第六十三話:思考戦
生きているかのような湿り気のある温風がこそばゆく頬を撫で、どこか遠くで蝉が鳴く。
滲み出た汗がシャツに染み、また外皮に浮かんだ。
「千夜川……」
次いで出る言葉は見当たらなかった。
不思議な気分だ。心臓が焼けた煉瓦の如く燃え盛り、胸を裂こうと跳ね回る。顔の血の巡りがやけに濃い心持ちがする。
湯気でも沸くかのように全身が火照って仕方ないというのに、しかし、脳だけは自分を横から見ているのではないかと思わんばかりにかけ離れ、衝動的に飛びかからんとする身体に釘を刺す。
五感が澄み渡り、指の爪先から網膜の視神経まで、感覚の隅々が真っ直ぐ一本に通っているかのようだ。
────そして、その目の先に、奴はいる。
千夜川桜季。
俺は今、こいつに、銃を構えている。
俺はようやく、桜季の敵として、土俵に立ったのだ。
「待ってたよ、相川くん……凄い顔してるね?」
ようやくそう言った桜季は、表情だけ微笑を湛えていた。
静かに悠然と、そこに佇んでいる。
よく見れば手の中のナイフを、誰に向けるでもなく、くるくると弄んでいる。その様子に、緊張感という単語は無縁のように見られた。
お互い言葉少なに黙り合っているというのに、動と静の違いがなんとも激しかった。
「あ、相川くん、どうして……」
「暁、そいつから離れろ。早く」
その少し距離をとったところにいる暁に、唸るように言い放つ。
いきなりで混乱しているであろう彼女には悪いが、残念ながら今は釈明や説明の余地はない。
「あはは、怖いよ相川くん。そんな殺気立ってたら、立花ちゃんじゃなくても怯えちゃうよ」
「そんな物騒なもん持ってるお前が言えるか」
やはり、何事もないかのようにそうのたまう桜季に言い返す。初めて見るであろう実物の銃に、動揺する素振りはない。
「こいつが見えないのか? それとも、偽物だとでも思ってんのか」
「‥…………」
「……試して、やろうか?」
ここでつい引き金を絞ってしまいそうになるほど、手に力が籠められた。爆弾を握っているかのような心地だ。
はやる気持ちもあるが、今は暁をこちらに呼び寄せないと。まだ距離としては、俺より桜季の方が十二分に近い。
まずここは、睨み合いで暁が逃げられる時間を稼ぐ他に────
「……私はね、何でも分かっちゃうの」
綺麗なカーブを描いて持ち上げられたその唇から、場違いにも優しい声が漏れた。まるで子供を相手にするかのような、目方を合わせた感じの口振りだった。
「いつか話したと思うけど、世の中の人がやることは、全部、私の範疇でしかなかった。私がちょっと頭を使えば、その人の考えてることに追い付くし、ちょっと力を出せばすぐに他人を追い抜いた。『出来ない』なんて言葉、過去に一度も口にしたことなかったよ」
不意に一瞬、色濃い影が、その顔をちらりと横切った。
「私、それが不安だった。友達が愚痴る苦しさも、先生が教える挫折も、親が話す困難も、私は知らずに生きてきた。良い夢を見てるみたいに、全てが私に都合がよかった。それでも、私にも、出来ないことはあると思って生きてきたけど……」
「はっ……実に自惚れた話だな。羨ましいこって」
刺を込めた言葉に、思案げに顔を傾かせる桜季。
その間に、ちらと暁を見る。彼女は会話にも入れず、ただ困惑げに俺達の会話を傍観しているといった様子だった。
……これは、俺が動かないとどうしようもないかもしれない。
「じゃあ試してみよっか。‥……それで」
「……?」
「キミやいのりちゃんみたいな、『ちょっと特殊な』子の考えることだって、それで分かるよ」
空いている手の方で、俺の持つ銃を指差した。
「さっき、偽物だと思ってるのかって訊いたよね。なら私は────今中に込められてる弾数、それも一緒に当ててみせるよ。どう?」
……一体、何のつもりだ?
「時間稼ぎ……のつもりか?」
「聞きたいなら話すだけなんだけど、どうする?」
牽制のつもりで問いかけてみるも、のらりくらりとかわされて手応えはない。
確かに、相手の上限を分析するのは、(プロとしてなら)必要なことだ。ただ、それを俺に教える理由が分からない。
むしろ時間稼ぎしたいのは俺の方なのだが、桜季は楽しそうに笑うだけだ。
「……まず、その銃は『S&W M29』、大きさは見たとこ6.5インチモデルのものかな。それ自体でも1396gある重い銃で、装填出来る弾は六発。よって確率は、込められる弾の数と、弾倉が空の
その自信を表すかのように淀みがない。
「聞きたいなら、その前提から順に話してくよ……どう?」
「……そんな御託、わざわざ聞くとでも?」
「でも、聞いてみたい、って顔してるけれど?」
果たして小癪にも、俺の考えは読まれているようだ。
「‥……暁、いいからはやくこっちに来い」
正直、話を聞きたい。そんな悠長な、と思われるかもしれない。
だがこいつの話は、言葉は、いちいち人の興味をそそる。
それに、ここで聞かなかったとしても、どのみち変わりないことを確信していた。
間違いない。こいつは当ててくる。
「……四、五、六発は無い」
そうして桜季は、手始めというようにそう言った。
「弾って、込めればいいものじゃ決してないからね。銃だけ見せたら十分威圧的だし、それに、私にその銃が奪われる可能性を、キミが考慮してないわけがない。だから女の私には使いにくい、重い銃を選択してわざわざ持ってきてるんだろうしね。それに────」
まるで講義で教鞭をふるうかのように、つらつらと一方通行に語りかけ続ける桜季。
「最初からここで撃って当てる気なら、そんな片手持ちは絶対にしない。当てる気がない……というか、この距離じゃ確実に当てるだけの技量がまだないから、かな」
────……。
「でもじゃあそれが脅しの小道具(にせもの)? ……もしそうなら、今ここで出した意味がない。もし私に粗製品だってばれてもしょうがないし。それに振り回せば、それなりに鈍器に使えるしね。手段はさておき、本物を持ってきたほうが有利なのは確実」
一瞬、こいつが『ただの』女子高生だということを忘れそうになる。
「よって、答えは二、三発……」
例えば、ジェウロやグレイシーのような猛者と対峙した時と同じ、臨戦態勢(あたまのたいそう)のためのルーチンワーク。緊張の前に頭を冷やす手段が、何かしらを極めた奴にはある。
こいつが今やっているのは、そんな『自分に有利になるための計り方』に似ていた。
しかし、そんなプロがするようなことを「ではないよね、キミは?」────っ、え?
桜季は、思考に割って入るように言葉を口に出した。
「……キミは、一貫して私に対して奇をてらう傾向にある。私に一矢報いようと、奇抜さに囚われてるところがね。だからこそ、そんな無難な答えをキミは選ばない。この答えまでたどり着くのは計算通り……違う?」
「‥…………」
「どうしてさっき現れた時、威嚇射撃をしなかったの? 銃の真偽で混乱させるような意図はないことは明らかで、その脅威を見せつける分かりやすい方法だったのに。それはつまり撃たなかったんじゃなくて、『撃てなかった』んでしょ?」
くすくす、と抑えきれないといった様子で忍び笑いが口からこぼれる。
「駄目だよ、分かっちゃうよ。私には。相川くんのことも、いのりちゃんのことも。誰のことでも、なんでも分かっちゃう……」
本当に楽しげに、愉快そうに。
笑い声は、徐々に大きくなっていく。
「可笑しいね。いのりちゃんは正直過ぎて、キミは穿ち過ぎてるんだもの。そんな真反対の考え方でも、どちらも極端で、真っ直ぐで────だから、分かりやすい」
静かな学校に、その笑いは寒々しく響き、それが止むまで俺も暁もなにも言えなかった。
「────……『一発』。以上の条件を満たすキミの答えは、たった一発だよ」
宣言する桜季に、間違っているかもしれないといった危惧している様子は、終始なかった。
その確信は一体どこから得ているのか。その目の奥に何が映るのか、俺にはてんで理解できそうに無い。
「一見合理的に見えて、非合理的だよね。キミって。言っておいてなんだけど……こんなの、良く言えばよっぽど自信があるのか、悪く言えば捻りすぎと言うべきか、普通愚策もいいとこ────」
「……そうじゃない、もっと分かりやすい理由だ」
「え?」
桜季が俺の言葉を聞こうと、小さく前に身を乗り出した。
そんな彼女に、こう言ってやる。
「いつかお前に言ったことだ────『お前の出来ないことを見せてやる』ってな」
俺は、長く生きた。
……今までの経験から培われた、俺の矜持であり、拘りであり、ポリシーは、この復讐の時のためにあった。
この時のためなら、悲願が達成するのなら命を懸けられると、本気で思って生きてきた。
これを重たい荷物だと、わざわざこいつを討つのに不必要なものだと人は言うだろう。
だが、それでも。
「お前は泥臭い淵の底まで叩きのめす。その鼻っ柱を絶望的なまでに捻じ伏せてやる。だから────こんなちゃちいもんだけで終わらせる気なんざ、さらさらねえんだよ」
不器用でも非合理的でも賢くなくても、これでなければ俺はここまで来れていなかった。
ムゲンループを生きてこれはしなかった。
────運命とやらを変えるのに必要なことには、最後は決まって理性を外れた執念だ。
だから、目の前の女に思う。
俺が命を張ってるんだ────お前はそれに見合ってくれよと。
「……もっと最悪な言い方に、キミがとんだ大馬鹿野郎だってことを付け加えておくよ。────どうかしてるんじゃないの、キミ」
呆れたように嘆息しつつ、肩をすくめ、
「……ねえ。もうしばらくしたら、雨が降るらしいよ」
「……?」
そして唐突に、脈絡もなく空を見上げて話を変えた。
頭を持ち上げ、空の遠くを見るように目を細める。
「でも、昼頃だけのにわか雨で、夕方には綺麗に晴れるんだって。だから、きっと綺麗な夕焼けが見えるんじゃないかな」
そして、また俺の方を見て。
その顔は────やはり、微笑んでいた。
「キミに対抗して、私も予言を一つ。立花暁は、綺麗な夕焼けの空に身を投げ、自殺する」
────それは、まるで、『あの時』をなぞるかのような、
「さて、結果叶うのはどっちの予言かな? ねえ────」
────立花ちゃん?
瞬間、それが合図となって桜季が動いた。
身を翻して跳躍し、まるで空を滑るかのように、迫る。
持っていたナイフの刃先が、光の筋となって呆然と身動きの取れない暁へと向かう。
────銃の射線上に、暁を挟むように。
「ちィィィよオオオオかわアアアアアアアアアアっ!!」
銃を収めて走った。ここで撃てば、確実に暁に当たってしまう。
桜季の方が近いが、走れば俺の方が早い。
────間に合う。
暁に手が届く距離まで詰めたのは、両者ともほぼ同時だった。
その肩を引っ掴み、かばうように力任せに後ろに引っ張る。
瞬時にそのナイフが軌道を変え、俺の胸元を襲う。
鈍い音が響いた。
とっさに構えた『S&W M29』の銃身が、その刃先を受け止めたのだ。
ずしりと重い力がのしかかる。がちがちと金属同士の接触する音が鳴る。
瞳に俺の姿が映るのが見えるくらいにすぐ目の前にいる桜季と、視線が交錯した。
途端、銃とナイフを持つ手が跳ねた。お互いがお互いの得物を弾こうと動いた結果だった。
そして、軽いナイフは桜季の手のなかから逃げるように宙に舞う。
すぐさま、弾かれた利き手である右手を反動に、身体を捻り足を上げた。
回し蹴り。安全靴のような鉄板が入りの靴の踵が、桜季の首もとから顎の辺りを狙い────
「────なんてね」
燃えた。俺の足が燃えた。
一瞬そんな錯覚がした後、がくん身体が跪いた。
そうせざるを得なかった。
足のふくらはぎからは血が滲み────宙へと手放したはずのナイフが、何故かぬらぬらと血染めに光り、桜季の手の中に収まっていたから。
────刺された? 今の一瞬で?
────まさか、わざとすっぽ抜けた振りをして……!?
「相川くん!?」
割りと近い後方から、暁の声が飛ぶ。俺の異常を察してのことだろう。
「来るな、暁!」
俺は今、桜季に見下ろされている形となっている。つまり暁は、今は無防備だ。
────そうはさせない。
俺は刺された右足を踏み込み軸にし、立ち上がりざまに彼女の腹に左膝をたたきこんだ。
「────っ」
これには多少桜季も不意を突かれたのか、目を見開き、数メートル後方に吹っ飛んだ。
「っ……!」
ここで追撃――――はしなかった。
本能的に予感がした。モロに入ったにも関わらず、今膝に乗った加重がいくらなんでも軽すぎる────と。
「暁っ!」
俺はきびすを返し、上体を起こそうとしている暁を拾い上げ、抱き抱えた。
「相川くん!? 足は……」
「喋んな、舌噛むぞ!」
縮こまる暁を抱え、向かうはA校舎、その玄関入り口ではなく緊急の出入り口。
たどり着いたドアは、当然閉じられている。
が、これならいける。
「────おらァ!」
振り回した足は軽々とそのドアのガラスを割り、大きな音を立てて錠前ごと粉砕し開いた。
迫り来るであろう桜季から逃げるように、俺達はそこから校舎の中へと入り込んだ。
◆◆◆
起き上がった桜季の視界には、B校舎の死角に逃げ込む拓二の姿があった。
その様子に、足が刺されたという痛みに痺れている感じは見受けられない。さらに桜季は、彼のズボンの切れ口から覗く、もう一枚着込んでいたものを見つけていた。
「……防刃レギンス、か」
おもむろに立ち上がり、服やスカートを手で払う。
その顔は、どてっ腹に膝蹴りを受けたにも関わらず、痛そうにしている風ではない。拓二が蹴る瞬間、すぐに身を引き、放たれた膂力を受け流し、衝撃を逃がしたのだ。
そして拓二が迂闊にも追撃を仕掛けてきたら不意打ちを浴びせるつもりだったのだが、流石にそこは冷静に察したようだった。
「銃に安全靴と……なるほど、準備は万全ってことね」
簡単に終わらせたくないというのも気持ちは分かる。
要は、披露したいのだ。自分が今までやってきたことを。
桜季は、拓二が向かった方へ後を追う。
非常口として普段は閉じられているドアの破損は、すぐに目に留まった。どうやらここから校舎に入っていったようだ。
暁だけは校門から昇って外に逃げたかとも考えたが、おそらくその可能性は低い。
「やれやれ、呆れるほど欲張りだなぁ……」
拓二は、誘っているのだ。
────当然、追ってくるだろう? と。
暁はいわば撒き餌だ。桜季をこの学校に留めておくための。
危険な賭け、自分がわざわざ不利になる采配を、あたかも楽しむかのように選択する。
こうも自分の偽善を隠すどころか、ひけらかして見せているのも、彼自身の性格に拠るところが大きい。
しかしそれとは別に、桜季への挑発の意も含んでいると考えられる。
それにしたって彼には、優先したいことが多すぎるが。それが例え自分を縛り上げていることに気付いていても、それが変えられない生き方なのか。
「さて……」
もっとも、逆に言えば、この校舎に拓二の見せたい『何か』が隠されているということにもなるのだが。
桜季は一人そう判断し、中に続いた。
一階、中学一年のクラスの廊下には、もちろん人影はない。
ひっそりと薄暗いこの場所に、普段登校する時とはまた違う印象だった。
足音を立たせないよう、数歩足を進める桜季。
「……!」
しかし、はたと立ち止まったかと思うと、じっと目を凝らした。
そしてふと、何も無い空に指を出すと────その人差し指の腹がさっくりと切れ、血が露となる。
抜けるような微小な痛みと共に、赤い血が滴った。
桜季のちょうど首元あたりの高さには、浮かぶ塵芥とは別に一本のごく細い筋のようなものが走っていた。それは固くピンと張られていて、例えばもし気付かずに突っ込んでいたりしたら、容易に頸動脈を裂いていただろう。
「……私が気付かなかったらどうする気だったんだろ」
所持しているペーパーナイフで、そのピアノ線をあっさりと切る。
おそらくは、必ず気付くと判断してのことだろうが。逆に、これに引っ掛かるようでは自分の敵ですらないと言いたげだった。
「……なるほど、これを見せたかったのね」
そう、これは拓二なりの言葉なき歓迎。
どうやらここは、既に自分が知っている清上学園ではないようだ。
張り巡らされた罠の巣窟────獲物を仕留めるための、狩場だ。
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