第九十四話:ムゲンループ
「ムゲンループ……だと?」
唐突の言葉に、それまでの巡らせていた警戒も抱え込んでいた感情も今は忘れ、額に汗を滲ませた。
部屋の中が暑い────いや、自分の身体が自ずと熱を放っているのか、熱に浮かされている。その熱は、自ら身体の内へ内へと籠もっていっている。
それの正体は、膨れ上がった驚愕と疑問、そして一種の興奮。それらに呑まれ、息が荒んだ。
ムゲンループと、今確かにこの少年は言った。
ムゲンループと、今確かに自分を名乗った。
「何故知ってるんだって顔だね?」
少年は、そんな拓二に向けてあどけなく尋ねた。
その指摘は正しくもあり、間違ってもいた。
拓二の明朗な脳裏には、それ以外にも、様々な疑問点がいっぺんに押し寄せて渦巻いていたのだから。
それらが意味すること、その混乱の渦を前に、拓二は立ち尽くすしかなかった。
「僕は何でも知ってるよ。イギリスでのことも、清上学園でのことも、ね」
歳の青さが色濃く滲んだその声は、すらすらと淀みなく言う。青白く薄い唇は、その見かけに対して軽やかな回りようだった。
まるで台本でも読むかのように、会話に対して食い気味に……真にこの機会を待っていたのだろうと感じさせる面持ちだった。
拓二は、そんな少年にも警戒は絶やさなかった。
十メートルあるくらいの僅かな距離。そしてこの部屋は二十三階を有する高層ホテルの最上階だ。
逃げ道は、バルコニーにある緊急用の装置を使わなければ、拓二の背後にあるこの部屋の扉しかない。
逃げられはしないこの状況で、拓二はさらに慎重に言葉を重ねた。
「……何故俺のことまで、そこまで知っている。どうやって知った」
「君は、特別だから」
「お前は、何者だよ。ネブリナの人間なのか?」
「ううん」
しかし少年は、ひらりひらりと躱すような曖昧な口振りでそう答える。
小馬鹿にしているのか、あるいは話術の一つか。拓二はそう一字一句を聞き逃さない心構えで少年との会話に参加を続ける。
彼は既に、理解しつつあった。
まだまともに信じられないことだが────この少年が、ただの不審者でも気違いなどというものではなく、一ムゲンループの住人として、一聞に足りる存在であることを。
「僕は、どこにでもいるよ。実は『あの日』……君が立花の命を救った時にも、その近くにいたんだ」
「……お前……本当に何なんだ」
暁のことまで、この少年は知っている。本当にあの時あの場に居合わせたのだと思わせる口振りだった。
しかしそれはあり得ないはずだ。『あの日』清上学園近辺はネブリナが封鎖していた。誰にも、例え司法機関でさえ立ち入る隙は無かった。
……もっとも、今はそれにも疑心が浮上しているのだが……今はさて置くことだと拓二は割り切った。
「僕は『ムゲンループ』さ。さっき言ったろ?」
あっけからんと、少年の口はこう音を出して動く。
「そして僕が君にこうして会いに来たのも、理由は一つ。……君が特別だからさ」
そうして、先程と同じ答えにならない答えを繰り返した。それ以上踏み込んだ返答はしないと、暗に告げているようでもあった。
「もったいぶるわけじゃないんだけど……こっちにも事情があってね」
拓二の焦れに空気で察したのか、それに対し少年は何もかも分かってるとばかりに一つ頷いた。
もったいぶってないのであれば何なのかと、もっともな疑問が喉から出るより一足早く、少年の口が続けざまに動いた。
「でも時が来たら、全ての真実を話すよ。────ムゲンループという現象とは何なのか、そしてその住人と呼ばれてる者の正体が何なのかも、君だけに、全てね」
「は……?」
「今日は、その前の顔合わせ」
今度こそ、拓二はポカンと口を開いて固まる。呆然と動かない脳を挟んで、耳から耳へその言葉を通り抜けた。
ムゲンループとは何か?
ムゲンループの住人とは何なのか?
恐らくは他に例のない年月をムゲンループで過ごしたであろう拓二も。
その拓二の力を凌駕する祈やマクシミリアンも。
医学界の権威と名高いグーバ、そしてその娘ベッキーもといベローナも。
それらあらゆる住人の知恵でも未だ誰も辿り着けない、この世界の真実を。こうもあっさり、少年は教えると言った。
俄かに信じがたい。素性も何も不明であるこの少年の言うことを鵜呑みにするなんて、まともの感性ではない。
……が、しかし。少年は拓二達が知らない『何か』を知っている。今までの言動から、それは分かる。
拓二はしばし、冷静を忘れた。余裕という仮面からボロが溢れ出た。
パタリと踵で隙間を抑えていたはずの扉が閉じた。我に返ることなく、街灯に惹かれる羽虫のように、ふらりと前に足が進んでいたらしい。
しかしそれも、詮方なきことだろう。
目の前に、これまで突き詰めようとした答えがある────かもしれないのだ。
例え祈の言う『ムゲンループの脱出』に無頓着とも言える拓二であっても、垂涎の的と相応しい内容なのだから。
「……君には、これから大きな運命が待ち受けてる。君達にとってとても困難で、過酷な運命が」
拓二にとっては聞き捨てならない、つい数秒前の言葉を、当の少年自身が忘れたかのように、彼は改めて話し出した。
「そしてそれは、もうすぐ目の前に迫ってる。でも挫けないで。五十年の長いループを経た君は、昔よりずっと強くなったはずだから……」
少年はとうとう、今まで見えていた口元さえも隠さんばかりに顔を一度俯かせた。そして次に拓二の目にその僅かな容姿が見えた時、少年は拓二に背を向けるように────部屋の光が届かない、暗い窓の外へと振り向いた。
フードから覗かせた頰から口元は、成長を見守るかのような柔らかい笑みだった。
「それじゃ、雨の日には気をつけて」
「! ま、待てっ!」
すうと床を滑るように少年が外へ向かい始めたのを、拓二は意識ごと身体が弾かれる感覚を伴いながらも急ぎ追いかける。
「待てよ! お前は……っ!」
少年が窓を開けた瞬間、そばのカーテンが風に煽られ激しく靡いた。刹那、拓二の視界に自分とよく似たその上背が掻き消えた。
そして────次の間には、そこには何も無かった。
少年は音もなく、忽然とこの部屋一面からその痕跡を消してしまったのだ。
「消えた……!?」
幻を追うかのように、拓二はバルコニーに踊り出た。
しかし、こちらも同様、いくら視線を彷徨わせても彼の気配を認めることはない。
隣へ飛び移った可能性も考えてみた。が、部屋と部屋の間は広くとられている。当然、バルコニーの位置も、隣同士ながらかなり離れていた。仮に拓二が思い切り飛び込んでも、隣には手も引っ掛けられないだろう。
まさか飛び降りたわけでもあるまい。もっとも下を覗こうにも、灯台下暗しとばかりにその地上はここからでは何も分からないだろう。
本当に身体を煙にして昇華していったとでも言うのだろうか。
「……一体何が、どうなってる……!?」
────僕は、どこにでもいるよ。
上空に近い冷ややかなビル風が、残された拓二が漏らす微かな呟きを囃し立てるように吹いた。
◆◆◆
「……ふう」
同時刻。
机に向かっていた暁は、窄めた口から息を吐き、シャープペンシルを転がした。体重を乗せた背もたれが、ぎしりと軋む。
そばのゴミ箱の中はくしゃくしゃに丸めて捨てたルーズリーフがうず高く積もり、挫折と前進の繰り返しの跡を窺わせる。
かれこれこの姿勢のまま、歌詞をで何時間経っただろう。上手く出来た表現と、そうでないものの差が激しい気がする。
「…………」
いや……そもそも、『上手く出来た』という意識そのものが間違っているのではないか。
暁は、悩んでいた。
人に想いを伝えるのに、小賢しい言い回しが必要なのだろうか。分かっていても策を弄するような言葉遊びに夢中になってしまっている。
言葉のまどろっこしさに行き着く度に、パタリとその先が進まなくなるのだ。
「後十日、かぁ……」
ちらと一瞥した十一月のカレンダーには、ただ一つ、大きな丸でとある一日がぐるぐると囲われている。
来る、音楽祭の日にちだった。
時間が足りない。他のメンバーに迷惑を掛けてしまっていると分かっていても、それでも完成には届かない。たった数分の歌詞に、思いの丈を書こうと思うと収まりきらない。
先の見えない四苦八苦は、ジレンマと憔悴の負の連鎖だ。前に向けて進んでいるはずが、いつの間にか元の場所よりも下がってしまっている。
歌詞の創作という、言葉では一口で済むような行為が、ここまで難しいと思わなかった。
「…………」
そして今────憂慮することは、それ以外にもあった。
そのうち一つが、今日自分宛に届いた、一通の手紙。
それは、ピンポイントで自分達の出場を警告し、悪意を持って阻害するものだった。
気にしていられない、気にしている場合ではない。
そう自分に言い聞かせるように、ますます暁は没頭した。
がむしゃらに、ひたすら紙に向かい続けて……しかしふと我に返ると、思い出してしまうのだ。
それは怖いというよりも、得体の知れないふわふわとした浮遊感だ。
誰が、何の意図があってあんなものを差し向けたのか。何も分からず、自分の観念からとてもかけ離れた
未知過ぎる出来事に現実味が無い。
言い知れぬ漠然とした不安。どこからともなく迫る悪意が、平々凡々な自分に目をつけたということに違和感さえ感じられた。
しかしそれが今、鋭利なナイフのように自分の首根っこまで突きつけられているとしたら────
心細さから、机上に置かれた自分のスマホに目をやる。時刻はデジタルで、『11:47』を示していた。
「夕平……」
体育座りのように曲げた膝を抱きしめて、一人の部屋でポツリと、その名を呟いた。
「────わっ!?」
そしてそれと同時、まるでそのぼやき声に応えたかのように、軽快な着信音が鳴り響いた。音が質量を持って畳んだ身体を揺らし、暁は思わず椅子の上でバランスを崩してすっ転びそうになる。
そんなことに構うことなく、今流行りの着メロを鳴らし続けるスマホを手に取り、暁はその電話主の名を呼んだ。
「ゆ、夕平!? なに、どしたの?」
『え、いや……どうしてるかなって思ってよ』
相手は夕平だった。
先ほどの呟きが聞かれていることがあるべくもないのに、そのあまりのタイミングの良さに、不思議なバツの悪さと気恥ずかしさが混ざった気分で声が上擦る。
『お前こそ、慌ててどした?』
「なっ、何でもない何でもない! お気になさらず!」
『ふーん? ……ま、いいや。で、どうだよ?』
「あ、私は大丈夫だよ! 待ってて、歌、あとちょっとで出来るから!」
『…………』
「後はサビのところなんだけどね、ここを大事にしたいなって。辞書も使って、色々探してるんだけど────」
『なあ暁。俺はまだ、今どうしてるかってしか訊いてないぜ?』
「え……?」
しかしその必要以上に口の回る暁の言葉を引き取って、夕平の声がぐいと割り入ったのだ。
『……怖いんだろ。あの手紙のことも、上手くいくかどうかも』
確信を持った彼の口振りに対して、何を、と声を上げる代わりに、どきりと胸の奥が鳴った。
どうやら夕平は、自分以上に自分のことを分かっていたらしい。
いつもは鈍いこの幼馴染が、自分のうちにある不安を……そしてそれを紛らわせるようと苦心していることまで見抜いているらしかった。
暁は、心苦しいような、申し訳ない気持ちになって、
「……でも……そこまで甘えちゃ悪いよ。ただでさえ、私のわがままで作詞させてもらってるのに」
『何言ってんだ。どうせここには俺とお前しかいないんだし、怖いなら怖いって、正直に言ってみな。それにバンドリーダーとしては、ここで悩みを隠されたほうが困る』
夕平は、そんな暁の懸念を小さく笑うような軽い調子でそう言った。
あるいは軽々しい、だとか空気が読めず遠慮が無いとも取れるかもしれない。しかし、それが今は何より心地よかった。
それから、連綿と重ねられる会話の内に、気付けば彼に対し色んなことを喋っている自分がいた。
部屋にもう一つ掲げられた、丸い掛け時計の長針短針が、何時しか頂点を通り過ぎていたことにも、一拍遅れて意識が向いた。
『……いのりちゃんも拓二と同じで、意地っ張りというか、律儀だからな。あれは多分、言わなきゃ来なかったんじゃねーかな』
「うん、そうかも……でもそっか。じゃあいのりちゃんも来てくれるんだ、音楽祭。ありがとうね、夕平。頼んでくれて」
『ん。いのりちゃんとは友達だからな、当たり前だぜ』
暁の知らないところで、気掛かりの一つを解消していた夕平には、頭が上がらない。
夕平は、少し変わったように暁は思う。何かにつけて人に気を向け、より人の話を聞くようになった。より人の目を見て話すようになった。よりはっきりとした物言いをするようになった。
そう、全て『あの日』から……『あの日』失ったものを取り返そうとしているかのように。
そして、それらの点と関係があるかどうか定かではないが……一部の女子の間で、夕平の存在は、彼女らの話題に上がることが増えているようだ。
話しやすく、気兼ねのない明るい性格。キリッとすれば顔立ちもそうは悪くない。さらにバンドの、しかもボーカルをやるとなれば、夕平は一躍人気者となるかもしれない。
そういった噂を、まず本人が知り及ぶことはないだろうが、しかし暁は違う。
ともすれば、あの手紙の差出人も、そうした夕平を好む者から向けられた敵意なのでは……と、我ながら邪というか、浅ましいと思う妄想を考えずにはいられない。
狡い話だ。
そういう言い訳がましい危惧も、あまりに当てつけな可能性を挙げられることも。本当は、己の心中を黒く黒く燃え焦がし、冬至の寒気のように走り抜ける感情の醜い表れであることは、分かっていたのに。
「……ね、夕平?」
『? どした?』
「私、夕平のそういうとこ好きだよ」
『んなっ……!?』
確かめるための、狡い告白。
予感として感じる不安も、胸中から湧き出る卑しさや疚しさもしまいこんで、代わりに誤魔化すような純真を告げる。
そう、自分は狡い。狡いことしかしない。
いつも自分のことばかりで。『あの日』から、何も変わっていない。
立花暁という女そのものは、こんな醜い有り様だ。一人だと、こうも愚かしい。
それでも、そんな自分が今も生きてられるのは、それを望んでくれる周りの仲間がいたからだ。皆のおかげで、自分はいる。
それは祈のおかげであり、夕平のおかげであり、そして────拓二のおかげだ。
それを伝えたい。
自分が今満ち足りている所以を、そうした想いを彼にぶつけたい。その一心だけは揺るがない、確固たるものだった。
『ちょっ────のわあ!?』
「ゆ、夕平! どうしたの!?」
『いっ……てて、くそ、椅子から転げ落ちた……』
「あはは、なんだ。もー、何やってんの」
『おっ、お前がいきなし変なこと言うから……!』
「え? 好きは好きだよ、それは変なこと?」
『ぐっ、むむ……!』
何故か口論で言い負かされた時のように、電話越しの夕平は、口をもごもごさせて何か声にならない声を発してから、
『あ! おっ、俺、光輝とエイジに電話すっから! じゃ、じゃあな!?」
「うん、おやすみ」
クスクスと笑う暁にそんな捨て台詞を残して、その通話は途切れた。
こういう子供っぽいところは、どうやらずっと昔から変わらないらしい。
部屋の中には、やはり暁一人だ。
しかしそれまでと違って、自室の中はまるで今の心境を模したかの如く、ほっとする暖色に満ちているように感じられたのだった。
「……よし、もうちょっとだけ頑張ろ!」
────音楽祭まで、あと十日。
◆◆◆
こうして、各々の夜は更けていく。
期待、不穏、そして新たな謎をそれぞれ抱えて、日は過ぎていく。
────まるで喜劇。まるで笑劇。
既に運命は、決定付けられた一つの結末に向かっていたのに。そのことを知れば、全てがどうでも良いことに過ぎないのに。
それを知る者は、この時は誰一人としていなかった。
しかし、もう遅い。
一つの舞台に、様々な感情が入り乱れ寄り集まる中、時間だけは公正平等に待ってくれない。
音楽祭────多くの人間にとって取るに足らないその日は、何の前触れもなく訪れた。
────新たな始まりが、始まろうとしていた。
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