第六十二話:火蓋は切られる。
「ここは……港か?」
それは、清上祭が終わった夜のこと。
琴羽を家に送った後、俺はある女と遭遇した。
刈り上げた金髪と、両の青い瞳が、ニキビやシミの跡に覆われていると言っても過言ではない顔が特徴的な、見た目三十代の女。
彼女は俺を尾けており、俺の言葉で姿を現すや否や、抑揚のない機械のような声で言ったのだ。
────ネブリナから、結んだ契約の履行に。
俺はこのニキビ女の一言に従い、抵抗なく連れられるまま車に連れ込まれた。
それから数十分後に停車したのち、降りろと言われ降りた先では潮の香りがかすかに鼻腔を突いた。
『タクジ・アイカワ、目隠しを外してもいい』
女の端的な言葉を受け、車に乗っている間なされていた目隠しをほどいた。
そこは、予想通り港場だった。
かまぼこ形の倉庫が連なり並び、巨大なコンテナや漁船が視界に入った後、墨汁のように暗い海が見えた。
『タクジ・アイカワ、付いてこい』
『……まずそのフルネームで呼ぶの止めてくんね? どうも落ち着かん』
……結局、その物言いが直ることはなかったが、まあそれは置いておいて。
さっさと歩いていく女の後ろを、素直についていく。
迷路のように曲がりくねった倉庫の間の道を進み、そしてある一つの倉庫にたどり着く。下ろされたシャッターを持ち上げ、潜った。
『────連れて参りました、ボス』
続いて俺が潜り抜け、倉庫に入ると、女がそう声をあげる。
埃っぽい場所だ。あまり使われていない廃倉庫だろうか。灯りはごくわずかで、目隠しで夜目が利いてなければまるで見えなかっただろう。
『……あ。私? えーと、ごくろうさま?』
返ってきた言葉は、かなり年若い、耳を疑うほどの幼げな声音で。
『あ、タクジお兄ちゃん。いらっしゃい』
『あっ、お前……!』
声の主――――ベッキーの姿を確認した時、素直に驚いた。まさかここで会うことになるとは思わなかったから。
そしてそれ以上に────女児用のドレスに身を包み、いわゆるモブキャップという中世風のクラシカルな婦人帽を頭に引っ掛けたベッキーが、ちょこんと腰掛け椅子にしているものが、手と膝を地に付け、彼女のために地面から五十センチ程に低く跪いている男だったからだ。
『久しぶり。だね』
『……まあな』
イギリスでのあの事件以来だったが、ベッキーのことはすぐに思い出せた。
ベッキーはその年で俺よりも早く、フリークチームとしてマフィアの一員であり、彼らとの付き合いも長かったはず。今やその仲間も、エトーだけとなってしまっていた。実は俺も、こいつがどうしているのかたまに気にかけていたのだ。
『ってかお前、ボスって……』
『私、しゅっせしたの』
ベッキーは、にへらと微笑みながら続ける。
『カマタリとかジャッカルとか、レスターが死んじゃったから、その代わりなんだって』
『……そうか』
だいたい推察は出来る。
要は、日本の二階級特進(じゅんしょく)だ。死んだ彼らの功績は、纏めてこの少女に昇格要因の『足し』として与えられたのだ。
その証拠と言わんばかりに、彼女の傍らには、タンクトップ姿の物言わぬ筋肉質な部下らしき男が二人佇んでいた。
さっきから喋らないと思ったら、それもそのはず、二人の口は、糸のようなもので歪に大きく縫い合わされて開かないようになっている。あれはベッキーがやったのだろうか。
『って、もしかして、お前が契約の……?』
『うん、そう。マキシーおいたんに、頼まれたの。お兄ちゃんのお願いを聞いてあげて、だって』
『おいおい、マジか』
ますます驚いて、呆れ返った。
まあマクシミリアンの言うことだ、間違いはないだろうが……ここに来て思いがけない奴が出てきたもんだと思う。
『……まあ、この際何でもいいか。で、頼んだものは?』
『ん、大丈夫。────モニカ、お兄ちゃんに、「あれ」渡してあげて』
『イエスボス』
モニカと呼ばれた、ベッキーの部下らしい女が一礼すると、少しその場を離れたと思ったら、すぐに現れた。
『タクジ・アイカワ、これが頼まれた品々だ。受けとるといい』
と言って、渡されたのは、宅配の小包のような大きさの段ボールだった。
『……どーも』
両手にちょこんと乗るくらいの小さな一箱。
しかし、この中に色々とずっしり敷き詰められたものは、来るべき決戦に備えた、俺の『
『契約の確認をする。我々はネブリナの名のもと、タクジ・アイカワの行動のサポートに徹する。具体的には、セイジョウガクエンの封鎖を筆頭に、目標及び関係者数名の監視、必要とあればその誘導や身柄の確保を行う。……異論は?』
『俺の指示には従ってくれるんだろうな』
『もちろん。中に無線イヤホンが入っている。当日、小型マイクと一緒に着けておけば我々と連絡が取れる』
『上々。詳しいことはまた話す』
取り敢えず、俺が頼んだものは確かに揃えてくれたらしい。
『ねえ、お兄ちゃん?』
『なんだ?』
その時、ベッキーが話しかけてきた。
『言っちゃなんだけど、お兄ちゃんはそれだけでいいの? 私に任せてくれたら、その人の全てを毟りとってあげるのに』
「…………」
……それもまた一興、と思わなくもないが。
小さく息を吐いた。
『……まあまず、「あいつ」がそんなことまで許しちゃくれないだろうよ』
『「あいつ」?』
『お前がよく知ってる奴。……そしてそれ以前にな、これは俺の問題だ』
暁を救うこと自体は、実はそう難しいことじゃない。
その気になればネブリナに頼み、例えば暁に『海外旅行』にでも行ってもらえばいい。
だが、それは後手でしかない。根本的な解決にはならないのだ。
それでは何も変わらない。
『あいつは俺が殺す。何がなんでも俺が殺る。こんなこと、他の誰に譲ってやるかよ』
桜季を、この手で殺す。それはあの時誓った確かな目標。
発端の一因となってしまった、俺なりのケジメだ。五十年もの繰り返しを生き続けてきた、謂わば生き甲斐だ。
こいつに任せるくらいなら、とうの昔に全て諦めている。
『……エレンちゃんが、お兄ちゃんを気に入るの、分かるかも』
『俺は俺のやりたいようにやるだけだ。……お前は気に入らねえか?』
『ううん。興奮してきちゃう』
にたりと口角を吊り上げ、ベッキーはただただ愉悦そうに微笑んだ。
◆◆◆
「着いた……けど、閉まってる」
暁は、朝の清上学園にやって来た。
当然、その門扉はぴたりと閉じられ、校舎にも誰もいないようで、設置されている来客用チャイムで呼び掛けても返事はなかった。
何故学校に学校関係者が一人残らずいないのか。その諸々の事情に詳しくない彼女は、校門前で右往左往していた。
「ううん……どうしよう」
待ち合わせは、午前九時。
家からそう遠くなかったからというのもあるが、何より緊張しすぎたせいで、早く来てしまった。
「まだ三十分もあるし……大人しく先輩が来るのを待ってようかな」
「あら、私がどうかした?」
「わあ!」
唐突に背後から声がかけられる。
その驚きでぴょんこと跳ね、勢いよく振り向いた。
「せ、先輩!?」
「やっほ。おはよう、立花ちゃん」
そこにいたのは、紛れもなく『約束』の相手、千夜川桜季だった。
「お、おはようございます! というか、本当に早いですね」
「立花ちゃんが言っちゃうの? それ」
クスクス、と笑う桜季。
つられて笑うものの、やはり驚きは隠せない。
彼女と何か約束すると、こういうことがままあった。いくら自分が早く来ようが遅く来ようが、まるで分かっていたかのように、人を待たせることなく時間を置かずに現れるのだ。
まさに神出鬼没。一体いつの間に現れたんだろうと問い質したい気持ちになった。
「ああ、門開いてないよね。ちょっと待って」
「あ、はい。お願いします」
桜季は、手慣れた様子で門扉に手を掛けると、すぐに開けた。
「こういうこと、よく頼まれてやっててさ。学校の予備マスターキーも預かってるの」
「学校って一体……」
「割りとこんなものよ? まあ生徒会長権限ってやつかな、あはは」
闊達な風に笑う彼女に、暁は少し唖然とする。
流石に生徒会長というだけでそんな権限があるとは思えない。そこからも、桜季の人望の厚さが窺える。
器の大きい人だなあ、と思うと同時、子供みたいに笑う人だなあ、と感じたりもしていた。
「さ、どうぞー」
まるで我が家に招くかのような雰囲気に、小さく笑って後に続いた。
「あの自動ドアの建物は、二階に職員室がある棟だよ。お祭りの時は閉じてたけど」
「へえー、厳重なんですね」
「子供とか入られても困るからかな。まあ見るものなんて待合室に飾ってある賞状の数々くらいなんだけどね」
「ほえー……」
そんな風に和気あいあいと会話を交わしつつ、しばらく学校のなかを歩いていく。
先日、祭りがあったとは思えない程、学園内は閑散としていた。
桜季の説明によるとこうだ。
今自分達が入ってきたのは東門で、もう一つ西門の二つが出入口らしい。警備上の都合上、学校の敷地は高い鉄柵で囲まれ、よっぽどじゃないとよじ登れない。
不審者の不法侵入を感知するため、東・西門や建物のあちこちに監視カメラが仕掛けられている。
学校の敷地には大きく分けて三棟と体育館、そしてグラウンドが存在し、建物はそれぞれ連絡通路で通じていて、どれも五階建てで構成されている。
東門手前の一棟がA校舎、西門前にB校舎、そして真ん中がC校舎というのが、それぞれの呼称である。
A校舎は高校入試で清上に入学した『三年制』のクラスと予備の教室や部室が配備されており 、桜季や祈といった、中学入試で合格した生え抜きの清上学園生である『六年制』のクラスが、B校舎に詰め込まれている。
そして真ん中のC校舎は、来客者用の玄関口を兼ねている。そして桜季が言うように、職員室や生徒会室、生徒指導部や理科室、家庭科室、音楽室、保健室、大講堂などといった、主に実技教室が階に分かれて置かれている。
「さて、と」
桜季が、ここで振り返った。
その場所は、B校舎とC校舎の間、簡単な広場となっているところだった。
「ここなら、他人に聞かれるようなことはないかな」
「…………」
外の道路を走る車の音以外、何も聞こえないこの場。
窓から見える校舎内は全て電灯が落とされ、暗い。確実に人影は見えなかった。
「……すいません、こんな場所まで用意してくださって。そんな大げさにしなくてよかったんですけど……」
「いいよ。……大体分かってるから」
「え……?」
桜季は、そっと目を細め、静かな口調で尋ねた。
「それで────二人きりで話したいことって何かな、立花ちゃん」
◆◆◆
────今更かも知れないが、実は俺は、暁がどうして死ななくてはいけなかったのか、その直接的な原因についてを知らない。
「……見ちゃったんです、私。『あの時』のこと────」
俺とて『三周目』にあったことを、全て網羅しているわけではない。これから起こることで知っているのは、桜季と暁が夕平を巡っていさかいを起こすことと、その最後の瞬間だけだ。
だから、ここに呼び出したのが桜季でなく暁だったということに、いささか驚きがあったのも事実だ。
「……一体、何のことかな?」
しかしそれがどのいきさつでそうなったのかは、想像がついていた────つもりだった。
「私……」
次の言葉を、聞くまでは。
「……見ちゃったんです。『あの時』────夕平が事故に遭うあの一瞬、千夜川先輩がライトを片手に私達を見てたのを」
「!!」
────だから、一つ思い違いをしていた俺は、その言葉に衝撃を受けた。
ああ────そうか。
そういう、ことだったのか。
最後の引き金は、桜季が引いたのではなく────暁だったのだ。
「……そう、だったの」
ようやく、俺のなかで最後のピースが当てはまった。
彼女は知っていた。桜季がやったことを。
その過ちを。
そのことを、ずっと思い悩んで。長い間一人で抱えて、散々迷ったのだろう。
「……あの、私から、誰かにこのことを話すつもりはないんです。何でそんなことをしたのかって聞く気もないです……でも」
その結果、桜季を人気のない場所に呼び出し、そして────打ち明けるように勧めているのだ。
「でも、私は、あの時の運転手さんと夕平に、謝ってほしいんです。正直に言うのって、やっぱり怖いかもしれないですけど……でも夕平は、きっと許してくれます。だから……!」
「…………」
「夕平と、その……そういう関係になりたいんであれば、それこそそうすべきだと……思うから」
いっぱいいっぱいの様子で、しかしまっすぐな瞳で必死に彼女なりの言葉をかける暁。
らしいといえばそれまでだが、しかしそれはあまりにも危険すぎた。
裏を返せばそれは、自分はお前の弱みを握っていると言っているのも同義なのだから。
「……立花ちゃんは、本当に優しいんだね」
「え? い、いえ、私は……」
「そっか……見られちゃったか」
桜季が、ぽつりと言葉を漏らす。
「……でも、ごめんね」
独り言のような小さな声量だったが、その一言は不思議とよく耳に届いた。
「私は、今、一つとんでもないこと思いついちゃってる。────貴方の気持ちを踏みにじるような、けれど、私が助かる道を」
「? えと……」
うっすらと口角を持ち上げて、桜季は笑う。
「立花ちゃん、話してくれてありがとう。私、覚悟が決まったよ」
「え、それじゃあ……!」
「うん、やっぱり────」
その時、それまで後ろに隠していた手をゆらりと掲げた。
ぎらりと鈍い光を放つ『それ』────隠し持っていたナイフを、ゆっくりと手の中で持ち直した。
「ここで、脅威を排除することにするわ」
その刃は、柔らかく微笑みを浮かべる桜季の表情とあまりにも相違する。
まるで噛み合わないピースを組み合わせたかのような、新品のキャンパスに白色の絵の具を塗りたくったような。そんな不透明な違和感を伴い、彼女はそこにいた。
うすら寒いその笑みは、今となっては生色の乏しい能面のように無機的に映る。そしてナイフは威嚇的に構えられているわけでもなく、ただそこにあるべくしてすっぽりと収まっている。
たったそれだけなのに、動物的本能に直接爪を立てるような怖気が、暁を縛る。
すっ、と二人の距離が狭まろうとするのを、暁が後ずさった。
「え、あ……千夜川せん、ぱい……? 何を……?」
「うふふ、分からない? 分からないなら何で逃げるの? 変な立花ちゃん」
じり、じりとその距離は徐々に詰められていく。
「ねえ、立花ちゃん。私か貴方、どちらかだと思わない? 夕平くんと一緒にいられるのも、夕平くんに愛されるのも……」
「ど、どうして……ひっ」
暁の足はすくみ、震えていた。
桜季とは対し、完全に怯えきってしまっている。
それまで畏敬と憧憬が込められていたであろう目の前の先輩への視線は、今や恐怖一色に彩られていた。
────潮時、か。
「大丈夫。抵抗しなきゃ傷つけないよ。だから、ほら……」
「────そこまでだ」
────俺は、こうなることを恐れながらも、ずっと待ち望んでいた。
失敗すれば、俺も暁も命はない。
もちろん失敗なんて絶対にしないが、万が一として間違いなくそれが分かるから怖い。
失敗すれば、今までやってきたことが、すべて水泡に帰す。
もちろん成功するに決まっているが、俺の人生を賭けたことの結果如何が、この一日で決まることが全て終わってしまうことが怖い。
「あい、かわくん……?」
「……やっぱり来たね、相川くん」
だがそれでも、俺は無視しなかった。
二人を見捨てないことを選んだ。
欺瞞でもいい、偽善でもいい。
何より俺自身との決着のために、俺はこの時ここにいる。
数十年来の仇、その姿をしっかりこの目で見据え、そして────
「下がってろ、暁────」
────固く銃把を握りしめ、その銃口を静かに向けた。
◆◆◆
「いのりちゃん!!」
細波が駅に着くと、すぐに人のいないホーム手前にある待ち合い場、その長椅子に座っている祈の姿を確認した。
しかし見るからに、普段の様子ではない。泥のようにぐったりと頭を垂らし、眠りこけているかのようだ。
「おい、いのりちゃん! いのりちゃん!!」
すぐさま駆け寄り、身体を揺する。
がくがくと揺れる度に呻き声が溢れるのが聞こえ、取り敢えずはほっと胸を撫で下ろした。その口の端からよだれが伝っているのを見て、慌てて持っていたティッシュでそれを拭った。
「う……さ、ざなみ……さ……」
祈は意識だけ残っていたようで、目の前の細波にぼんやりと気付き、声をあげた。
「大丈夫か!? 怪我、したのか?」
「す……みま、せ……う、うごけなくて……」
「ああ、分かった! なあどうする、横になるか? ほら、水もあるぞ!」
「……わたし、べつに……酔ってるわけでは……」
「とにかく喋るな、身体に障る!」
見たこともないくらいに憔悴しきっている祈の姿に、テンパる細波。
────まずは病院だろうか、それとも警察……?
────いや、俺は探偵だろう!? 俺のありったけのツテでこの子を助けねえと……!
「わたし、しっぱい……して、しまいました……わるいこ、わるいこ、です。……あのひとの……じゃまになるって、わかってたのに……」
「もう喋んなってんだろ! 楽にしてろ、いいな?」
職業柄、その目利きで細波は祈の受けた傷害がスタンガンによる電撃であることを察していた。
ただでさえ人より華奢な身体つきの少女だ。身体がそこまで強くなく、繊細だと本人から聞いたこともある気がする。
その証拠と言わんばかりに、今もまだ息が整わない。神経衰弱もとい、精神的ショックから、軽い過呼吸を起こしているようだ。
スタンガンで気絶や後遺症を残すことはまずないと聞くが、まだしばらくろくに動けはしないだろう。
「こういう時は袋だな……昨日そうめん買った時のしかねえけど……ほら、使えよ」
「あ、りがとう……」
「丁寧に息をしろ。特に息を吐くことの方に集中させていけ」
「はい……」
すぐに口元に袋の口を少し隙間を開けつつも押し付けてやり、息をさせる。
細波は、意外とこういう処置を適切かつ迅速に施すことには長けていた。混乱するなかで、辛うじてその最低限の行動に移ることは出来た。
────よし、とりあえずこれでなんとか……。
────でも、俺みたいないっぱしの一般人が、これからどうしたらいいんだよ……。
思い出されるのは、耳に残る桜季の声。
細波は、彼女と数十秒電話をした、たったそれだけで、芯から威圧されていた。
先ほどの電話が頭に蘇るだけで、まとまりそうだった思考が絡まる。思いつく限りの行動すべてが筒抜けのような錯覚さえまとわりつく。
────清上学園に向かうか? それともここでいのりちゃん看たらいいのか?
────病院に連れて行っていいのか? 俺は何もしない方がいいのか? 何をするのが正しいんだ?
────どうしたら、どうしたらいいってんだ……?
そう思っていた、まさにその時だった。
「────い、いのりちゃん!?」
声が、響いた。
誰もいないはずの駅構内に。祈でも細波のものでもない少年の、驚く声。
祈、そして細波はその人物のことを知っていた。
「おい、どうしたんだ!? 怪我してんのか!?」
細波の『見知った顔』が、先ほどの彼の反応をなぞるかのようにして、慌てて駆けつけてきた。
正確には、細波が一方的に知っている顔であるだけのことだ。
祈の知り合いでもあり、そして尾行対象だった拓二や桜季の周囲の人間であったから。
「ひつくり……せん、ぱい? どうして……」
祈も自分のそばに近づいた彼────夕平のことに気付き、わずかに目を丸くする。
が、そんな祈の掠れるような問いをさて置いて、それを見舞う細波に声をかける。
「なあおっちゃん、いのりちゃんはどうしたんだよっ? 何があったんだ!?」
「おっちゃ……いや、この子は大丈夫だぜ。心配すんな」
「で、でもよ……! 苦しそうだし、それにっ」
「ちょっとした過呼吸だ、一度落ち着かせればかなり良くなる。……だから落ち着け。まずは俺達が落ち着かないとな」
夕平に諭すようににしながらその実、細波は自分に向けて言い聞かせているのだった。
「う……おう、分かった。なんかいきなりごめん、おっちゃんに任せるよ」
細波の対応に、夕平がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
「おっちゃんじゃねーっつの……俺は細波っつぅんだぜ」
「いのりちゃんの知り合い、なのか?」
「ああ。よく茶を飲み合う仲だ……っと、ようし。ちょっと落ち着いたか。……まずはやっぱ、救急車、呼ばないとな。あとは警察」
だが、それは細波にとっても同じことだった。
『あの』祈が、こうも容易く赤子のように捻られたという事実。その当事者であるとんでもない人間が、つい先ほどまで自分の電話のつい向こう側にいたのだ。
桜季に対し、焦り、恐れ────そして畏敬を、彼自身知らずに覚えてしまっていた。
それは、一種の憧憬と言ってもいいかもしれない。桜季という人間の超越的能力を、探偵として観察するうちに刷り込まれ、そして今、とどめのように祈が敗北。その圧倒感を、細波はまざまざと魅せつけられてしまったのだ。
絶対に、敵わない────そんな気持ちが心の底に重々しく沈殿していた。
────……この世に特別な人間がいるとすれば、それは他の誰からも諦観され敬服されている人間だ。
何時ぞやの拓二の言葉が、今になってよく分かる。
なるほど、こういうことかと。特別という存在に、呑まれかけていた今なら分かる。
だが、その思いで動けなくなる前に、見計らうように夕平がここに現れた。
霧が晴れたように、落ち着いて考える余裕が生まれた。
「お前、桧作夕平っつったな」
まずは言葉通り、119番に連絡を入れようとスマホをつかんだ。
「細波のおっちゃん、なんで俺のことなんか知ってんだ?」
「だからおっちゃんじゃねえって……じゃなくて、訊きたいことがある」
そう、冷静になると、聞いておかなくてはいけないことも出てくる。
細波は、コール音を待つ間、夕平を見た。
「なあ桧作くん、一体何でここに……」
「Hey,you」
「ああ? なんだこっちはそれどこじゃねんだよ」
またしても、呼びかけられた。
今度は一体何だと細波が内心で舌打ちする。
「Hey,guy! Look!」
「だああ! 何だよ何の用だよ一体────!?」
しかし彼は、気付かなかった。
他にも自分達以外の人間が迫っていたことに。
その肩が力強く叩かれ、細波が振り返ると────そこには。
「────If you value your life, stay where you are(痛い目をみたくなければ、そこから動くな)」
明らかに日本人離れし、腕の筋肉が赤土のように隆起し、危機的本能をくすぐる黒人系のいかにもな男達が数人、逃げ道を阻むようにして三人を囲んでいた。
「「……うぃ、うぃーきゃんのっとすぴーく、いんぐりっしゅ……」」
細波、そして夕平の二人は、蒼白になったその顔を見合わせ、男の発した英語の意味こそ知らずとも────静かに両手を上げ、119に繋げるはずだったスマホが地に滑り落ちた。
◆◆◆
『……ボス。イノリ・リュウゲツ、キョウスケ・サザナミ、ユウヘイ・ヒツクリの身柄を確保しました』
拓二のいなくなった車内で、連絡を受けたモニカがボス────まだ自分の娘ほどの歳の上司であるベッキーに、そう告げる。
その彼女はというと、何やらタブレット式の電子機器端末をあちこち弄り、使い方が分からないといった様子で難しい顔で首をひねっていた。
『それ、誰?』
『タクジ・アイカワが申していた、本件における不確定要素三名かと』
『ん。そうだった?』
あまり関心のなさげな、気のない返事が後ろから返ってくる。
『んーと。じゃあ、そのまま拘束しといて。マキシーおいたんに伝えていいよ』
『……了解、ボス』
『ね、それより』
ベッキーが話しかける。
助手席のそばまで身を乗りだし、それまでおもちゃのようにいじくっていたタブレットを差し出した。
『ねえ。今これに届いてる映像、どうやって見るの?』
『……ボスご自身でやられたらいかがでしょう。アニメか映画か知りませんが、それどころではありませんので』
見向きもせず吐き捨てるように答えるモニカであったが、本来であれば不敬と判断されても仕方ない程の態度である。実際、運転手席に座る口をふさがれた男がぴくりと視線を動かした。
ベッキーは何も気にしてないというようにこう答えた。
『違うよ。これはセイジョウの様子が分かる映像』
『…………』
『確か、この映像を見るのはネブリナ家一員の義務なんだよ? 見ないと殺されちゃうかも。知らないの、モニカ?』
嵌められた、とモニカは内心で舌打ちした。
あのマクシミリアンが四人目に血の掟を結び、そしてイギリス事件において活躍した少年、タクジ・アイカワは、今やネブリナ家全体の注目の的であった。
実質、マクシミリアンの腹心であったと言っても過言ではない、謂わば自分達の同胞の、今日一日の姿が、清上学園の監視カメラを通して流れているのだ。
これでは、その全体の意にそぐわない者と見られてしまいかねない。
『……もちろん、存じております。ボス、少々お貸しいただけますか? 今視聴可能にしますので、お待ちください』
『はやく、はやく』
モニカは急かされるままに、その端末を操作する。
彼女は、イギリス事件当時、自身の仕事でイギリス国外に出ていた。帰国した時には、全ての片が付いていた。
後付けで聞かされた情報として、とある日本人の少年の後ろ姿だけが、モニカの脳裏に投影されていた。
そのため彼女のなかでは、拓二の存在は突然ぽっと出てきた部外者、という認識なのだ。
『モニカ、あの時いなかったんだっけ?』
まさに考えていた通りそのままのことを口にされ、微かに虚を突かれたモニカであったが、すぐに体裁を繕おうと口を開く。
『はい。ですが私は』
『じゃあ、分かんないかもしれないけど』
『……?』
ベッキーは、酷く真剣な面持ちになり、言った。
『タクジお兄ちゃんには、強いパワーがある。それはどこまでも昏くて、でもとても強く見る人を惹き付けるの』
『…………』
モニカは、何も言わなかった。
ベッキーが、マクシミリアンが、そしてネブリナ家が、一体となって注目する彼は、何なのか。
『……ボス。映像が繋がります』
タブレット一面に、あちこちに仕掛けられているカメラの映像の数々が、ずらりと並んだ。画像を切り替え、そのなかから該当する映像を抽出する。
そして、拡大した。
『……え』
『これは‥……』
そして、映し出された映像には────。
────がくんと膝を折って、手で足を抑えつつ蹲る拓二と、そして、その真正面で彼を静かに見下ろす桜季の姿があった。
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