番外第九話:ユウちゃんとアカちゃん

「なあ。おまえ、なにしてんだよ?」


 軽い、透き通った声が掛けられた。

 少し鼻にかかったその少年の幼声は、窓ガラスから差し込む朝の日光のように明るい声音であった。


「……わたし?」


 一人でいた少女は、最初、それが自分に掛けられた物だと分からなかった。

 皆と一緒に外に出て遊ばず、部屋の隅で一人、ぬいぐるみと積み木で戯れているだけの自分を気にするのは、先生以外誰もいなかったからだ。


「そうだよ。おまえさ、ずっとひとりだろ。遊ばないのか?」

「……遊んでるよ、こうやって、おにんぎょうさんで」


 少女は身体が弱く、本来の性格もあってかあまり活動的でなかった。

 生まれてから、五年。両親待望の女児である少女は、彼らから壊れ物を扱うかのように接されてきた。


 少女は、甘やかされて育ち、その待遇に甘えかかるでなく、むしろその気遣いを嫌った。

 いちいち気にかけてもらわなければいけない、弱い自分に対する情けなさであったり、親への申し訳なさがあったのだろう。


「えーっ、そんなんおもしろくねーじゃんか!」

「…………」


 せめてこれ以上、誰にも迷惑をかけないように。

 空気のように、誰の目にも止まらないようにひっそりと少女は過ごしていた。


 だから今だって、ずっとシカトすればいずれ向こうの方から離れていくだろう。


「おとこはそとで遊ばねーと!! 『おとこはかぜのこ』、げんきがいちばんだぜ!!」

「……それを言うなら『こどもは』、でしょ? わたし、おんなのこだもん」

 

 ……そのはず、だったのだが。

 どうもこの少年は、先ほどから自分の目の前から姿を消してくれない。


 苦笑いを浮かべながら簡単に外を促す先生よりもしつこく、そして近くで絡んでくるせいで、無反応も難しい。

 この変な男の子が変なことを言えば、それについ反応してしまい、すぐにしまったと我に返る。その繰り返し。


 関わらないで欲しいと思っていることに、気付いてないのかどうなのか。


「もう! さっきからなんなのっ?」


 あまりのしつこさに、とうとう辟易した少女は声を荒げた。


「わたしは一人でいるの! ここで一人でいるの! だからほっといて!」

「ほっとかねえよ」


 子供らしい癇癪に、少年は一際落ち着き払った声で返す。

 その様子の一変に驚いて、その顔を見上げた。


 視線の先の少年は、とても明るく笑っていた。



「そんなさびしそうにしてるやつを、ほっとけるかってんだ」



 一人でいた自分が、思わず羨んでしまうほどに。


「おまえ、名前は?」

「……あ、あかつき」

「赤ちゃん! じゃあお前アカちゃんだな!!」

「……それ言われるの、嫌いなのに」


 少年はいちいち眩しくて、明るくて。

 こんな能天気な少年が心から笑っているのに、自分が陰でうじうじしているいることが、何だか馬鹿らしく思えてきて。


「おれ、ゆうへい! ほら、行こうぜ。今日はおまえがいるからいい天気だ! おまえが外にいれば、きっとあしたも晴れだな!!」

「くすっ……うん」


 差し出された手は、自分と同じくらい小さくて、そして自分のそれよりもずっと温かかった。



◆◆◆



『あの日』から、小中高と、幅広い付き合いの友達に会うことが急に増えた。

 怪我で入院という話はどこからともなく(恐らくは我が母の仕業だろう)広まり、面会が出来るようになってからは、夕平の予定は途端に目白押しだった。


 同級生だけでなく、仲の良かったサッカー部の先輩だったり、友達の弟・妹だったり、数回会ったくらいの母の友達だったり、本当に様々訪れてくれていた。 遠いところでは隣県からわざわざ来たという友達もいた。まるでスーパースターか芸能人にでもなったかのように、思った以上に多くの人に見舞われた。


 そして、それは気遣いだったのかどうなのか、見舞いなのにも関わらず、怪我の詳細について触れる者がそれだけ大勢いながら誰一人としていなかった。

 近況報告の再会の言葉ばかりが膨らみ、関係ないことで駄弁り込んで看護師に怒られた数は知れない。


 見舞い自体は本当に一人一人嬉しかったが、何しに来たのかと言いたくはなる。


「でも、心配したのよ〜突然大怪我したなんて」


 そんな世間話の絶好の機会と化している見舞いの中に、彼女はいた。

 それは、昔夕平が一等仲良くしていた幼稚園の時の先生だった。


「いやー、スンマセンっす。でもまさか、先生まで来てくれるなんて思わなかったなあ」


 当時幼稚園の先生の中で一番若く、人気もあった彼女も、既に結婚し子供もいると今しがた教えてもらった。

 今ではすっかり、そこらにいるおばちゃんだ。見舞いに来てくれた人の中で一番懐かしく、時間の流れを感じさせた。


「なんか色んな人に久しぶりに会えたし、お菓子ももらえるし、怪我も悪くないかなあ、なんつって」

「こーら、馬鹿言わない」


 ただ、出来の悪い子供を窘める彼女のその声音や仕草は、あまり変わってない。

 人が変わっているところ、変わってないところを知れて、怒られながら嬉しくなっていた。それは相手も同じだったようで、在りし日のやり取りの反芻に小さく吹き出す。


「やれやれ……夕平くんはほんと変わらないのねえ」

「へへっ、人間そうそう変わんないすよ」

「んーむ、良いことなんだろうけど……こりゃ暁ちゃんも手を焼いてるでしょうね」

「暁?」


 眉を持ち上げて、夕平はまじまじと先生を見た。

 何も考えてなかった時に、突然の思わぬ名前にハッとしてしまった。


 目ざとくそんな夕平の様子を捉えたらしい先生は、瞳を輝かせ、意味ありげにニンマリと笑う。


「どう? 仲良くやってる?」

「……そりゃ長い付き合いっすから。仲は悪くないよ」

「そんなの当たり前でしょうが。あんなベッタリだった君らが今離れ離れだったら、そっちのが驚きよ」


 つまらない返事、と言わんばかりに鼻を鳴らす先生。


「そうじゃなくて、暁ちゃんと恋人として付き合ってるのかってことよ。んもう、分かるでしょ?」

「教え子に何言ってんだー!」

「あら、教え子なんて。たかだか幼稚園の先生じゃないの。不純異性交遊がどうたらなんて言わないわ」


 まああくまで健全な範囲でならね、と言葉を付け足し、


「暁ちゃんさ、可愛いもんね。夕平くんも、意識したことないってことは無いでしょ?」

「……頼むよ先生、あんまいじめないでくれよ」

「んふふ〜、人聞き悪いなあ。ちょっと下世話なだけでしょ?」

「確信犯じゃねえかっ!」


 先生はいたずらっ子のように笑い、えくぼを作る。

 その笑顔は彼女を少しだけ若返らせ、夕平の記憶の中にある姿に近付かせた。


「あたしだって、全員にこんなこと聞かないわ。特別気心の知れた可愛い子だけよ」

「嬉しいような嬉しくないような……!」

「喜びなさいな。一園児にここまで構ってもらえてるんだから」

「……先生ってこんな感じだったっけ? すっかりおばちゃんっぽく────」

「な・に・か?」

「ナンデモナイデス」


 どうやら気にしていたことのようだった。


 先生は話を変えるように、手を合わせ拝むような格好でこう言う。


「んん~、分かった! じゃあ最後! 最後にもう一つだけ! 告白はしたの? それともしない?」

「告白……」


 ……それは、彼女からしたら何の気無しの言葉だったろう。

 少なくとも怪我のことよりも無難で、ありふれた世間話のはずである。

 明るく、ほろ甘い内容の会話であるはずである。


 それが今、夕平にとって一番の『地雷』であることなど、彼女には知る由も無かった。


「……したよ、うん。ちゃんとした」

「おおっ!」

「でも……」


 夕平は、口ごもった。

 苦虫を噛み潰したかのごとき感情を、なんとか抑え込んでいた。


『告白』。その言葉で真っ先に思い出される、雨の匂いと血の味が、彼をそうさせていた。


 夕平は、そんな自分を振り返る。


 それは本来、甘酸っぱく胸踊るような行為ではなかったか。

 こんなに思い出すだけで苦痛が燻り、辛酸の味わいが浮かぶ代物だったのか。


「……でも、それで俺……暁とは別の女の子を傷つけちまった……」


『あの日』が、どれだけ自分の中に刻み込まれた一日であるかを痛感させられる。


 日常には戻ってこられた。だが、それでも後悔と懺悔はいくらやってもやり切れない。

 もっと違う結末は無かったのか、もっとみんなが笑ってられる答えはなかったのか、ふとした時に考えてしまう。


 何故、自分如きの選択で、これでもかと彼女を追い詰め、切り捨てなければいけなかったのか。


「俺、何も気付けなくて……俺が、馬鹿だったせいで……」

「…………」


 夕平の雰囲気を悟ったのか、先生もまた、真剣な面持ちで黙ったまま頷いていた。


 そして……もう一度、小さく笑った。

 それまでのお節介な笑みではなく、夕平を慮った、柔らかな笑みだった。


「あの鼻垂れ小僧が……すっかり大人になり始めてちゃって。時の流れは速いなあ」


 感無量とばかりに、そう呟き、


「……夕平くん、君は後悔してるの?」

「後悔なんて……そんなの山ほど」

「違う違う、そうじゃなくて。あたしが言ってるのは、、ってこと」

「告白したこと……?」


 暁に────いや。

 アカちゃんと呼んでいたずっと昔から、意中だった女の子に、想いをぶつけたことそのものに対して、どう思うのか。


「……そんなの、してないよ。してるわけがない」

「なら、堂々としてなさいな。あたしが言えるのはそれだけよ」


 先生はずっと、夕平の何かを確かめるようにじっと見据えていた。


 が、ようやく息を抜いて、その顔をほころばせた。


「そのもう一人の女の子だって、きっと分かってくれるわ。……ま、その子が夕平くんくらいお馬鹿なら分からないけど?」

「ひ、ひでえっ……!」


 その顔もまた、夕平の記憶にあった彼女そのままだった。

 まだ幼いあの頃、夕平は彼女のこの顔を見るのが一番好きだった。


「でも……そっか。そういうこと、か」

「ん? どったの?」

「へへっ……先生にゃ内緒だぜ!」

「え、気になるじゃない! どうしたのよ?」

「さあーてね、っと!」

「もー!」


 夕平の病室には、今日も賑やかな会話が途絶えることなく続いていた。



◆◆◆



「…………」


 少年と少女が初めて出会ってから、幾年の月日が流れた。


 二人は、幼稚園を卒園してからも仲が良く、同じ小学校に同じクラスとして入学していた。


 家も比較的近所であることも分かり、その時には既に家族ぐるみの付き合いで親交を深めていた。

 一見真反対な性格な彼らは、しょっちゅうぶつかり合い、ケンカも少なくはなかったが、それでも何故かお互い付かず離れず、後々、不思議な結びつきをもってして長い付き合いを続けることになる。


「……おい。どうしたんだよ、これ」

「あ、ユウちゃん……」


 そんな中、変わらない二人の関係に、ある決定的なきっかけが生まれた。


「これは……えへへ、何でもないんだよ、何でも」

「馬鹿! 何でもなくない! どうしたって聞いてんだよ」

「な、何でもないったら何でもないよっ! ユウちゃんは知らなくていいの!!」

「何でもなくない!!」

「何でもなーいー!!」


 それは、突然のことだった。


 小学生になって、新しい友達も作って、それからしばらくして何の予兆もなくイジメられた。

 少女の机の上には校庭の土と泥が盛られ、草と虫も巻き込んで荒らされていた。


 なんとも幼い子供らしい稚拙な悪戯に、少女は困惑していた。

 明確な理由も意図も差し出されず、ただそこに悪戯という悪意の跡があるということに。一人でいた少女にはこれまで経験の無いことで、反応も出来なかった。


「それに、ユウちゃんもそれ……おでこ、青いの出来てるよ」

「こ、これは……転んだんだよ! そう、転んで、それで────」

「うそ!!」

「うそじゃねー!!」


 やいのやいのと言い争う少年の方も、周りと小さな軋轢が生じていた。

 少年の額に出来た青痣は、確かに事故で出来たものではなく、男友達とケンカして作った争いの跡。


「ねえユウちゃん……痛く、ない……?」

「うっ……」


 言い争っているうちに、やがて、少女の方が心配げに尋ねた。

 その気遣う言い方には、どうしても弱い。何も言えず、少年はたじろいだ。

 

「……ごめんね、私の、せいだね」

「えっ……な、何でだよ? お前が、何で……」


 少女は、悲しいまでに察しが良かった。

 少年に出会うまでの、人の顔色を伺うような生き方が染み付いていたからだろうか。


 自分がイジメられる理由、そして少年のケンカの理由も、察しがついてしまっていた。

 

「私が……ユウちゃんを独り占めしてるから。だからみんな、困ってるんだよね。……ごめんね」


 子供は無邪気で、無責任だ。自分達のすることに、必ず結果が付いて回ることまで考えが及ばない。


 クラスの中心であった少年の気を引く少女のことを気に食わない同性は多く、またその年頃の男子が異性と仲良くしていることへの冷やかし、または嫉妬の物言いが少年の男友達から飛んでくるのも自然の流れだった。


「ユウちゃん……私のことはもう放っておいて? みんなもユウちゃんも困るなら、私なんか……」

「馬鹿! 俺はお前の友達だ! みんなとか関係ねえよ!」

「……でも」

「俺は……そう、お前といるのが楽しいから、お前といるんだ! 誰がどうこう言ったって、お前に頼まれても離れてなんかやんねーよ!!」


 その必死な剣幕に、少女は目を丸くした。


「それは……ちょっと横暴だよ」

「おーぼー?」

「自分勝手、ってこと」


 そしてすぐに、可笑しそうに小さな笑みを溢した。


「ねえ、ユウちゃん」

「ん?」

「私ね……強くなるから。ユウちゃんに頼らなくても済むように、がんばるからね」



 そして少女が、少年のことを『夕平』と名前で呼ぶようになったのは、この日から半年程経った時のこと。



 そして少女が、とある進学校に受験するという決意を彼に打ち明けたのは、さらに三年してからのことだった。



◆◆◆



 初めて会った時から、夕平は、他の男の子とは何か違っていると感じていた。


 勿論、基本馬鹿であるのは間違いないし、年相応に子供っぽくて、単純。目を離せばすぐ誰かに怒られる。

 でも時々……本当に時々、人が変わったような落ち着きを見せることがある。

 度胸、あるいは胆力があると言うのだろうか? 私はその普段の夕平らしからぬ(と言うより年頃の男の子らしくない)一瞬に、心底驚かされる。


 そう、屋上での、あの時のように……。そういう時は決まって、夕平は私の想像を軽々超えてくるのだ。


 清上学園を受験しようと思ったのは、あの頃、そういう夕平個人に対する焦りもあった。


 強くなりたかった。ずっと夕平の陰にいて、守ってもらっているだけの自分を変えたかった。

 夕平のそばに一緒に居てもおかしくない、『資格』が欲しかった。


 本格的に受験勉強を始めてから、夕平とはしばらく疎遠になった。

 あれだけ離れるのを嫌がっていたのにと思いつつも、まあ当然かと勝手に思っていた。


 それからの期間は、自分から言いだしたこととはいえ、寂しかった。

 元々人見知りだったこともあり、幼稚園で一人だった時に逆戻りしたかのようだった。


 いざ元通りになると、慣れていたはずの一人は、何故だかそれまで以上に身を切った。

 たまに視界をよぎる彼の無邪気な笑顔に、何故だか胸が締め付けられた。


 それらから目を背け、まるで逃げるように一心不乱に勉強した。後にも先にも、これだけ自分が努力したことは無いと断言できるほど。

 一人で塾に行き、一人で部屋にこもり、一人でご飯を食べた。そんな長い二年間の途中、目的がすり替わっているように感じたことも何度かあった。


 その努力は、残念な結果に終わってしまった。

 全国区で有名な進学校の壁は厚く、寝る間も惜しんだ『強くなる手段』は絶たれた。


 一度だけ泣いて、それから近くの公立の中学校に行くことを決めた。

 一応滑り止めとして受けていた別の私立には受かっていたけれど、あまり必要性を感じなかった。

 両親は、どことなくほっとしていたような気もする。電車を乗り継ぐ必要がある清上学園やその第二候補の学校に比べて、その中学校は家から徒歩で行けたのだ。私の身体を慮ってのことだったのだろう。


 受験が終わり、あとは卒業を待つだけという時、夕平と話した。

 久しぶりの会話だった。受験の結果、自分が落ちてしまったことを告げた。


 見下げ果てられるかと思って怖かった。しかし一方で、これだけ頑張った私を受け入れて欲しいなどとも思っていた。

 ────私は、本当に馬鹿だ。

 夕平を馬鹿だと言える権利なんて、どこにも無い。


「……そっか」


 夕平は何も言わず、最後に笑ってこう言った。


「なあ。近くに、すっげえ美味いラーメン屋があるの教えてもらったんだ。一緒に行こうぜ」


 ああ、私はこの時に気付くべきだった。

 その夕平の笑顔を、単純に気を遣ってくれたのかとだけ思っていた私を怒鳴りつけてやりたい。

 今の今まで気付かず呑気に過ごしてきた私を引っ叩いて言い聞かせてやりたい。


 この時夕平が、私よりよっぽど重みの違う決断をしていたことなんて、分かっていなかった。



◆◆◆



「……はあ……」


 暁は、その病室の前で躊躇っていた。

 部屋の主はもちろん、先日ようやく一般の面会謝絶の禁が解かれた夕平だ。


 前回夕平の病室に入ることが出来たのは、診療の上で事情を知るために呼ばれた参考人としてであり……要は特別措置だった。

 その時もあまり長居は出来なかったし、目覚めてからは面会もしばらく間を置かれてしまっていた。


 そうして、面会の許可が降りるのを暁は心待ちにしていたのだが……いざここに来ると、尻込みしてしまう。


 入る入らないの押し問答が、その扉に手を掛けようとする手を重くする。かれこれ五分はずっとこのままだ。

 これじゃ不審者と間違われかねないと自嘲気味に笑いながら、それでも動けなかった。


 情けない。扉の向こうにいるのは、気心知れた『友達』だというのに。どんな反応をされるか怖くて仕方ない。

 と言うより────……。


「ど……どんな顔して、入ったらいいの……?」



 ────俺は、お前が……立花暁のことが好きだ。



 あの時の言葉が、望んでもないのに脳内を反響する。


 ここ最近、いつもこうだ。

 何をするにも、ふとした拍子でその声音が鼓膜を触り、手につかない。いともあっさり暁を動けなくさせるのだ。

 一度そうなると、止まらない。周回で音をループさせるオルゴールのように、繰り返し繰り返し流れ、悶絶のあまり意味もなく耳を塞ぎたくなる。


 嬉しいというより、夢でも見たかのような心地だ。

 

 あの一瞬は確かに、暁でさえ滅多に見ない、真剣で『特別な時』の夕平だった。

 つまりその言葉に嘘はなく、冗談を言っているわけでもなく心からの本心だったということで……。


「は、はわぁぁあ……!!」


 首を思い切り振り払い、溜まった熱を吹き飛ばそうと懸命になる暁。通りかかる患者が怪訝な目つきで暁を見るのも、今は気付けなかった。


 忘れられない、忘れることが出来ない。

 たった一言、捻りもない真っ直ぐな言葉が、こうも心を縛るなんて。


 怒りたくなるような、笑いたくなるような、どうしようもない気分だった。


「う、うう……どうしよう。また、今度に……」

「あのー」

「ひゃいっ」


 その時突然────と言うよりとうとう声を掛けられた暁は、うるさくしてしまっただろうことを謝ろうと振り返った。


「あ……」


 そしてしかし、そこにいたのは、看護師でも医者でもなく────


「あ、あ、えっと……琴羽ちゃん? だっけ。こんにちは」

「あ、えとえと……ど、どうも……」


 一度、眠っていた夕平の見舞いに来てくれた、自分達と同い年の女の子。

 拓二の知り合いでもあり、現在不登校のまま家に引きこもっている。


 そしてこれは話で聞いただけだが、清上祭の日に、夕平が命を助けたらしい。

 前回に続き、面会が出来ることになってからもわざわざこうして見舞いに来てくれたようで、お菓子の入った小綺麗な包装袋を手に持っていた。


「……あの、どこから見てた?」

「……首を振ってたところから……」

「……あうー」

「だ、大丈夫っ、あんまり聞こえなかったから……!」


 奇声をあげる暁に、慌てた様子でフォローする琴羽。

 そんな彼女は小顔で瞳の大きい、小動物のような雰囲気の、可愛らしい少女だった。

 事情が事情故、挙動にこそ落ち着きは無かったが、律儀で、感じの良い子だと暁は感じていた。


「あ、ええっと……」

「あ、ごめんね。夕平のお見舞い……かな。ありがとう、きっと喜ぶよ」


 それはもう間違いなく。持ってきたお菓子に遠慮なく食い付くだろう。

 自分の片手に収まる花を見て、やっぱりお菓子にしておけばよかったなあと、暁はぼんやりと思った。


 すると琴羽が、びくびくと尋ねかけてきた。


「は、入らない……の?」


 そう言って、暁の目の前に佇む病室を指差す。


「え? う、うーん……」


 それに対し暁は、困ったようにうんうん唸ったかと思うと、


「や、やっぱり、やめよう……かな?」


 縮こまり、蚊の鳴くような声でそう答えた。


「なんか、もうだいぶ元気になってるのに、改まってこういうお見舞いするの……恥ずかしい」


 今になって何を、と思えば思うほど、かえって意識してしまう。


 暁の態度に何か当たりをつけたのか、琴羽が核心を突く。


「あー……二人は、付き合って、るの?」

「う、ううん! そうじゃないけどっ」

「微妙な、ところなんだ……?」

「……そうかも」


 ただし、普通とは違う事情がある。

 こんな会って間もない普通の少女に話そうとは到底思えないほどの、複雑な事情が。


 それが、浮つきそうになる暁の気持ちに、深く冷たい楔を打つ。


「…………」

「それに……夕平は、私となんか……」

「……でも、好きなんでしょ?」

「えっ」

「あんな様子だったら……そりゃ誰だって分かるよ」


 琴羽は何か思いついたように暁を見やると、持っていた包装袋を差し出した。


「あの……これ、クッキーが入ってるから。そのお花と一緒に渡してあげて」

「え、でも……」

「いいからいいから……馬に蹴られたくはないし、ね」


 そこで琴羽は、初めて怖じ気のない、朗らかな笑みを浮かべて見せた。


「あの、ね……恋に引け目なんて感じちゃダメだよ? 会ったばかりの私が言うのも、変なんだけど」

「…………」

「行って、ちゃんと話してみたらどうかな? きっと、あなたが思ってることと同じこと……あの男の子も思ってるんじゃない?」

「……!」


 病院の廊下で、琴羽は面と向かって暁を見た。


「あたし、あなたのことは理解してあげられないけど……あなたのこと、応援するよ」

「は、はあ……」


 何だか妙な言い回しだと感じているうちに、その琴羽は踵を返した。


「じゃ、また……」

「あっ……」


 そして結局、病室に立ち入ることなく、いなくなってしまった。

 自分達に気を遣ったのだろう。その意図が否応無く分かってしまい、余計に気恥ずかしくなってしまう。


「……ちゃんと話……かあ。うん、そうだよね……」


 しかし、彼女との会話には、一本筋の通った、尤もな点しかなかった。

 琴羽は単に、男女の恋愛としての一般論を語ったに過ぎない。しかしそれでも、暁は一人静かに、感じ入るものがあった。


 そして気付く────思えば、長い付き合いにかまけて、しっかりと夕平と面と向かって話をしなくなってしまっていたことに。

 お互いに隠し事を増やし、お茶を濁し、言いたいことも言わなくなってしまっていた。そしてそれこそが、今に至るまでの事の始まりになってしまったのかもしれない。


『話さなければ伝わらない』なんてこと、子供でも分かることだ。


 ────すべて、話そう。

 あの頃の気持ちも、今の気持ちも。

 罪悪、後悔、自虐、負い目、僻み、悩み────その全てをありのままに伝えよう。

 たった一人の、世界で一番信じられる幼馴染に自分の中身を委ねよう。


 例えそのせいで、二人が傷付いたとしても。二人の間に摩擦を生んだとしても。

 でも、それでも。


 人はそうして、歩み寄って、寄り添いあって生きていくしかないのだから。

 

「……夕平は、一人だった私に話しかけてくれた。だったら、今度は、私が……」


 今、終わったことも、鑑みるべきこともある。

 自分達はまだ、それらを見つめ直すためのスタート地点を見つけただけなのかもしれない。


 そんな時に、彼に何も伝えず、助けようと手も差し伸べず、寄り添えないままでいるのは────もう、絶対に嫌だ。


 

 ────ほっとかねえよ。

 ────そんなさびしそうにしてるやつを、ほっとけるかってんだ。



 そう、相手のことを放っておけないのは、お互い様なのだ。


「────今度は私が、夕平の味方になるんだ」


 暁は、さっきまでとは打って変わった、一陣の風が吹いたように吹っ切れた笑顔で、その扉の先を迎えた。


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