第八十九話:捨てる負けあれば拾う勝ちあり

「お前とは、ずっと肌が合わないと思ってたよ。────『チェック』」


 コトリ、と爪先で弾くように拓二が黒のビショップを動かした。その進路にいた相手側────祈のクイーンを軽く弾いた。

 自軍の要であるクイーンがやられても反応一つ見せず、祈はしばし考え込む素振りを見せた後、指を動かし、ナイトを滑らせる。しかしその周りに纏わりつく雰囲気は、何時にない緊張と真剣さを見せていた。


 それは、傍で見守る夕平のようにチェスを名前だけしか知らない素人や、あるいは趣味で齧った程度のプレイヤーには馴染みのないであろう、異様な勝負であった。


 テーブルの中央に、祈の持ってきたチェスボード。そしてその両脇には、祈と拓二のスマホがポツンと置かれている。二つのスマホの画面の中にも同様にチェスのマス目とその上に散らばった白と黒の駒が見える。


 つまり二人の目の前には、折りたたみ式のチェスボードとスマホの無料アプリの計三つの簡易チェス盤が並んでいた。しかし彼らは一つの戦局ずつ動かしているのではない。〝盤と画面二つを合わせた、三つの試合を同時に行っているのだ〟。


「お前は賢い。本当に厄介だ。でも、だからこそ────こういう場面を俺は待っていたのかもしれない。完全に白黒つけられるこの展開をな」


 これは、拓二が提案した勝負方法だった。

 先に二本先取した方が勝ち。ただし連続の勝負ではなく、同時に複数の試合を行う特殊ルールだ。

 つまりこの三つの戦いをたった一人で全て見なくてはならず、相当な頭の回転、そして何より集中力が要求される。

 チェス経験の差を埋める為、お互いにやったことの無い公平な戦い方を


 立体の盤の戦いが動いたかと思うと、すぐに隣の平面の盤面で攻防が繰り広げられる。

 将棋のルールすら曖昧な夕平には、両者の間にどのような読み合いが交わされ、何を思って駒を動かしているのか分からなかった。


 ただ素人目に、拓二の方が優勢であることだけは雰囲気から分かった。

 拓二の黒の駒がいくつか祈の陣営に潜り込むのに対し、祈はその防衛に必死になっている。おまけに拓二にはあちこち三つの試合に手を散らす余裕があるようで、その対処に追われる祈という構図が出来上がっていた。


 手馴れている者とそうでない者の差が、通常のチェスよりもよりもずっと浮き彫りになっているようだった。


「っ……」


 が、その優勢の拓二が、ふと手を止めた。


 それは、チェス勝負が始まってかれこれ一時間が経とうとした時。

 コーヒーを右の手に、左の指で駒を動かそうとした拓二が、その手をピクリと震わせ、摘んだ駒を溢した。顔色こそ変わらないものの、すぐにその手を庇うように引っ込める。


「……拓二、今の」

「………」


 いつもの癖────というより普段の日常の行為をして、出来なかったというような今の一瞬。

 包帯で巻かれ、肌の隠れたその左手を見て、はっと気付くものが夕平にはあった。


「まさかお前のそれ、あの時の傷が……!?」


 そう、夕平は知っていた。

『あの日』、拓二が受けた傷を、彼が一番よく知っていた。目の前でもがき、苦しむ様を間近で見て、手当ても行った。


 気付くのが遅かったくらいだ。

 忘れるべくもない、あの包帯の下、左肩に深々と埋め込まれた凶刃と血飛沫のことを。


「……ちょいと事故って痺れてるだけだ。お前の考えてることとは関係ない────『チェック』」


 拓二はあからさまな嘘を誤魔化すように、スマホの画面をタップした。

 黒の駒が動くと、祈が触れてもないのに白のキングが逃げるように動き、次いで黒の駒がその距離を詰めていき、それを数度繰り返すと、を画面は黒側の勝利を祝福した。


「最近のアプリは、手詰まりまでの手順は自動化するのか。まあ分かりやすいがな」


 これでまずは、拓二が一勝。祈が勝つには他の二つで全勝しなくてはいけなくなり、早くも後が無くなった。


「……お前の口からネブリナの名前が出てくるまでは、こんな勝負受ける気はなかった」

「…………」

「初めて会った時も今日の事も……自身の脅威を煽って、仕掛けてきたのはお前だ。後悔するなよ」

「……しませんよ、後悔なんて」


 言葉通り、拓二の手に容赦などというものは一切無かった。

 惜しみなく、全力で祈を潰しにきているのが分かる。たかが口約束の絶交宣言を本気で望んでいるかのように。


「……『チェック』」


 残った二つの盤で、先にキングに詰め寄ったのは、祈だった。

 画面にも、声に反応したかのように『チェック』という文字が表示される。


 この『チェック』を何度か繰り返せば、祈は勝てる。それくらいのことは理解出来ている夕平は、おおと声を上げた。


 だが────


「…………」


 祈の顔色は、まるで明るくならない。

 じきに勝ち星を得ようとしている表情ではなかった。


「そっちは、ただの囮なんだよ」


 そんな夕平に向けて、拓二が説き諭すようにそう言うと、真ん中の唯一立体で出来た盤と駒に手を掛けた。


「お、囮……?」

「まあ簡単に言えば、そこの盤のいのりが俺のキングに届く為には数手いる。確かに、いのりからしたら今は絶好の機会だな。これを逃せば、もうこんなチャンスは無いかもしれない……そんな局面だ」


 雄弁に語る拓二の目が、余裕に満ちた。


「その数手分の余裕で、俺は悠々と確実に真ん中を仕留められる」


 抜け道を探そうと、必死に頭を回す祈をあざ笑うかのように。


「分かるか? そっちの盤は、要は捨て試合だ。だがいのりは、分かってても俺のいないところで独り相撲するしかねえんだよ」


 ────祈は、この試合を『三つ』として数えていた。

 それは間違いはないだろう。一つずつ一つずつ、駒を奪い、キングを二度追い詰めるよう順序立てていく。それが祈のやり方だった。


 しかし、拓二はこの試合を纏めて『一つ』として捉えていた。

 二勝してしまえばいいのだから、一つは切り捨ててしまって構わないのだと。


 拓二は初めから、試合三つを全て勝とうという気はさらさら無かった。

 盤全体を見通した確実な二勝、それが彼の勝ち筋だった。


「……いのり。お前はもう、俺に届きはしない。今となっては、ただの目障りだよ」

「…………」

 

 その言葉の説得力は、両者の表情の違いが全て物語っていた。

 夕平は、チェスの事も、一種の因縁めいた二人の関係も知らない。


 しかしそれでも分かるのは────一つのゲームの行く末が、二人の中で決定的な何かを左右してしまうということだった。


 それを分かっていて、今、何も出来ずに見ているだけの自分がとにかく歯痒かった。


「……『チェック』」

「……そうだ、それでいい。敬意を持って、しっかりと終わらせてやるよ」


 長考の末に、諦めず繰り出した祈の一手に満足げに頷くと、拓二は改めて机上の戦局に目をやった。



◆◆◆



 祈は、負けた。


 結果は一勝二敗。あれからは拓二の言う通り、祈が拓二のキングを倒した時、拓二は最後の盤に『チェック』を掛けていた。

 数手分の空白が、拓二を有利に傾けたのは間違いなかったが、しかしいくら祈でも、どうすることも出来ない。

 不利は続き、そのまま手堅く敗北した、というのが事の成り行きであった。


 拓二は去り、残された夕平と祈。

 決着の後の言葉は無かった。立ち上がると、まるで祈の姿が見えないとばかりに横を通り過ぎ、店を後にした。


 その無言の決別に、二人は何も言えなかった。


「……分かってたんです」


 祈の呟くような声が、ポツリと落ちた。


…………


 ポツリ、ポツリと言葉が溢れ落ちていく。

 段々と肩の震えとともに、嗚咽で声が揺らぐ。


「どうしてこんなに……悔しくて……辛いんでしょうか」


 その瞬いた目からは、透き通った雫が静かに流れていた。


「……いのりちゃんは、よく頑張ってくれたよ。俺達に出来ないことを、一人で精一杯。本当、頭が上がらない」


  本心だった。誰よりも祈は駆けずり回り、拓二に真っ向から挑んだ。

 絶交という夕平達も予想外の言葉まで使って────『拓二に負ける』という覚悟を、見せてくれた。


「だからちょっと、俺達に任せてくれ。たまにはそばに居るダチに寄っ掛かってくれ……な?」


 それは奇しくも、拓二の言う囮と本命を見据えた戦法に酷似していた。

 ここまで────、間違いなく祈の尽力あってのものだ。


 自分達の浅薄で明確さに乏しい一つの『考え』に、嫌と言わずに了承し、加えてその頭脳を持ってして『考え』を『作戦』へと補強してくれたおかげだった。


 祈から託されたものを、その顛末をしかと見た夕平は、確かに受け止めた。


「頼むぜ……こっから、上手くやってくれよ────」



◆◆◆



 人気は無くとも、虫の羽音で静寂とは言えない夜。


 おんぼろな遊具しかない寂れた公園で、俺は一人考えていた。

 いのりの、次なる一手について。


 チェスは、俺が勝った。

 念には念を、いのりに主導権を握られることを避け、特別にチェス三番勝負を条件として持ちかけた。


 いのりは、乗らないと思っていた。

 しかしその予測に反して、いのりはその条件を飲んだ。提案した俺の方が内心驚いていた。


 あいつは俺の腕前を知っていて、それでも尚、土俵を明け渡すような勝負方法で挑んだわけだ。

 まず勝ち目の無い戦いを、リスクを作ってまで受けた理由。それについて考えていた。

 考えすぎか? いや、こといのりに対して、考えすぎということは無い。


 いのりは、意味の無いことはしない。

 それこそこの勝負、どちらに転んでもあいつに良いように仕向けられていてもおかしくはない……。


「……いや、むしろ、『負けること』が目的だったか……?」


 そう思い至った、その時。



「……こんばんは、相川くん」



 まるでタイミングを見計らったかのように、この時間誰もいないはずの公園で、確かに誰かが、俺を呼んだ。


 いや、『誰か』という曖昧な不確定なものではない。

 俺はその声の主を知っている。


 だが何故ここに────『彼女』がいる?


……?」

「……隣、座っていいかな?」


 持ち上げた視界の先、その俺の目の前に現れた暁は、まるで学校の教室で会った時のようなごくごくいつもの、淡い笑みを浮かべていた。


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