第六十四話:覚醒

「はっ、はっ、はっ……!」


 息を切らし、肩で呼吸を整えていく。

 誰もいない学校は蒸し暑く、既に全身から汗が噴き出している。

 もっとも、汗はこの気温のなか走ったせいだけじゃない。


 何もかもを見透かすような雰囲気に、思わず呑まれそうになったあの時間。

 十分にも満たないあの桜季との対峙は、自分でも思っていた以上に精神的な消耗が著しいらしかった。


「あ、あの……」


 そんな俺に、声がかけられる。

 既に抱きかかえた状態から降ろした暁だ。


「……大丈夫だ。これでも鍛えてるからな」

「そ、そうじゃなくて!」


 その声はどうしても動揺で上ずり、俺に遠慮してか懸命に自身の憔悴を抑えようとしている様子だった。


「い、一体どうなってるの……!? 千夜川先輩は、は、刃、出してきて……! あ、相川くんも、どうしてここに……!?」

「……お前の気持ちを考えると、色々話してやりたいのは山々なんだが……今はそうも言ってられなくてな」


 そう、相手はあの桜季だ。今ここでお喋りをする余裕は無い。

 しかし、最低限のことだけでも話さねばなるまい。彼女はこの件に関わる張本人だから。

 これがただ思いがけず巻き込まれた第三者であれば、とっくに外に逃がしていただろう。今はそうもいかなかったから、話す。でないと、俺の邪魔にもなりかねないからだ。

 

「何が起こってんのか、自分が何に巻き込まれたのか、全く分からないだろう。ひょっとすると、桜季だけでなく俺のことも……そうだな、言うなら『悪者』なんじゃないかと思ってると思う」

「…………」

「ここにいるのは、俺達と千夜川だけだろう。逆に言えば、たった三人でこの学校に閉じ込められたってわけだな。助けは期待できんだろうな」

「す、スマホ! スマホで助けを呼んだら……!」

「……圏外だ。ここは今閉鎖されてるからな。授業中、スマホを弄れないように区画的に電波を閉じる学校があるって知ってるか? 多分、今もそれと同じことが為されてるんだろうな」

「そんな……!」


 丁寧に言葉を選び、虚実織り交ぜて落ち着いて話しかけていく。

 ちなみに、電波云々の話はれっきとした嘘だ。そんな学校が妨害電波を導入したなどという話は聞かない。

 これも、俺が仕掛けた準備の一つ、外からの邪魔が来ないように、電波妨害装置を設置したのだ。


 もっとも、暁にそんなことまで教える必要もない。

 俺が出来ることは、当惑し、混乱しているであろう暁の気持ちに理解を示し、分からないということを認め、宥めてやること。

 必要なのは、彼女との連携だ。ここで俺らの間で齟齬を生めば、俺の計画は破綻してしまう。

 

 俺がしっかり手を差し伸べて掴んでやらなければ、暁は一人になってしまうのだから。


「まず、自分の身が危ういことを理解してくれ。そして自分を守ることだけ考えろ。俺は、それを助けに来た。信じてくれ」

「う……うん。でも……」

「わけはまた話す。だから今は……」

「……分かった、うん」

 

 優しい子だ。ここにいること自体が場違いなほどに。


 そうだ、こいつは本来ここにいるべき奴じゃない。それは俺がよく知っている。

 ────あんな死に方をすべきではないのだ。

 だからこそ、終わらせなければ。


「あと、これだけは言うべきことがあるとすれば────」


 その時、しんと静かなはずの校舎の中、遠くでクラッカーのような破裂音が響き渡った。

 続いて窓が盛大に割れる音、そして踏み鳴らされる駆け足が徐々にここに近づいてきているのが分かる。


 この封鎖された学校で、俺達以外の誰かとなれば────答えは明白だった。


「これから始まるのが……死ぬ気の鬼ごっこだってことだな。……走れるか?」



◆◆◆



「────ああ、ああ……頼む。そうだ、すぐに……あっ!?」


 清上学園から離れた、ある無人駅。

 細波が電話をしていると、その通話中のスマホはあえなく手から離れていってしまった。

 監視役の一人、そのスマホを奪った男は、明らかにカタギではない軍人上がりのような図体で、口に糸を縫い合わせるなどというその異様な見た目、焦点の合ってない瞳孔が、威圧的ながらも不気味さを演出していた。


「わっ、ワーク! ワークプレイス! オーケー!?」

『…………』


 その大袈裟な身振り手振りにも、男は何も答えない。まるで意思のない人形か、生き返ったばかりのゾンビのようだと細波は思った。

 その手の中で、パキ、と軽い音が飛んだ。


 音の出所を確かめて────さっと青ざめた。

 細波から奪い取ったスマホが、男の握力一つでくの字に折れたのだ。


「……あ、アイム、ソーリー……」


 もし、あの膨れ上がった手で腕や手を握りしめられでもしたら。

 そう思うと、文句ひとつ言う気概も失せるというものだ。


「……くそっ……高かったのに」


 ……訂正。こっそり愚痴るくらいの余裕はまだ残されているらしかった。


 ────現在、細波と祈、そして夕平はあれから一時間弱、この駅の待ち合い場で拘留されていた。

 拘束ではない。三人は長椅子に並んで座らされ、そのすぐそばで屈強な外人が数人、たむろしているだけだ。

 あれから、三人に向けて何かしら要求もしないし、脅しかけもしない。縛り上げたり〝ただ、そこにいるだけ〟。

 しかし立ち上がることは許されず、身動ぎするとその場から動くなと言わんばかりに殺気立ち、声を荒げる。

 そのため、下手に助けも求められない。


 この使われにくい無人駅でも、まったく人が来ないわけではなかった。

 だがしかし、唯一の乗客らしい妙齢の婦人は、この状態を見るやいなや、我関せずとばかりに足早に駅から逃げ去ってしまった。


 三人の連絡手段はとっくに奪われ、さらに細波が隠し持っていたスペアも今破壊された以上、たったこれだけで本当に、彼らは外部と隔絶されていた。


「……そんな、嘘だろ」


 そして、祈と夕平はというと、二人で長い時間話し込んでいた。

 この状況が、おそらく拓二の手回しによるものであること、今何が起こっているのか、桜季と拓二の確執、そして────桜季が暁を殺そうとしていることなど。


「……荒唐無稽な話かもしれませんが、すべて事実です」


 これまでの状況から今までについて順を追い、噛み砕いて説き聞かせる祈。

 彼女はようやく体調も回復してきたのか、その口ぶりは既にはっきりしている。

 頭を回し、要点だけを出来るだけ呑み込みやすく話していた。


 それを言葉も挟まず、愕然としながら夕平は聞いていた。珍しいくらいに黙りこくり、時々何度か『嘘だろ』と呻く。


「……千夜川先輩が暁を殺すだとか、それを相川が止めようとしてるだとか、全然意味わかんねえよ……」


 祈のこれ以上ない説明にも、夕平には信じがたい話であるようだった。


 無理もない話ではある。彼にとっては、昨日まで彼なりの日常を送っていたはずだ。

 普通の男子高校生として、始まったばかりの夏休みを過ごし、今日もまたその延長線であるはずだった。


 繰り返される日常が永遠だと、疑いもしなかった。

 その見通しは、現状を鑑みると、途方もなく甘かったと言わざるを得ない。


「なんでだよ……どうしてそんなことになってんだよ……! 殺し合いとか、正気じゃねえ!」


 夕平の怒声に、監視の男が数人反応し、こちらを振り向いた。


「……落ち着け桧作くん、俺、こんなマッチョ共に殴られたくなんかないぜ」

「そんなこと言ってる場合じゃ……!」

「だーから落ち着けっての……ここで騒いでもしょうがないだろ。お前さんはまずこの状況をよく理解しな」


 細波のもっともな言葉に、夕平が押し黙る。


「多分それもあいつ────相川の目論み通りなんだろうな。桧作くん、お前さんまで巻き込まないために、何も言わなかったんだぜ。言えるわけもないと思うけどな」

「じゃあ、あの電話……」

「あん?」


 夕平が、何か思い当たる節があるというような顔をして呟いた。


「……相川から、昨日電話が来たんだ。千夜川さんに頼まれて電話した、九時にこの駅で待ってて欲しい────って言ってきて。それで……」

「……決まりですね。色々、分かってきました」


 祈は、静かな口調で言った。


「今回の件、全面的に拓二さんが手ぐすね引いているということ。何かしらの力を借りて私達をここに閉じ込め、そして、一人で決着をつけようとしているということ」


 夕平の顔は固く強張り、唸るように口を開く。


「……そんなこと、今すぐやめさせねえと」

「どうやってですか?」


 その意思の籠った声も、あえなく祈に事務的な言い様を浴びせられる形となってしまう。


「はっきり言って、今清上学園で行われようとしていることは、普通の喧嘩だとか諍いといった生温いところから遥かに超えた事態です。私では、もう止められなかった……あれからもう二時間余り、事は既に始まっていると推測されます」


 その語調には、その抑揚のなさも相まって、まるで脅しかけているかのように冷やかな響きさえ感じられた。

 

「おそらく……いえ間違いなく、この世界の頂を決定付ける死闘となるでしょう」

「そ、そんな大袈裟な……」

「片や有数の進学校である清上の最高傑作、片や数奇にも数多の経験を踏んだ猛者の、骨肉相食む血戦ですよ。今さら大袈裟と仰るようでは、僭越ながらあちらに向かうことはお奨めしません」

「う……」


 祈の何時にもなく真剣な言葉に、身動ぐ。


「私達のような力もなく武道も戦闘の経験もない一般人が行ったところで、何も変わりません。むしろ、邪魔をしてしまうのが関の山でしょう」

「…………」

「桧作先輩、お訊きします。それでも貴方は……あの場に向かいたいと、本気で仰っているのですか?」


 細波は、黙って彼らのやり取りを聞いていた。

 よくつるんでいた友達のうち、二人が殺し合いをし、もう一人がそれに巻き込まれようとしているなど、果たしてどんな気持ちで話し、そして聞いているのか。

 そして夕平は特に、自分を巡って争いが行われているなどど、果たしてどう受け止めているのか。


「でも……俺のせいなんだろ?」


 うつむき、ぎゅうと固く握りこぶしを作る夕平が、ぽつりと呟いた。

 祈は静かに、彼の言葉に耳を傾ける。


「俺が役に立つかって言われたら、正直自信ない。それに俺、こんな身近のことにも今まで気付かなくて……ほんとに情けねえ。俺が何とかするって、偉そうなことも言えねえ……けどよ」


 しかし意を決したかと思うと、じっと祈を真っ直ぐ見つめ、切々と思いの丈を告げた。


「────それでも俺はっ! この話の見物人になんか、絶対なりたくないっ……!」


 それが、夕平の答え。

 彼は、祈から見ても未熟で弱い。客観的に見て自分よりもずっと浅慮な、ただの一般人だ。

 こうした言葉も、身の程を知ることもままならない子供の、儚い戯言でしかない。


「……私でさえ、もはや立ち入れない領域ですよ。それでも────」

「だってよ……それじゃあ暁も相川も関係ねえじゃねえか! こんなんおかしい……間違ってる。……だって結局は俺と、千夜川先輩の問題だろ……!?」


 しかし、夕平の言葉を聞くと、自分がいつの間にか全てを諦めかけていたのではないか、ということに気付かされる。

 桜季や拓二との格の差を見せられ、気持ちの面で挫けそうになっていることにも。


 あまりに青臭く、根拠の脆弱な主張だというのに、祈はそれを強く言い返す口を持てないでいる。

 起こりうる惨事を阻みたいという気持ちは、同じだったはずなのに。


「しかし……拓二さんは、それを望んでは……」

「あのさあ、二人とも」


 その時、口を入れたのは細波だった。


「二人とも色々話してるところ悪いけど、まずはここから脱出しないと話にならないんじゃねえか?」

「「……あ」」


 実にもっともなその一言に、二人は思わず言葉を失った。


「あのな、こうなってるのが相川のせいだとか、千夜川が途方もないバケモンだとか、今そんなことどうでもいいぜ。俺としちゃ気分のいいもんじゃねえし、早くこっから脱出したい。助ける助けないだの話すのは、自分達のこの状況を何とかしてからでも遅くはないぜ。違うか?」


 目の前で逃亡について話しているのに何の反応もないのは、ひとえに監視役の男達がみな日本語に明るくないからだ。もちろん、それを加味した上で細波もこうして堂々と話している。


「……そうですね。その通りです」

「だろ?」

「しかし、どうやって……」

 

 自分達を監視する男達は、今のところ危害を加えようとはしてこない。

 だが、もしこちらが何かしようという兆しを見せたり、強行突破を図ろうとすれば、身の安全は一気に保証されないものとなること請け合いだ。

 喧嘩でさえまともにやったことのない一般人三人がどうにかできる相手ではない。


 だが、


「なあに、こういう時は大人に任せろよ」


 細波は自信ありげに、にやりと気取った風に笑みを浮かべた。



◆◆◆



『ジェウロ、ジェウロ! お兄様はどうなったの!?』


 家具も置物も、部屋全体が赤いフィルターにでも掛かっているかのような『赤い部屋』。

 その一室で、一人の少女が声をあげる。こんな地獄絵図のような場所には不釣り合いの、絵に描いても描ききれない程に可憐な美少女。

 彼女は名を、エレン=ランスロットと言い、イギリス国際マフィア、ネブリナ家アンダーボスの次女にあたる。


 齢八歳の彼女は、部屋でテレビを見ていた。

 しかしその内容は、アニメやドラマなどではない。とある学校内を映したライブ映像、彼女はそれにかぶりついていた。


『お嬢様、どうやらアイカワはごく軽傷のようです。出血の割には浅く済んでいるようですな』

『そっか……良かった』


 そっと胸を撫で下ろし、安堵の息を吐いた。

 この映像は、学校のカメラから中継して、『ある界隈』に流されていた。

 これは、エレンのために特別に、その映像を繋げたものである。


『ねえジェウロ』

『……何でしょう?』

『お兄様、勝てるかな』

『…………』


 エレンのお目付け役を担っているジェウロは、知っていた。

 彼女は、その幼さとは裏腹にとても聡い。

 ここで求められているのは、この少女を励ます為のおためごかしなどではなく、プロの観点からの真の意見だ。


『……最初、私はこの争闘の沙汰を疑っていました。相手が素人ではショーにもならないだろう、と』

『あれ。ジェウロってお兄様のこと認めてたんだ?』


 エレンの言葉に、その眉がピクリと動いたが、ふっと息を溢すとあくまで冷静に答えた。


『……仮にもアレは、マクシミリアンの駒だった男です。駒は駒として、指示をこなすだけの実力は、確かにあの場で証明しました』

『う、うん……そうだね。なんか怒ってる?』

『私も見せかけとはいえ一度は対峙した身、彼奴の実力は大体測れています。銃の腕前こそ毛が生えたようなものですが、アイカワは格闘には長けておりました。そして今見たところ、一か月前とは更に別人の動きのようでした』


 先程の攻防を、ジェウロはその経験から、まるでその場に居合わせていたかのように深く理解していた。おそらくは、他に映像を見ているであろう誰よりも。

 拓二の力を測ることには、おそらく彼が一番適任であるかもしれない。彼の言葉に嘘はなく、別人のようという表現も誇大されたものでもなかった。

 確かに一ヶ月という短期間のうちに、また一回り動きが鋭く精錬されていた。そのことに、目を見張った。


『しかし……問題はあのサキ・チヨカワとかいう少女です。あれは……「厄介」だ』


 しかし――――しかしだ。

 そんなジェウロが、プロとして同じ目で見たもう一人。

 その拓二を相手取る、『清上の最高傑作』と呼ばれる少女────


『それって……?』


 エレンが目で訴えるように尋ねると、ジェウロがこう話し出した。


『……私の若い頃、ある軍隊の上司のもとで教えを請うていた時期がありました。近接戦闘において、その男はベテランであり、そして、私の師でありました』

『うん』

『彼は、部隊の同僚達にこうも呼ばれていました。────「予言の目を持つ男」だと』

『予言の目……?』


 ジェウロは言葉を紡ぐ。

 珍しくも、自慢話でもするかのように朗々と。


『例えば訓練において、その男は分かりやすく輪を掛けて無敵だったのです。そのベテラン曰く、────それが、近接戦闘を極めた男の弁でした』

『だから……予言?』


 エレンは興味を籠めて尋ねる。

 よく人の話を聞くことを好んでいた彼女だったが、それ以上に、普段ジェウロは自分の話をめったにしたがらない故に新鮮であったのだ。

 そしてジェウロも、我に返るように話を本題に戻した。


『……ふと、思い出したのです。先ほどのチヨカワの動きが、反応速度が……────私が過去に見たその男のそれに酷似したように見えたもので』


 ジェウロは、至極真剣にそうのたまう。

 真剣に重々しい声音で、真剣に自分の言っていることに眉を顰めながら。

 複雑な表情だった。彼の経験による矜持が、自分の見たものの正体を的確に捉えながらも、だからこそ信じがたいと言いたげだった。


 ────使

 ────姿


『……世迷言を、失礼致しました』


 それを彼も分かっているのか、気後れした様子で頭を下げる。

 しかし、否定はしない。

 エレンという少女もまた、会話能力に長けるプロの卵。あるいは彼女だからこそ引き出せた、ジェウロの『本音』であったのかもしれない。


『……お兄様』


 エレンは、遠く約6220マイル離れた少年を想い、ただ静かに祈った。



◆◆◆



 桜季は、今までにないくらいに愉しんでいた。

 自分の神経が、五感が、全身の筋肉が、弛緩し収縮する度に、ぴったりと一致してくる。

 ほんのわずかにこびりついていた錆が取れ、それぞれの歯車が調子を合わせて当てはまるような感覚。身体の細胞が一つ残さず、自分の支配下にあるような気さえしてくる。


「くっ────オラァ!」


 二度目の激突は、既に始まっていた。

 追い付かれ、逃げると見せかけ、拓二が右足を繰り出す。

 その軌道は確かに速い。さらに聞こえてくる空気が爆ぜたかのような音が、その威力を物語っている。

 しかその速度に適応するかのように、普段以上に見える。目で見え、脳が処理し、身体が応える。


 飛んできた右足を頭を傾け、紙一重で避ける。


「────ふっ!」


 風が巻き上がるのも気にかけず、体を潜り込ませ反撃の掌打を浴びせかけた。

 全体重を押し付けるような打撃に、拓二は耐えきれずきりもみして転がる。


「相川くん!」

「くそっ、構うな! いいから先に行けっ────!」


 そんな拓二への追撃は叶わなかった。

 その拍子に桜季は何か罠を踏んだようで、目の端に何かの影が迫るのが見えた。

 その情報は、並みの人間の処理能力を遥かに凌ぐ速度でその全身を巡り、反応した。


 ナイフを凪ぎ、その影と打ち合って撥ね付けた。

 弾いた影は────。射出される弓矢を、完全に見てからかわしてみせたのだ。


 その刹那の隙に、拓二は体勢を直しはしなかった。

 まるで四足歩行する獣のように距離を詰め、手を付き、身体を捻り、ほぼ逆立ちの格好でバネのように足を蹴りあげた。


 首を刈り取る鎌のような足蹴────そのトリッキーな動きにも、桜季はまたもや対処する。

 振り上げたナイフでは間に合わず、空いた手でその踵をがっしりと受け止めた。


 強い力が拮抗し、その衝撃点は震えた。


「────守るものが多いと大変だね、相川くん!あの子がいなかったらまだ追い付かれずに済んだのに!」

「やけっぱちに暴れるだけよりずっとマシだキチガイ女……!」

「じゃあ、お互い様ってことよ────ねっ!」


 次の瞬間、動いたのは桜季だった。

 足を払い、姿勢を建て直す瞬間を見計らい仕掛ける。

 カポエィラという技術の性質上、技と技の隙間は普通の武術よりもどうしても大きくなる。そう判断してのことだった。


 だがしかし、拓二もそれを見越していた。


「うっ────!?」


 突然、目の前に煙が立ち込めたのだ。

 この世の全ての不浄を燃して濃縮したかの如き白濁が、口腔や鼻腔から、この全身を蝕もうとうねり、這い回る。


 それはいつぞやに、グレイシーから着想を得た拓二の暗器、催涙スプレーのガスだった。

 隠し持っていたそのガスが、上手いこと両者の間で盾のように立ち昇ったのだ。

 もちろんそのことを知るよしもなく前傾していた桜季も、わずかにそのスモークに顔をぶつけた。ただこれも、すぐに身体を引いて距離をとった。


 だが、時間稼ぎにはちょうど良かった。

 拓二は身を起こし、迎撃する準備を整えるのには。

 その技の名前は────


 ────Системаシステマ


 以前の闘いで雌雄を決した、まさしく彼のとっておき。 

 叩くのは今しかない。ようやく溢したこの明らかな隙に、一気に決定打を放つつもりで構えていた。


 そして、流れるような所作で初撃の肘打ちを、その顔面に叩き込んだ────。


「っ────」



 ────



 突如として、桜季の視界は歪み、半透明な膜が覆った。

 まるで水のなかに飛び込んだかのように、痛いくらいに鋭敏だった全神経が和らぐ。

 ただ、身体が重くなったというわけではなく、むしろ重力が消えたように気分が良いくらいだった。

 

 一体何が起きたのか、桜季でさえ分からなかった。


 しかし、頭が、身体が、本能が全てを理解する。


 

 


 ────あ。


 ふと、腕を伸ばす。


 それは、ただのパンチだった。

 なんの捻りもなく、普通に子供でもやるような、腰の入っていない拳。

 

 ほぼ無意識に、呆気に取られながら、今の両者の争いを身体は理解していたようだった。

 握った手は吸い込まれるように、拓二の顔に届く。

 

「────がっ……!?」


 その瞬間、弾けるように新鮮な空気が纏わり付いた。

 後ろから風が靡いたような錯覚と同時、突き出した手には感触が残った。


 時間を置き去りにしたかのような感覚は、瞬く間に消え失せ、元の時間の流れに戻っていった。


 勢いを持っていた拓二の身体は、思いがけない反撃を受けた形で、仰け反った。

 それは、今までの打ち合いの中での駆け引きでも計算でもなく、生物としての決定的な釁隙だった。


 桜季は当然、その一瞬を逃さない。

 その隙だらけの鳩尾を、溜めを作ってから思い切り蹴っ飛ばした。


 拓二の身体が突風にあおられた綿のように、軽々と吹き飛んだ。

 その勢いは強く、音を立てて激しく壁に叩きつけられた。

 その背中から、弾みで備え付けの消火器が外れたのか、中身が泡となって噴き出した。


「……ぐっ、げほっげほ……」


 今のはかなり深くダメージが入ったのか、噴き出る消火液でぬかるんだ床の中、ふらふらと力なく立ち上がる拓二。

 そんな彼を尻目に、桜季もまた、狐につままれたような様子で拳を握ったり開いたりしている。


「……? 今の……?」


 ────『それ』は決して、突発的に芽生えた後天的感覚ではなかった。


 桜季は、ここにきてさらに飛躍を遂げていた。

 ゲームや遊びではなく、今までしたことのない全力の殺し合い。

 その中で、より速く、より効果的に。完成されることなく更なる高みを昇っていた。


 この打ち合いの中で感覚が尖り、特化し、鋭くなっていく。

 それは拓二という好敵手との、激しい鍔迫り合いによって、全身が滾り、そして対応しようとしてこそのものだった。



 ────その右足、ほんの少し引けてるし、腰をかすかに落としてる。足技……カポエイラかな?

 ────柳月ちゃんは、色々分かりやすいしね。目の動き、声のトーンとか……。



 ジェウロにさえ、『予言の目』と言わしめた能力────その兆しは、桜季の中で確かに息づいていたのだ。



 そして、それは今この時────


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