第七十九話:最期

 肩の刺傷が、日没寸前の外気に触れる度に疼く。


 腫れ上がった顔、ヒビの入った骨、引き摺るように動く足。

 今の俺は、満身創痍という言葉がふさわしい有様になっていることだろう。


 もう、動くどころか立つことだけでも億劫だ。

 今までになく疲れきった。というのに目だけは冴え渡っていてちっとも眠くない。

 

 勝った――――などという喜びに酔いしれるような状態じゃない。そんな余裕などまるで無かった。


 先ほどまでの死闘が尾を引いているかのように、全身の麻痺が俺を苛む。筋肉が張り詰めたまま、もう終わったのだということを認識出来ないでいた。


 苦しい。いや、苦しかった。本当に。

 俺の中で、今日のことは一生忘れられないものとなるだろう。


 ……当然か。五十年もの歳月の結晶だものな。

 桜季は、俺にとって忘れられない存在だった。『三週目』のあの時から――――ずっとループを生き続けたのも、今日のこのためだ。

 本当にずっと長い間……頑張ってきた。


 あいつは、俺の生きる張り合いだった。

 あいつが死ねば、俺はどうなる?


 分からない。

 それまでのことを考え続けて――――それまでのことしか考えないでいて、これからのことなんて考えてもみなかった。


「…………」


 俺は、歩いていた。

 階段を一段一段下り、廊下を渡り、苦痛を訴える足を前へ前へと突き出すように。


 桜季が落ちていった場所は分かっている。


 確認しに行くのだ。

 俺が手にした、『決着』を。


 ――――桜季が死んで、それで俺がどうなるのか、どうするのかは分からない。

 分かることと言えば、一つだけだ。


 桜季が死ねば――――俺の見える世界は、何もかもが違って見えるだろうということくらいだ。



「……何だ、お前。



 そして、見つけた。

 ほんの微かに、消え入りそうな息遣いが聞こえる。


 そこには――――血だまりの中心に、仰向けになって倒れたままの桜季がいた。

 

 

◆◆◆



「立花先輩! 桧作先輩!」


 学園の敷地外。

 離れて数十メートルの位置に、車から飛び出た祈が暁達を見つけて声を張り上げた。


「いのり、ちゃん……」


 対する暁は、今にも倒れそうに覚束ない足取りでこちらに歩いてきていた。

 何故ここに祈がいるのかなど、そんな些細な事は今は気にならない様子だった。


「ゆ、夕平が……」

「ちょっと待ってろ!」


 祈に次いで車外に出てきた細波が、駆け出す。

 駆け寄ると、重そうにしている暁の代わりにその身体の肩を担いだ。


「うわっ、こりゃ酷ぇ……これ、すぐに病院に運んだほうがいいぜ……!」

「…………」

「いのりちゃん、あいつらに頼んでくれ! 救急車だ!!」

「……あ。は、はい。そう、ですね」

「……いのりちゃん?」


 夕平の傷は、決して浅くはなかった。少なくとも、こうして歩かせているだけでも酷な程には。

 腹から血を流し、その滴が地面を叩いている。唇は紫色で、微細な痙攣をやめない。服は上も下も、ぐっしょりと赤く染め上げられていた。


 彼女は、夕平の姿に愕然としていた。

 それは、今この時からそう感じたのではない。屋上での出来事を見てからずっと、ある種の感傷に胸を衝かれていた。


 ――――祈は、最後の最後、夕平のことを読み違えていた。

 けしかけたのは自分だ。だがまさか、ここまでするとは思っていなかった。


 身近な人間が、一歩間違えれば死ぬところだったこと。

 それも自分の賭けめいた策に、命を落とすところだったという事実を、ありありと突きつけられていたのだ。


 分かった気になっていただけだった。

 上から眺めて、桜季という強者を倒すゲーム感覚で、彼らの知恵となっていただけだったのかもしれない。


 桜季を驚かせる、という目的からしたら、夕平の行動はこれ以上ない手段だった。祈にとっても、まさに目から鱗。

 だからこそ、それではまるで、


「まだ……相川くんが中に……」


 どこか夢見心地な、力の抜けている暁の言葉に、ハッと我に返らされた。


 そう、拓二がまだ学校の中にいる。桜季と一緒に。

 その決着を見届ける必要が、祈にはある。


 学校を映す防犯カメラの映像は、電波妨害に影響を受けない特殊な電波で、学校から範囲的に発信されている。今まで祈達が乗っていたハイヤーそのものが、それを傍受するアンテナの役割を担っていて、防犯カメラに接続された装置からその電波を拾っているのだ。

 つまり一度ここを離れてしまえば、それを見ることも叶わなくなってしまう。


 だがーーーー夕平の傷も手当てしなくてはいけない。

 いや、そんな義務的な理由などではない。そうではいけない。


 偽善でも罪滅ぼしでも何でもいい。

 一つの責任として、そして彼らの一友人として、その怪我を治してやりたいと思うのだ。


 祈は、胸にこみあげてくる一種の無力感――――罪悪感のために、映像の先の『その後』を見ることを諦めた。


 ――――その時は、私達のために千夜川桜季を殺すのを止めて欲しいのです。


 それ故、それ以外のことは二の次と、よそに押しやってしまっていた。

 拓二を押し止めようとした自分の言葉を、忘れていたわけではない。

 ただほんの少し、僅かな差で優先順位を定めてしまっただけ。


 ――――お前のその合理的思考にはほとほと敬服するが……だがそれは、いざという時に狭窄的になるぞ。


 結果、理屈から外れた感情的な思考が、皮肉にも祈らしい合理的思考を鈍らせてしまった。


 彼女は、知らない。

 そこで交わされたやり取りが、如何なるものであったかを。



 その空白の時間が――――後の拓二の行く末を決定付けるものであったことを、彼女はまだ知らない。



『ベッキーさん、お願いします……桧作先輩を病院へ連れて行ってください』

『えー、やだよ』


 遅れて、ベッキーが部下らしき金髪の女を連れて野次馬半分で近寄ってくる。

 祈の頼みに、彼女は不満げだった。

 

『だって、まだマキシーおいたん達のところに映像送らないといけないもん。おしごとちゃんとしないと、怒られちゃうの私なんだよ?』

「…………」


 先程、ハイヤーはアンテナだと述べた。

 それだけでなく、謂わば、観客席に向けた中継地点。ベッキー達は、『舞台』を現場で整えるだけでなく、そこで行われる見世物のカメラ係でもあるのだ。


『それなら、勝手に救急車を呼ばせてもらいます』

『それもダメ。部外者は近付かせちゃダメなんだよ』

『なら、どうすれば』

『んー、しばらくそこに寝かせとけばいいんじゃないの。大丈夫、そんくらいじゃ死なないよ』

『そういう問題じゃ……!』


 ベッキーの非協力的な態度に、祈が詰め寄ろうとした矢先、そばの女――――モニカが阻んだ。

 より具体的には、祈の前に身を出し、


「……っ!!」

『……慎みなさい。どちらの立場が上でどちらが下か、試してみたいのですか』


 辺りの空気が固まる。

 細波や暁からすれば、聞き取れない会話を挟んでから、突然銃を突き付けられているのだから状況一つ掴めていない状態だ。


 もしここで、モニカが引き金を引いても、彼らではどうしようもない。


『……困るよ、おしごとの邪魔されるの。分からない? こっちはね、機嫌一つで命が飛ぶところにいるの』


 声音は、間違いなく年嵩の無い子供のそれである。

 だが、その言葉付きはふた回りはある大人のように対等だった。


『正直、お姉ちゃん達のことなんて別にどうでもいいの。それこそ、そこのお兄ちゃんが死のうが、別にね。下らない茶番に付き合うだけで精一杯。その上イノリお姉ちゃんのワガママを聞いてたら、キリがないよ』

『ですが、私はマクシミリアンさんの――――』

『うん、お友達、だよね。? だから全部お願いを聞くって言った? おもてなしするって言った? マフィア舐めないで、殺そうと思えば、何時でもいいんだよ』

「…………」


 祈は、懸命に頭を回していた。

 夕平を助ける方法を。


 ベッキーの言うことは、十中八九ハッタリだろう。

 彼女に、自分達を殺す気は無い。これは調子に乗らせまいとする牽制だ。

 彼に『招かれた』身を、乱雑に扱うことはしないだろう。それが出来るのなら、とっくにやっているはず。


 むしろ本当に、『出来る限り言うことは聞くように』と命じられていたのではないか。思えば、祈が初めてセリオと、娘のメリー=ランスロットの名前を出した時、その返事は早かった。

 ベッキー達の役割は、学園周辺の監視と映像中継だけではなく、自分達の保護も含んでいるのではないか、と祈は考えていた。


 そこまで分かっているからこそ、銃を見せられて特別な恐れはなかった。

 口で言い負かせられる。そう確信を得ていたため、逆にもっと強く、夕平を助けるよう口を出すつもりでいた。



『そこまでだ、娘よ』



 しかし――――そこで、彼女の思いもしない声が飛んできた。


 底冷えする程に冷徹な響きを持つ、低い、聞く者の警戒心や猜疑心を煽るような声だった。

 そこには、目を引く白衣の、長身な男がいた。白衣だけでなく、肌も青白く痩せ細り、長く傷んだ白髪をぶらりと引っ提げている。まるで骸骨が歩いて来ているかのような出で立ちだった。


 その後ろを恭しく付いていくのは、剃毛したばかりのような頭が特徴的な、恰幅の良いスーツの男。

 そして、もう一人。大きな灰色のパーカーにその全身を隠すように包む者。容姿は一切見て取れないが、その背格好は他二人よりも低く、線もそこまで太くない。それらの身体的特徴から、女性かもしれない、と祈は直感として感じた。


『――――vater《パパ》……!?』


 彼らの登場に、驚いたのは祈だけではない。

 モニカ、そして特にベッキーは、先程までの様子とは一変、子供のように狼狽えているように見えた。


『パパ、え、どうして、ここに……?』


 いや、彼女の様子は狼狽という言葉以上に目に見えて取り乱していた。

 表情は強張り、その柔肌には玉のような脂汗が滲んでいる。

 落ち着きなく視線を泳がせ、手元は無意識に指を組んで握っていた。自分で自分を励ましているかのように。


 この場にいる者達の視線を受けて、男はベル、と呼んだ。


『ここからは私が受け持つ。お前達は病院に行くなりなんなり好きにするいい』

『でも、その、役目が……』

『――――聞こえなかったか? 「消えろ」、と言ったのだが?』


 ベッキーは途端に縮こまり、顔を俯かせる。

 そして、消え入るような小さな声で、


『……はい、vater』

『いい子だ』


 言葉と裏腹ににこりとも表情を崩さず、まるで吐き捨てるかのような物言いに、誰も何も言えないでいた。


『そこの小娘』


 すると、今度は祈に向けて睨めるように一瞥くれた。


『貴様の連れに伝えろ。余計に騒ぎ立てるな、と。……?』


 ククク、と喉を鳴らすように笑う白衣の男。

 目を細め、吊り上げたその表情が、暮れの陰に不愉快に浮かび上がる。


『それは、脅しですか?』

『フッ……これでも医者の端くれ、その少年を助けてやろうと思ってのことだ』

「…………」

『異論はなかろうに?』


 確かに、祈達にとっては好都合だったが、この男の意図が読めない。

 ただ、まず間違いなく、夕平の身を案じているわけではないことだけは確かだ。


 拓二ともマクシミリアンとも違う、薄暗い思惑を如実に感じさせた。


『ショーは終わり、幕は閉じようとしている。演者が何時までも舞台に残るな』

『……グーバ=ウェルシュ博士』


 祈の言葉に、かすかに意外な様子で男――――グーバは片眉を持ちあげた。


『……ほう。私を知っていたのかね、Fräuleinおじょうさん?』

『貴方は一体、何をしようとしているのですか。何を企んで……』


 祈は問う。

 現代医学の権威、グーバ=ウェルシュ。

 それだけの人間が何故、ここに現れたのか。何が目的なのか。


 彼女でさえ計り知れない、その真意を。


『いやなに――――「お迎え」にあがったのだよ。「Totentanz」の蒸れるような香りを嗅ぎ付けて、な』


 おちょくるようにそれだけ言うと、グーバは雁首を揺らし、けたけたと笑みを顔に貼り付けた。



◆◆◆



 色濃い血の跡が、花開くかのように桜季を中心に飛び散っていた。

 辺りに充満する臭い。

 思い出されるのは、エレンの赤い部屋。あれも相当だったが、新鮮で蒸せ返るようなその異臭は、今の方がより生々しいかもしれない。


「……千夜川」


 ……桜季の身体は、『ひしゃげていた』と称するに相応しい有様だった。

 三階から自分の意思で飛び降りた時とは違う。受身も取れず、全身の骨が砕けていることだろう。

 四肢は歪な方向に曲がり、頚椎もイかれてる。血の海に伏したその身体はさながら、壊れた人形だ。


 もう、動けはしまい。

 それどころか正直、今なお生きていられるのが不思議なくらいだろう。


「ユ……く……ゆう……」


 その口からは、朧げな音が零れていた。

 夕平の名前を、ぶつぶつと。呪詛か念仏のように、何度も何度も、うわ言のように。

 もはや声として聞き取れない程に掠れ、弱々しく虚ろに血泡と共に呟き続ける。


「げぼっ、ごほっ、ぐ……」

「……大した執念だよ、お前も」


 ……ゾッとしないな。

 

 少し違えば、こうなっているのは俺の方だった。

 というより、本来俺がこうなっているはずだった。


 何の掛け違いか、巡り合わせか。

 結果、そうはならなかった。


 俺は勝ち、桜季は負けた。

 その事実が、判然としてそこにあった。


「……言いたいことは、山程ある」


 きっと、聞こえてはいない。

 目も耳も、もうまともに俺を捉えることもないだろう。


 それは分かっている。分かっているが、目の前の桜季に対し、言葉が抑えきれなかった。



「――――お前、ムゲンループの住人じゃなかったんだな」



 ざあっ、と答えるように風が吹いた。


「お前のその能力のせいで、答えを出しあぐねていた。お前が余りにも強すぎたから、俺と同じくループを繰り返しているのかと、ずっと思ってた」


 結局、本当に確信したのは最後の最後。俺の罠……ネットの仕掛けだ。

 あれが成功した時、ようやく分かった。何故ならあれは、〝もし桜季が住人なら絶対に成功しない策だったからだ〟。


「だから――――……」


 深く考えなくても当たり前のことだ。

 もし桜季がムゲンループの住人であるのなら、読めていたはずだった。

 俺の『とっておき』を、見抜いて然るべきだった。


 それはそうだ。暁が死んだ瞬間を、俺も立ち会っていたのだから。

 その対策を、桜季が分からないわけがない


 だが実際は、桜季は、自分が暁を殺したことを知らなかった。俺は知っていた。

 たったそれだけのことだ。


 それだけのことで、雌雄は決していたのだ。


 桜季の反応は無い。

 もっとも、聞こえていたとしても何のことか分からないだろう。

 それでいい。


 聞こえていないついでに、脈絡もへったくれもなく、こう呟きを落とした。


「……なあ、


 長い間、時間を巻き戻せるこの世界で『色々』な事をやってきた。

 犯罪にももちろん手を染めた。人が死ぬ光景を目の当たりにしたこともある。全てを話そうとすれば、キリが無い。


 だが、俺が直接手を下したことはない。


 その証拠に、マクシミリアンと違って、俺は今まで『ムゲンループの住人が殺した人間は次のループで生き返らない』というルールを知らなかった。

 グレイシーも、最後は自分で命を絶った。それまでのループでも、俺が誰かを殺したことはなかった。


 それは……何故か?


 おもむろに、ポケットに手を掛けた。

 指先に、固い感触が当たる。


 ――――俺は、『これ』の扱いは上手くない。

 桜季の言った通りだ。撃たないんじゃない、今まで撃てなかった。

 だが――――これで、外さない。


「〝お前が予言した、たった一発だ〟。この時のための、たった一発……」


 俺は桜季に、銃口を向けた。

 暗く染まったこの夕暮れに、その重々しい鉄の塊は、違和感なく溶け込んでいるように思えた。


「……たい……」


 桜季が、小さく呻いた。


「……ぃた、い……いたいよぉ……ううぅ……」


 まるで子供のような、喉をつっかえる泣き声が、そこには入り交じっていた。


「泣くな……泣くなよ」


 それだとまるで、俺が苛めているみたいだろうが。


「俺より強い、お前が泣くな」


 ……何を、気にする必要がある。

 待ち望んだ絶好の機会だ、殺せばいい。俺を邪魔するものは、何も――――


 その時突然、びりっと頭痛が走った。

 刹那、脳裏によぎる、


 ――――少しでも私達のおかげだと思ったのなら……


 ……やめろ。邪魔をするな。

 後は、引き金を引くだけなんだ。それで全てが終わるんだ。


 ――――その時は、私達のために千夜川桜季を殺すのを止めて欲しいのです。


 止めてくれるな、俺の悲願を。

 ここで殺さなければ、ムゲンループの住人でない桜季は、結局はまた次のループで暁を殺そうとする。

 また同じことを繰り返す。

 俺が殺さなければ、終わらない。


 お前は何も知らないんだ、いのり。

 俺の今までのことも、あの時のことも。感じてきたことも、受けた傷の痛みも、何も。だからそんな口が利ける。


 ――――私は、拓二さんを信じていますから。


 煩い、黙れ。

 勝手な偽善で、俺の全てを語るな。

 俺の正当性をへし曲げようとするな。


「…………」


 今更何を躊躇うことがと自分でも思うが、ただ俺にも、感じ入るところが何も無いわけでもない。


 桜季は結局、無敵だったが、ムゲンループの住人ではなかった。

 暁を殺したのは確かに桜季だが、〝繰り返し殺し続けたことそのものに桜季自身の意思は無かった〟。ループに従って生きてきただけだと言えば、それはそうなのかもしれない。


 ……いのりが俺に言いたかったのは、そこか? 


 例えループの記憶が無いとしても、こいつは何のために数十年間生きてきた? 

 詰まる所は桜季も、ムゲンループに踊らされている人間の一人に過ぎなかったのだ。



「……俺は、ずっとお前を超えようと思って生きてきた」



 存外柔らかい自分の声に、自分で少し驚いた。

 思えば、桜季に対して自分の心内を話そうとしたことは無かったかもしれない。いつも、警戒心と敵意を心中に留めていた。


 今は、どうにも不思議な気分だ。あれほど憎かった桜季に、殺意の対象であった桜季に、憐れみすら感じていた。

 あの桜季が、急にちっぽけなもののように見えてきていた。


「でも同時にそれは……お前みたいになりたいと思うことでもあったんだな。心のどこかで、お前を目標にしてきた俺がいる。俺はお前を……尊敬してた。本当だ」


 誰よりも完璧で、『カシコク』生きるために。

 無意識的に意識的に、桜季の存在が俺の中にあった。

 俺の桜季に対する憎悪と憧憬は、コインの表裏のように結び付いていたのだ。


 そしてそれが今、俺の眼下に転がっている。

 自らの無様を晒して。惨めな末路を隠そうともせず。


「……ね……ぇ」

「っ……」


 桜季の口が動いた。

 ただし今度は――――今までのうわ言と違い、明確な意思があった。

 命乞いか、はたまた遺言のつもりか。目に見えない俺に向けて何かを言い遺そうとしている。


「……わた……を……ころすの……?」

「ああ」

「い、のり……ちゃ、は……」

「ああ、反対するだろうな。承知の上だ」

「ふ……ふっ、げほっげほっ……わ、わたし……きみ……やっぱ、り……にてる。……だから、きっ……と」

「……そいつはまた、予言のつもりか?」


 そんな桜季に、俺は――――告げる。



「――――俺は、絶対にお前のようにはならない」



 かつて目指した存在を踏み越えて、過去との決別を。


 俺はもっと、桜季よりももっと『カシコク』生きる。


「……そ、う」


 もはや痛みも感じないのか、目を閉じたままの桜季は、穏やかに微笑んでいた。

 初めて会った時を再現したかのような、俺がまだ千夜川桜季を知らなかった時の、あの表情だった。



「――――ああ……陽……しずんじゃった、なあ……」



 それが、桜季の最後の言葉だった。


 嘘のように軽い破裂音が、遠くに何重にもなって響き渡り、やがて薄闇に消える。カラスがあっと鳴き声を上げて翼を羽ばたかせた。


 一発のビー玉よりも小粒な鉛が、それまで生きていた桜季を、物言わぬ肉塊に変えた。

 鼻に付く硝煙が、全ての事の終わりを物語っていた。


「…………」


 ごとり、と手から滑り落ちた拳銃が、鈍く地面を跳ねた。


「……あ」

 

 ――――桜季が、死んだ。

 こんなにも、あっけなく。

 そのことが、急速に思い知らされていく。


「ああ……」


 するともう、抑えが効かなくなった。

 悔悟、充実、喪失、昂奮、安堵、悲哀――――そのどれでもあって、どれでもない感情が、押し寄せてきて、



「……あ……う、あうう、あああ、あああああああああああああああああああああああ……!!」

 


 薄暗がりに、獣のような慟哭が響いていた。

 この日、俺の記憶が途切れるまで。


 何時までも、何時までも。


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