第七十七話:『Peek-a-boo』

 普段は施錠され、立ち入り禁止となっている校舎の屋上には、防犯カメラなどは設置されていない。

 そのため、此方が用意した簡易型カメラによって、その様子は中継されていた。外への電話れんらくが出来ないよう、学園を取り巻いていた妨害電波を一時的に切断する必要はあったが、今更彼らにその心配は無用だろう。


 そして――――観客達の間では、この一瞬にどよめきが走った。

 二、三時間ほどのインターバルを挟み、ついに展開が動いたのだ。途端、それまで傾けていたグラスを一斉に置き、皆が画面を注視する。


 そばに駆け寄った桜季が、文字通りその鼻っ柱を蹴り折られて、さらに興奮の混じった粗野な歓声が飛ぶ。


「始まった……!」


 そして、画面越しの舞台を管理し包括するマクシミリアンもまた、今はそのことも忘れ、ショーを楽しむ観客に徹していた。

彼らと同様に姿勢を前にし、拳を固めいる。

 いや、あるいはこの場で一番この瞬間を満喫し、滾っていたかもしれない。


 彼は、知っていた。

 これが本当に、長かった今日一日の全てを決定づける最終決戦ファイナルラウンドであるということに。


「あいつ……頭どうかしてんじゃねえのか。自分で自分刺すなんてよ」

「ふっふっふ……なかなか、彼も面白い子だよね」

「面白いだ? 馬鹿かよ。いくら不意を突くっつっても、あそこまでする必要はなかっただろぉが」


 乱暴に吐き捨てる清道に対し、マクシミリアンは頷く。


「確かに、ちょっと私情は絡み過ぎてたけど……だからこそ子供っていうのは怖いんだ。合理性を抜きにした行動を、当たり前のように取れるんだから」


 清道は馬鹿と切り捨てたが、桜季を動揺させるという手段においてこれ以上のものはなかっただろう。

 成功を念頭に入れて思いつくような方法では――――おそらくはここまでしなければ、こうも彼女を混乱させられなかっただろう。


 それは偶然や愚行という言葉だけで、簡単には片付けられない。

 時にこういう輩は、此方の想像を超える『Peek-a-boo』を見せる。その良し悪しを問わず、全てが頭の中での計画通りというわけにはいかないのだ。


「……それとも、ここまでは概ね計算通りだったかな?」


 智謀家は、そっと嗤う。


 ――――これだから、やめられない。

 ――――楽しいだろう、高みの見物チェスごっこは。ねえ、参謀ちゃん?



◆◆◆



「お、おいっ! 何がどうなってんだこりゃ!?」


 計算通り――――な訳が無かった。


「わ、分かりません……私は、何も……」


 事態を傍観する者ーーーー祈は、狼狽していた。

 ここまで目に見えて彼女が動揺している姿は、滅多にお目見え出来ないだろう。


 その原因はもちろん、夕平の捨て身であった。

 桜季や拓二と同じように、祈もまた、その行動に驚愕していた。確かに、その具体的な方法については一任していた。しかしそれでも、自分の想像の範疇に収まる方法だと思っていた。


 ……甘かった。というより、心のどこかで侮っていた。

 自分と比べて能力的に凡庸な、桧作夕平という少年が自分の想像の上を行ったこと。だが、それはまだいい。


 問題は、その手段そのものだ。あの命を削るような苦肉の策だ。


 そこに感じた、彼我の覚悟の差。

 夕平が文字通り命を賭け、あの桜季にも真っ向から立ち挑んだ姿を見せられたからこそ、感じる此方との――――否、正確には画面の向こうと自分との温度差。

 その正体を、賢い彼女は理解していた。


 目を覚ました、と言ってもいい。それも、夕平の決死の自傷行為によって。


 ――――

 ――――指揮官気取りで、彼らの命を駒にした『賭け』をすることに躍起になっていたのではないか……。


「あ……あ」


 そして、自分の中にはっきりと形作ってしまったおぞましい感情に、彼女は愕然とした。


 いつの間にか自分も、この歪な舞台を取り巻くギャンブルに無意識に参加していたのだ。

 自分はただ、拓二や夕平や暁を救おうとしたのではなくて――――単に、この件に無力ではないことを示したかっただけだったのではないか。

 

 これでは、この場にいない『上の人間』と自分が称した者達と、何も変わらない。夕平に向けて偉そうなことをのたまった言葉が、自分に返ってきてしまっている。〝数刻前、拓二に言われた通りだった〟。


「……お願い、します……どうか、お願いします」

「いのりちゃん……?」


 もはや彼女に、出来ることは無い。


 彼女はひたすら願い、祈る。

 認めたくない自分の性質から目を背くように、自身の無力を慰めるように。


「拓二さん……!」


 ――――最後に託せる者に、何もかもを託した。



◆◆◆



 膝にパキリと何かが折れるような感触を伴いながら、確かな重みを弾き飛ばした。


 夕平が掴んだ手を解き、桜季の身体が勢いよく吹き飛ぶ。雨が溜まった屋上のタイルに突っ伏した。


「おぶっ、ぶがぁっ……!」


 その顔面は、血塗れだった。だくだくと折れた鼻から血が溢れる。

 端正だったその容姿は、既に見る影もない。脂汗と大量の鼻血、雨泥でぐちゃぐちゃだった。


 俺は、その横倒しになった胴を追撃しようと蹴飛ばす。

 鉄板を仕込んだつま先が突き刺さろうとしていた。

 ――――が、命中はしなかった。否、受け流されたのだ。


 見覚えのある銃が、目の端で地を滑る。暁がいるフェンス前で止まった。

 奪っていた俺の銃を盾に、直撃を避けたのか。今のたった一瞬で。


 そして、その凌がれてしまった一秒未満は、高くついた。


 桜季が一瞬姿を消した――――と思った瞬間、ぞわりと右側の空気が殺気立った。

 それは経験か虫の知らせか、どちらにせよ嫌なものを感じ、身を構えた。


 衝撃が、まるで爆発したかのように弾けた。

 爆発はもちろん比喩で、実際はあの姿勢から跳躍した桜季の飛び蹴りだったのだが、俺には本当に爆発が起きたかのように感じた。

 大鎌を振り下ろしたようなその一撃を、殺しきれない。


 とても一女子高生の――――というより、人間のものとは思えない程の一撃を防いだのは間違いない。急いで身体を立て直した分、力が完全には乗らなかったからだろう。

 とっさに構えたその腕の中心が、軋むように痛みを訴えた。折れては無いものの、ヒビが入ったかもしれない。


 だが、ここで引き下がるわけにもいかない。

 骨が折れようが肉が裂けようが、ここは距離を置く時ではない。

 攻撃を受けにくいよう姿勢を低く、地を這う蛇のように低く構えて、その喉元に飛びかかろうとした。


 夕平が作ったチャンスを、無為にするわけには――――……!


「きゃっ……!」


 と、その時だった。

 小さな悲鳴。不意に耳に届いたその方向に、視線を向けた。


 フェンスの向こう、暁が足を滑らせたのだ。手を掛け、ずり落ちそうなのを危うくもギリギリ支えている。

負傷した夕平のところに向かおうとしたのだろう。だが、焦りと大雨がの名残がそうはさせなかったのだろう。


「あかつ――――……!」


 俺は知っていた。刹那の差が雌雄を決するような本当の勝負というものは、一瞬で終わる。


 そして、切り詰めた最中での些細な迂闊は、次の大きな『ミス』を生む。


 ――――。たったそれだけの余計な動作が、今の俺達――――いや、桜季にとっては、万にものぼる長い時間だったことだろう。

 桜季は、俺と同じ手段を取った。俺と同じように、真っ向からの手段を避け、相手の嫌がる方へ嫌がる方へと弱点を突く余裕も容赦もないやり方を。

 だが、考えてみれば当たり前だ。桜季にも半ばこじつけのようであっても『弱点』があるのなら、その逆も然り。それを卑怯となじろうが、今となっては意味がない。


 桜季は、いつの間にか片手に隠し持っていた自分の靴を、〝刺された俺の左肩に向けて投げつけたのだ〟。

 影のようなその素早い飛来物を、避けきれない。


「ぎァッ……!」


 途端、目に青白い火花が散った。

 傍からすればついと押された程度のものであるはずだが、俺の全身には、雷で打たれたような痛みがフラッシュバックした。ひょっとしたら、刺された時よりも痛かったかもしれない。


 とっさに、空を大きく足蹴が舞った。

 しかし、感触は無い。

 

 かと思えば、その隙を突いたかのような衝突が身を包み、まだ感覚の戻りきれなかった俺は、気付いた時には地面にうつ伏せていた。

 その拍子に、胸元に仕舞っていた十字架のネックレスが、じゃらりと音を立てて襟から飛び出た。


 次に桜季の身体が、俺と重なり合うようにしてしな垂れかかる。両腕とも、そのスラっとした両の足で押さえつけられた。


「あ゛はっ♪ あっはははははは!! がぢ! 私の勝ぢ! 私の゛っっ!!」


 ひしゃげた鼻筋から、抜けるような汚らしい濁り声が発せられる。豚か何かかと聞き間違えるような、醜い音。

 思ったよりもそのダメージは大きいようで、今もぼたぼたとその鼻孔から血が噴き出ている。


 その声に、いつもの桜季の垢抜けた、知性と感性を兼ね備えた完璧な雰囲気は微塵も感じさせない。


「まヴぉるものがあるっでいうのヴぁづらいねえ? 相がわぐぅん!? げっきょぐ、君はまだまだ甘い……」


 その途中で、ペっと唾を吐き捨てた。馬乗りで近付いてくる顔を掠る。

 ただ、その勝ち誇ったツラが、凍えるように固まったのは見ることは出来た。

 

「……何言ってんのか分かんねぇよボケ」


 がん、と頭に衝撃が響いた。

 激しい眩暈の後に、後頭部に重い鈍痛が俺を襲う。 桜季は頭蓋を押し潰さんばかりに、地面のタイルに叩き付けてきている。あるいは、こいつなら本当に素手で頭を粉々に出来るのだろうか?


「だりない!! まだだリないよお゛お!? まだまだ私にヴぁ勝でないよお゛!? ぐぉの『眼』がある限り、夕平ぐんは、誰にも、渡ずぁないんだから゛ぁ!」


 叫ぶ。 夕暮れの空に、その轟きが落ちた。


「そうよ、みんな、みんなみんなみいイイいいんな嘘、うぞ。ウゾなのよ!! だって、じゃながったら、オカジイ゛。おガじいもの。だって、だってだっテだって! 夕平ぐんは、ゆうへいぐんはそんなこと言わない! 私のゆうへいぐんは私を傷つけないもの! 絶対ぜったいぜったい、あんなこと……」


 視界がチカチカ明滅しながら、その叫び声が遠く聞こえる。

 もがいても暴れても、体勢のせいもあって力が乗らない。抵抗の甲斐なく殴られ続けた。


 そしてどんどん、意識が遠のいていく。


「……あ、ぞっか。オマエがあんなこと言わせたんだ。いのりちゃんが夕平ぐんに、あんなこと言わせたんだ。私を陥れるための罠なんでしょう? そうでしょう? あははうふっ、私、わダしは騙ぜないよお、何だって分かるんだがらぁ。えらい? すごい? 私、すごいでしょ? うふ、うふふふふ……!」


 限界は、自分が思っていたより近かったのか。身体が、泥のように重い。

 耳鳴りが酷い。全身が痛い。

 もっとやらなければ、もっと動かなければといくら理性が叫んでも、身体が追いつかない。

 もうどうでもいいじゃないかと、身体が囁く。


 ――――こいつは、何度俺を諦めさせれば気が済む。

 ――――これが……今度こそ本当の『敗北』か。


 あらゆる手は尽くした。力も借りた。

 だが、それでも、もう。


 ――――足りない――――

 ――――足りない。足りない。足りない――――……


 頭の中で、桜季のその言葉だけがぐるぐると回っていて……



 ――――嗚呼、糞……。



 意識が、遠く、遠く――――



◆◆◆



「――――……いのり、どうしてあいつに嘘を吐いた?」



 数時間前。

 夕平が一人考えに耽り始めた頃、端末に向けて聞かれないような囁き声を向ける。

 相手はもちろん、その向こうにいる俺達の頭脳役だ。


『…………』

「嘘、ってのは違うか。?」


 何故このようなことをと問われれば、夕平に話したことと、俺に話したことが、まるで違うからだ。


「『チームプレーが要求される競技は不得意』……ずっと以前、細波さんが千夜川のデータを持ってきた時、お前が言ったことを俺は思い出した。俺に言ったことってのも、弱点というのも、本当はそれのことに関することなんだろう? てっきり俺は、このことについて詳しく話すのかと思ったが……ついにお前は話さなかった。なんで黙ってた?」


 反応を見せないいのりに、俺はそう言い重ねた。

 あっちからしたら、責め立てるように聞こえたかもしれない。


 と言うのも、確かに外から俯瞰する立ち位置からのいのりの意見は、これ以上ない金言であり、ここまで窮状極まる場面で頼りきりになっているかもしれない。

 しかし、だからこそだ。

 切羽詰まる今だからこそ、こいつの意見が間違ってもらっては困る。そして当然、隠し事をされては困るのだ。


『……千夜川桜季の決定的な弱点と呼べる要素があるとすれば、それは桧作先輩という存在の他に、勝負を「多対一」に持ち込むことだと、私は思います』


 いのりは、観念したというように、話す。もっとも、俺が口を入れなくても、最初から話すつもりだったのだろう――――


『前述の通り、千夜川桜季に考える余地を与えること……つまり、「彼女が思いもしない、彼女や私達に関与しない第三者の思惑を挟み込むこと」が肝要です。その有効な手段が、桧作先輩との協力であり、平たく言えば、個人戦を避ける多人数で囲うというものです』

「……」

『失礼を承知で言ってみれば、桧作先輩はそのためのただの人員でしかありません。千夜川桜季を出し抜くための、不確定要素。謂わば雑多です。それだけでも十分、それ以上の役割は望みません』


 いのりの考えは、もう皆まで言わずとも分かった。

 その言葉の相変わらずの妥当性も、理解した。これまでの彼女の頭脳のその有用性も知っている


『それを、わざわざ本人に申し上げる必要はない……そう思っただけのことです』


 そして俺はそれを――――敢えて否定する。


「無意識かどうか知らんが……どうもお前は傾向として、人を能力の優劣がある駒として見てるところがあるらしいな」

『え……?』


 説教ではないが、一つ、数十年の経験を得た先達から教えてやる。


「もちろんそれ故に、見えてくることも多いだろう。実際、その弱点とやらはかなり的を射ていると俺も思う。お前のその合理的思考にはほとほと敬服するが……だがそれは、いざという時に狭窄的になるぞ。軽視的、と言ってもいいな」

『軽視的……? 私が、ですか……?』

「夕平はただの妨害役だから、話す意味もない、ねえ……。生憎、そう思ってんのはお前だけだぜ、いのり」


 俺は、既にそれを味わったから。

『道』を進む者の成長を、知っている。



 ――――机の上の数式と違い、その可能性はいつだって未知数だ。



「もしそれを本気で言ってるのなら、それは流石に夕平のことを軽視し過ぎだ。忘れてるのか知らんが、あいつは仮にも――――『あの』千夜川が好意を持った奴が、いつもまでもお前の想像に収まると思うなよ?」



◆◆◆



「――――なっ、なにずるの゛!?」


 その嗄れた叫び声が、一瞬飛びかけた意識を繋ぎ止めた。

 眠ろうとしていたところを、無理に起こされたような倦怠感すら感じつつ、脳は覚醒していく。


 そして――――俺は、目を見張った。


「やめて、はなじて!! どぼじて邪魔ずるの!? こいつ殺ぜないじゃない゛!」


 目を覚ました先にいたのは――――



「約束……したんだ。あか……のこと、見てやるって……大事なもの、手放すな、って……」



 姿

 腹の激痛は今もなお襲いかかっているはずなのに、こいつは。


「でも、俺は……おれはな、たくじっ……お前の、ことだって……っ……俺は……!!」


 ――――嗚呼、そうか。

 ――――そうだ、俺は今、何を馬鹿なことをしようと。

 ――――俺が言ったことじゃないか。俺が、それを無碍にしてどうする。


 ムゲンループで生きた数十年。

 そして、この週の世界で得た数ヶ月。

 俺はそれを、無駄にするのか。


 脳裏の記憶が、目の前の夕平の姿が、俺に力を与える。まだ動かせる右手に、力が伝わる。


 思い出せ。答えはいつも、身近なところに転がってる。



 ――――私は、『彼女』と貴方に、似たものを感じました。

 ――――アイカワくんは、私達のような世界に入り込んで何をしようとしているのですか?



『それら』は、果たして走馬灯と呼ばれるものであったのか、それとも危機本能が生み出した追記憶なのか。

 多くの言葉達が、浮かんでは消えていく。俺の周りにいた、夕平達だけではない多くの人間の言葉が脈絡も一貫性もまるでなく、それぞれが唐突に頭の中で俺に呼びかけてくる。



 ――――拓二くんはよく一人で頑張りすぎちゃうから、もしかしたら、身体があなたに休みなさーいって、言ってくれてるのかもしれないわね。

 ――――他の人間が考えてる事が分かる。他の人間がやろうとする事が理解できる。世界中の人間が、私以下なんだ。

 ――――千夜川先輩を、驚かせる……?

 ――――つまり、彼女が思いもしない、彼女や私達に関与しない第三者の思惑を挟み込むことが肝要です。

 ――――そして、死なないはずだった『誰か』を殺すのかは……私達次第なのですよ。

 ――――……千夜川先輩も、頼りないかもしれないけど、俺とか誰か人を頼ってみてくれよ? たまには一人きりはやめてさ。

 ――――千夜川桜季は、俺達同様ムゲンループの住人である可能性がある。


 ――――……ね? これで、知らない人じゃなくなった。私と君は、友達だよ。



 そして――――『その言葉』は、これが走馬灯にせよ危機本能にせよ……本来、何てことない内容だったはずだった。



 ――――その時の誕生日パーティでもらったのが……見て、十字架のネックレス。おっきくてかっこいいっしょ? ギルとお揃いで、貰った時からずっと肌身離さずよ。



 それは、今の状況に全く関係のない言葉だった。

 何故今思い出したのかとこっちが問いたくなるような、すぐに他の記憶で埋もれ、別の追憶に流されていくはずのメリーとの会話だった。



 ――――ギルとお揃いで、貰った時からずっと肌身離さずよ。――――



 だから……これは一つの奇跡なのだろう。



 ――――、――――



「……あ」


 ちゃり、と小さな金属音が震えるように応えた。

 今目に付いた『それ』は、しかし本当はずっとそこにあった。


 鉛のような銀色をした、五センチ程のペンダントサイズのその十字架クロスのネックレスを見ると、俺は決まってまず二人の姉妹のことを思い出す。

 そして順繰りに回顧されていく、イギリスでの一週間の記憶。この十字架は、その象徴あかしだった。


 そして、その記憶の中には。

 姿――――


「は、離じて!! はなじてよぉ゛! うぅう゛ううっっ!!」

「うあっ……!!」


 桜季が、幼児退行したかのような、泣き声とも喚き声とも取れない声をあげて身を大きく捩る。

 怪我をした夕平は、あえなく吹っ飛んでしまう。


 だが、時間は得た。そして、夕平が懸命に纏わりついてくれたおかげで、拘束がほんの僅かに緩んだ。

 ――――今しか、ない。心臓が一際大きく跳ねた。


「っ――――ぐあっ!!」


 腹筋に力を籠め、思い切り上体を跳ね起こした。桜季がわずかに目を瞠る。

 だがそれはきっと、俺が動いたことに対する驚きではなく。

 

 言った通りだ、刹那の差が雌雄を決する本当の勝負というものは、一瞬で終わる。



 ――――そして、



 首に掛かった鎖の留め金具クラスプからフックを外し、今までずっと身に着けていた十字架を、手に取っていた。


 ――――これはかつて、

 


 愛するが故に贈った、自衛のための暗器――――


――――ならお前の負けだ」


 得た経験きおくを、力に変えて。

 銀の十字架は、一本のごく小さなナイフへと姿を変え――――



 振り下ろした切っ先は、いともあっけなく、桜季の左目に突き刺さった。


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