第九十三話:夜は更け、謎は増す。
『立花先輩に、脅迫状……ですか』
通話の先で受け答えする声は、夕平が今日の夜のとんでもない出来事を話しても、依然落ち着き払ったものだった。
素っ気ないと聞き取られがちな電話の声の主、祈。帰宅した後、夕平は内にある気掛かりを相談するべく、彼女に電話を掛けたのだった。
返ってくるそのお得意の調子にもいい加減慣れ、むしろそれに同調するように、冷静に話を整えることが出来た。
「ああ。暁の靴箱に入ってたんだ」
『それは、立花先輩だけを狙って……でしょうか?』
「ちょっと分からねえ。辞退しろ、しか書かれてなかったからさ……」
『それでは、その脅迫状も本当は立花先輩だけでなく、その場にいた皆さんに向けたものなのかもしれませんね』
祈の言葉を聞いて、なるほど確かにと、電話越しであるのにも関わらず頷く。
その夕平の手元には、幾ら穴が空くほど眺めたりかざして見たりしても何の変哲もない(何の変哲もない、というのもおかしな言い草だが)脅迫文があった。
「暁は大丈夫って言ってたけど……正直、かなり気にしてると思う」
『怖い、でしょうね。立花先輩』
「ああ。よりによって暁になんて、イタズラにしてもタチが悪いぜ……!」
しかしまったく、気に入らない。
こう真っ向からでなく、こちらから見えない陰からの脅し文句では、フェアではないし、理由も分からずどうしようもない。
自分達の参加が気に食わないなら、直接言いに来ればいいものを。
しかし、ここで一つ、夕平には思い付いたことがあった。
それは、疑心の揺れから生まれたある『可能性』。
「思ったんだけど……もしかしてこれさ、拓二がやった……のかな?」
『可能性は、否定しきれません』
本当なら夕平は、拓二を疑いたくはなかった。思い付かなければ良かったとさえ思っていた。
しかし暁には例え可能性だとしても話せなくても、祈ならあくまで考慮すべき可能性として相談が出来ると踏んだのだった。
『拓二さんらしくはありませんが、勝つための実行力がある人ですから。何が何でも勝ちたいと、あの人が願ったとしたら……』
「そっか……やっぱり」
やっぱり、というのも、流石の祈でも提示した可能性を完全に否定出来ないということへの言葉だった。
『とにかくまずは一度、その脅迫状を見せていただきたいのですが』
「ああ、いいよ。こんなの俺もいらないし」
『お願いします。それと、もし今後同じようなこと、あるいは何か不審なことがあれば、私に連絡をください』
「サンキュー。でも、いきなりごめんな、いのりちゃん。また力を借りることにもなっちまって」
『いえ、全然構いません。私でよければ、いつでもお二人の力になります』
「助かるよ」
『…………』
「…………」
話が終わると、途端、沈黙が流れた。
「……あー、ところでいのりちゃん、最近どうしてんの?」
『私、ですか?』
このまま電話を切るのも味気ないと感じた夕平が、会話を持たせるために訊く。
『私は普通ですよ。普通に過ごしてます。模試ももう近いので』
「そっか……いや、最近会わないから、何やってんのかなって」
実際、暁と同様に心配していたのだ。拓二に負けたあの日から、本当に宣告通り一度として拓二に会っていない。祈にとっても、数ヶ月の再会だっただろうに。
そして自然と、自分達も祈と会う機会も無くなってしまっていた。
「……音楽祭、いのりちゃんも絶対見に来てくれよ」
『え? ですが……』
「それくらいなら別にいいだろ? 拓二に会わなかったらいいんだから。暁も会いたがってるぜ」
『…………』
「な?」
────このままでは、皆が離れ離れになってしまうかもしれない。
祈、そして桜季も、拓二は切り捨てた。自分に不都合だという理由で。
傷つきたくない故に、一人重荷を背負って自分から孤独になろうとしている。まるで忌み枝を剪定するかのように、彼が確かに得ていた絆を、また一つ無に帰すつもりだ。
それは、間違っている。
彼女ら二人のその瞬間を近くで立ち会った夕平は、真っ直ぐな思いでそう感じていた。
この音楽祭での勝負は、もちろん拓二に負けを認めさせ、全てを話してもらうことが目的だ。もう既に結論が導き出された真実を。
しかしそれには意味がある。決して、蓋をし隠そうとした内容(ふつごう)そのものに対し糾弾するわけではない。
ただ、在りし日から目を背け、結果ボロ切れのように残った仮初めの友情を、受け入れるわけにはいかない。馬鹿なことをと言ってやらなくてはいけない。
取り返しがつかなくなる、その前に。
そういう意味も懸かったこの勝負だ。
そこに、祈は居合わせるべきだろう。
『……桧作先輩』
「うん? どした?」
祈は、しばし何も言わなかったが、やがて静かな声で、
『そう気軽に女性を誘うと、立花先輩に悪いですよ?』
「……うぇっ!? い、いやいや、俺そんなつもりじゃ……!」
『冗談です』
「冗談に聞こえねーよっ!」
あまりにも冗談を言うのに相応しくない声音でそう言うものだから、肝が冷えた。
電話の向こうから、ふふと鼻から息が抜けるような笑いが小さく聞こえた。
『練習、頑張ってください。……楽しみにしてますね』
「……ああ! 俺達に任せとけ!」
────音楽祭まで、あと十日。
◆◆◆
議員や政治家、あるいは財界人御用達と付近でも名高い高級ホテル。
その高層階に位置するスイートルームは、敢えて例えるのであれば、エレンの私室兼『職場』である『赤い部屋』をそのまま〝血抜き〟したような、日本国内の中でも遜色ない
そんな一室に、とてもでは無いがこの部屋の雰囲気とはかけ離れて年若い、三人の少年少女達がいた。
その中の二人の少女、メリーとエレンの部屋でそれぞれ思い思いに佇む三人は、既に夕食を済ませている。
エレンは、狭苦しい車椅子から解放されるように、その身の何倍もの大きさのベッドに腰を下ろしていた。
しかし今は、その柔らかな感覚に無邪気に身を委ねることもなく、静かな眼差しで他の二人を見る。
『トムソン=チャベスって大富豪のこと、二人は知ってる?』
感情を感じさせない静謐な雰囲気を纏い、エレンがまず尋ねた。
メリーは首を傾げ、拓二に向けて顔を合わせた。
『誰それ? 知らないわ。ねえ、タクジは?』
『聞いたことはあるな……っていうか
『……ロンドン市長とか、何で私よりアンタの方が詳しいのよ』
『日本でも騒がれてたニュースくらい勉強しろ』
『むかっ! また私のこと馬鹿にして!』
そんな拓二とメリーの、いつもと変わらないやり取りに、エレンは微かに息を吐き、
『事故っていうのは表向きの死因。トムソンは、お父様が始末したわ。二人も知ってるでしょう……数ヶ月前の、イギリス大恐慌未遂事件の終結のために』
『数ヶ月前』という単語に、途端に二人の間で緊張が走る。
拓二とメリーが互いに今までにない死線を潜り抜け、エレンは命の危機にさらされた、忘れるべくもないあの事件。
特にメリーからすれば、反応しないはずもない話題だった。
『……ああ、なるほど。言い換えればあの事件の裏でグレイシーを操っていた隠しボスが、そのトムソンだった、ってことか』
『っ……!』
グレイシー=オルコット。
彼女はかつてのメリーの傍に控え、公私共に付き合いがあった。ネブリナ家の
グレイシーが別の大きな存在に操られていたと聞き、メリーは下唇を噛んで、胸元のネックレス────グレイシーがかつてメリーに授けたものと同じ、彼女の形見そのもの────を両手で握りしめた。
『隠しボス……そう、彼はまさしく隠しボスだった。グレイシーのような手管(ボスキャラ)を、幾つか従えていたわ。絶大な力を持つトムソンにグレイシーのような味方は多くて……お父様が陰で苦労していた理由の大きな一つね』
『で、それがネブリナもとい、今の俺と何の関係がある』
エレンは、そんな姉の様子に構う素振りをまるで見せることなく、淡々と話し続ける。
今のエレンはまさに、ネブリナ家の『嬢王』としてのエレン=ランスロットの本質であった。
『その残された他のボスキャラが、今となって、トムソンの死を隠そうとしたマクシミリアン……ネブリナに向けて声を上げ始めてるの』
『……つまりは、どうなる?』
『戦争が始まるわ』
至極冷静に、端的に、不穏当な言葉がぶつかる。
戦争というそのワードが自分達を取り巻く現状とかけ離れすぎていて、あまりにも現実味が無かった。
『元からネブリナに敵性意識があった者、今回を機に反目する者、あるいは漁夫の利を狙う者……程度に大小あれ、そんな存在に目を付けられて一度に囲まれたネブリナの情勢は今、緊迫してるの。このままだとネブリナファミリーは滅ぶかもしれない────こう言う人もいるんだって』
『でもネブリナって、マフィアでしょ? 何とかなんないの?』
顔を上げたメリーが、事情に疎い故の自分の疑問を素直にエレンにぶつけた。
その問いにエレンは、あっさり首を横に振る。
『マフィアが強いなんて、今時子供でも頷かないわ、お姉様。ネブリナなんてまだ優しい方……世の中、一睨みで人を殺せるような、ドス黒い化け物みたいな連中もいるのに』
そして、エレンは口を開く前に、それまでじっと話を聞いていた拓二に向き直った。
『そんな勢力に対抗するために……お兄様、貴方のこともお父様は利用したわ。……さて、一体何のことでしょうか?』
「…………」
澄んだ灰色の目が、腕を組み黙考を秘めた彼の面持ちを試すように見る。
エレンだけじゃない、今の拓二もそうだ。両者は互いに、年若い無邪気な少年少女の出で立ちから外れ、
『……千夜川桜季、か』
それは例えば、錆始めの鉛のように重く、例えば数十年もの年月を経験した巨木のように深い声。
謂わばこれが、拓二の本性。エレンやマクシミリアンとは別種の、内に押し込めて老熟させた独特の空気を、今かつてない程に湛えていた。
『一介の日本の高校生同士の殺し合いなんかわざわざ利用したのは、それら勢力に対抗できる力を募るため……有力者を引き入れる会合の場を設けるためだった』
『……そして、俺もいつの間にか、あいつの掌の上だった、ってわけだ』
そう言って拓二は、自嘲気味に笑う。
『それで今度は、自分の子供の子守りを押し付けてから、今度は手前の尻拭いに呼びつけたってわけだ。……まあ随分とお優しい兄貴分だことで』
『何よ、アンタその言い草! せっかく会いに来た……って、のに……』
拓二の言い草にカチンときたメリーが、胸元に食って掛かるかのように怒鳴った。
だがすぐにその言葉の勢いは、ゆっくりと力無いものへと変わった。
『ちょっとタクジ……アンタ、怒ってる、の?』
『……いや』
いや、と拓二はそう口にはするものの、それが形だけの否定であることくらいは鈍感なメリーでも分かる。極めて静かに激しい感情を露わにする彼に、思わず言葉を失った。
『……お父様やジェウロだけじゃなくて、ネブリナはかなり忙しいみたい。私達の護衛に人を割けない程にね』
『だからお前らは、日本にいる俺を頼ってきた……同時に、色めき立つネブリナの駒としての俺を、連れて帰るという目的を果たすために』
拓二は納得したと頷く。腕組みを解くことなく、ゆらりゆらりと頭を何度も縦に揺らすその様は、現況をしかと吟味しようとするようにも、感情の〝捌け方〟に集中して呆けているようにも見える。
『……一つ、聞く。お前らが来たことで、お前らが滞在中、日本に……桧作夕平、立花暁に危害が及ぶ可能性は?』
姉妹二人の呼吸さえも聞こえる程に静かなその部屋に、呟き声にも等しい抑えた声が降りる。
その声は小さいながら、しかし確かに聞こえたはずのエレンは、何か俯き出してしばらく黙りこくっていた。
『……伝言を、頼まれたの。もしそう訊かれたら、お兄様にこう言えって』
拓二の言葉が、煙のように宙に溶けて果たして本当にそんな言葉があったのか定かでなくなった頃────エレンは、告げた。
『お父様が言うにはね────「It will all be the same a hundred years hence (百年たてばみな同じだ)さ。そうだろう?」、って』
「っ……はははっ!」
笑いが弾けた。
乾ききった、攻撃的な笑い声だった。
「そうか、そうかそうか。くく、テメエの都合は押し通しておきながら、俺の都合はどうでもいいってわけか。はは……実に────実に、正論だな」
エレンは、全てを話し終え、強い皮肉の羅列を黙って受け止める。
一方、その日本語を聞き取れないメリーは、しかしその語気を肌で感じているのか、どこか心配そうな目で拓二を見ていた。
「余程あいつは、俺のことを引っ掻き回したいと見える。これまで長く生きてきたが、まあ酷く舐められたもんだな」
激昂し怒鳴り散らしているわけでもない。憤怒に絡め取られた限界の表情をしているわけでもない。むしろ、振る舞いとしては比較的穏やかで余裕さえ感じられた。
しかしその身から迸る存在感は、たちまち部屋に満ち満ちていく。重々しいそれは、少女二人からすればかなり威圧的であろう。当の拓二は静かに立ち上がり、彼女らを見やった。
『じゃあ、マクシミリアンに伝えといてくれよ────「お前のごっこ遊びに、いつだって付き合ってやると思うなクソ野郎」、ってな』
歪めさせたその口角の隙間から、捨て台詞の悪態を残し、彼は部屋を後にする。
廊下に出て、すぐ右隣に拓二の部屋はあった(初めからここで宿泊出来るよう用意されたのだろう)。パタリと閉じられるオートロックのドアを尻目に、拓二はさっさと自室に引き返した。
ロックの解除音と共に吐き出されたカードキーを、拓二は手元にしまう。自分一人だけに用意されたこの豪華な部屋の扉も、今となっては嫌味のように映った。
「……どうでもいい、か……」
そうぼやいて鼻を鳴らす拓二には、どうしてだろうか、存外、自分の中に特別込み上げてくる感情などはなかった。
エレンから話を聞かされた時は、確かに怒りを覚えていたはずだ。メリーもエレンもそのことは感じ取っており、そしてエレンに吐いた悪態も、言ってしまえばただの八つ当たりなのだろう。
だから今、自分は怒っているはずだ。
そして今、一人になってその怒りを爆発させると思ったが、違う。
マクシミリアンの要求や、メリーとエレンの都合も……いやいっそ夕平達との勝負のことも、現状自分を取り巻く何もかもが────何だかもはや、取るに足らない事柄のように思えたのだ。
胸中にあるのはただ、一種の虚脱感、といったところか。
感情は上滑りし、身体の外へ流れていく。自省してみると、どうも妙な違和感が頭の後ろに走り抜けていった。
「……?」
しかし────そんな一瞬の違和感は、容易く頭から抜け落ちることとなる。
「……お前、誰だ?」
隣のランスロット姉妹の部屋と同様、オートロックによって密閉されていたこの暗がりの部屋に────くっきりとした人影があった。
警戒が、血流より素早く全身を巡った。一度しまったカードキーが室内灯のスイッチになることを思い出した拓二は、すぐさまそれを手にした。
「……随分浮かない顔だね。何か言われたのかな?」
しかし声は、そんな拓二を呑気ともとれる空気違いな語調で迎えた。
まるで、この部屋に自分がいて当たり前といった風だ。
「お前は誰だ」
同じ言葉を繰り返す。これは、相手に対する一つの警告でもあった。
突然の正体不明の存在にも、拓二は非常に冷静沈着に行動していた。部屋の扉を閉じる前に足で抑えて退路を設け、それと同時に目を既にこの薄闇に慣らしている。
肩幅ほどに足を開き、襲い掛かられようが対処出来るように臨戦態勢で構えていた。
「やあ、相川拓二くん。一応は初めまして……だね」
男の声だ。
間違いなく日本人、それも男というよりも少年と言った方が適当であるくらい、かなり年若い。
カードキーをスイッチとなる箇所に差し込むと、音もなく部屋に光を灯した。そして、目の前の闖入者を照らし出す。
『少年』はかなり線は細めで、腕っぷしなどはこちらに分がありそうだ。
さらに予想通りにもそう歳は離れてないようだったが、フードを目深にかぶっており、その口元がしゃべり声に合わせて動くところしか分からない。
「お前は……? いや、それよりどうやってここに」
「君に、会いに来たんだよ」
静かな、さりとて様々な感傷を乗せたような話し方をして、『少年』は拓二の問いに噛み合わない答えで返した。
「やっと、君と二人きりになれた……って、ああ、僕のことだっけ?」
そして何故なのか、顔半分が隠されたその『少年』の表情には────心からの喜色が浮かんでいるように見えた。
「そうだね……じゃあ、僕のことは『ムゲンループ』、とでも呼んでもらおうかな」
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