第九十一話:変調

 最初に俺が身体の変調を覚えたのは、日本を発ってから一ヶ月が経った頃だった。


 その一ヶ月間は、ワケあって己の身だしなみを無視する形となってしまったのだが────ほったらかした髪はかなりボサボサで、耳を鬱陶しく覆うほどになっていた。

 まあ、それはいい。

 だが、ふと鏡でそれを認めたと同時、『あること』に気付いた。


 


 元々、髭は普段から剃らなくても年相応よりも生えてこないタチではあった。しかしいくらなんでも、一ヶ月も放っておけば、流石に無精にもなるはず。

 ────が、違和感は違和感として取るに足らないことと、その時は思い直していた。

 

『アンタ、ご飯ちゃんと食べてんの? 痩せたっていうか……華奢になったような気するわよ』


 ……『あいつ』にそう指摘された時は、内心どきりとした。

 変調は進み、自分の中の違和感は次第に大きくなっていったからだ。


 深手を負ったために軽い麻痺が続く左肩は、少しだけほっそりとした撫で肩を描くようになり、身体がバランスを取るかのように右も合わせてすっとした肩幅になっていった。

 また、良くてミルクに浸したシリアル程度の不安定な食事や、落ち着かない睡眠時間のせいか、筋肉こそあるものの顔の輪郭は細く、体重も落ちた。

 ニキビは一切無くなり、あまり陽にも当たらず、その肌は柔く青白くなる一方だった。


 そう、言葉通り華奢に────と言うよりも、


 その変調は、日に日に酷くなっていくように感じた。

 俺そのものが別の何かに変化しようとしているのか────などとくだらない妄想もした。


『一時的なホルモン分泌の乱れだな。肩の傷、落ち着かない環境、それ故の心理状態(ストレス)の極端な変化が、そうさせているのだろう。その証拠に、身体そのものに不調はそう感じまい』


 知り合いの医者は、俺を診てそう話した。


『……ムゲンループのせい、なんてことは?』

『ムゲンループだと? ふむ……』


 俺は、気がかりだった。


 もはや、自身の変化は否定出来ない。

 しかし言い渡された診断による原因のどれも、今の俺に当てはまるように思えなかった。

 もっと何か……『別の何か』が、俺の身に起こっているのではないか?


 であれば、俺は一体、どうなってしまうのか。

 俺は一体、どこに行き着こうとしているのか。


『五十年相当の精神に、その身体が遅れを取っているという状態……その内外のバランスの崩壊も、原因の一つと言えるやもしれん』


 そういう弊害も、今までいのり共に考えてこそこなかったが、筋は通っている。

 あり得ることだ。長いムゲンループで生きてきたための弊害デメリットは、何時の間にか俺を蝕んでいたのかもしれない。


『とにかく、暫し休息を取ることだ。例えば……見知った故郷にほんに一度帰る、などな』


 ────日本に、帰る。

 あいつらのいる場所へと。


『……どういう意味だ』

『そのままの意味だが? 貴様が休養が出来る場所といえば、そこくらいのものだと思っていたが』

『……そう、か。どうも。考えとくよ』


 その考えには、出来るだけ至らないようにしていた。

 この俺の変化も、始まったのは日本から出て行ってからのこと。


 


 今までしなかった殺人という一線に、俺自身何かしこりを残しているのか。身体に変調をきたす程に。

 

 そして、それを解消する鍵こそ、日本────あいつらの元にある。

 それを、認めなくてはならない。

 俺は俺のために、あいつらと会う必要がある。


 あれからどうなったか、経過を見るという意味でもちょうどいい。

 数ヶ月離れたあいつらの顔を思い出し、一度帰ることを決意した。


 その夜のことだ。


 日本に帰る身支度を整えた。

 久しぶりにあいつらの顔を思い返した。

 いつもより強く古傷が疼いた。────その夜だった。


 まるで、そこにいるのが当たり前であるかのように。

 あるいは、今まで俺が見えていなかっただけで、本当はずっとそこにいたかのように。



 千夜川桜季の幻覚ぼうれいは、俺の前に現れた。



◆◆◆



 この時期、放課後の音楽室は盛況だ。校舎に響く旋律が止むことはない。

 二日に渡り執り行われる文化祭は、クラス展示と部活動の紹介アピールがある一日目の翌日に、音楽祭が控えている。


 この音楽祭とは、全国大会出場の経験がある個人から寄せ集めの素人団体まで、学校生徒・教員共に参加自由の、かなり大掛かりな目玉イベントなのである。

 観客の投票、審査員数名の評価までなされ、もっとも支持を集めた団体には賞品まで授与されるのだ。


「光希、テンポ遅い! スコア気にしすぎ!」

「う、ウッス!」

「暁、もうちょい力出せ! 音消えてっぞ!」

「はい!」


 演奏の最中、叱咤のような強い口調で指示を飛ばすのは、夕平だ。ギターを片手に風格を漂わせ、披露が間近に迫る曲合わせを行っている。

 あまり人を怒鳴ることのない彼にしては、珍しい姿と言えるだろう。


「……なんか、意外な一面だな」


 そんな彼らの、並々ならぬやる気に満ちた練習風景に対し、離れたところでしれっと居座っている拓二がそう呟いた。

 まるでその演奏を聴きに来た観客のように、椅子に腰掛けて眺めていた。そしてそれも拓二だけでなく、その隣で同じように見ていた少女、琴羽がその呟きに答える。

 

「夕平先輩、昔ギター齧ってたんですってにゃん。お兄さんがやってたからって」

「お兄さん? あいつは一人っ子だろう」


 夕平も暁も、一人っ子のはず。それは拓二もよく知っていた。


 しかし、琴羽も伊達にここ数ヶ月夕平達と仲良くしているわけでもないらしく、拓二に顔を向けて言った。


「のんのん、にゃ。暁先輩の、いとこのお兄さんのことにゃ。昔から顔なじみ……もとい、顔にゃじみで仲良いんだってにゃ。あのギターもお下がりなんですってにゃーん」

「ふぅん……大したもんだな」


 ちらり、と夕平に目をやった。

 練習の様子をしばらく観察して、夕平がこのバンドメンバーの中でリーダーを担っていることは分かっていた。

 腕前も、独学の素人にしては上々だ。間違いなくこの中では、夕平が一番こなれているのかサマになっていた。

 紡ぎ出すベースラインで他のメンバーを引っ張り、出たミスを一つ一つ熱心に指摘している。意外な才能があったものだ、と拓二は感心していた。


 ……まあ、そんなことはさておいて。


「……なあ、さっきからお前のその変な語尾はどうした。あとその猫耳も」


 拓二は、気になっていてもツッコまなかったことをツッコんだ。それは恐らく、練習中のバンドメンバー達も同様だろう。


 問われた琴羽はと言うと、指摘してもらえたのが嬉しいようで、弾んだ声で、


「あ、気付きました? 気付いちゃいました? 実はあたしのクラス展示、猫耳喫茶なのですよー。なんで、こだわりにこだわって今はその役作りにぼっとー中!」

「なんだそりゃ……」


 対し拓二は、呆れた息を吐いた。


「お前、文化祭の実行委員だろ? 色々やってるんだな」

「やってますよー、引きこもりのリハビリです。……拓二先輩に言われましたから」

「そうか」


 前述の通り、音楽祭の日にちは残り二週間を切るほどに近付いている。


 そのため、普段音楽部くらいしか使用しない第一・第二音楽教室は、本来数週間後まで予約が連なってしまうのだが────こうして夕平達は練習に励んでいる。

 これは夕平が珍しく気を回したというわけではない。

 むしろ予約のことなど頭から抜け落ち、完全に困っていた夕平達だったが────そんな彼らに救いの手を差し伸べたのが琴羽だったのだ。


 (拓二のために)文化祭委員に立候補した琴羽の権限で、こうして他の団体の予約の合間合間の使用という形で融通を利かせた、というわけなのだ。


「ね、それよりほら先輩、これ似合いますかにゃん? にゃんにゃん♪」


 顔の横に手を持ち上げ指を丸めて、見事な愛敬を振りまく琴羽。


 尾崎琴羽は容姿自体かなり男ウケする整っている方ではあるが、学校内では一種の高嶺の花のような雰囲気で通っている。


 どういうことかと言えば、誰にでも明るく振舞いながらも、どことなく控えめで、わざとらしく媚びた風でないのだ。

 愛想は良いが人嫌いという相反する性質が、琴羽を程よくそうさせているのだと知らない人間からすれば、今のあざとさは衝撃的だろう。


「……夕平? みんな? 鼻の下伸びてるよ」


 そしてそれは拓二というより、夕平達他の野郎どもの練習の手を一瞬止めさせていた。


「はっ、い、いやいや伸びてない! 伸びてないから! オラお前ら、練習練習!!」


 夕平の叱咤が飛ぶと、慌てたように練習が再開された。


 琴羽がドヤ顔で鼻を鳴らす傍らで、肩を竦める拓二。


「……お目付け役が邪魔してどうすんだよ」

「むふん。拓二先輩も、ドキッとしちゃっていいんですよ? むしろ拓二先輩にならあたし────」


 と、ちょうどその時だ。


『一年B組、相川拓二くん。職員室まで来てください一年B組の相川拓二くん、職員室まで来てください』


 演奏の練習を断ち切るような校内放送が、スピーカーから拓二を繰り返し呼びつける。


「ん……今なんか呼ばれたか?」


 予期せぬ自分宛ての放送に、一体なんだと背筋が伸びた。

 暁も、ちらりと拓二に視線を向けた。行ってきたら、と言っているようだ。


「……ちょっと、行ってくるか」


 その無言の視線に押されたように、腰を浮かせる。


「……むうー……」


 去り際、琴羽の恨みがましげな声が背後に聞こえたが、聞かなかったことにして音楽室から外に出た。


「一体、何の用だか……」


 さて、放送通り職員室に向かう拓二には、呼び出される理由が見当もつかないでいた。


 ブラブラと歩きながら、少しその心当たりについて考えてみる。

 休学の届けは出していたため、その件は既に話は付けてある。数ヶ月の休みなど、今更取るに足らないことだ。


「となれば……俺が音楽祭に参加表明したくらいか」


 他の心当たりとなれば、それくらいしかない。


 音楽祭に参加出来る団体数と持ち時間は限られてしまっている。

 今回、どうしても参加を決めるのが遅かったためか、拓二の参加は他の候補との抽選という形で参加の可否が決まることになったのだ。

 抽選漏れでは勝つも負けるもない。もしかしたら勝負自体がお流れになってしまうことを、夕平と暁は今一番危惧していた。


「……まあ、どっちでもいいか」


 暁達に宣戦布告された日からは、何事も無かったかのように穏やかな日々が過ぎていっていた。

 夕平と暁と琴羽の三人とで、取り戻した学校生活を謳歌している。


 ────これでいい。

 ────ずっと、このままで居られればそれでいい。『四月一日』を迎えるその日まで。


 だからこそ、夕平が真面目に練習しているのを見ると、暁が一生懸命に食らいつこうとしているのを見ると、胸のどこかがざわつくのだった。


「……?」


 職員室へと足を運んだその時、思考に耽る拓二はふと現実に引き戻された。


「なんか、やけに騒がしいな……」


 放課後には似つかわしくない喧騒、大勢の人の集まりがやけにざわついているのが、拓二には感じられた。

 職員室の外にも、生徒が何人か、やきもきした様子でじっと覗き込むようにしている。それを少し不思議に思いながらも、あまり深く考えず脇を通り過ぎた。


 その時の彼は、思いもしなかった。


 自分を呼び出したものが、そんな彼らの話題の中心であることに。

 この喧騒の『元』こそが、拓二に関連する『彼女達』であるということに。

 

「……失礼します」


 職員室に入って早々、拓二はその足を止めた。


「ほらエレンちゃん、お菓子あるよ~。ほら、かしわ餅」

「あはっ、どうもありがとー」

「緑茶だけど大丈夫? 飲める?」

「うん、エレン、グリーンティーすきだよー」


 どこか聞きなじみのある声が、聞こえてきた。


 ────いや、というか、今確かに、『エレン』と……。


「あ、お兄様だ! ハーイお兄様ー!」


 その声の主、何故か空気に溶け込んだ様子で輪の中心にいるのは────いや、元よりあんな目立つ容姿だ。見紛うはずもない。


 

 ……!?」



 透き通る声が、いつものように拓二の名前を呼ぶ。

 ただし、場所はあの赤い部屋ではない。


「えっへへ~、来ちゃった!」

『…………』


 本来、ここにいること自体がありえないのだ。

 こんな日本の学校の、どこにでもあるような職員室で。


「ここがお兄様の通ってる学校なのね。いいところじゃない、とっても」


 とても良くしてもらえたわ、とにこやかに微笑むエレン・ランスロット。その側で、なんとも言えない表情を浮かべるメリー・ランスロット。

 彼女らは何を隠そう、イギリスマフィアネブリナファミリーのボスの長女次女なのだ。しかもメリーはさておきエレンは、ネブリナを取り巻く裏の社会にも通じている、立派な闇の世界の人間なのである。


 そんな彼女らが、何故ここに────と尋ねようにも、拓二が二の句を継げないでいると、


『ほらほら、お姉様! さっきから黙ってないで、教えた通りに、ね?』

『わ、分かってるわよ……! お願いだから急かさないで!』


 振り返ったエレンにそう急かされ、途端に慌て出すメリー。


 かつてのイギリス事件の際、共にエレン救出に向かった彼女とは、実にあれ以来、半年ぶりの再会。


「……タ、タクジ……」

「ん?」


 ニヤニヤとほくそ笑む顔になったエレンを背後に、ふと対面したメリーは、そっぽを向きながらも頬を染めた。


「ア……アイニ、キタ、ヨ。タクジ」


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