第七十一話:弱点
千夜川桜季の弱点は、と問われれば、それは至って簡単だ。
奴が一応は人間という動物にカテゴライズされる以上、その人間の限界を突いてやればいい。
例えば、視界。
人間の視界は、最大可視範囲で水平約180度、上下に60度、70度とされている。つまり、背後180度弱の死角は、人間である以上どう足掻こうが消えたりはしない。
例えば、膂力。
重量挙げの記録において、500キログラムの壁は未だ越えられてはいない。あるいは走り高跳びの歴代最高記録において、ハビエル・ソトマヨルの2m45であると知られている。
だが、その記録は人間の基準で作られている。鳥は空を飛ぶ。象は500キログラム以上はある自身の身体を平気で持ち上げる。
つまり、人間が出来ないことと言うのは、こうも様々に存在する。それはそのまま、桜季にも出来ないということだ。
例え桜季が、人間としての能力を、万能的に究極的に突き詰めていったとしても、どうにもならないことはある。
それは、『一度爆発から逃げたこと』が証明している。
いくら桜季でも、爆発に巻き込まれればただじゃ済まないということ。
そしてポジティブに言えば、確かに俺は桜季を仕留め損ねたが、あの桜季が一度逃げるくらいのことはしているということにもなる。
その、どうにもならないこと――――『人間の外側』にこそ、桜季の弱点がある。
なんと実に分かりやすい答えだろう。
最非常に分かりやすく――――絶望が色濃く映る。
ここまで話しておいてなんだが、そう、こんなもの、無茶苦茶もいいところの極論、屁理屈だ。
それは、腕、足が二本の、直立二足歩行の人間の構造としての不可能。それはそのまま俺にももちろん言えることだからだ。
本当は、こんな子供が言いそうな下らないことを、桜季の弱点なのだと臆面もなく話したくはない。
そして、しかし、そこまでしなくてはまず間違いなく勝てない相手なのだ――――千夜川桜季という人間は。
もっとも、決して不可能というわけではない。
いくら桜季が、俺より遥か高みにいたとしても、この環境、この状況ならやれないことはないはずだ。
出来ないことがあることを見せてやると、俺はあいつに言った。
まさに今が、その時だ。
それに――――俺には、本当に最後の奥の手がある。
万が一の不測のための、『取っておき』が。
◆◆◆
夕平の登場は、奇しくも学園の中の三人の不覚を取った。
拓二は、自分の計画に無かったこの事態に虚を突かれ、
暁は、夕平が自分達のことに巻き込まれたという事実に何も知らずにただただ戸惑い、
そして桜季は、このタイミングで夕平が現れたということの意味を逡巡していた。
彼らは今、閉鎖したこの環境故に、それぞれに齟齬を生じさせていた。
言ってしまえば、夕平という外からの外的要因に気を取られたのだ。
特に今、夕平の目の前にいる――――化け物二人は。
「――――っ!」
先を切ったのは、拓二だった。
身を裂く小粒の硝子を気にも留めず、悪態を吐き棄てながら、桜季へと向かう
駆けながら、自分の上着を脱ぎ、それを投げ捨てた。
桜季の視界を覆うように、その布は大きく広がり舞う。
対して彼女は、ピクリとも動じなかった。
しんとそれを見据えると、避けずに腕を払った。スタンガンではなく――――ナイフを手にしているその腕を。
刃はその生地一点を貫き、払った瞬間、その服は地に叩きつけられる。
まるで障害にもならないと言った様子の彼女の動作。しかしその挙動の間に、拓二は確かに距離を詰めている。
瞬間、振り上がっていた大腿が、鎌首をもたげて襲い来る。
桜季は二つの得物を所持していた。薙いだ左手にはナイフを、そして空いた右手にはスタンガンを。
桜季は、迷うことなくスタンガンを突き出す。放たれた紫電は、見事拓二の脚部を音をたてて捉えた。
そして――――痺れもせず振り切られた剛脚に、桜季の持つスタンガンは軽々吹き飛ばされた。
「――――ッ!」
この時少なくとも、桜季は静かに、しかし確かな驚きを感じていた。
――――ああ、なるほど。
――――スタンガンを読んで、
その推測は、確かに当たっていた。
夕平の声を初めに聞いた時、拓二は考えた。
もし自分が桜季なら、夕平を前にしてナイフを出すだろうか、と。
桜季の狙いは夕平を傷つけることには無い。手中に収めること――――捕らえることだ。
ならば、まず思い付くのはスタンガン。そしてスタンガンと言われれば、まず最初に一人、持っていた奴を拓二は知っている。
あるいは、駅でのことを知っていたからこそ、桜季がスタンガンを奪って所持している可能性に気づけたのかもしれない。情報という面では、拓二は桜季よりも優位にあった。
それ故の先読み。
もっとも、正確には、桜季の考えるような耐電用レギンス等という都合の良い用意が最初から為されていたというわけでもない。
たまたま理科準備室に備え付けてあったゴム手袋を数枚かっ割いて、ズボンの下に貼り付けて仕込んでいるに過ぎなかった。
しかし、それでも――――この土壇場に対する、拓二の冷静な機転は、普段の彼の判断能力以上を超えていた。
そして、それを支えているものは。
――――なるほど、確かに凄い気迫。
勝敗という結果が待つ事柄には、得てして、その場の流れというものが存在する。
人はそれを運とも巡り合わせとも呼ぶが、しかし同時に、幸運や偶然で済ませられない形の無い力が、それらを引き寄せることがあるのも確かだ。
桜季の言う『気迫』であり、祈が語る『執念』。
それこそが、拓二の根底にあるもの。
「――――おらァッ!!」
「――――!!」
突然の夕平の合流。それは一つの転機であった。
そして今、それはこの場の形勢において、
――――瞳孔が微かに左に傾いた……!! 左足からの延髄――――
――――と見せかけておいての、本命は振り上げた右足の追撃……!
『拓二の優勢』という形でもって大きな偏りを生み出しつつあった。
突き出すは、こちらも右手に構えたナイフ。
先の先を突いた刃先は、果たして、ガギリという鈍い音を響かせ、制止した。
それは桜季が踏みとどまった通り、床に手を着きながら上体を捩り、繰り出された拓二の特製靴に、振ったナイフがぶつかった音だった。
「…………」
「…………」
その一瞬の邂逅のような衝突が、両者共に口元に小さな笑みを作らせた。
それは、嬉しさとも烈しさとも形容しがたい、凄絶な笑みであった。
――――今この時、この場所において。
拓二は、 地力において一回りも二回りも差のある桜季と互角を喫し、その彼女の好敵手足り得ていた。
◆◆◆
夕平は、覚悟を決めてここに来た。
祈に教えられたことを彼なりに理解して、出来ないことがあることも承知で、自分の目で全てを知るためにここに来た。
しかし、それでもこれは。
あまりに――――あまりにも、格が違う。
これは本当に、高校生同士――――いや、もはや、人間同士の動きなのだろうか。
例えるなら、獣のような――――そう、踊るかのような闘い、などという陳腐な例え方にそぐわない、激しくも鋭い交錯が飛び交う。
牙の代わりに腕で噛み付き、威嚇の唸り声の代わりにナイフと靴が弾け合うことで吠えているような、そんな闘いだった。
見ることさえ叶わない動きというのを、初めて見た。
捉えることさえ叶わない駆け引きを、初めて感じた。
あの二人と少し離れた自分が、まるで海を挟むかのように遠い。遠すぎた。
ここにいることが、場違いだと改めてはっきりと告げられているかのようで。
祈は言った。自分は鍵なのだと。
しかし、これはどうだ。立ち入る隙などまるでない。
覚悟はあった。
しかしこれは、そんな意思や心情とは別の、『どうにもならないもの』だ。
見たことの無い拓二の姿があった。
見たことの無い桜季の姿があった。
一体自分に何が出来る?
もう止めろと叫びたかった。こんなことをして何になると説きたかった。
しかし、甘かった。そんな話が通じるところに、彼ら二人はいないのだ。それを痛感させられる。
息巻いてここに来たものの、今この場において、彼は無力に等しかった。
ただただ、祈の言う通りに拓二の邪魔にならないように、見守るだけしかなかった。
目で追うことが出来ない死闘を、拳を固く握りしめながら。
◆◆◆
血が跳ねる。
一筋の刃の軌道が、拓二の眉間を掠めた。切っ先が薄皮を裂き、後には血が滲む。
拓二は大きく退いた。大袈裟ともとれる、跳び跳ねるようなバックステップ。
しかし、そこからでも届く。
腕ではなく、足なら――――カポエィラなら。
人体比率。腕を伸ばすよりも足の方が届く範囲も長いのは言わずもがなであるが、決まった形の無いカポエィラなら尚更、顔や喉といった急所を遠ざけ攻撃することが出来る。本来、身を捩り相手の動きを避ける踊りであるからだ。
この近接格闘において、この手と足のリーチの差こそ、不可侵の空間。それも、拓二と桜季、男女の体格差があれば、より一層ハンデとしてその差は大きい(それでも桜季は、同学年の女子の平均的な背丈以上のすらっとした体格をしていたが)。
しかしそれ故、桜季にとっては自身の領域の『外側』から来る連打に対し、今は守りに徹さざるを得なかった。
「ふっ!」
牽制の一太刀。しかしこれも、軽々いなされる。
当然だ、こちらもかわされる前提の、当てる気の無いジャブでしかない。
動きのキレは、今まで以上。腰を入れて打つ隙がない。
まさにこれこそが、拓二の真骨頂。
これでは桜季には、打たれては弾き、また弾いて受け流すを繰り返すしかなかった。
両者は今、膠着していた。
もちろん、常人――――特に、少し離れてこれを見ている夕平などにはプロボクサーの試合同等の、激しい組み合いにしか見えないのだが、その領域から外れている彼らからすれば、これではまだ足りない。
お互いに、決定打がない。
拓二の方は、悪くない追い風が吹いているとは言え、能力的に分のある桜季に攻めあぐねていて、桜季の方は、上で述べた体格的リーチで受け流しつつ隙を待たざるをえない状況にある。
桜季の得物が、現状ナイフ一本ということもあり、実のところ大きな動きは無く釣り合っている。
――――あるいは、それが狙いかな?
言ったように、男と女。体格も体力といった、根本的な人間の構造においては、当然拓二が有利である。
この闘いを持久戦にもつれ込ませ、体力切れを待つというのは、桜季を相手取るのには実に合理的だろう。
もし、そこまで考えた上で、今こうして動いているのだとしたら。
――――目眩ましのためなら唾だって吐いてきそうね。
徹底的に人の弱点や苦手とするところを容赦無く抉り続けるそのダーティ・スタイルは、いっそ称賛に値する。
勝利を至上とした、何が何でもという執念。
卑怯、姑息をいとわない、これこそが、彼が掴んだ勝ち筋。
――――けど、そう上手くいくかな。
「……どうしたの? これじゃ不利になるだけだよ?」
「…………」
雨のように飛んでくる拳をいなし、問いかける。
そう、この持久戦、損をするのは間違いなく拓二の方だ。
確かに今、多くの要因が拓二に噛み合わさり、均衡が保たれている。極限の集中力を張り詰めて、そこで初めて格上であるはずの桜季ともこうしていられる。
こちらに隙を与えず攻撃し続ける拓二は、桜季の倍は疲労しやすい。何度も何度も、息さえ置いてきているのではないかという瞬間が断続的に続く。
当然、何時までも長続きはしないはずだ。今は無理をしているだけにすぎない。
「くっ……!!」
打ち込めば打ち込む程、切れ味が落ちる刀のように。
連打はやがて大振りに、空を切るようになってきていた。
もう十秒すれば、先に隙を見せるのは向こうだ。一度この流れを止めてしまえば、攻撃の手を緩めてしまえばこれ以上のものはない。
そう――――そのはずだ。
それは、拓二自身も分かりきっていることのはず。
なら、こんな無為な行動を続ける理由は何か。
いつぞやのチェスでもそう。どんな手にも、彼なりの考えがあり、無意味なことはなかった。
考えろ。今ここで、精一杯戦えていることの意味を。
後十秒以内に、拓二に出来うる最大限の利を。
――――この次の瞬間、致命的な一撃が来るとしたら、それはどこから。
――――……何故最初、窓から現れた? 窓……窓枠に、何か仕掛けていた?
――――前。横。いやもっと、人間の
「ッ! 背後からのワイヤーね――――!」
横凪ぎの一閃をかわし、桜季は、後ろを振り返った。
次の瞬間、桜季は見切った。
そこに――――罠は何一つとて存在しないことを〟。
◆◆◆
駆け引きというのは、鏡を見るようなものだと誰かが言っていた。
それは本当に、その通りだと思う。人は時に、目の前の相手と自分をすげ替えてしまう。
その方が、頭の使い方が単純だから。
その点桜季は、俺よりも遥かに賢く、そして、『駆け引き』を知っていた。俺達は確かに取っ組み合いをして身体を動かしていて、頭を使う余裕は削ぎ落ちていたはず。
しかしそんな中、桜季が見ていたのは自分ではなく、『俺』だった。
俺ならやるであろうことをタイミングも含めて正確に見抜き――――だからこそ、引っ掛かった。
もし桜季が、自分を見ていたら、このように自滅したりしなかっただろう。
彼女は、罠を張る必要なんて無いのだから。
しかし同様に、俺も目の前の桜季を見ていた。だからこそ、今まで使ってきた罠を、ここぞという時に使わなかった。
桜季にとって、ずっと頭にあった脅威であっただろう。
それこそが、俺の唯一の対抗手段だったのだから。
今までしてきたことをあえて捨てることで、今までしつこいまでに見せ付けていた罠が映えることになる。
演じたのは策を張り巡らせる狡猾な道化、ではなく――――間抜けで真っ正直な愚者であった。
「馬鹿が見る~、豚のケツ――――ってな」
背後は死角。人間誰しも、目は二個しかない。
そして――――背後に目が付いているわけでもない。
だったら――――頭の良い桜季なら、見るだろう。
見てしまうだろうとも。
『人間の外側』から自分を出し抜こうとする俺の動きを読むために。
この瞬間、この刹那、確かな隙は生まれた。
これが、俺に出来る最大。
今まで無かった、そしてこれ以上望むべくもない絶好の機が、今ここに。
俺は、今まで隠し持っていたナイフを取り出し、そして。
無造作に突き出したその刃先に、確かな手応えを掴んだ。
◆◆◆
「大したスピーチでござんした。徹底して気色ワリィゴマすりに涙すら出てくらぁ」
演説の終わったマクシミリアンに、清道は皮肉気たっぷりに迎える。
「ってか、無用な介入は『弟くん』に悪いからしないんじゃなかったんか」
「『僕にとって』有用なら、その例には無いさ」
が、当の本人はてんで堪えてない様子で、椅子に腰掛け、肩を竦めている。
「それにタクジにとっても、決して悪くない展開だと思うよ? 誰かを守るために奮い立つ子だからね、タクジにしてもサキにしても、餌が吊るされて少しはやる気も出たんじゃないかな」
「いけしゃあしゃあと……やっこさんにとっては、裏切られたとか思うんじゃねえのか。お前らマフィアの言う……血の掟っつー大層なもんまで結んだんだろ?」
「…………」
返答は、しばし遅れた。
聞こえなかった訳ではないことは分かる。確かに数秒、何かしらの逡巡の間があった。
「……義父である先代マクシミリアンにとってはどうだか知らないけど、僕にとって血の掟なんて、あまり意味などない。所詮、有能な人材を手元に囲うための縛りでしか無いからね」
「それ、言っていいことなのか? いつか刺されんぞテメエ」
「君にだから言えるんだよ、心の友よ」
「ケッ、気っ色ワリィ」
「それに、刺されるくらいなら全然安いさ。タクジにも……これが終わったらぶん殴られるかもねえ、あはは」
「…………」
なるほど確かに、儀を交わしたはずの兄弟への扱い方に対する適当な理由になる。事実、気楽そうに笑うマクシミリアンは、身ぶり手振りからして他人事であった。
しかしなおも、清道は問いかける。
「なァよ。お前は、そいつが勝つ方に賭けてんのか?」
「……僕は今回、至極公平な胴元だよ。どちらも応援しているし、どちらにも肩入れする気はない。精々、面白可笑しく茶々を入れるくらいでね」
「御託はいいから話せよボケ。お前があのガキをここまで気にすんのは、ただの便利な駒だからか?」
違うだろ? と後に続く言葉を、その顔は雄弁に語っていた。
「オラ、教えてみ? 今さら『ニホンゴワカラナイ』は通らんぜ」
「分かった、分かったよ……僕は今日君とケンカしに来たんじゃないんだから、変なところで突っかからないでくれる?」
その調子に根負けした、と言わんばかりにため息を溢した。そして机に両肘をつき顎を乗せて、こう述べた。
「――――『Peek-a-boo』さ、セイドウ。僕の友よ」
「……『いないいないばあ』、か? どういう意味だよ」
困惑する話し相手に、嬉しそうに笑みを湛えて続けるマクシミリアン。
「彼は僕を、父親が赤ちゃんをあやすように、とても楽しませてくれるのさ。グレイシーの時もそうだった。彼は、あの執念を以てして、此方を驚かせた……」
その時、
「おっと、電話だ。済まないけど、少し席を外すよ」
胸ポケットからケータイを取り出し、おもむろに立ち上がった。
ちらり、と着信画面に一瞥くれた彼の表情が、ますます愉悦に笑むのを、清道は見た。
そんな彼と、短い付き合いでもない清道は、理解する。
また何か、面白いものを見つけたのだと――――。
「強いのは間違いなくサキの方だ。だけど、どちらが勝つか――――僕には分からない。けれど、まだ、あの時のような『
その場を去る間際、それだけ言い残し、そそくさと部屋の外に出ていく。
「取っておき……ねぇ」
清道は、拓二を知らない。
イギリス事件のことは、あらましだけマクシミリアンに聞かされていたが、その詳細……特に功労者たる拓二の活躍は、『ビックリさせたいから内緒』らしい。とりあえず一発殴っておいた。
果たして、この目の前の映像の少年がそこまでの器か否か。じっくり見定めさせてもらうつもりだった。
「その取っておき……もう使いきったんじゃなきゃいいが」
目の前に映る光景――――桜季と拓二の戦闘の映像を見て、彼は静かにそうぼやいた。
◆◆◆
個人の気勢から呼び込まれる追い風というものは、確かに存在する。
夏の通り雨のようなものだ。風だというのに雨と比喩するのも可笑しな話ではあるが、二つには共通した点がある。
「――――」
真っ直ぐ放たれたナイフは、確かに桜季に突き立てられた。
拓二の出来る、最高にして渾身の一撃だった。
「……痛、い」
追い風と通り雨の共通点、それは――――突然始まり、突然終わる事だ。
前触れこそあろうが、どれだけ勢いが強かろうが、止むのは一瞬。きっかけ一つで、簡単に止まる。
「痛いぃぃ……痛いよお……」
ぽたりぽたりと、滴が床に垂れる。
錆と垢を凝縮したかのように鈍く赤い滴が――――そのきめ細かい手のひらから生々しく糸を引き、伝っていた。
目標めがけた凶刃は、桜季に届く前にその彼女の手を貫き、阻まれていた。
「……嘘、だろ……?」
そう言いたくもなるだろう。
仕留めるはずだった一撃が、防がれたのだ。しかも、完全に裏を掻き、こちらに目もくれていなかったあの状態で。
桜季に追い付いていた刃は、最後の最後にその身に届かなかった。
「っ――――!!」
突き放すようにして、桜季が蹴っ飛ばす。
何が起こったか理解に遅れたとばかりに呆然としていた拓二は、抵抗なく転がり尻餅をついた。
「うっ、うう、ぅぅぅうぅうう……!!」
同様に地面に腰を下ろした彼女は、今までにない声をあげ、呻いた。
かと思うと、その手のひらに刺さったままのナイフの柄に、もう一方の手を掛けた。
「あっ、うぁオあああッあ……!!」
――――血に塗れた銀の刀身が、およそ人間とは思えない悲鳴とともに引き抜かれる。
一時は彼女の命さえ脅かしたナイフが、派手な金属音を立て地を滑った。同時に、床を叩く血飛沫がさらに激しさを増した。
「あっぐ、はっ、はっ……はっ……はっ」
やがて、先に立ち上がったのは、桜季だった。
玉のような汗を額にまぶし、口で荒い息を溢し、手は既に両方とも真っ赤に染まった風貌で、立ち上がった。
「…………」
しだれ打つ雨音が、空しく響く。
静寂。誰にも口を出させないとばかりの、強い静寂に包まれていた。
もしこの場でなお、口を出す権利があるとすれば、それは――――……
「……ゃえ」
その声は、震えていた。桜季にしては、本当に珍しく。
か細く、それでいて子供みたいな泣き声で、ただ一言。
「死んじゃえ」
――――悪夢が、始まった。
◆◆◆
「…………」
席を外し、一人になったマクシミリアンが電話を耳に押し当て、電話の主に話しかけていた。
「……やあ、君だと思ってたよ」
愉快そうに笑みを滲ませた声で答える。
旧知の友人と、面と向かって話しているかのように、それはそれはにこやかに。
「状況? うん、まあ君の想像に近いんじゃないかな。……僕? 僕は何でもないよ、ただの傍観者。何も知らないさ」
会話は続く。
マクシミリアンの相槌がしばらく繰り返され、
「……なあんだ。そこまで知ってるのなら、話は早いね。ならさ、逆に訊くけど、君はどう思うんだい? この件を俯瞰する立ち位置の君ならさ」
そして再度、ゆったりと口角を持ち上げた。
「――――ねえ、イノリちゃん?」
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