第七十八話:死闘の末に。
――――あ、ねえ。じゃあ、今トランクに積んでるでっかいのは? あれも囮?
それは、遡って前日の拓二とベッキーの会話だった。
――――あれはトラップもどきじゃなくて、本当に「仕留めるための」トラップだ。これは完全にとっさの思いつきだが……上手く行くか分からない。
前日、最後の下準備のために清上学園に向かう車の中、拓二とベッキーの間でその会話はなされていた。
――――上手く行くか分からない?
――――当たればでかい分、条件が厳しいんだ。その時の状況で、成功率は極端に変わる。
あの会話には、続きがあった。
彼女達だけが知る、決定的な一言が。
――――そうなの……。
――――お前は何も知らねえんだから、黙ってその日を見てたらいいんだよ。……んで、だ。このとっておきを仕掛ける場所なんだが……
――――……屋上と、その真下に仕掛けようと思う。
――――こいつは本当にとっておき……謂わば万が一の保険だな。条件が揃えば、暁を助けられる。俺の勝ちだ。
――――先に設置しといた爆発ガスはー?
――――あんなもん、言ってみればただの捨て石だ。目くらましに役に立てば十分ってだけの。
――――ぶー。あれも結構重かったのに。
――――お前、あの上に乗っかかって眺めてただけだろ……。
――――モニカに『おこごと』いわれたんだよう。
――――ああそう……ただ問題なのは、その条件がそもそも存在するのかすら危ういことだ。だから、出来ればこれは使わない。前提から失敗する可能性は十分あるし、そうなればそれまでだからな。暁は死ぬ。
――――でも、あるいは上手くいく可能性もある。追い込まれて追い込まれて、どうしてもってなったその時が……俺が考える本当のとっておきの
◆◆◆
「ああ、あああああああああああああああああっ! ヒィああああ! 目ェ! 目ぇあぁあああああああああああ!!」
世界中の空気が押し出されて行ってしまうのではないかと思わんばかりの、大嵐のような絶叫が黄昏時に鳴り響いていた。
「ひギィあっ、あひぁアあああ……っ、ああ、あぎっギぎいいイイイいっ……!!」
その声の主である桜季は、獣の咆哮とも取れない音と嗚咽を発しつつその目を抑え、もがいていた。
跪き、喘ぎ、取り乱し、我を忘れて地に身体を打ち付ける。
あの桜季が、半狂乱で我を忘れている。
拓二には、お世辞にもそれが、自分達と同じ人間の姿格好とは思えなかった。
まるで、見境を無くした獣だ。
絶する苦痛に苛まれ、涎と血を撒き散らし、雨の跡で分かりにくいが、さらによく見ればショックで膀胱が緩んだせいか、失禁しているようでもあった。
その様子に、理性や人間性が残されているようには認められなかった。
むしろ――――それとは別の『何か』を呼び起こしてしまったようにも感じて――――
「――――暁ぃぃっ!!」
拓二の行動は、この場の誰より比較的早かった。
暁はずり落ちそうになりながらも、桜季の尋常じゃない様子に唖然としていたのだが、張ったその声は確かに耳に届いたようだった。
そして、すっかり言葉を失った彼女に、拓二は言う。
「暁、飛べ!! そこから飛び降りろ!」
一体、何を言い出すのか。桜季とまるで同じことを、拓二は真剣に口にしている。
暁は、驚いた様子で目を見張っていた。
「な、何言っ……うっ」
そして傷が痛むのか、腹から空気が抜けるような掠れた声しか出せない夕平。
そんな彼を尻目に、拓二は目の前の桜季を警戒しつつ呼びかける。
「いいから聞け! ちょうどその位置――――すぐ真下にネットが見えるはずだ! 飛び降りてもいいように、俺が用意した!!」
「えっ……」
そう、これこそが、彼の本当のとっておき。
この状況、この瞬間を迎えることこそ、暁を救うための彼の一番の賭けだった。
夕平は、本当に的確なタイミングで現れていた。
もし彼が来なければ――――いや、もう少し遅く来ていれば、拓二と暁を探して見回っていた桜季に、彼の思惑は見つかってしまっていたことだろう。
そして、気付けたはずだった。
しかし、夕平が来て、暁が捕まったからこそ桜季は見回る必要が無くなった。このC校舎だけ、『しらみ潰し』を、徹底し損ねていたのだ。
「目を閉じて上を見るな、目を開けて下を見ろ!! そしてまっすぐ前に飛べ! 俺達のためなんかじゃない、自分自身の意思で飛べ!!」
――――二人の犠牲になれるから、私は『飛べる』んだよ。
――――そうじゃなかったら、そんなことする勇気なんて無いよ。
胸中に去来していたのは、落ちていったもう一人の暁。
彼女の言葉が、姿が、いつかの夢のように蘇る。
あの時の彼女は死んだ。死ぬために────二人の少年のために飛んだ。
あの時は、何も出来なかった。現実は夢よりも無様に
だが、今は――――……
「う、あぁううう……っ!」
その時だ。桜季の様子が変わった。
まるで拓二の言葉に反応したかのように、目を抑えながら、今にも立ち上がろうとしている。
「う、くくぅう…くふっ、うふひヒヒ、ふふっ、うふふうふうふ」
とんでもない光景――――そしてその執念であった。
目を失ってなお、ひとえに夕平のために、立ち上がろうとしている。痛みに意識が負けないように、しかし目元の筋も引きちぎれたせいか上手く笑うこともままならず、無理に頬を痙攣させているその様は壮絶だった。
大量の血液に彩られたその顔は、縊れた死体を想起させた。
あるいは地獄で魑魅魍魎を相手取る、牛頭馬頭のようだった。
どちらにせよ、『これ』はもはや、千夜川桜季ではない別の何かだった。
悪態を吐き捨てながら、拓二は飛び出した。
夕平と暁からこいつを離さねば。
蹴りつけた足は、簡単に桜季を捉えた。その身体が空を滑るように吹き飛んだ。抵抗もなく、誰もいない方の地面を二転三転する。
それが逆にあまりに異様で、自然と自分の声量が釣り上がるのが拓二自身分かった。
夕平達を庇うように、倒れ伏した桜季の前へ躍り出る。
「夕平、下の5-cの教室だ、お前ら二人は外に逃げろ」
「で、でもっ……」
「早く行け!! お前らは邪魔だ! 早く!!」
――――嫌な予感が止まらない。
――――それどころか、まだ立ち上がろうとしている桜季を見ると、さらに膨らむばかりだ。
「……暁っ! 行けるか……!?」
「でっ、でも」
「拓二が言ってんだ、それを無駄にしちゃ、駄目だ……!」
夕平が、息も絶え絶えに暁に呼び掛ける。
立ち上がるのも一苦労のようで、重い息を繰り返し吐き出し、膝が僅かに笑っている。
「わ、私……でも、私は……」
「……ああもう!」
煮え切らない暁にヤキモキしたようで、ずんずんと出来る限り足早に歩み寄り、桜季から離れた隣を通り抜ける。
そして暁の身長以上、夕平の肩より少し高い程のフェンスを急いでよじ登っていく。
「ちょっ、あぶなっ……!」
「お前が言うなっ」
夕平は、存外すらすらとフェンスを登りきり、その向こう側に降り立った。
暁の隣に――――寄り添うように。
ほんとだ、何か白いの見えるな、と呟いてから、夕平はそばの暁をぐいと抱き寄せた。
「わっ……!?」
「ほら、二人なら怖くない。だろ?」
そうして、振り返る。
残された舞台の、舞踊の踊り子達に向けて。
「拓二っ!」
夕平が、何かを拓二に投げつけた。
それを逸らすことなく、まだ動く右手で受け止める。
「っと……おい、こんなもん投げるな! 暴発するだろ」
「あっ、わ、悪い悪い……」
それは、拳銃だった。
桜季に奪われていた『S&W M29』が、ずしりとした重さを元の持ち主に主張する。
夕平が拓二に向け、親指を立ててみせる。
「……俺ら、行くからな……またな」
「……ネットは手動で取り外せるようになってる。使ったらすぐ捨てろ。万が一にも桜季に使わせないように」
それを聞いて浮かべた、小さな苦笑だけが残り――――
そして一息に、二人は屋上からその身を投げ出した。
「…………」
拓二は、ここまで先を読んでいた。
正確には、この筋書きを作り、それが成るための要素を用意していた。
だがそれらは一つ一つバラバラで、もし彼が一人であったなら、上手く繋ぎとめられない希望論のまま、無為に帰していただろう。
それらを懸命に汲み取り、掻き集め、こうして形となるよう組み立てたのは――――他の誰でもない、祈であった。
今も、今までも、拓二の後ろで祈の存在があって、この状況がある。拓二と祈、二人が別の視点から、別の切り口で紡いだが為に、今この時、桜季の思惑を超えたのだ。
――――任せろ、俺はお前達のためなら幾らでも狂える。
夕平、暁……そして祈。
彼らがそれぞれの思惑があって、桜季に立ち向かい、そうして今この瞬間がある。
「――――言いたいことは山程ある」
「……け」
左腕は使い物にならず、その肩は自重に耐えられないかのように下がっている。
おまけに血は抜かれ消耗し、身体が山雪に埋もれてしまったかのように冷たく重い。
それでも、時は動き続ける。
どちらかの勝利に、どちらかの敗北に、近付いていく。
「でも一つだけ……お前の目論見はもう成就しないよ、千夜川桜季。――――お前の元に、夕平はもう返ってこない」
「どぉぉおおおおおけえええええええっっっ!!」
ここから先は、裏をかく策も頭も必要ない。
己の血と肉を、ただ力に変えるのみ。
「俺の『道』に、お前は邪魔だった。……それももう、過去の話だ」
「――――ァア゛ア゛ア゛イガワ゛ァア゛アア゛アアアアアア!!」
血みどろの獣達が、相搏つ。
◆◆◆
『Peek-a-boo』は成った。
誰も想像だにしなかった方法で。
十字架の暗器の意味を知る者は、限られていた。桜季ももちろん、そうでない方の人間に属した。
それは、そうだ。ずっと所持していた拓二でさえ、最後の最後までその存在に気付かなかったのだから。 いや、だからこそ桜季の虚を突くことが叶ったのだろう。
なんにせよ、その一瞬を見た者の多くが、こう思っただろう。
形勢は逆転した。
勝敗は決した――――と。
目は、あらゆる動物の象徴だ。
それは人間にも同様で、片方だけでも無ければ、闘いの上で多くの支障をきたす。それをたった今失って、戦いなど出来る状態ではない。
鍛えることもできない、人間共通の痛覚に長けた脆弱な感覚器(じゃくてん)。いくら桜季だろうと、それは覆らない。
そう、誰もが思うだろう。
少なくとも、画面越しで目を失った彼女を見る『観客』達の目には、皆一様にしてそのように映っていた。
見限った、と言ってもいい。余興は終わった、これ以上面白い見世物はもう見られないだろう、と。
その衝撃を受けた少女の断末魔を、絶叫を、慟哭を。
同情も哀れもなく、『獣がもはや動けなくなった』と――――彼らはそうして白けたように見ていた。
長引く戦いにどちらも傷つき、もがくところを指をさして嗤った。
まるでドラマか映画のような、爆発や最後のどんでん返しの『Peek-a-boo』には、感嘆の拍手が溢れた。
だが、それはそれとして、今まで楽しめていた玩具が壊れてしまった後のような、そんな祭りの後の倦怠があった。
だが――――それらの思惑は間も無く見事に裏切られることとなる。
いや……それとも『期待通り』、なのだろうか。
『これは……何ということだ……』
誰かが、そう呟いた。
その呟きは、その場の者の全ての総意見だった。
倦怠? 勝敗は決した?
敢えて言い置いておこう。『何を馬鹿な』、と。
ここから先は、狂気が歪んだ末路が佇立する常軌を越えた領域と知れ。
力と血みどろだけが支配し、敗者(まけいぬ)はその名さえ屑と散る大舞台に最後まで立っていられるのは、一人だけ。
つまり――――どちらも立っているのなら、それはまだ終わりじゃない。
――――『Totentanz』は、まだ終わらない。
◆◆◆
「うあっ……!」
飛び降りた夕平と暁は、拓二の言う通り屋上から一階下に仕掛けられていたネットによって、空き教室へと転がるように飛び込んだ。
誰もいない、静かな教室で暁がうめく。今までのことが夢か嘘であるかのように本当に静かだ。
だが、今まで起きたことは夢でも嘘でもない。
これは、現実。現実離れした、現実――――……。
「………」
ふらつく頭を抑えながら立ち上がろうとして――――
「っ、ゆ、夕平……!?」
すぐに傍らの夕平の異常に気付いた。
重なり合うように倒れこんだ夕平が、起き上がろうとしない。
にちゃり、と温かくべたつく手触りの液体に、血の気が引いた。
「夕平! 夕平!!」
呼びかけても、自分に伸し掛かったままピクリともしない。返事もない。
慌ててその顔を見ると、死んではいないことが浅い息遣いで分かった。だが、閉じられた目は暗く落ち窪み、土気色の肌は生気なくこけていた。
夕平は、とっくに限界だったのだ。おそらく、自分で腹を刺してからずっと。
本当はフェンスを登るのも困難な、死に体だったのだ。それでも、夕平は自分のために。自分のためなんかに。
「っ――――ばかっ……!」
涙が滲み出てくる。自分の無力さと、愚かさに。
ぎゅっとその身体を抱きしめた。血が付くのも気にならなかった。
夕平の気持ちにひたすら胸打たれて、やり切れない。そうでもしてやらないとこっちが苦しかった。
その時、やや離れたで凄まじい衝撃音が轟いた。
「――――っ!」
次いで聞こえてくる、あたかも野獣のような怒号と喚き声。耳をつんざく、異様なケダモノの声。
見えなくとも分かる、拓二と桜季だ。
あの二人が今、争っているのだ。
もはや自分達の関与できない領域で、それは行われている。ここまで離れていても、その言い知れない重圧と本能に訴えかける危殆が包み込んだ。
「に、げないと……!」
暁は真っ先に、逃げろと言った拓二の言葉を反芻した。その不安げな表情に、自分が生きながらえたという事実を振り返っている様子は見られない。もはや、それどころではないのだ。
力の無い彼女が、その意識を失い沈み込んでいく夕平の身体を抱きかかえると、また、ずずん……と僅かに振動音がして、地面が繰り下がった感覚を覚えた。
果たしてどれほどの衝突が繰り広げられているのか、暁には分からない。
夕平を助けなければ、守らなければ。今はただただ、それしか頭になかった。
◆◆◆
階段から影が音を立てて廊下に落ちた。
したたかにその身体を打ち、とっさの受け身で転がる。
激しい轟音と共に、もう一つの影が襲い来る。
先ほどまで横になっていた床を、高所から飛び降りたように踏み抜いた。
しかしそれを躱した人影────拓二は、すぐさま攻勢に回った。
身を捩り、倒立を挟んでから床に手を突き、その姿勢で足を伸ばしたのだ。立ち上がりの隙の無いイレギュラーなその蹴打は、的確に対象のどてっ腹にねじり込まれた。
けたたましく鈍い音が木霊する。蹴りを受け、吹っ飛んだ桜季が壁に激突したのだ。上の窓ガラスがびいいんと震え、微かにひび割れる。
この間、数秒とない交錯。まさに刹那を切り詰めるような攻防に、拓二の身体は引きずられるようにして動いていた。
相手の桜季と間合いを詰める。
追撃の一打を加えようとしたその時、桜季がその拓二の足元に飛び込んだ。
まるで、犬のような低い姿勢からの猛烈な頭突き。
常人からすればただのやけくそのようでもあるが、足を縺れさせて転びでもすれば即座にマウントを取られる。
屋上で既に一度味わった経験を避けるため、気持ち大げさに退いてそれを躱した。
「――――おおっ、オオおおおおおお!!」
立ち上がる時間を得た桜季の、まるでドラマの不良がやるような腕だけの拳が、やや膨らんだ軌跡を走る。
が――――拓二は、動かない。それを避けようともしなかった。
果たして、その拳は拓二を捉えず、その目前の宙を見事に空振った。
「っ……!?」
拓二は、その右腕をあっさりと取った。そして――――ごきゅっ、と音を響かせてねじり折った。
「あ、がああああああああ!!」
悲痛な絶叫が、鼓膜を震わせる。
空気まで裂くようなその声を封じるかのように、折った腕を引き寄せ、近付いた頭蓋に思い切り頭突きを浴びせかける。
「がふっ……!」
そして桜季に息を吐かせずその顔面に渾身の拳を叩きこんだ。
歯の二三本を砕いた感触と、どろどろの血のぬめりの感触を勢いそのままにぶち抜き、廊下を転がった。
「はっ……はっ……はっ」
今までに無い一撃。
拓二は息を切らせながら、これまでのダメージも忘れていた。
両者の優劣の逆転。
桜季が無様に地を這うのを、自分が見下ろしているという事実に、静かに打ち震えていた。
「ぐぶっ、ぶぅぇ……っ」
血は、とどまるところを知らない。普通なら決定的な戦意喪失の一撃であっただろう。
口内を切ったか、かなりの量の血を吐いている。
「……お前の目は、確かに脅威だろうさ。ずっと、俺の行動は全部先読みされてた……」
嗚咽交じりのうめき声を溢す桜季に聞こえてるかは分からないが、彼は静かに告げる。
「だが、そんな状態になって同じようなことが出来る芸当じゃないんだろう? というか今お前、距離感さえまともに掴めてないんじゃないか?」
「っ……」
桜季の目────『予言の目』は、桜季本人のずば抜けた脳内信号の速さ――――すなわち頭の良さももちろんあるが、それ以上に一番の要因には天性の目の良さがあった。
本来修練を積み重ね、さらに努力一辺倒では手に入らない素質を磨き初めて訪れられる境地に、桜季はたった才能一つで至った。
彼女は、あまりに目が良すぎた。だからこそ片目が潰れた今、通常時との感覚の差は常人以上に大きいのだった。
『予言の目』どころか、今の彼女は自分の目の前に立つ『障害』一つにさえ、焦点が合わないでいたのだ。
もっとも、失明の激痛を一身に受けてもなお、ここまで動けること自体、尋常でない執念の賜物なのだが。
「あぐ、うう……痛い、痛いよお、ゆ、ヴへいぐんんンン……!」
「……ここに夕平はいねえよ」
ついにはしくしくと泣きだす桜季に、静かに、警戒を怠ることなく歩み寄る。
拓二は、奇妙な違和感を覚えていた。
先ほどの、底からせり上がってくるような威圧感が、今はすっかり立ち消えている。
今、拓二には優先すべき目的があった。
それはずばり、『時間稼ぎ』。殺すよりも何よりもまず、夕平達が外に逃げるまでの時間を与えることが最優先事項であった。
ここまで自分を苦しめた桜季に対し、時間を稼ぐ有効な手段とすれば、つかず離れず立ち回ること。
桜季の目の前に立ちふさがり続けることであり、逃げることはもちろん、欲張った追撃もやや控えていた。
「……ふ、ふふ」
そして、これで終わりというのなら――――それでもいい。
だが――――いくらなんでも、呆気なさすぎる。
「ふ、ふふ、ふ……やっと……やっと、慣れてきた……」
濁り、しわがれた笑い声が目の前の女から零れた。
最初は囀る鳥のような細い笑い方で、それから徐々に徐々に、その声は大きくなっていく。
気狂いでもしたかと拓二が思ったのと同時、桜季は笑うのをやめ、すっくと立ち上がった。
「っ――――!!」
弾かれたように、首を掻っ切る鎌の如き脚蹴りを放つ。
が、振り向くことなく、当たり前のようにその蹴りを片手で掴んで受け止めた。
「……そりゃ一体、何のつもりだ?」
蹴りを受け止められたのはいい。
問題はそこではなく――――
「――――夕平グん、待ってデね。もうすぐダから」
桜季は、目を閉じていた。
潰れた目も、まだ健全な目も。両方とも。
歌うように、いやそれとも眠るように、だろうか。
桜季は、今までの彼女の中でも、最も穏やかな表情を浮かべていた。
「コイツを殺ジて、すぐ会イに行グから゛」
そうして、まるで見えているかのように、桜季は拓二に笑いかけた。
◆◆◆
その頃暁達は、校舎から外に出ていた。
肩を組んで担いでいる夕平の血が止まらない。返事もない。
ぽたぽたと雨で濡れた地面に染み込んでいく。その一滴一滴が、まるで夕平の命を削っていっているかのようで、暁は焦った。
意識のない人間というのは相当に重く、暁の小柄な身体では支えるのでも精一杯だった。
こんな時でも人間疲れる時は疲れるのか、途中何度も転びそうになった。階段は降りる度に、足を取られ、気を急いた。
正直、歩くのよりも遅いくらいであったが、桜季が迫ってくる様子はなかった。
時たま、物凄い音が耳に届いてくるが、振り返ってみても特に誰かが来たわけでもなく、彼女らはこうして脱出する目前まで来られた。
「……相川くん」
暁は呟く。
彼女らのためにたった一人残り、奮闘している彼の名を。
自分達が今ここに生きていられるのも、全て彼のおかげだ。
死ぬしかなかった自分を助け、代わりというように傷ついて……。
その存在を、ずっと後ろに感じている。
「…………」
何も、言えない。
ありがとう、と言うのも、ごめんなさいと謝るのも、どちらも違うような気がして。
その呟きに反応してか、夕平が身じろいで呻いた。
それを慌てて抱え直そうとする暁に、声が掛けられた。
「――――ねえ、こっちだよ」
線の細い、子供のような声だった。
振り向くと、少しだけ開いた門扉の前に、フードを被った少年らしき姿があった。格好から自分達とそう歳は離れてないようだったが、顔までは分からない。
彼が、自分に呼びかけたのだろう。
「ほらはやく」
「あ……は、はい」
声が招くまま、暁はそこに向かった。
「あの、えと。きみ……じゃなくて、あなたは?」
「…………」
名も知らない少年は、その様子をじっと見つめてたたずんでいる。
いいから早く行けと促しているように感じた。
「あの……あ、ありがとう……ございます」
やがてその校門の前、清上学園と外との境目まで夕平と揃って来た暁が、その少年に礼を述べる。
少年は何も言わなかったが、少し目深に被ったフードの下から、自分に小さく微笑みかけたような気がした。
暁は、ちらり、と振り返った。
拓二と桜季がいる校舎の方へと。
目に見える範囲では、誰もいない。
今は少しだけ静かな気がする。数時間前、ここを訪れた朝のように。
あの時は桜季と一緒で、今は夕平を抱えている。
一体どうして、こうなってしまったのか。ほんの数日までのことが蘇り、そのことばかり考えてしまう。
そして、自分なんかのために残った拓二に対し、申し訳ないという気持ちをひしひしと感じつつ、今自分に出来ることはないと言い聞かせる。無力な自分が、ただただ恨めしい。
しかし事実、仮に戻ったとしても、彼は喜びはしないだろう。
足手まといだ。そのことが分かっても、事の何もかもを拓二一人に押し付けてしまうという罪悪感に、後ろ髪が引かれてしまう。
「う……うぅ」
「夕平?」
うめき声がする方……隣の夕平に目を向けた。
彼は、目を覚ましたわけではなかった。意識は途切れ、今ここがどこにいるかも分からない状態だろう。
「え……?」
そんな彼を見て、思わず息を呑んだ。
夕平は――――泣いていたのだ。
「ごめんな……先輩……ぅぅ、ごめん、ごめんなぁ……」
「…………」
か細く、嗚咽を交えて掠れた声で、夕平はここにいない桜季に謝る。
一瞬の逡巡の後――――彼女は意を決して、校門から学園の外へ、足を踏み出した。
遠い背後で、何か大きな物を高い所から落とした時に似た鈍い音が聞こえたような、そんな気がした。
――――暁は、知らない。
それこそが、二人の死闘に決着がついた瞬間であるということを。
◆◆◆
足蹴が、頭上から加重を乗せて振り下ろされた。
拓二はそれを避けきれず、身体で受ける。鎖骨の下辺りに激突し、後ろに吹き飛んだ。
それを追いかける桜季。が、次の瞬間、その頰に靴の先が突き刺さる。弾けるように仰け反った。
桜季は、何本か歪に抜けた歯を剥いた。
彼女を知る者からすれば、それが笑んでいるのだということは分からないだろう。
次に彼女の折れてない方の手刀が、拓二の首を捉えた。空気が途絶え、ぱくぱくと喘ぐ。
しかし隙を作らず、逆に桜季に接近し、そのどてっ腹に膝を深く埋め込んだ。
堪らずその口を衝いて、胃液が吐き出る。
そのまま突き飛ばした桜季の身体が、教室の窓枠の下を叩き、ぶつけた後頭部でガラスを割った。派手な破砕音が響いた。
対する拓二はその姿を横目に、激しくむせ返る。鉄の味が、鼻孔の奥から呼気となって出て行った。
「……く、くく、く」
「ふ、ふふ……」
どちらともなく、静まり返った廊下にくぐもった忍び笑いが響いた。
両者がふらりと佇む。
お互い姿格好はボロボロで、まるでボロ切れを着た狼のようだった。
顔に深々と刻まれた、血と汗の生死の駆け引き。そして痛々しくも大量の傷跡。それが、この闘いの壮絶さを物語っていた。
喋りかけるようにして、言葉の代わりに彼らは笑い合う。
拓二に至っては、桜季に対する一種の賞賛すら、その笑みに込めていた。
いくら接近戦とはいえ、いくら雨も止みお互いの息遣いが響くようなこの環境だとはいえ、
桜季は、両目を瞑り、視覚を捨ててなお、それでも拓二と同等に殴り合っているのだから。
――――人間は、五感の一角を失えば、その分を他の感覚が補うように出来ている。
今の桜季のように、目を失えば聴覚は研ぎ澄まされ、鼻が利く、という五感の発達――――生きていく上での補完作用が働くのだ。
物音の反響音や空気の流れで、身の周りに何があるかをある程度予測し、不自由を免れる術を身につけるというケースも多々ある。
それにはもちろん限界がある。
そして何よりそれは、長い年月を経た経験が物を言う、人間の一つの『進化』だ。
それをもし、桜季にとっては先ほどの『慣れた』の一言で片づけられるものでしかないのであれば――――なるほど、冠された肩書は彼女にこそ相応しい。
もはや清上どころか、人類史上の『最高傑作』だ。
あらゆる才能を欲しいままにする、彼女のみが成せる神業。
もはや拓二はいちいち驚きはしなかった。
だから、彼は感嘆の笑い声をあげた。
「――――おおおオオオオおおっっ!!」
「ああああアアアアア!!」
そして、雄叫びが溶け合い、お互いに駆け出す。
殴りかかった拳を、桜季が手を払って弾く。折れた手が痛んだか、顔を顰めた。
が、空いた桜季の指が、間もなく襲い来る。
そして、拓二が受けた肩の穴を突き刺し、土に塗れるミミズのようにその肉をほじくった。
「っ、がああああッッ!!」
視界に青白い火花が散った。
意識が揺らぐ。自分の悲鳴さえ判別出来なくなる程に、耳が篭った。
耐えきれなくなったように、男女差のある全身で包み込むような体当たりをかました。
二人の身体がもみくちゃになる。マウントを取った桜季が殴ろうとする前に、上体を起こし頭突きを浴びせた。
チカチカと明滅する視界の中で、頭を抑え呻く桜季と姿勢を逆転させ、一発頬を殴る。
が、返しの蹴りですぐに吹き飛ばされてしまった。
蹴れば蹴られ。
殴れば殴り返され。
連打。
連打。
連打が続いた。
それは、武術や格闘というものではなかった。一人の少女の命が懸かった、英雄的なものではなかった。
そんな美しさなど微塵もない、醜悪な光景である。
子供の喧嘩のように幼稚で、獣の諍いのように苛烈。
泥臭く血生臭い、ノーガードの殴り合い。
お互いを削り合う、力任せに勝敗を決める衝突だった。
「つあっっっ!!」
拓二の回し蹴りが空を切って放たれた。
それをまるで見えているかのように、腕を盾にする。が、振り切った足は左、桜季からすれば折れた右腕でそれを防ぐことになる。
当然、苦悶に喘ぐ桜季。堪えきれず、僅かにその重心が崩れた。
しかしどうやらやはり、目を塞いだリスクはあるようで、動きにこれまでのキレはない。
拓二はこれを、この瞬間を、勝機と捉えた。
少なくとも、先程まで化け物じみた反応速度で弄ばれていた時よりも、断然に。
もうあと一歩のところまで桜季を追いつめた――――そう考えていた矢先だった。
「っ!!」
突然、桜季がぱっと手を横に振り払った。
当然、それが当たるわけがない。目を瞑って何も見えないので、宙を掻いたように普通なら映るかもしれない。
だが、そうじゃない。そうじゃないことは、拓二が誰よりも知っていた。
「うっ!?」
────次の瞬間、拓二の目やその周りが何か鋭い痛みを訴えた。
顔にぶつかる、小粒の固い破片。拓二はそれが、割れた窓ガラスの粉であることが分かった。
――――目眩まし。先ほどガラスにぶつかって割った時に、既に手中に忍ばせていた搦め手だった。
「ぐ、ああっ……!」
これを、拓二の失態と称するのは、些か酷だろう。
優勢は劣勢に覆りやすい。そのことを一瞬でも忘れさせる程に、桜季に勝利出来るという優越感は甘すぎた。
拓二は、ムゲンループの住人であるこそすれ、桜季のような超人ではない。
同じように目が眩んでも、彼女のようにすぐに立ち直りはしない。
視界を奪われた直後、衝撃が襲った。
首根っこを万力のような力で掴まれ、力押しをもろに食らう。
むせ返る前に、後頭部が思い切り何か固いものに叩きつけられた。
その瞬間耳に届く、硬質なガラスの割れる音。
顔一杯にその破片を呷り、耳や頰、瞼の上が裂けた。
そして、枠にぶち当たって反った上体が、もたれるものを失い、ふわりとした浮遊感を覚えた。
視界がようやく開けた時に、自分がどうなっているのか、改めてよく理解した。
見たのは、自分の首を締め上げ、割れた窓から突き落とそうとする桜季の姿。
拓二の最期を看取ろうとするかのように、潰れてない方の目が睨めていた。
「落ヂろ羽虫……!!」
唇は逆剥け、上気させた顔面を隠すように、自慢の長髪は乱れに乱れていた。
まさに悪鬼の如き、見た者の血も凍らせるような表情であった。
「待ってデね夕平くん、もうすぐ、もヴずぐ――――」
体勢もあって、徐々に徐々に、拓二は背中から突き落とされようとしていた。
「――――目、開けたな」
だが、これが、決定的瞬間だった。
最後の最後、優勢が覆ったのは――――いや、こう言い方を変えよう。
この瞬間、軍配が上がったのは拓二だった。
口をモゴモゴとさせ、それを勢いよく吐き捨てた。
そう――――芸も格好もへったくれもない拓二の禁じ手、『唾吹き』だった。
「うっ……!?」
────もし桜季がここ一番で、自分の『良すぎる』目に頼らなければ。
しぶとく立ち塞がる拓二の死に様を確かめようとしなければ。
『予言の目』などという能力の存在の大きさを知らなければ、一度は看破していた拓二の技に、引っ掛かることは無かっただろう。
とどめとなるはずだった能力が、今この瞬間に裏目に出た。
目元に命中し、虚を突かれたように首を横に振る桜季。
押し込んでいた力が、緩んだ。
「っ、オオおおお!!」
痛む左肩。
血の抜けた身体。
震える足。
それらを全て忘れる刹那だった。
腕を取り、引っ張り込むようにして相手の身体を持ち上げる。
そう、例えるなら巴投げの要領で、ぐいと後方へ引き摺り込む。
そして。
――――五階の高さのある外へと、桜季を放り投げた。
拓二と入れ替わるように、桜季の身体は、宙へ投げ出された――――
◆◆◆
桜季は、手を伸ばしていた。
自らが投げ出された窓に向けて。
傍から見れば、敵である拓二に向けて助けを求めているかのように。
だが、そうではないのかもしれない。
桜季の頭の中に閃き駆け巡る記憶が、彼女をそうさせていたのかもしれない。
――――先日、ある一人の他校生らしい少女が、半分事故で窓から突き落とされた。
それは奇しくも、この校舎の、ちょうどここから二階下でのことだった。
あわや転落、となる前に、少女に差し伸べる手があったのだ。
懸命に、必死に、その命を助ける手があった。
そして、その少女を助けた者の名は――――
「ゆ、うへいく――――」
彼女は、桜季は――――手を伸ばした先に、何を見たのだろうか。
「夕平はここにいねえっつったろうが、クソったれ」
現実には、拓二の冷たく刺すような視線だけが、その左目を彩った最後の光景であった。
そして最後に、ぐちゅり、という水っぽくも重く鈍い音が、彼女の耳朶の奥深くを叩いた。
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