第七十二話:敗北
「――――そういや、『あかつき』って名前ってさ、どういう由来なんだ?」
ある日、こんな話があった。
何の脈絡もない、何てことないふとした会話。
俺達四人が、その声の主の方、夕平を見る。
「え、私の名前? どうしたの、いきなり?」
「いや、なんとなくなんだけど。聞いたことなかったっけなって」
「ふうーん」
「ていうか、暁ってなんだっけ? 夜明け? 夕暮れ? あれ、どっち?」
「あ、そこからなんだね……」
ため息を吐かんばかりに呆れる暁に対し、笑って返す声が続く。
「暁っていうのは、言ってしまえば明け方だよ。太陽の昇る前の、ほの暗い時間帯。『あかつき』『しののめ』『あけぼの』の順で、夜半から夜明けまでを区別されてるの」
「へえー」
簡単に、しかし要領を得た生き字引きのような説明をする桜季に、感心しきりの夕平。こうした場では、よく見慣れた光景だった。
「それに、暁と言ったら一日の始まりの他に、物事の始まり、待ち望んだことが実現した時にも使われるよね。だから由来も、大体そういう辺りから来るものなんじゃないかな? どう?」
と、話を振られた暁が、小さく苦笑する。
「……なんか、自分のルーツを他の人にこうビシッと言い当てられると、不思議な気分」
そして、彼女は静かにこう話を始めた。
「昔の話なんだけど、私が産まれてきた時って、凄く早産で大変だったらしくて。最悪、障害が出来るかもって言われたくらいなの」
「それって、未熟児って奴かよ?」
「未熟児と早産は別物ですよ」
口を挟む夕平に、いのりが答えた。
「出生体重以外にも、在胎週数、発育状況によって呼び方は分類されています。ですから、早産児全てが未熟児というわけではありません」
相変わらず抑揚のない口調だったが、どこか夕平の軽卒な言葉遣いをたしなめているようにも聞こえた。
夕平もその事に気付いたのか、少し驚いたような表情を浮かべ、
「あ、そ、そっか。なんか、すまん」
「あはは、いいよそんなの。気にしないで、多分私もその未熟児の括りに入ると思うから」
謝る夕平に、軽く手を横に振る暁。
「でも私は無事産まれて、結局何の問題もないってお医者さんに言われた時に、付けた名前が、暁。待ちに待った瞬間だから、望んでいた事が叶ったから……だって」
そしてその最後の言葉尻に、照れ臭そうにはにかんでみせた。
「……とても素敵だね」
そう言う桜季も、俺達も、その話に聞き入っていた。
暁の言葉は、耳障りの良い柔らかな語調を持っていた。それだけ、彼女の話口は不思議な魅力のある雰囲気があった。
「でもね、それだけじゃなくて、もう一つ聞いた由来があるんです」
こくりと頷いてから、ゆっくりと口を開く。
まるで、自分のとっておきの秘密をこっそりと教える子供のように。
「それは――――……」
ざあ、と。
風が辺りの木の葉を揺らし、流れていく。
青々とした緑葉の空気を含んで、通り過ぎていく。
――――これは、まだ全てが終わる以前の、俺達のやり取り。
平穏が崩れ去る前の、俺達五人の日常――――
◆◆◆
――――炎は、潰えた。
例えるなら、烈火のようだった拓二の気迫、勢いは、今や抑え込まれ、心もとない火の粉が宙に向けてチロチロと悶えるように、身動ぎすることしか出来ない。
「――――がはっ……!」
一転攻勢。まさにその言葉が相応しかった。
いや、あるいはそれとも……腰の重い獣が、ようやく牙を剥き出したと言うべきか。
激しい音が矢継ぎ早に鳴り響く。
拓二の身体は紙細工であるかの如く、軽々と教室のドアに叩きつけられ、頭をしたたかに打つ。
その衝撃の強さに硝子がひび割れ、破片がくずおれた拓二に降り注ぐ。
立ち上がろうとした時、そうする前に襟首を持ち上げられ、壁に張り倒された。
振動音が鼓膜を貫いて脳を揺るがし、肺の空気が絞り出されて激しい酩酊感を抱きながら、ぞれでも辛うじて意識は放り出さなかった。
「くっ……オオッ!!」
必死の抵抗とばかりに、固く握りしめられた拳を振るう。
が、体勢から力が乗らず、傷を負う桜季にも容易にかわされた。
「死、ね!!」
ヒュン、と風を切る音。
それと同時、左肩が激しい熱を纏った。
それは、まさに一瞬のことだった。
その該当する部位には、血塗れのナイフの柄が生えていた。にも関わらず、自分が刺されたと分かるのには、数秒のタイムラグを必要とした。
「がッ、あ、あぐぁアアア!」
「はぁーッ、はぁー、はぁー……ぼー、じん、ベ、ス、ト……ねえ。でも、そんなの無意味だよぉ?」
子供のように無邪気な笑みが押し付けられる。
その頬や耳たぶに、微かな血痕が付着した顔でなければ、可愛らしく屈託のない無垢な笑顔ではあった。
「ぐりぐり~っと」
そして不意に、刺したナイフをぐりん、とこねくり回した。
「ッ!? ぎィあッ! あがっ、ぎゃあァああああああっ!!」
瞬間、目の奥に火花が弾け、飛び回った。
耳に聞こえる絶叫が、血反吐のように自分の口から吐き出た。
絶する痛み。肉が抉られ、駆け巡る苦痛は、不随意的に身体の筋肉を跳ねさせる。ビクビクと、さながら解剖中の蛙のように。
全身が弾け飛んだかと錯覚せんばかりに、獣のような絶叫を上げた。恐らく拓二自身、自分に何が起こったのかまるで理解出来なかったはずだ。
それほどまでに、目を背けたくなるような耐え難い苦痛なのだ。
それでも桜季は、その手を止めない。
ぐちゅぐちゅと、肉を潰すかのようなみずみずしくも不快な音が鳴り響く。
そう、それはもはや切っているのではなく、押し潰しているといった方が近い。それはとても、一人間の身体から発している音とは思えないものであった。
「ねえ痛い? 苦しい? ――――アハッ。私もねぇ、とっても痛いの! お手てと心が苦しいの! 私達お友達だもんねっ? ごめんね、お友達をこんな目に遭わさないといけなくてごめんねっ!?」
拷問めいた所業のなか、やけに鮮明に桜季の歌うような声が通る。
「が、ぎいァあああああアアああああああ……!!」
苦悶に満ちたその表情と、断末魔の叫び声が、桜季の口角を愉悦に吊り上げ歪ませる。
「ふ、ふふ、うふふふふふふふ!」
蟻を踏むような感覚での嗜虐が、拓二を嬲っていく。
「あ、あグッ、があ……っ」
「……って、あれ? やり過ぎちゃった? もうおしまい?」
そしてふと、我に返ったように桜季が声をあげ、ナイフを動かしていた手を止めた。
既に、拓二は戦える状態になかった。
血を短時間で大量に抜かれ、その激痛によるショック状態に近い状態。意識は半分放棄していたが、それでも最後の一線を執念で以てして、ギリギリ保てているだけだ。
「あはは、ごめんごめん。手が刺されたからって、つい加減が効かなかったよ」
桜季がナイフを引き抜いても、拓二は動かない。
襟首を引っ掴まれたまま、磔になった芋虫のような姿でピクリともしない。肩口から溢れるおびただしい量の血が、辺りの空気に蔓延していた。
「それじゃ、ごめんねのちゅー」
そう言うと、彼女はおもむろに身体を傾けさせ、そして、ナイフの刃が作った肩の穴に口を近付けた。
「…………」
その端麗な桜季の唇が、血塗れの傷口にそっと触れた。
しかしそれは、彼女の言うような慰めのキスとは遠く及ばなかった。むしろ、吹き出す血液を飲もうとする吸血鬼であるかのようだった。
しばらく、そのまま二人はじっと動かなかった。 時が止まったかのようだった。そうしていることが、この一度の安寧を保つのに必要であるとばかりに。
やがて、その口を静かに離す。
付着した紅色が、ぬらぬらとその口づけを示していた。
「……ねぇ、相川くん。聞こえてるかな?」
彼女の言葉は、先程までと打って変わって、落ち着きを取り戻していた。
すっかり元の余裕を取り戻し、その笑みも猟奇めいたそれとは雰囲気が別の、穏やかなものとなっていた。
呼吸も整えられ、対して浅く痛みを逃がすような途切れ途切れの息を繰り返す拓二に、こう話しかける。
「君は例えば、ここから逆転出来る手段を持ってるの? 漫画や物語の主人公のように、絶望的なこの状況で、今この瞬間出来ることはある?」
その問いかけに、声は返ってこない。
「これ以上、私に立ち向かおうって気はある? まだ他に、何かやる?」
その囁きに、声は返ってこない。
それこそが、答えだった。
「……やっぱりね。これが結果よ。これが、君がやろうとしたことの終わり。相川くん――――」
桜季は、告げる。
決定的で、かつ誰の目からも明白な、たった一つの事実を。
「――――君は、私に負けたの」
決着は、ついた。
◆◆◆
『お兄ちゃん……』
事の一部始終を傍観していた者の一人、ベッキーは、食い入るようにその映像に視線を固定しながら呟く。
かねての目標である少女が、あの拓二の身体を壁に叩きつけて抑え、何事か話している。その内容を、日本語に長けていないベッキーには知る由も無かったが、しかしそれでも分かる。
あれは、闘いが終結させた者が上げる、『勝鬨』だ。
拓二は、負けたのだ――――と。
『……何てこと……』
映像の薄ら闇越しに届くような、溢れる血潮の錆びた鉄臭さを覚えながら、しかし今回は彼女にしては珍しく、昂ぶるものが無かった。
ことに彼女は、今回の件――――正確には、拓二の事に非常に詳しい者であった。
その彼の準備に携わり、それだけでなく数か月前のイギリスでの事件でも、より近しいところで彼を見ていた。
その人並み外れた執心、獣の如き渇望を、ベッキーは肌で感じていた。
年齢に見合わない、あたかも長い年月を経て老熟され、精錬され、研磨され、尖り、発達し、特化し、
そして――――それは信じられないほど、真っ直ぐなままに強い力を持っていた。
これはあくまでも彼女の感覚による直観であったが、しかしどうして、とても的を射ていた。
歪みが無いことこそが、何よりの歪みであった。
その歪みを、拓二は当たり前のように内包していた。だから強く、そしてグレイシーにも勝った。
だが――――これはどうしたことか。
その全てが今、完全に捩じ伏せられ、ひれ伏していた。
――――たった一人の少女の前に。
小手先の技術も、念入りの準備も、何もかもが通じない。まさに何でもありの圧倒的な存在。
果たして、ネブリナの総力を以てしても、彼女を抑えることが出来ただろうか――――と、そんな強い危機感さえ覚えるなか、ふとベッキーは車外がにわかに騒がしいことに気付いた。
声がする。何か喚き立てるような、揉め事だと分かる荒々しい声音だった。
すると、ハイヤーのドアが突如として開かれる。
『モニカ!』
入ってきたのは、現在自分の付き人を担っているはずのモニカだった。
『ねえモニカ、ユウヘイがセイジョウの中にいるのは、どういうこと? 何で通しちゃったの?』
『……ボス、「御客人」です』
『? おきゃくじん……?』
子供らしい舌足らずな声が、何の事かと反芻する。
モニカは静かに首肯し、そしてこう続けた。
『それが――――ランスロットの名を挙げ、ここを通せ……と』
『!! ……そう』
すうと、ベッキーの目が細められた。
それまで釘付けになっていた映像から目を離し、向き直った。
『いかがなさいますか、ボス』
『……じゃあその二人をね、こっちに連れてきて。この車の中に』
『は? いえしかし、それは……』
『いいから。……ここに、早く』
ぴしゃりと撥ね付けるような強い語気、そしてその鋭い眼光。
それはおおよそ、子供の顔つきのそれではなかった。確かにこの世界を生きる、プロの目。
十にも満たない彼女が纏うその雰囲気は――――その頭の裏の裏で強かな算段を組み立て、情動的かつ理知的という極点をなじませた、重厚な質感を持っていた。
受けたモニカは、後ずさるような一礼をし、後を去る。
『……「タクジ・アイカワは我らが手中に」……大丈夫、ちゃんと覚えてるよ』
その呟きを拾う者は、この場にはいない。
座席に腰掛け直し、ぽすんとその小さな身体を収めた後、ふっと息を吐いた。
『これでいいんだよね、vater……』
◆◆◆
――――居てくれて良かった。そう言われるような人になりなさい。
小学生の宿題だったか、少女は自分の名前の由来を尋ねた時、こう返された。
――――お父さんはな、暁が産まれてきた時にそう思った。朝早く、病院のお部屋でお母さんと一緒にぐっすり寝てるのを見て思った。暁は、お父さんの待ち望んだ瞬間だったんだ。
幼心に、その声が実感の籠められた、感慨深げな響きを持っていることが分かった。
――――だからな、お父さんがそう思ったように、誰かからそう思われるような、とっても良い子になるように願ってそう名付けたんだよ。
父親からのその言葉を体現するかのように、少女は、非常に優しい心根に育った。
例外こそあれ、誰かを怒ったことがない。
誰かを悪し様に侮辱したこともない。
そして彼女は、自分の分相応を見つめるだけの分別があった。
自分の平凡さに、気付いていた。
立派な人間にはなれないけれど、それでも居られて迷惑な、役に立たない人にはならないようにしようと考えてきた。
少女は、特別意識して親の願いを全うしようとしたつもりではなかった。
だが結果として、少女――――暁は、そうやって生きてきた。
だから――――……
◆◆◆
「……それ、何のつもりかな?」
虫の息の拓二を引っ掴み、それでも警戒を怠らないでいる桜季が、横目で『それ』を睨め付けながら言う。
「…………」
今にも泣き出しそうな息遣い。
震える身体。
桜季や拓二のいる離れたところからでも、その様子が分かった。
「ぁ……や……めろ」
拓二が、蚊の鳴くようなか細い声で呻く。
その掠れた視界に映るものに対して、精一杯の制止の声を上げる。
「……や、めろ……暁……」
その、彼らの視線の先にいるのは――――
「え……?」
――――呆気にとられて言葉を失っている夕平に向けて、作業用カッターを突きつけている、暁の姿であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます