! いのりちゃん!」
と、そんな風に思考を弄びながら、勧誘の目にも引っ掛からないよう存在感を消していた祈を、目ざとく見つける者がいた。
片手に真っ赤なポンポンのようなカツラを持って、黒の長袖長裾の学ラン姿で着飾った夕平がやってきた。
「おはようございます、桧作先輩……えっと、その格好は?」
「これか? へへっ、似合うだろ?」
と笑いかけて、その糸を束ねたような偽の赤髪をすっぽりと被る。
バンドの仮装なのだろう、この場に浮き過ぎる派手な赤髪が夕平の頭からしな垂れた。
「今日の俺は、ロックだぜぇ……!」
「こら夕平、借り物をオモチャにしないの」
そんな風にテンション高めの夕平を、後からやって来た暁がたしなめた。頭からそのカツラを奪い取ると、暁は祈の方にはにかんだ笑顔を見せた。
「おはよう、いのりちゃん。こんな朝早くから来てくれてありがとうね」
「立花先輩、おはようございます」
「いやでもほんと、メチャ早いな。まだ九時だろ」
音楽祭が午前十時の開始であることは、夕平達から前もって聞いていた。
が、それでも早い時間からと考えて、ここに来た。
「今日は、全部見届けるつもりですから」
「………」
「……ああ、そうだな」
それが、傍観しか出来ない今の自分に出来る、精一杯だった。
力も無く、勝負にも負けた今の自分には、二人に託したものの行方を見守ることしか出来ないのだ。
どちらに軍配が上がるか、祈にも分からない決着を。
「でも、俺らも拓二も始まるのは午後なんだよな」
「そうなのですか?」
「うん。ほらこれ、パンフレットだよ」
暁が見せてくれたパンフレット冊子を覗き込む。
可愛くデフォルメされて描かれた女の子の絵が表紙のそれを捲ると、文化祭のクラス展示の内容の項目が数ページ続き、音楽祭のスケジュールが記されていた。
午前の部、午後の部で分かれている進行表につらつらと並ぶ
「桧作先輩達の後に、拓二さんが……」
「ああ。でも正直……分があるのは俺達だ」
夕平が、根拠を秘めた口調で自身の利について説明した。
「拓二の次……まあ最後のやつだな。この音楽部と吹奏楽部の合同演奏ってのが、この音楽祭の大トリっていうか、毎年音楽祭で一位取ってるんだ」
「……つまり、拓二さんはその当て馬になる可能性が高い、と?」
拓二の出番はわずか五分強程。運営からすれば、準備の間を埋めるためだけに呼ばれた都合の良い助っ人という立ち位置だ。
参加締め切りギリギリで、それも個人での参加という特例を通したが故の、投票数を競うには相当厳しい条件が付いて回ってしまっていた。
「しかも音楽部は全国大会とか出てるしな。それ目当てに今日来る保護者もいるくらいらしい。そんなんの隣じゃ、流石に拓二が何やったって、素人のやることだし霞んじまうんじゃねえかな」
「……そう、ですね」
そういうわけで、拓二は予期せぬ不利を背負わされたことになる────
────果たして、そうか?
本当に、拓二がそのことを見越さずして、この場に赴くだろうか?
勝負にこだわり、貪欲に勝ちを求めるあの拓二なら、こんな勝負にも────いや、〝むしろこの勝負だからこそ、負けられないはず〟。
祈の胸中に、一抹の不安がよぎる。
これがただの思い過ごしであればと、今は願うばかりだった。
◆◆◆
まだ時間はあるしせっかくだからと、クラスの出し物を見てくるよう暁に背中を押された祈は、文化祭の雰囲気を見回っていた。
日を跨いできた展示や店の準備を邪魔しないように、そろそろと存在感を消して練り歩く。
流石に祭りに携わる生徒の倦怠を感じた。もっとも今日は音楽祭こそがメインなのだから、こう朝早くから盛り上がる必要も無いのだが。
そう、文化祭は昨日に引き続いて行われている。今日が解放日であるから、祈は昨日の様子などは知らないが、やはり、それで良かったと改めて思う。
人が多い……という理由ではない。むしろ、校舎内の方はまだそれほど人が無いくらいだ。
校舎内は色彩豊かな紙の飾りや案内のポスターや人形……誰もが知るマスコットキャラクター達の乱舞で飾られていた。その煩雑した色の多岐は、見たものを一瞬で次々と覚えて絶対に忘れない祈の目には、少々喧しいのだ。
自分自身の気の向きよう次第なのだろうが、何となく、この文化祭特有の歓迎の囲いは、独我的で威圧的のように感じてしまう。
祈は心積もりが晴れないまま、深く嘆息して、あてなく進める足の向く先を仰いだ。
「……あれは、琴羽さん?」
と、自身の目を憂う矢先で、その目が思いがけず役に立った。
今廊下を練り歩いている廊下の端に、人の行き来に紛れて琴羽の頭がそそくさと動いていたのが見えたのだ。
こういう時には便利なもので、祈には人を見間違うということが無い。わずかな時間でも少し視界にちらついただけで、その人物であると分かる。
おかげで祈は、生まれてこのかた迷子知らずであった。というのも、例えば彼女が三歳の頃、一度家族で行ったデパートで、ふとした拍子に両親とはぐれてしまったことがある。
そんな幼い彼女が一人取り残され、さてどうしたかといえば────デパートを行き来する人の波一人一人の動きを正確に記憶し、はぐれるまでにそばを通りかかっていた人間を迷いなく辿り、自分を探す両親のもとに何食わぬ顔で戻ってきて驚かせた。
祈の瞬間記憶能力には、そういう使い道もあった。なんなら今からでも、多忙で別れた夕平達を難なく人混みを縫って探し出せさえも出来るのだ。
「おはようございます、琴羽さん」
閑話休題。そんな鋭い視覚は、遠くからだったが確かに琴羽の姿を捉えた。
「────わぁっ!?」
祈が近付くと、間抜けに裏返った悲鳴が上がった。
ばっと振り返ったそのあまりの激しさに、祈は呆けて目を丸くした。と、そんな祈の表に出ない驚きを見て、琴羽もすぐに強張った顔をふにゃりと解してみせた。
「何をしてらしたのですか?」
「あ……ああ……い、いのりちゃんか〜……もう! いきなり驚かせないでよねっ」
「ええと……その。すみません、そんなつもりはなかったのですが」
別段大きな声で呼び掛けたつもりではなかったのだが、琴羽は酷く狼狽した様子だったので、ひとまず謝辞を述べる。
しかしやはり挙動不審なその様子に、はてと疑問が口をつく前に、出てくる喉元の所でそれは瞬時に溶けていった。
対人恐怖症である琴羽の身を慮れば、容易なことだ。こういう人の集まる文化祭などには、今も苦手意識ぐ先行してしまうのだろう。
見れば確かに、その顔色は芳しくない。唇は青く、強張った怒り肩からは、全身に無意識の緊張が籠っていることが察せられた。
そんな彼女の気を紛らわす意を込めて、祈が話題を持ち掛ける。
「お一人で、文化祭のお仕事ですか?」
「え? いや……あ、うんそうそう! 仕事の確認を、ちょっとね……あはは」
「分かります、私も清上祭は苦労してましたから」
「そ、そう? そうなんだよ、しかも今日始まる音楽祭ってのが、これまた忙しくて……って、それより! いのりちゃん来てくれてるんじゃん! わあ、ようこそいらっしゃいー!」
「……それ言うの、ワンテンポ遅いですよ」
「え、えへへ……失敬失敬」
ペロリと舌を出して小さく笑う琴羽は、祈の気遣いも奏して僅かにその顔にも明るみが差し始めていた。
それによって気分が乗ったのか気を取り直したのか、琴羽はふと思いついたようにこんなことを話した。
「あ、そういえば、昨日はいのりちゃんみたいな清上の生徒がかなり来てたらしいよ」
「え? そうなのですか?」
「うん、バッチリ制服姿で。というか例年に増して人が多くて、こんなに来訪があるのはちょっと珍しいんだって。もしかして、清上の方で何かそういう紹介とかあった?」
「いえ、そういった話は存じてないですが……」
「ま、嬉しい悲鳴ってやつなのかな……学校が賑やかなのは、いいことだねー」
首をかしげる祈に対し、琴羽は肩をすくめた。
人が好きなのに、人を見るのに嫌悪感が拭えないのだと、何時か本人から聞いたことがある。
周囲は楽しそうであるのに、それを素直に楽しめないというのは、そんな彼女からすれば心境は複雑なものだろう。ある意味、今の祈の気持ちとはどこか似通っているのかもしれない。
「尾崎さん、ちょっとー」
「あ、はーい」
と、そんなことを考えていると、琴羽を呼ぶ声がする。
他の文化祭委員だろう女生徒に、琴羽が返事した。
「ごめんね、そろそろ行くね」
「はい、忙しいのにお引き留めしてすみません」
「あはは、全然!」
それじゃあねー、と手を大きく振り祈と別れた琴羽は、話す前より少し余裕が出来たのだろう、挙動も落ち着き、元の彼女らしさに立ち返っていた。
彼女もまた、自分達とは別の気概を持ってこの文化祭に臨んでいるのだ。委員に立候補したと聞いた時は心配だったものだが、確かに自分を変えようとしているのだった。
「……少し元気になったみたいで、よかった」
ここでたまたま会った琴羽は、拓二に連れられたという清上祭で初めて会った時のような、危うさともいうべき思いつめた様子がまたぶり返して見えたが……自分と話せたことで落ち着けたのなら幸いなことだ。
祈はそう思いながら、琴羽の去っていった方へ呟いた。
「……あ。雨が……」
窓の外では、雨雫の前触れが薄墨色の空から地へ真っ直ぐ線を描き始めていた。
◆◆◆
「────雨、降ってきちゃいましたね」
雨の予報が早くも正しいものとなり、ぽつりと頰に触れた冷たさを、この灰の空のどこから来たものかと目を凝らすかのように仰いだ。
連れてきた『客人』より先にタクシーから降りた拓二の肌に、午前の冷えた空気が張り付くようにまとわりつく。この来客用の仮駐車スペースから歩いて数分の距離がある学校は、ここからではかき曇る空の背景せいで、その輪郭がぼやけて映った。
「傘はお持ちでしょうか? なんでしたら、学校のものを取りに行ってきますよ」
まるで執事か何かのような丁寧さで、車内に向けてそう尋ねる。
その気の配りようには、単なる『客人』と接するもの以上の介護的な神経質ささえ感じられる。
「……結構ですか? そうですか……そうですね」
拓二はもっともだと神妙に頷き、続けてこう話した。
「今日は生憎の天気ですが、お二方には『彼女』の分まで楽しんでもらいたいです。『彼女』と同年代の高校生に触れて、『彼女』に少しでも近付いてくれたらなと、今日の音楽祭はそのきっかけになればと心から思っています」
『客人』は、二人いた。それぞれ、男と女が一人ずつ────眼鏡をかけ、ヒョロリと背が高いのが特徴の少々よれたビジネススーツを着た男と、めかし込んだ面もちながらも重々しく伏せた表情で、地味目な紺色のワンピースに薄いショールを上から羽織った女────彼らは、夫婦であった。
そう、どこにでもいる、ごく普通の家庭を築いていた夫婦だった。
「それが、『彼女』にとてもお世話になった僕が出来る、精一杯の恩返しなのですから」
そんな『客人』二人の手を引くように、歓待の微笑を湛え、拓二は甘く優しい言葉を掛けた。
「そうでしょう────千夜川さんのお父さん、お母さん」
遠くで、十時を知らせるチャイムと、それから音楽祭開催のアナウンスが響いた。
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