第八十八話:亀裂
「最後に、これだけ言っておくがな────相川拓二の野郎には気を付けろ」
それは拓二と再会する、その前の夕刻のことである。
立ち上がり、その場を先立とうとしている祈に、清道は唸るように低い声でそう告げた。
「え……?」
ばっと振り返る祈の動きは、清道の思ってもみないその一言に瞠目し、驚いている所作であった。
しかし清道は至って大真面目な視線を注ぎ、確信付いた声音でこう続ける。
「世の中、俺達みたいな普通の感性が丸く出来てる人間ばっかじゃねえ。ごくたまに、欠けちまった何かしらをせっせと埋めながら同じように生きてる奴もいる。少し見させてもらった俺から言わせりゃ、奴がそうだ」
「……そんなことが分かるのですか?」
「俺だから分かんのさ。アレとよく似た手合いはよく見てきた」
室温が急激に下がったかのような感覚。
重い冷たさを秘めた目が、ずっと祈を見据えている。
「が……アレはずっと危ういぞ。埋めるモン次第で性質がガラッと変わっちまう。芯のところは筋通っていながら、先っちょはメトロノームみたいに簡単にブレやがる」
「…………」
「?」
押し黙る祈。
そして話についてこれないとばかりに、両者からは見事に浮いてしまっている細波は首をかしげる。
「えっと……何の話?」
「……いえ」
そんな彼を無理矢理留め、祈は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。ご忠告、痛み入ります」
「せいぜい気ぃ付けな、甘い嬢ちゃん。信じるモンを取り違えんなよ」
清道はそんな一礼になどまるで一目もしない不遜な態度で、しかし経験豊かな先達としてどこか心ある言葉を最後に残したのだった。
その十数分後、まるで図ったかのようなタイミングで、祈は拓二と再会する。
振り返って思えば、清道は知っていたのだ。この日拓二が、自分達のところへ帰ってくることを。
だからこそ、最後にこのような踏み入った忠告を残したのだろう。逆に言えば、それ以上のことは話さないから拓二本人から聞けというどちらの味方にもならない中立宣言にも取れるが。
しかし言われずとも、祈は最初からそのつもりだった。
拓二が帰ってくるのなら、何が何でも聞くことがある。聞かなければならないことがある。
────それが例え、同じムゲンループの住人というごく限られた関係に、決定的な亀裂を生むことになるとしても。
◆◆◆
「よかったのか、琴羽ちゃん一人にして」
「いいんだよ。あいつはもう一人でもやれる」
連れてこられたのは、和やかな音楽の流れる喫茶店だった。
コーヒーが置かれたテーブルを、俺達三人が挟む。こんな風な学校帰りのお茶は夏休み前にもよくある光景であった。
ただ今回は、その雰囲気が違う。それを証拠付けるかのように────普段は俺の隣に座っていたいのりが、今日は夕平と一緒に俺の真向かいに座っていた。
俺を、緊張の面持ちでじっと見ている。
琴羽は帰らせた。これからの話に、あいつは必要ないだろう。
「お前こそ、暁はいいのか? 一人で帰っちゃったぞ」
「あいつは……あいにく今日は用事なんだってさ」
尋ねると、やや固い調子で俺の意図した質問から外れた答えが返ってきた。
「っていうかそうじゃねーよ。お前らは付き合ってるんだろ? デートとかしなくていいのかよ」
「うえっ!? ……い、いやその……お、俺のことはいいんだよ!」
思いの外ドギマギしているその夕平の様子に、小さく笑いかける。
まだ二人の間では、その辺りの関係は曖昧なのか。 告白までしたというのに、相変わらずな奴らだ。
「……俺のことは……いいんだ。そんなことより俺は、お前と話がしたい」
その言葉に、ずっと前にした会話をふと思い出した。
あの時は、流石に冗談でも飯のまずくなりそうな気持ち悪いモンだったけか。
「ははっ、やめろよ気色ワリイ、またいつぞやのつまらん冗談ならぶっとば────」
「拓二!」
夕平の声が、俺を遮った。
言葉とともに、過去を振り返ろうとする俺の意識ごと。本題から話を逸らすことを許さない。
「……分かってるよ。祈を連れてきたんだ、ただの世間話なわけないな」
ひょっとしたら暁は、琴羽と同じく二人に帰らされたのかもしれない。
彼女にとっては、この話題は苦しいものであるはずだから。
「話か……。つっても、何を聞きたい? 俺としては特別話すようなこともない。責められるようなことも……してないぜ?」
真実だった。俺は、こいつらに話すことはない。
『あの日』あったことも、そのための今までのことも、全て一人で完結したもので、一人で受け入れるものだ。
『あの日』を生き残ったこいつらは、知らなくていい。これからのループを、何も知らずに生きていさえすれば、俺はそれでいい。
もう終わったことだ。どうせ『四月一日』になれば、何もかも忘れる。
なのに目の前の夕平といのりは、それを良しとしない。
そんなに俺を睨む必要などないのに。
「何言ってんだ! は、話なんて山ほどあるに決まって────!」
「桧作先輩、落ち着いてください」
感情が喉に力を込めさせる夕平に対し、祈の表情はいつものように冷ややかだ。場の雰囲気のせいか、それが余計苛立たしく目に入った。
「……千夜川桜季の突然の行方不明で、清上学園は混乱していました」
いのりの最初の言葉は、今は亡き桜季のことだった。それまでいきり立っていた様子の夕平が、目に見えて顔をうつむかせる。
「いえ、と言うより今も混乱が続いています。口悪く言えば、学園きっての客寄せパンダがいなくなってしまったのですから。一部の教師の方からは一度、私を中高生徒会長に任命しようなんていう話まで上がった始末ですし、よっぽどだったことでしょう」
「…………」
「実は、千夜川家のご家族にもお会いしました。ご両親は数ヶ月経った今も捜索届けを出し続け、まだ帰らない彼女を待っているようです」
いのりの言葉は、つらつらと続く。
「彼らは、本当に何も知らないんです。突然の行方不明として処理されて……死んでいるのかいないのかも分からず、『あの日』の真実に触れることは一切叶わない」
耳が痛い。その長い口上が、その抑揚の無い声が、今はただただ刺々しく億劫だ。
「そして『あの日』を知る私達に、捜索の手はついに伸びませんでした。それは不自然なほど、私達はいつもの日常を送ることが出来ました」
「……いやに回りくどいな、何が言いたい」
そう言うのが精一杯だった。
ずっと昔、引きこもった時のことを思い出す。針のむしろのようなこの状況が、堪らなかった。
「拓二さんは知っているのではないのですか? 千夜川桜季の居場所────いえ、違いますね……」
一呼吸挟んだ次の言葉を言い放った。
「私は、拓二さんが千夜川桜季を殺したのではと思っています」
しん、と俺達の間の空気が止まった。
流れる音楽も、店内の話し声や物音も、聞こえているはずなのに、耳が受け付けない。ここにいる俺達だけが、無音の中にいる。
「……言い切ったな」
「……言葉だけ取り繕っても仕方ありません。『あの日』起きたことの全てを知らない私達には、そう判断せざるを得ないというだけです」
もっともな言葉だった。
いのりだけじゃない。夕平や暁も、本当は薄々感付いていたことだっただろう。
あんな殺し合いを目の当たりにして、二人の内一人は行方知れず、もう一人は帰ってきたとあれば、簡単な話だ。
「責められるべきことがないと、先ほどおっしゃいましたね」
「…………」
「では……『ネブリナファミリー』、『マクシミリアン』。この単語に聞き覚えはありますか?」
「っ!?」
聞き覚えも何も、まさかいのりの口からそんな言葉が出るとは思わず、素直な反応を見せてしまった。
「何故それを知って……!」
「私達は知らないことは多いですが、全く何も知らないわけじゃありません」
「……チッ」
……なるほど。
流石は桜季も認めた天才なだけはある。
そこまで食らいついてくるか。この俺に。
「どうか話してください……『あの日』起きたことと、ネブリナファミリーという存在のことが何だったのか」
「…………」
……気に入らない。
気に入らないな。
「でなければ、私達の中で想像は膨らむばかりですよ」
何も知らないくせに。
何もしなかったくせに。
だったらお前らに何が出来た?
他にどうすることが出来た?
俺を責めるのは簡単だ。
桜季という敵を倒した俺は、こいつらにとってはまた新たな敵というわけだ。実に分かりやすい。
「……その目さ、やめろよな」
ああ────駄目だ。
一度そう思い始めると、もう止まらない。
黒い感情が、渦巻いて止まらない────
「お前ら二人とも────そんな目で見るなっつうんだよ!」
店内の喧騒が、一度凍りついた。
瞬間、確かに、鼓膜の奥底で何かが砕けるような『音』を聞いた。
身体の中心から、軋み続けた骨がついにへし折れた時のような、そんな音が聞こえた気がしたのだ。
「俺はお前らにとって悪者だったか? 俺がお前らの誰かを傷つけようとしたか!? 逆だろ!」
俺は、暁を、夕平を救ったのだ。何十年も数え切れない年月をかけて、そのために繰り返してきた。
『あの日』の俺には、責任があった。暁が死ぬ運命を変えるという俺だけしか務められない責任が。
その結果がこれか。
俺の想いや行動は、欠片も報われないというのか。
殺さないためにむざむざ殺されるのは美徳か。
助けるためにどうしてもしなくてはいけなかったことは、責め咎められなければいけないのか。
「────……俺が『あの日』、何のために……何をしてたか、忘れたのかよ」
俺は少し勘違いをしていたようだ。
人殺しの俺は、所詮人殺し。そりゃそうだ、こいつらにとっては、それが普通。責めるのが常識だろう。
俺の中の物差しは、いつの間にか、彼らと少しズレてしまっていたのかもしれない。
そして────それによって救われたこいつらには、もう俺は邪魔だというわけだ。
「……悪い。今日は帰るな」
「お、おい拓二……!」
制止の声は聞かない。
どうせ『四月一日』にはまた一からやり直される世界。住人以外の人間はこの世界の記憶は無くなるが、これからはもう桜季は二度とこの世に現れない。
人殺しの罪は、じきに消えて無くなるのだ。
だったら、やり直せる。もう誰も殺さず、殺されないで済む。
それでようやく、俺の望む世界は手に入る。
ならばこんな世界は、別にもう要らないかもしれない。
「待ってください」
その時何故か、いのりの声がやけに澄み渡るように外耳から脳に通り抜けた。
夕平の声はシャットアウトも同然だったのに、何故か。
思えば、その声音に何かを感じ取っていたからかもしれない。
その静かな声に、それまでとはどこか異質なものを感じたからかもしれない。
「……まだ何かあんのか」
「いえ、これは別件です。最後に、これを……」
その予感は、見事当たっていたと言えるだろう。
「これは……チェス盤?」
いのりがおもむろに、その鞄から取り出したもの。
もっともそれは盤というほど造りのなってない、百均にあるような折りたたみ式のチェスセット一式だった。
「私は……いえ、私達は真実が知りたいのです。突き詰めれば自分自身が納得するためという、そんな勝手な理由で」
そのいのりの目には、静かで揺らぎない石のような決意が秘められていた。
その目が、俺を凛と見つめる。
「しかし、その勝手を押し通すためならあらゆる手段を使う……その覚悟はあります」
その時、ある事に俺は思い至った。
どうして、今まで気付かなかったのか。
この店のこと……ここが俺が桜季を呼び出してチェスをした時の喫茶店だということに。
あの場にはいのりもいた。いのりもあの時の顛末を知っているのだ。であれば────
「……まさか」
「私は、これで拓二さんに挑みます。……いつしかの、拓二さんのように」
この状況はまさに以前、俺が桜季に勝負を仕掛けた時と同じ。
あの時の再現をここでやろうと────そう言っているのか。
「『勝った方が負けた方に何でも訊ける』────あの時は、そういうルールでしたよね?」
「……ああ、そうだったな」
そして、ここに俺を連れてきた時からずっと、これこそが一番の目的だったとしたら。
今からすることには、いのりなりの思惑が間違いなくある。
桜季を相手に喧嘩を売った俺のように、いのりはいのりで、俺に『喧嘩』を売っているのだ。
「……だが俺には別段メリットは無い。こんな勝負、必要性も感じない。こんなママゴト、乗ると思ってんのか……?」
「……では、こういうのはどうでしょう」
そして今、置かれたチェスボードを挟んで、いのりが俺と対峙している。
「もし私が負けたら────もう二度と、私から拓二さんには何も訊きません。会うことも一切しません。今までのことも全部無かったことにして、私は貴方との縁を完全に切ります」
────いのりの言う『覚悟』は、この安っぽい盤上に粛々と乗っかかっていた。
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